第5話

 「いいの?」

 日曜の朝に俺と玲奈と章助は隣の家の前に立っていた。横にいる玲奈に尋ねると彼女はすぐに俺の腕を引っ張る。隣の洒落た洋風な家、それは楢原さんの家だった。

 「うん、こっち!」

 連れられるままに門をくぐり、玲奈はポケットから鍵を取り出した。それを俺に渡すので代わりに玄関の鍵穴に挿し込む。

 「開いた」

 ドアノブを回すと抵抗することなく扉が開いた。鍵は施錠にも使うので悠登の方で預かる。

 「えーっと…」

 約一月ぶりの帰宅だが玲奈は感慨があるわけではないのか落ち着いた様子で中に入る。悠登が彼女に続くとすぐにスリッパを出してくれた。

 「ありがとう」

 礼を言うと玲奈はすぐに家の奥へと入っていく。俺は人のいない家に突然上がり込むことに後ろめたさを感じながらもスリッパに足を突っ込む。

 今日ここに来たのは玲奈からの希望だった。曰く、お父さん達がいつ帰ってきても大丈夫なよう綺麗に掃除しておきたいとのこと。そのためにディスチャージ仮面を見てから俺と章助はここにお邪魔した。

 「俺も来ていいのかよ?」

 「どうせ暇だろ。テレビ見て帰る気だったのか」

 来るか?行く。の二つ返事でついてきた章助だが掃除の話をしたのは今しがた、隣に移動する途中でのことだった。人手は多い方が早く済むし、今から章助を帰しても昼まで寝るか健康グッズで筋トレして過ごすに決まっている。それならばと俺が呼んだ。

 「そうじき、あったよ!」

 主がいてもいなくとも人の家の中をじろじろ見るものではない。わかってはいるがカーテンの閉め切られた薄暗い部屋に通されると見回さない方が無理だ。整頓されているが所々に残る生活臭を見つけてはここでどんな暮らしをしていたのかと想像してしまう。

 …テレビは獅子井家の方がデカいんだな、と気付くと後ろから玲奈の声と共にドタドタと物音がした。振り向けば玲奈が戸の微かな段差に掃除機をぶつけて無理に通そうとしている。

 「おいおい、そんなことしたら壊れちゃうよ」

 章助がすぐに玲奈の手から掃除機を受け取る。俺達なら片手で扱えるが彼女にはまだ少し取り回しにくそうだった。そんな掃除機を見てふと、ある疑問が浮かぶ。

 「……ここって、電気通ってるのか?」

 「さぁ…」

 俺の疑問に首を傾げた章助が手近にあった壁のスイッチを押す。本来この部屋の灯りが点くのだろうが今は何の反応も見せない。

 「てことは…」

 当然、水も出ない。俺と章助はすぐに引き返して雑巾と水を張ったバケツを持って戻った。

 「ごめんなさい…」

 再び玄関に着くと玲奈が暗い顔でお出迎えしてくれる。ものの数分、こちらは手間とも何とも思っていないのだが。

 「いやいや、俺が気付くべきだったよね。パッと見だけどキチンと片付けもされてるし、床だけ拭こうよ?」

 「うん…」

 玲奈を思えば年末の大掃除のようなものを考えていたのかもしれない。だが、悠登が今言ったように掃除なんて必要ないと思うほどこの家は整理整頓されていた。家を長い間留守にするのだから当然と言えば当然なのだが。

