夜更かししていれば、鬼が攫いにくるぞ

ウサギ様

戦鬼と少女

 男の武勇は遠くの地にまで轟き響いていた。

 千の馬、万の兵よりもよほど役に立つ。 あるいは、その男は人ではないのかもしれない。


 かつては小国であった草原の国のひとりの将兵であった男は、もはや草原の国その名前よりも大きく知れ渡っている。

 草原の国が、男の力によって小国ではなくなってからも、変わらず男の名の方が知れていた。


 あるいは、草原の国が失われてからも男の名は残るだろう。

 国の名前すら失われてしまったとしても、なお変わらずに。


 寝物語、そう呼ぶべきか。 子供を無理矢理寝かしつけるための脅迫じみたホラ話としても有名。

 「夜更かしをしていれば、戦鬼が攫いに来るぞ」。 そんな馬鹿馬鹿しい話は少なくともこの大陸では誰からかも分からずに知れ渡っている。


 子供の恐怖の象徴。 敵国の恐怖の象徴。 はたまた、自国の王にさえ恐れられているだろう。

 少なくとも、名を挙げれば挙げるほどにーー。 武勇を広めるほどにーー。 敵国を討ち滅ぼすほどにーー。

 王への謁見の数は減っていっていた。


 「夜更かしをしていれば、戦鬼が攫いに来るぞ」。

 屋根はあれども窓はなく、長く黒い髪がさらさらと風に弄られる。

 夜の暗さにその黒髪が消されることはない。 月明かりを纏って天使の輪のようにすら見えた。


 少女はその黒髪を撫で摩りながら、幼き日に聞いた言葉を口に出した。


「夜更かしなんて、するものではないですね」


 その言葉を向けたのは、白い鬼だった。

 明確な衰えを見せている鬼の手は皺が付き、話に聞くよりも細く醜く衰えた鬼だ。

 それも当然だろう。 もう、齢は70を超えている。

 病にすら罹ることない鬼は、病魔にすら打ち勝つのだろうか。 けれども、それでも、老いには勝てないか。


「夜更かしをしていれば、戦鬼が攫いに来るぞ」


 少女はもう一度、軽口を叩くように口を弾ませた。

 鬼はその言葉に顔を顰めた。 血に塗れた大太刀を振り上げて、血滴を一つ少女のかんばせに落として見せる。


「鬼も戸惑うんですか? 僕だけかと思っていました」


 聞いていた話と違った。 忙しくて手が回らないために、隠居した老人を引っ張り出してする程度の仕事。 もっと簡単な仕事のはずだった。

 面倒だからと一人で赴いて、多くの兵を切った張ったとしてから、目的である他国の王族の最後の一人を殺す。

 それだけのことのはずだった。


 いや、それだけのことであることに違いはなかった。 結局、その通りだろう。


「逃げんのか」

「逃げる子を追うとは、鬼らしくて面白いですね」


 少女はケラケラと笑う。

 年相応の仕草は、殺陣のあったこの場にそぐわない。 それだけでなく、王族と呼ぶにはあまりに品性の欠ける笑い声だ。

 けれども、その胆力は王族と呼んでもおかしくないような気もしなくもなかった。 自国の王は、忠臣にすら怯える臆病な気性だったが。


「違うのか」


 鬼が端的に一言聞けば、少女はイタズラが成功したと笑う。


「そうですよ。 僕はただの貧民の子でーー王族ではないです」


 とんだ無駄足。 ではないだろう。

 少なくとも、少女は王族として守られていて、王族の証左であるあらゆる物を持っている。

 何よりもその容姿は否定の方法がないほどには、本物の少女と似ていた。


 まさか、血を探れば貧民であることが分かる。 なんて非現実じみたことがあるはずもない。

 このまま王に切り落とした少女の首を差し出してしまえば「他国の王族は一族郎等皆殺しに出来た」と言っても差し支えがないだろう。


 もう何も持っていないであろう異国の姫君には、王族である証左もない。 失われた国の王族として反旗を翻される可能性は万に一つもなかった。


 結局、この少女の首を切ってしまえば終わる話であることには変わりない。 おそらく人生最後の仕事になるが、楽なものだった。

 尤も、それを仕事で終わらせればの話だが。


「お前が姫でないと示す何かはあるか?」


 少女は首まで着ていたドレスの首元を開ける。 生々しい古い十字の火傷痕があった。

 首が十字に焼かれるのは、その国において罪人を示す証である。

 それは生々しい。 昔に付けられたのか、ほんの少しマシに見える。

 姫がそんな傷をつけられるはずもない。 逃げ延びるためというには、傷跡が古臭すぎた。


「本物は?」

「分かりませんよ」

「言えば生かしてやる」

「言いませんよ」


 そうか。 鬼は頷いて、偽物の姫にもう一滴、血を垂らした。


「隠し立てする義理はないだろう」

「そうですね。 言わなければ僕が代わりになるのも分かってますけど……。 まぁ、分からないので仕方ないですよ」


