第4話


 土曜の暖かな昼下がり。昼食を済ませて腹ごなしに歩くこと数分。自転車はあれば便利なのだが特に急ぎの用事でもない限り徒歩十分圏内で使おうとは思わない。運動部に参加していないのだからこれぐらいの運動まで面倒臭がっては太る一方だ。最近の筋トレも時間を見つけてやっているが体育の授業と合わせても以前より足りていない気がする。

 「……さて」

 悠登の目的地はレンタルDⅤDを扱う書店だった。店の前や前にある自販機近くに誰もいないことを確認すると中に入る。目的地は入口から見て左手に進んだ一番奥のレンタルコーナー。

 「はー……」

 この店の棚ってこんなに高かったか?届くけどさ…。

 いつもは本しか買わないので久々にレンタルコーナーまで来た。申し訳程度に置いてある粗末な木の台と棚を見ながら悠登は感嘆の声を出す。これだけ様々な作品が増えたということだ。

 「お、来たな!」

 後ろから聞き覚えのある声が聞こえて振り返る。

 「先に着いてたのか」

 棚と棚の間に立っていた虎男に悠登が言うと彼は鼻を指でさすりながら笑った。

 「ちょっとだけだがな!」

 章助のちょっと前がどの程度かわからないが少し前からここにいたのは確からしい。それは横に抱える数本のDVDを見ればわかった。

 「何か借りるのか」

 「見たかったけど映画館行けなかったやつとか、ちょっと久しぶりに見たくなった映画とかをいくつかな」

 そう答えて章助が差し出したDVDのタイトルを見る。何年か前にテレビで宣伝されていたものもあれば悠登が聞いたこともないタイトルの作品もあった。

 「で、今日俺を呼び出した訳はなんだよ?」

 そう、昨日の夜と今日の午前中にコイツを呼び出すメールだけ送ってそれっきりだった。それを思い出しながら悠登は彼にDVDを返す。

 「あぁ…。玲奈ちゃん、のことなんだけど」

 悠登が少し詰まりながらその名前を出すと章助が首を傾げた。

 「玲奈ちゃんがどうしたよ。今日は一緒じゃないみたいだけど」

 あぁ、と答えながら俺はアニメ・特撮コーナーの方へ章助を連れて歩きだす。玲奈なら本格派、と言ってパンツ一丁になった親父にらいおんさんごっこをしてもらっている。家を出る前、かなりヒートアップして喜んでいたからまだ飽きていないと思う。

 「俺さ、玲奈ちゃんともう少し仲良くなりたい、と言うか…。玲奈ちゃんの事あんまりわかってないなと思って」

 「ほぉ、それで?」

 周りを見回しながら質問する章助に俺は棚から見つけたあるDVDを差し出す。それを受け取って章助はDVDと俺を交互に見た。

 「ディスチャージ仮面…。これ、玲奈ちゃんのためにお前が見るのか」

 DVDのタイトルを見て章助が怪訝そうな顔をした。俺は頷いてDVDをパッケージから抜き取った。

 「やっぱり俺から歩み寄らないといけないと思うんだよな。向こうもだろうけど、俺も壁を作ってた。そのための一番の近道はやっぱりこれだと…」

 そこまで話してパッケージの上端に貼られたシールに気付く。げ、これまだ新作だ。

 「ふーん…。まぁ、良い心掛けなんじゃないか?俺も本人いなくてもやっと名前呼ぶようになったんだなーって思ってたし」

 章助にも譲司と同じことを言われて驚いてしまう。性格だけでなく着眼点も似てるのか、それともそんなに気にさせていたか。

 「でもよ」

 棚を指差す章助。その指が指し示す先には悠登がDVDを抜き出した隙間があった。

 「それ、まだ一巻しか出てないみたいだぞ?」

 「えっ」

 見れば、左隣には前番組らしき特撮物。右隣からは特撮の劇場作品がズラッと並んでいた。

 「新作コーナーに行けば二巻とか三巻とか…」

 なかった。高校生二人で子ども向け作品の新作コーナーを舐め回すように見ても、ない。

 「で、どうするんだよ、お兄ちゃん」

 力なく落とした肩を笑いながら章助に叩かれ悠登は迷った。もう少し出るまで待つべきか、とも考えてしまう。しかし、一巻のパッケージの裏を見れば一話から四話まで収録されているようだった。