 「よぉし玲奈ちゃん、俺と雑巾がけレースだ!」

 悠登が玲奈にフォローを入れている間に章助は雑巾を絞っていた。その取りかかりの早さは見習わねばと俺も水に浸った雑巾に手を伸ばす。

 「レース?勝ったら負けたらとかあんのかよ?」

 「当たり前だろ!何のための競争だ!」

 先に絞った雑巾を広げ玲奈に渡してやる。向こうはレースという言葉にすぐ臨戦態勢を見せた。普通に掃除したいと考えているのは自分だけらしい。

 「そうだな…。玲奈ちゃんが一位なら俺達でとらさんごっこか、らいおんさんごっこを昼までやる!」

 「ほんとだね!?」

 その程度なら、と俺はホッとしたが玲奈は予想外に興奮していた。たまに親父の背に乗っては楽しそうにしていたがそれでも飽き足らないということか。

 「……俺が一位なら?」

 「そうだな…。俺がジュース一本、玲奈ちゃんは肩揉み、とかどうよ?」

 悪くはないがなんだか偉そうだ。しかしそれこそが勝者か、と納得してその条件を飲む。

 「かたよりしっぽがいい…」

 「そこは大丈夫かな…はは」

 玲奈の提案は苦笑してそっと流す。尻尾は間に合っているので他を当たってもらいたい。

 「で、最後は俺!」

 いきなり張り切って章助が雑巾を床に敷いて手を乗せる。悠登と玲奈も彼を挟むように並ぶ。

 「俺が勝ったら悠登にらいおんさんごっこしてもらって、そっから腕立て百回だ!」

 「はぁ!?」

 何故俺だけがそんな拷問まがいの罰ゲームをしなければいけないのか。しかも本人も得することではあるまい。

 「二人とも、準備いいな?勝負はここを一往復だ!そんじゃレディ、ゴーっ!」

 「おい待っ…!」

 自分だけで話を進めて章助が疾駆する。出遅れたが悠登もすぐに雑巾と共に駆け出した。

 玲奈も前だけを見て真剣に埃を拭いつつ廊下の角を攻める。俺はこの時点で章助と人一人分の差をつけられていた。

 章助がわざわざあんな無茶を持ち出したのだ、実行させるに決まっている。こうなれば俺は勝負を捨てる。しかしそれは一位に拘らないということで無様に負けるつもりも毛頭ない。

 「な…!」

 俺は章助の足首を掴んだ。すぐに章助はバランスを崩し盛大に転倒する。俺も勢い余ってそこに突撃し章助を巻き込んでのクラッシュ事故を起こす。

 「悠登!汚いぞてめっ!」

 「うるさい!行け、玲奈!」

 自分の勝利を諦め玲奈を勝たせる。これこそが悠登の目的だった。

 「うん!」

 俺のアシストを受けて玲奈が遂に俺達を抜いた。その間も章助を動かすまいと腰にしがみ付く。ジタバタしてももう遅い。

 「ゴぉぉぉール!」

 玲奈が往復し終えるのを見届け俺が吠える。勝利を掴んだのは玲奈だった。

 「お前、子ども相手に全力尽くそうとしたろ」

 「当たり前だろ。勝負は非常に非情で無情なもんだ」

 ゴール兼スタート地点で嬉しそうに玲奈は雑巾をバケツに突っ込んでいる。それを尻目に俺は章助に呆れていた。この巨体で玲奈と接触事故を起こせばどうなっていたか。悪びれる様子も無いことから本気で勝つつもりでやっていたようだ。

 「ところでよ」

 「なんだ?」

 楽しむのは結構だが安全には配慮してもらいたい。どの部分から注意しようかと考えていると章助が頬を掻きながらこちらを見て笑う。

 「いつまで俺に抱き付いてるんだ?こっちは別にいいけどよ」

 「………」

 言われて章助を転ばせてからコイツの腰にずっとしがみ付いていたと気付く。とうに玲奈の勝ちは確定しているのに。

 無言で章助を解放してやると俺は掃除に戻った。それ以降、玲奈は階段を一段ずつ、章助も居間の雑巾がけに勤しんだ。俺も再びあのテンションで人の家をレース会場にするのは憚る。

 玲奈がいるとはいえ、主のいない個室の掃除まではできなかった。本当にフローリングの床を拭いて回っただけ。時間にして一時間も要していない。

 「夏になったら庭の草むしりとかしとこうか?」

 「そうだね!」

 水拭き後の空拭きも済ませあとは帰るだけ。月に一度はこうして掃除をしたいということなのでそれくらいなら、と悠登も承諾する。無人だからもう少し間隔があっていいとも思うが。