 所々に育ちの悪さが垣間見える。 忠誠を誓っているから居場所を漏らさない、そういうことではなさそうだ。

 そもそも、王族を示すものを全て預け渡している時点で国は諦めて命だけ助かろうとしているのは明白だった。


「まったく」


 少女は呆れたように言って戦鬼をあざ笑う。

 風が吹いて冷たい空気が戦鬼の手を冷やした。 このまま腕を上げているのが辛いと思わせる程度には。


「姫って人は、人に死を押し付けて逃げて。 鬼は子供を切れずに戸惑う。

情けない話ですね。 脚色と呼ぶのでさえ憚られるほど、ただの人間」


 戦鬼は怒りを覚えない。 自分でも驚いているからだ。

 何故殺さないのか。 何故大太刀に少女の血を吸わせてやらないのか不思議でならなかった。


「否定は、出来ない」

「ははっ」


 乾いた笑い声が戦鬼の耳に入った。

 少女はつまらなさそうに立ち上がり、血に濡れた大太刀の刃を撫でながら鬼の横を通り過ぎる。

 殺せぬわけもない。 一振りでその首を落とすことは容易く、一息すらも必要としていない。


 けれど、少女を殺せないのはどんな理由か。 何の理由もなかった。 強いて挙げるとすれば、鬼は殺す理由を見つけきれなかったからだ。


「鬼であれば、取って喰えたか」

「つまらない人ですね。 老いて老けて、不惑を知らない。 目先のそれに騙される」


 鬼は堪え切れずに少女に尋ねる。


「……如何な罪を犯した」

「貴方と同じ、殺しですよ。 英雄さん」


 聞く人が聞けば……いや、だいたいの人間は少女の言葉に激昂するだろう。

 同じにするな。 と、けれども鬼は思う手に握られた大太刀は何のために使われたのか。

 ただの少女を殺すためだけに、大勢の人を斬り殺した。


 何のために。 そう思ってしまえば、言い返すことは出来はしなかった。


「何人だ」

「……?」


 戦鬼は刃を振るって血を撒き散らした。 少女はその場に倒れこみ、戦鬼を見詰める。


「ひとり、友人を……」


 今の一振りで虫の息ではあるが生き残っていた者も死に、この場には少女と戦鬼の二人きりとなる。

 倒れ込んでいる少女にもう一度刃を振るう、少女の身体に身につけられていた華美な装飾品が血溜まりに落ちた。


「人殺しの。 私が殺したのは、千を遥かに超える」

「最低、ですね」

「お前はそう思うのか」


 少女はつまらなさそうに頷いた。

 ーー人生はこれで終わりか。 生きていたらいいことがあるなんて、やはり嘘だった。

 手を外に伸ばしてみる。 逃げるつもりではなかったけれど、こんな場所で他の血と混ざるように血を撒き散らすのはまっぴらだった。


「ああーー。 ああーー……!!」


 戦鬼は年老いた顔を歪ませて、少女の肩を掴んだ。


「そう思うか。 お前も」


 血溜まりに大太刀が落ちた。 少女はその身体を震わせて、戦鬼の、老人の体を受け止めた。

 その身体は老いてなおも重く、支えきれずに少女は倒れた。


◆◆◆◆◆


「夜更かしをしていれば、戦鬼が攫いにくるぞ」


 少女は真暗闇の空を見上げながら言った。 どこにも星がないのは雲があるからだろうか。

 だとすれば、雨が降るかもしれない。


 馬の蹄の音が軽快に鳴り響く。 少女の好ましく思うような音ではないが、他には何も音がない中であれば、それを聞くのも十分な暇つぶしだった。


「西ですよ。 西です。 あのお姫様は西に逃げました」


 戦鬼は無言で頷き、二人を乗せた馬を駆らせた。

 少女の声は子供ながらも高く美しい。 以前、聞いた歌によく似ていると感じ、けれどその時と違って感じ良いと思う。


 少女の声は嫌いではない。 耳障りな歓声よりも遥かに心地よい。


「夜更かしもしてみるものですね」


 戦鬼は答えることもなく馬を駆り続ける。


「攫われてもみるものです」


 風の音、蹄が鳴って、少女が話す。 どれもが戦鬼にとっては心地の良いものだった。

 ひとりではなかった。 自分を人殺しと罵るものは。


「夜更かししていれば、戦鬼が攫いにくるぞ。 馬を駆らせて血の雨降らせ、子供を取っ捕まえて、遠くに行くぞ」


 馬鹿馬鹿しい子供を寝かしつけるための言葉。 誰もが知っているそれの、どれもが事実であろうと誰が思うのだろうか。

 少なくとも子の親はそれを信じて言っているわけではないだろう。

 遠くに向かう少女は面白そうにクスクスと笑った。


 母の言葉を思い出す。 彼女にこの事を伝えれば笑ってくれるだろうか、などとつまらないことを考えながら。


 少女は鬼に攫われ西へ西へ。 鬼に攫われどこか遠くへ。 見たくもない故郷の姿を遠くに見る。