 「……借りてくよ。遅かれ早かれ見そうだし」

 まずは見ないことには始まらない。高校生がこのDVDをレジに持っていくのは少し躊躇われたが年齢制限なんてない筈だ。それに店員だっていちいち気にしまい。

 会計をしてくれた店員さんは特に何も言わずにただ一泊二日にするか二泊三日にするか聞いてきた。玲奈なら間違いなく後者を選ぶと思い二泊三日にしておく。

 「それはいつ見るんだ?」

 会計を済ませ、まだレンタルの棚を見ている章助に聞かれて頭の中でシミュレートしてみる。それで少しげんなりした。

 「たぶん、夕飯食ってから一回見て…明日ディスチャージ仮面の本放送見てからもう一回…いや、二回見るくらいは覚悟すべきかもな」

 俺の想像を聞いて章助が苦笑する。

 「そんなに好きなんだな…」

 章助ですら強張った。玲奈のディスチャージ仮面に関するエピソードなら他にもまだある。

 玲奈の夕食はBGMやラジオ代わりにディスチャージ仮面。風呂を上がってもまだ譲司が帰ってこないならもう一度ディスチャージ仮面を見るという徹底ぶり。この一週間で十回近く見ている計算になる。そしてそこには必ず悠登も同伴させられていた。課題をしながら見ることが多かったとはいえ既に主題歌のサビは歌える自信がある。そんな自信、体得するつもりはなかったのだが。

 「玲奈ちゃん、俺の部屋のテレビが小さいから俺の部屋じゃ見ないんだぞ…」

 番組の録画方法を説明書で学んでいた際にふと聞いたのだが、大きいのが良いとだけ言われた。気持ちはわからないでもないのだがそこは妥協しても良かったのではないかと思う。どちらにせよ悠登は起こされていただろうが。そんな予想に悠登がブルーになりかけていると章助は他のレンタル作品を眺めている。

 「お、これ懐かしくないか」

 「ポッドからモンスターを召喚するやつか…。ちょっと流行ったよな、それ。最終回は泣きそうになったぞ」

 「丸いのとか銃みたいので式神を呼ぶやつとかもあったよな。おい、こっちには犬の名探偵があるじゃねぇか。…借りられてるけど」

 一昔前の作品について雑談をしながら本屋で章助としばらく時間を潰す。玲奈の好みになりそうな特撮ヒーローやアニメを探すため彼には大いに助けてもらった。そのために呼び出したのは悪かったが章助が追加でアニメを借りてから別れる。この埋め合わせは近々、と約束して。その後帰宅すると母がらいおんさんごっこに加わって楽しそうにしていた。

 玲奈も涼の背に乗りながら譲司の鬣を撫で、完全に猛獣使いとしての才能を開花させていた。それに予想通り飽きる様子を見せずに夕暮れまで彼らの背を独占してしまう。

 「あー…腰痛い。久々に本気出しちゃったかなー」

 楽しそうにそう言いながら涼は夕食の準備でジャガイモの皮をピーラーでむいている。玲奈なら今日は譲司と風呂に入っていた。

 「ノリノリでやってたくせに…。年甲斐もなく服まで脱い…でぇっ!」

 遠回しに年齢を指摘しようとしたが最後まで言う前に涼の隣で人参を切っていた悠登の足が踏まれる。指先は卑怯だ。自分の足に擦り付けて必死に痛みを軽減しようとしたが手加減、もとい、足加減のない一撃。なかなか痛みは引かなかった。

 「なにすんだよ、母ちゃん!」

 横にいる涼はすまし顔でこちらを見ようともせずに皮むきを続ける。それでも悠登が彼女を見ているとふう、と息だけ吐いた。

 「それが親ってもんよ。子どもといるのが何だかんだ楽しいっていうか…ね。悠登の昔を思い出してつい白熱しちゃったのよ」

 自分が幼稚園児だった頃、涼はよく遊んでくれた。…さすがに服は脱いでいなかったが。その当時を思い出して照れ臭そうに笑う涼につられて悠登も苦笑する。

 「いつも悪いわね」

 「それは言いっこなしだろ」

 親父と昨日話したんだ、とやかく言うことなんてなかった。こっちはこっちで今日は自由に過ごせたのだから。

 「悠登はさ…ここにいる間に玲奈ちゃんと家族、になれると思う?」

 涼がピーラーを動かす手を止めた。それを横目で見て悠登は答える。

 「手、止まってるぞ。……家族になれるかは俺達と…玲奈ちゃん…次第、じゃないのかな」

 涼の手がもう一度動き出す。それを見て俺は言葉を続けた。

 「親父は玲奈ちゃんに寂しい思いをさせたくないって言った。それは…俺も同じ気持ちだ。母ちゃんが年甲斐もなくはしゃぐ気持ちもわかる気がする。…だからせめて一年だけかもしれないが…なれるか悩むんじゃない、なりたいって、俺は思った」