 「じゃあ鍵閉めるけど…向こうに持っていきたい物とか忘れ物はない?」

 「だいじょうぶ」

 そっか、と返事をして俺は楢原さんの家を施錠した。ドアノブを一度回して確認してから鍵を玲奈に返してやる。すぐにポケットにしまうと章助の方へ向かった。

 「しょうすけおにいちゃんはこのあとどうするの?」

 「俺か?打ち上げが始まる時間まで悠登の家にいるよ」

 章助が言った打ち上げ、というのは応援団による応援歌練習の打ち上げだった。俺や有志として参加してくれた運動部員も呼ばれている。それについては玲奈や親父達にも話していた。

 「ならそれまで玲奈の遊び相手しててくれよ。俺は…」

 親父達の昼飯をどうするか考えようとしていた。しかし章助は首を傾げる。

 「おいおい、さっきの話を忘れたのか?」

 「さっき?」

 思い返すと章助が玲奈に提示したのは俺と章助でとらさんごっこか、らいおんさんごっこを昼までやるということだった。だから章助がとらさんごっこをしてやれば良い。

 「ぐわぉ~う!」

 「が…がー……」

 「ゆうとおにいちゃん、もっと!」

 だがそれは猛獣使いの玲奈を前にするには甘い考えだった。玲奈の希望はどちらかではなく、両方だった。高校生二人を園児が手玉に取る。それを可能としたのが勝者の特権だ。

 章助を勝たせるよりは肉体的負担はずっと少ない。しかし精神的ダメージは勝るとも劣らなかった。その理由はどう考えても譲司にある。

 譲司が玲奈に本格派といって半裸でらいおんさんごっこをしていたせいで俺と章助にまでそれを強いられた。ズボンは許してもらったが章助の方はそれすらやぶさかでないらしい。

 「…うぉぉぉお!」

 横に四つん這いで並ぶ章助に負けじと声を張る。リクエストを受けたからにはこちらも全力で応えねばなるまい。こうなれば、やけだ。

 俺達の咆哮は譲司と涼が起き出るまで続いた。その間は俺と章助の背中を行ったり来たり。章助の凸凹とした背中と毛皮を楽しんだ後は俺の鬣と、それぞれに無いものや違いを楽しんでいるようだった。


          →


 「いやー、すっかり玲奈ちゃんとも打ち解けたみたいじゃないの?お兄ちゃんよ」

 時間が来たので俺は章助と駅前に向かっていた。今日は通学路より一本離れた橋を渡っていると急に章助がそんなことを言ってきた。

 「……からかってるのか?」

 「違うよ。いつの間にか悠登お兄ちゃんなんて呼ばれるようになってんじゃねぇか。前よりハツラツとしてるし、それはお前が玲奈ちゃんとより身近になれた証拠だろ」

 そう言われてはからかわれてるなんて言えなかった。章助が彼なりに自分達を見ていたからこその一言だった。それを調子に乗った風に話すものだからつい勘違いしてしまう。

 「……ちょっと時間掛かっちまったけどな」

 でも、それが章助の良い所なのかもしれない。繊細な問題の一番深くまで踏み込まずとも、そこまでをこちらから引き出しやすいように話してくれる。悩みを見抜く虎の眼というのもあながち侮れなかった。さすがに悠登が明へ抱く淡い気持ちには気付かれていなかったが。

 「む……」

 「どした?」

 明への気持ち、で思い出して少し気になる事がある。

 「……話は変わるが今日って狼塚も来るんだよな?部活あるのかなってさ」

 本当は明のいるテニス部が気になっていた。それを表立って口にはできなかったので代わりの引き合いとして狼塚に出てきてもらう。狼塚は来るとだけは聞いていた。

 「さぁ…。私服で来れば休みだったろうし、ジャージなら部活後ってことだろ」

 章助もそこまでは知らないか。しかしそれを聞いて自分の服装を気にする。

 「俺達、私服で良かったのか?」

 「格好は皆違うだろうよ。それに、打ち上げなんだぞ」

 俺達が向かう先は料亭、というほど豪華ではないがこの辺ではちょっとした料理店だった。どうして高校生の打ち上げがカラオケやファミレスではなくそんな店なのかと言えば何ということもない、そこは副団長の実家だからだ。しかも夕方まで貸し切り。