 風に流されてどこかにいくのは少女の姿か、故郷の土か、どちらも知らずに真暗闇を駆けていく。


「私は、そう長く生きれないだろう。 死に様は誰にも見られたくないと思っていた」


 鬼は息を吐き出した。 少女は首を横に振って、それを否定する。


「僕は見たくないですよ。 人の死ぬところなんて」

「私の理解者は、お前しかいない」


 少女は息を吐き出して、また否定する。


「分かりませんよ。 あなたのことなんて」


 西へ西へ、少女のいた街はもう見えはしない。


「僕は多分、間違ってますよ」

「私も間違えているのだから、それがいい」


 何故、私はこれほどまでに強いのだろうか。 老人はそう思っていた。

 より弱ければ、もうとっくに朽ち果てて死んでいただろう。 そうであれば、どれだけ良かったことか。

 老人はあまりに人を殺しすぎた。 意味もなく強すぎた。

 身の丈に合わない賞賛の雨と、恨みつらみの視線と血の雨。 身体を溶かすような感覚は、ただの老人にとっては遠い世界の話のようだった。


 今更な話で、意味もない悩み。 戦鬼は鬼らしく口を噤み前のみを見据える。


「なら、看取りますよ。 それでいいなら」


 人らしい笑みなどいつ振りだろうか。

 それが自身の死の話など、馬鹿馬鹿しい。


「ああ、ありがたい」


 風が老人の痩せこけた頬を撫でた。 身体が冷えている感覚など、若い時以来のことだった。

 馬を片手で駆らせながら、上着を脱いで少女に掛ける。


「夜は冷えるらしい」

「今、気がついたのですか?」


 小さく少女が笑う。 上着を落ちないようにたぐり上げて、後ろばかり見ていた身体を前に向けた。


「ああ、そうだ」


 それだけの事が、今まで分からなかったのは不思議だった。

 鬼は空いた手で大太刀を握り締めて、どうしたらいいのか分からないと前を見た。 闇ばかりが広がって、道は見えない。

 迷うなど、いつ振りだろう。 西へ、まだ西へ。


 もう、あるいは幾年も昔から、鬼は老人でしかなかった。 馬を駆るのは腕を痛め、腰に負担を掛けた。

 いつしか感じなくなっていた倦怠感。 それが喉から漏れ出るように息が吐かれた。


 ーー本当に私は人を殺せるのか。 鬼よ、ああ鬼よ。

   夜更かす子を攫うのならば、鬼であれ。


 人殺しと咎める者がひとりいるのだ。 もう戦鬼の大太刀は金棒足り得ない。 老人を支える杖にも、なりはしない。

 けれども、姫は殺さねばならなかった。

 この歳になって、あと幾ばくの命になって、迷うとは。 そうだった、命とは惑うものだ。

 迷わぬ鬼は、命はなかった。 あるのは必要な動きのみで。


 けれども、殺さねばならない。 それでも咎められるのは怖かった。


「鬼も迷うのですね」


 見透かしたような少女の言葉。


「鬼は迷わんよ」


 攫った以上は鬼でなければならなかった。 姫を殺さず、少女を殺させるのは、あまりに不義理。

 老人は醜く歌う。


「夜更かししていれば、戦鬼が攫いにくるぞ。 馬を駆らせて血の雨降らせ、子供を取っ捕まえて、遠くに行くぞ。

西へ西へ、ああ西へ。 子の眼は東の空を見つめ続けて、ああ西へ」


 老人は歌った。 少女は音を立てずに耳を傾けた。

 老人は馬をゆっくりと歩かせながら、少女の小さな体躯を抱き上げて、自身の前に持ってくる。


「もう寝なさい。 夜も深い」


 後ろに乗せれば落ちるが、前に抱けば寝ても落ちないだろう。

 少女は不思議そうに老人の痩せこけた顔を見つめて、目を閉じた。


「ーーおやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 少女が目を閉じて身体を老人に預ける。 少女の体温とゆっくりと歩く馬の足音が心地よい。

 寝息を立てた少女を見て、老人は安堵を吐き出すように息をした。


 腰を落ち着けるのには良い街が遠くに見えた。

 鬼は、恐ろしいものだ。 あるいは鬼にとってもそうなのだろう。


 街に入り、馬を降りて子を背負う。 この暖かみは、人ならば誰もが持っていたものか。

 それを奪って、殺した。


 今日は眠ることは出来そうにない。 宿を取って、子を寝かせて小さな窓から空を見上げた。

 星が一つ見えた。 美しいと息を吐き出したが、よくよく見れば、建物の屋上の端に溜まった水が、何処かの火の灯りを反射したものであることに気が付く。

 星とは、こんなにも近くにあるものなのか。


 老いて初めて、人の明るさを知る。


 もう一度、思考を繰り返す。 今日は眠れそうになかった。

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