 「あ、いらっしゃい。もう何人か来てるよ」

 店の前まで着くと副団長が立っていた。制服でも板前服でもない普通のティーシャツにデニム。それを見て俺の心配はすぐに消え去った。

 「お邪魔します」

 「今日はよろしく!」

 「うん。二人ともお疲れ様」

 労いの言葉と一緒に副団長が中に通してくれる。入ると既に何人かの三年生と二年生がそれぞれ学年で固まっていた。俺と章助は四人掛けのテーブル席に並んで座る。

 「先に来てたんだな、狼塚」

 「おう」

 俺達の向かいには既に先客が一人いた。それがサッカー部のジャージに身を包んで茶をすすっていた狼塚だった。相変わらず愛想のない挨拶を短く返してくる。

 「今日って部活だったのか?」

 「地区予選も近いしな」

 そうでなくても休みかは怪しいが、と付け加えボソリと狼塚は呟くように答えた。疲れているようにも見えるが狼塚はこれで平常運転だった。もしくは、普段学校で見ている彼は常に疲労しているか。

 「はい、お茶」

 狼塚と話していると副団長が俺と章助にお茶を持ってきてくれた。火傷しないように気を付けながら一口飲んで礼を言うと彼は笑顔でまた外に出て行ってしまう。

 「副団長、あぁやって皆を待ってるんだな」

 「電車通学の人はここを知らないやつもいるみたいだしな」

 章助が感心したように副団長の背中を見送っていると狼塚が捕捉してくれた。言われればここは駅前にひっそりとある店だから見落とすこともあるかもしれない。

 それから十数分、周りと話している間に続々と今年の応援歌練習に参加してくれた有志や応援団員が集まってきた。その中にはもちろん団長もいる。こう言っては悪いが普段ボロボロの制服を着ていただけに穴の開いていない、赤と青のラインが入った白く明るいポロシャツ姿に応援団員でも違和感を覚えてしまう。

 「全員揃ったか?」

 「うん、今さっき」

 店の奥から甚平を着た角刈り頭の中年が現れた。顔付きがどことなく副団長に似ている。

 「いらっしゃい、ウチの息子が世話になってんな。俺が一応ここの店主だ」

 少々乱暴な口調だがそれは挨拶だった。すぐに俺達は副団長の父親に会釈する。

 「とんでもありません、こちらこそ今日はわざわざここを…」

 「あー、いいっていいって。そういうの。まだ高校生なんだしな」

 その中で団長はすぐに立ち上がって頭を深々と頭を下げる。しかし店主はひらひらと手を振って団長の言葉を遮った。

 「じゃ、お疲れさん。今日はいっぱい食って帰ってってくれよ。おい、注文聞いとけ」

 「は、はーい」

 言うことだけ言って副団長の父親は店の奥へと消える。副団長も固まる団長と店の奥とを交互に見ておどおどしていた。

 「えーっと…皆、お疲れ様です。お代なんだけど、一人五百円。残りは僕と団長で払います」

 気まずそうにしていたが副団長が口を開く。それは俺達も聞いていたのでそれぞれがワンコイン、あるいは小銭で指定金額を用意してきた。

 「ドリンクは一本サービスしてくれるって。それでこっからはお願いなんですけど…」

 「あ、俺うな重!」

 「え!じゃあ俺もうな重!」

 「おし、俺も!」

 「ちょ、ちょっと…!?」

 二年生の一人がうな重、と言うと周りもそれに便乗する。次々上がるうな重コールを聞いて副団長の顔はすぐに青ざめていく。

 「よし、じゃあいっそ全員うな重にすっか!ゴチになります、副団長!」

 「え、えぇぇぇ……」

 副団長の声が尾を引きか細くなる。うな重、響きは大変ステキだが値段の方も相当だ。それを多少引かれるとはいえ支払いを任されるとなればあんな顔にもなるだろう。だが既に悠登もうな重という単語が焼き付いてしまっていた。

 「皆、聞いてくれ」

[newpage]

 そこに突然割り込んできたのは団長だった。テーブルに両手を置いて一同を見回す。その表情は真剣そのものだった。というか、あれからずっと立っていたのか。

 「…ここは、丼ものが美味いんだ。カツ丼とか絶品だぞ……そっちにしないか?」

 その顔と低音の良い声で何を言うかと思えば。団長からの提案もとい、嘆願に全員が笑い出す。緊迫した顔は脅しに使うものと見せかけ、若干団長の目は潤んでいた。それを見せられてはこちらもうな重に拘るのは止めようと思う。

 そうして俺は天丼、章助はカツ丼。狼塚は中華丼に決めた。全員の注文を聞き届け、副団長がドリンクを持って戻ってきたところで改めて団長が咳払いをした。

 「…ゴホン、まずは皆が空気を読んでくれて嬉しい」

 ドリンクをそれぞれ注ぎながらの一言に空気が和む。ちょっとこちらもおふざけが過ぎたか。

 「うん…皆さん、今日はお集まり頂きありがとうございます」

 副団長もそうだが団長も校内での振る舞いと違い過ぎてもはや別人の域にまで達していないだろうか。副団長は二年だが団長は三年生、別に先輩がいるというわけでもないのだからかしこまる必要はない。それにも拘わらず今こうした態度を見せるのは彼本来の人柄だからだろう。

 「今回の応援歌練習、及び対面式も最後まで大きな問題を残して終わることはなかった。えー…それは、応援団に協力して集まってくれた有志の二年三年の皆さんのおかげだと思ってます。本当に一週間とちょっと、お疲れ様でした!」

 言っている間に副団長がそっと団長のグラスにオレンジジュースを注ぐ。余談だが、玲奈はリンゴよりオレンジジュースの方が好きらしいと先日知った。

 「うわとと、溢すって…。どこまで言ったっけ。……まぁ今後も応援団、活動する機会はあります。入団するって人も歓迎してるし、また有志を集めたりもする、でしょう。そん時まで、とりあえず今は一区切りとしてありがとう。それじゃ、グラス…」

 全員にドリンクがあるか確認すると団長がグラスを掲げる。それに合わせ皆で軽くグラスを持ち上げた。

 「では、まだ注文来てないが俺からはこれで終わる。じゃ…乾杯!」

 「乾杯!」

 団長の乾杯の音頭に合わせて俺達も続く。すぐに章助が俺のグラスに自分のグラスをぶつける。その後、向かいにいた狼塚とも章助と共に乾杯した。

 「いやー、狼塚も大変だったろ」

 「本当にな…。無茶ぶりで朝練まで付き合わされるとは思ってなかったぞ」

 ひとしきりグラス合わせをして回って戻った章助に狼塚は素直に頷いた。元はと言えば俺が問答無用で巻き込んだわけで。

 「悪かったな、狼塚。お前も忙しいだろうに」

 「…いや」

 ここでやっと俺が謝ると意外にも狼塚は否定した。その通りだ、なんてグサっと突き刺すように言われるとばかり思っていた。

 「最後にここで打ち上げをやるらしいって聞いてたからな」

 「飯目当てかよ!」

 章助のツッコミに狼塚の口角が上がる。微かに狼塚が笑っていた。

 「うな重じゃないのはちょっと残念だがな」

 今度は冗談を言った。もしや、今日の狼塚は打ち上げということで上機嫌なんだろうか。

 「狼塚、尻尾…触らせてくれないか」

 「断る」

 やっぱり駄目だった。

 そうしているうちに皆の注文がテーブルに並べられる。その間に五百円は回ってきた副団長に徴収されていた。

 「きたきた!うんまそう!」

 目の前に現れたカツ丼を見て章助が盛大に舌舐めずりをする。みっともないと思いつつも彼が言う通り、美味そうだった。

 悠登も自分の前に置かれた天丼を見て静かに喉を鳴らす。海老の天ぷら二本に獅子唐、カボチャとナスにサツマイモを大胆に乗せた丼は米も多めに盛られている。ずっしりとした重量感を手で受け止めながら悠登は箸で天ぷらを持ち上げた。

 「そんじゃ狼塚、お先!」

 「あぁ」

 まだ中華丼が来ない狼塚を置いて章助も丼を持ち上げる。

 「いっただきます!」

 「いただきます」

 章助とほとんど同時に俺も一口。天ぷらの衣は悠登の牙に触れると容易く崩れじんわりと優しく野菜の味と濃いめに味付けされたタレの味が口の中いっぱいに広がった。

 レポーターでもない俺から言えるのは美味い、の一言だった。コンビニで買った天丼をレンジで温めて出る味とはまったく違う。本当に同じ食べ物にカテゴライズされているのかと思わず比べてしまっていた。

 「うまーい!」

 同じようにそれしか言えないのか章助は吠えている。他の同級生や先輩も食事を談笑しながら楽しんでいた。そうしている間に狼塚の中華丼もやっと来た。

 「どーよ狼塚!」

 「美味い」

 「そーだろー!」

 章助が威張るところではないし、狼塚はリアクションが薄い。そう思いながら悠登がお吸い物に口を付けていると章助がこちらを向いた。

 「なぁ、これ玲奈ちゃんにも食わせてやりたいよなー」

 「口に物を詰めながら喋るな…」

 章助から飛んできた米粒を剥がしながら呆れると謝りながらも笑っている。箸が止まらない気持ちや玲奈に食べさせたいのは頷けるが少しは反省してくれ。

 「玲奈、って誰だ?」

 そこに横から声がした。それが狼塚の声だと気付くのに時間は要さない。

 「悠登ん家で預かってる人間の女の子だよ。…言ってなかったのか?」

 「あ?あぁ…」

 そう言えば玲奈と俺の事を知っているのは学校では今のところ章助だけだ。ジャンボにも今は困っていないからと特に説明していない。

 「悠登の親父さんが隣の家の楢原さんって人と仲が良くてさ。その人が単身赴任で家を空けてる間…ってわけ」

 「前、ちょっと朝練に来るの遅れたことあったろ?あれって幼稚園にその…玲奈を送ってたからなんだ。すぐに言わなくて悪かった」

 章助が自由に話してくれたおかげでこちらは軽く付け足すだけで良かった。それを聞いて狼塚はふーん、と鼻を鳴らす。

 「だからか、明が何か言ってたのは…」

 「桑野さん…?」

 狼塚から明という名前が出るのは不思議ではないがこのタイミングで出てくるとは思わなかった。章助も話し終えてカツ丼を口に詰めながら狼塚を見ている。

 「アイツが言ってたんだ、獅子井君と保健室で会って私達と幼稚園が一緒だったこと覚えてた、とか。…そうだ、応援歌練習最後の日も自分の家の方じゃなくて幼稚園や駅の方に歩いていったって」

 そんな話も狼塚にしていたのか。そもそも、俺の話がその二人の話題に上るとは。

 「因みに狼塚は俺達を覚えてたのか?」

 「いや、言われるまで忘れてた」

 口の物を呑み込み章助が尋ねると即答で忘れられていた。俺も人の事は言えないがこうもはっきり言われると少し寂しかった。

 「桑野さんはよく覚えててくれたよな…」

 自分が幼稚園の頃に何をしていたかなんてこっちはほとんど思い出せないというのに、明は他のクラスの俺達を覚えていたなんて。頭の使い方が昔から違ったということだろうか。

 「獣人で目立ってたからじゃないか。それで犬や猫よりお前達は体が一回り大きかったろ?」

 狼塚の話を聞いてあぁー、と章助に合わせて声を伸ばす。言われてみれば少しは大きかったかもしれない。

 「でも今となってはわからないけどな」

 最後の海老天をかじり、お吸い物を飲み干す。そう、過ぎてしまったことだ。

 「なんで?」

 しかし狼塚は目を丸くして悠登に聞いてきた。

 「なんでって…?そりゃあ…」

 不意の質問で逆に聞き返してしまう。どうしてそんな目で見てくるのか。

 「わからないなら明に直接聞いたらどうだ。本人なら覚えてるだろ」

 そう言われて悠登はゆっくり、限界まで口を開いた。確かに、それが一番わかりやすい。

 「たしかに…」

 明に話し掛けなければならない。それはまだ悠登には難易度が高かった。

 「隣なんだからいつでも話せるよな?」

 狼塚は当たり前のように言うがそれは彼が明と親しいから可能なことだ。いくら明がフレンドリーに話してくれてもそう難なくこなせるものではない。

 「あぁ…そうだな」

 それでもできないと言えずに悠登は曖昧な相槌で濁しグラスを傾けた。やけに喉が渇く。

 その後は食後の余韻を楽しんでから名残惜しくも各自解散になる。二次会、と言って日が暮れるまでカラオケに向かう先輩や同級生もいたが俺と章助は帰ることにした。

 「狼塚は自転車か。帰って何すんだ?」

 無遠慮に狼塚が乗ってきた自転車のサドルを叩きながら章助が聞くと狼塚は鍵を外した。

 「英語の課題。提出はいつも通り火曜だったか」

 そう言うと章助を退かしてすぐにまたがってしまう。課題、という言葉に章助が固まっているのを尻目に狼塚が俺の方を見た。

 「狼塚、ありがとうな」

 悠登としては明と話す切っ掛けの提供に協力してもらった事に対して礼を述べたつもりだった。そうは言っていないので今までの応援歌練習についてか、自分の思った通りには伝わっていないだろう。

 「……いや、また明日な」

 字面を見ると無愛想に変わりないが狼塚の表情は満腹感からかどこか穏やかだった。ジャージ姿はともかくあんな顔もするんだな、と思いながら自転車を漕いで行ってしまう彼を見送る。

 「……悠登、これからお前の家に行っていいか」

 「俺は手伝わないぞ」

 それだけ言って先に歩き出した。章助もすぐにフリーズ状態から脱して横に並ぶ。

 プリントと筆記用具を用意するために一度家へ寄る章助を置いて帰宅する。居間に入るとテレビでディスチャージ仮面を流しながら譲司の膝で玲奈が眠っていた。

 「ただいま」

 口の前で人差し指を立てた譲司に黙って頷くと悠登は靴下を脱いで近付く。この方が足音を立てずに済むからだ。

 「随分はしゃいでたからね、遊び疲れちゃったのかな」

 親父はそう言って幸せそうに微笑むと優しく玲奈の頭を撫でた。その顔は百獣の王なんて言われる獣とは似ても似つかない。

 「章助が来ると起きちゃいそうだな…。俺が部屋まで運ぶよ」

 お願い、と言った譲司からそっと玲奈を持ち上げる。かなりぐっすり寝入っているのか起きる気配はなかった。そのままでいてくれと願いながら慌てずに急いで玲奈を部屋の布団に寝かせて悠登は自分も課題を片付けるため鞄ごと移動する。

 「ちょっとは様になってきたんじゃない?」

 居間に戻るとごろ寝した親父が俺を見ている。腹が見えてるぞ。

 「章助にも似たようなこと言われた」

 「俺がなんだって?」

 「うぉっ…!?」

 親父の場合は観察半分茶化し半分か、と思っていると急に後ろから声がした。肩を跳ねさせ振り返れば章助が立っている。

 「……来てたのか、相変わらず早いな」

 俺が努めて落ち着きながら言うと章助は牙を見せて笑った。

 「ぱっぱと終わらせたいからな!お邪魔します、おじさん!」

 そう上手くいくのか、と思いながら俺も課題をテーブルに広げる。覗き込んでこれは何だ、どうしてこの答えになるんだと聞いてくる親父は適当にあしらった。章助は玲奈が昼寝から目を覚ますまでそれにいちいち答えていた。故に課題の進行状況が予定と実際とで差が出たかは言うまでも無い。


 「玲奈、もう行ける?」

 月曜の朝。休日明けでうんざりする俺に対し玲奈は幼稚園の制服に着替え終えていた。

 「うん!」

 その返事に悠登は満足して頭を撫でてやる。今日も玲奈は元気だった。

 しかし今日はすぐに出発しない。俺は玲奈の目線合わせるようにしゃがんだ。

 「いかないの?」

 玲奈はそわそわして早く幼稚園に行きたいらしい。そんなに慌てずとも俺の登校に合わせて出れば遅刻なんてことにはならない。幼稚園が楽しみだからそわそわしているのだ。俺からすれば考えられないが自分にもこんな時期があったのかな、としみじみしてしまう。

 「その前に、これを渡しておこうと思って」

 悠登はポケットからある物を取り出すとそれを玲奈に手渡してやる。

 「これ…カギ?」

 玲奈の言う通り、彼女に渡したのは鍵だった。初めて会った時に封筒に入っていた鍵を悠登がずっと預かっていた。

 「この家の鍵だよ。この家の人はこれを持ってなくちゃね。失くしちゃダメだよ?」

 俺がそう言うと玲奈はじっと鍵を見つめていた。強い口調で言ったつもりはない。だが、重荷に感じさせてしまっただろうか。

 「……うん、わかった!ありがとうおにいちゃん!」

 長い沈黙の後に玲奈がこちらを見上げて力強く頷く。その小さな手に獅子井家の鍵を握りしめ。その反応に面食らったが笑ってもう一度頭を撫でた。

 「よし、じゃあ行こうか」

 「はーい!」

 玲奈は自分の、楢原家の鍵を今も大事にしていた。それを一時的にとはいえ悠登に預けた。ならばこちらも、と思いこの家の鍵を預ける。彼女ならばこの獅子井家の鍵も同じように大事にしてくれるとわかっていたからだ。

 「いってきます!」

 「あら、いってらっしゃい」

 「おう、気ぃ付けてな!」

 玲奈が居間に顔を出すと未だ朝食のトーストを呑気にかじっている涼と譲司が返事をする。俺はその間に自分の靴を履き、玲奈の靴を揃えておいた。

 「いってくる!」

 玲奈が玄関にやってきて靴と格闘する間に俺も挨拶しておく。それにも両親はきちんと返してくれた。何気ない挨拶だが忘れてはいけない大切なものだと思う。

 「おまたせ!」

 無事に靴を履き終えた玲奈が俺の手をそっと握る。悠登もそれを離さないよう、潰さないように握り返す。そうしてやると玲奈が喜ぶことも知っていた。

 幼稚園まで歩きながらする話は月曜の朝ならば変わらず前日放送のディスチャージ仮面と、来週の次回予告について。一巻と最近の数話しか見ていないため先の予測はまだできないがようやく一緒になって話をして盛り上がれてきた。

 先生に預け、こちらに手を振りながら園内に入っていく玲奈を見送るとここからは五分と五分。獅子ヶ谷さん達に捕まるかどうか。応援歌練習が終わり、少し遅めに幼稚園に来るようになった俺と玲奈だったがそれでもまだ立ち話に興じているのを度々見かけた。

 今日は獅子ヶ谷さん達がいなかった。それをこっそりとだが、ついていると思ってしまう。会いたくない、とまでは言わないが以前気に入られたかもよ?と言われた時は若干背筋が冷たくなった。

 理由はこじつけでも今日の俺はついている、と自分を無理に鼓舞して悠登は学校へ向かった。狼塚に言われた昨日の今日だが思い立ったが吉日とも言う。行動するなら早い方が良い、かな。そう思いたい。そんな気がしていた。そんな風に弱気になるのは一瞬あれば十分。だが、今の悠登に必要なものは一瞬だけでも保ってくれる勇気だった。

教室に入り、座席について一呼吸。先に来ていなくて安心していた。そんな自分を省みて苦笑いが浮かぶ。告白するでもないのにどうしてこんなにも緊張しているのか。

以前に明と二人で話したことを思い出す。特に思い入れを持って発したことでない。

適度に、頑張ろう。

そう呟くと肩からふっと力が抜けた気がする。本当は効果がなくともこの際錯覚でも良い。

それから間もなく、明が教室に入ってきた。向かう先はもちろん自分の座席。

 「おはよう、桑野さん」

言った途端、悠登は少しだけ握った拳に力が入った。しかし明はすぐに笑みを浮かべてくれる。

 「おはよう獅子井君、今日も早いね!」



 それが悠登からも明へほんの一歩踏み出せた最初のひと時だった。これは、その勇気を持つ切っ掛けを見つけ出すまでの淡い物語。

                                     

                                     了

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プライド~Lock on!~ 琥河原一輝 @kazuki-kogawara

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