 両親に会えない寂しさを抱えるお隣さんの一人娘。今は我が家にいるその子の気持ちを大切にしたい。それが悠登の答えだった。

 「悩んでるって聞いたのに、思ったより頼もしいじゃない」

 涼はからかうように笑ってこちらを見上げた。言って少し恥ずかしくなって悠登は口角を下に下げる。

 「こっちがその気なんだ。あとは玲奈ちゃん次第だろ。…少し、話してみてもいいかな?」

 もちろん、と言ってくれた母ちゃんのむいたジャガイモはだいぶ大雑把に皮が残っていた。でもあまり気にしないことにする。煮てしまえばほとんど同じだ。

 そう、気にしないのも一つの手なのだ。そして、気になるなら突き詰めれば良い。それだけの簡単なこと。一番大事なのはその行動力が自身にあるかどうかだ。

 夕食と風呂を済ませて悠登は居間でテレビを見る玲奈の横に座った。譲司がいるからかディスチャージ仮面は見ていない。涼は部屋に先に戻っていた。

 「……ちょっとトイレにでも行くかなー」

 玲奈の隣に俺が座ったことで何かを察した譲司がリモコンと携帯電話を置くと、のっそり起き上がり廊下に消える。その間に話せ、ということだろう。特に後ろめたいことはないが話しやすくはなった。

 「……玲奈ちゃん、ちょっと話さない?」

 「どうしたの?」

 テレビの音だけが聞こえるなかで話し掛けると玲奈が返事をくれた。声の通りで彼女がこっちを見ているのがわかる。

 「親父から聞いたんだけど…お父さんと話してないんだよね?お父さんと話さなくて寂しくないの?」

 敢えてずっと聞かないでいたことだ。この前まで、既に俺の両親が何度も聞いているかもしれない。そう思って自分からは聞かずにいた。

 俺がチラ、と横目を向けると玲奈はこちらを見ていなかった。質問について考えてくれているらしい。

 「さみしく……ないよ」

 間を挟んで玲奈から返ってきたのはそれだけだった。ただ、声に力がない。玲奈は畳んだ膝に顎を押し付けぼんやりとテレビを見ている。震えを抑えるような声、しかし膝をしっかりと抱える彼女の姿はどう見ても寂しそうだった。

 「ごめんね」

 自然と口から出たのがごめんね、だった。俺が顔を向けて謝ると玲奈はその小さな口をぽかんと開けてまっすぐこっちを見上げる。

 「どうしてあやまるの…?」

 今度は玲奈の方から悠登に疑問が投じられた。反射的に出た言葉だったが建前で言ったつもりもない。彼女の気持ちに気付いてやれていなかったのだから。

 「玲奈ちゃんに無理させてたからかな。ずっと我慢してたんだよね」

 玲奈は首を横に振った。

 「幼稚園行くときもどうして俺と一緒だったのか聞かれてた、よね」

 目を逸らしながらだが玲奈は頷いてくれた。

 「困ったんじゃない?」

 あの時、どうして間に入ってやらなかったのか。俺が言えば、困らせずに済んだのに。

 「……おとーさん、おしごとあるからしかたないんだもん」

 そう言った玲奈が鼻声になったことに気が付く。泣かせてしまうかもしれないとは話す前から懸念していた。しかし悠登はまだ彼女から話を聞き足りない。

 「……もしかしてさ、本当はお父さんと一緒に行きたかったんじゃないの?」

 「ちがう!」

 悠登が言い終わるかどうかのタイミングで玲奈が立ち上がり、怒鳴るように否定する。それはテレビの前以外で見せる、彼女の珍しい感情的な瞬間だった。

 「わたしは…おとーさんも、ママももどってくるおうちからはなれたくなかったの。わたしまではなれたらおうちにだれもいなくなっちゃうっておもったの。だれもいなかったらおうちがかわいそうだから…って」

 だからここに残った、か…。

 堰を切るように玲奈は必死になって自分の気持ちを伝えてくれている。悠登はそんな彼女の想いを真正面から受け止める。

 彼女の父親から聞いた話と今の話には多少の食い違いがある。だが、それは彼女が自分の責任感を背負いこんで黙っていたのではないだろうか。

 「……玲奈ちゃんはお父さんやお母さんが帰ってきたらおかえりって言ってあげたかったんだね」

 玲奈が頷いた。それと同時に悠登は彼女の頭にそっと手を乗せた。ゆっくり撫でてやると彼女は再び膝を抱えて座った。

 「それでも、寂しいんじゃない?俺が玲奈ちゃんの立場だったら…寂しいな」

 わざと玲奈を見ないようにそう言うと手に収まる玲奈の頭がぐりん、と横に動いて悠登の方に向けられた。

 「……ほんとは……さみしいよ。でも、おとーさんはおしごとでいそがしくて…」

 ティッシュを差し出すと玲奈はすぐに一枚箱から引き抜いて鼻をかむ。悠登は撫でる手を止めてただ彼女の体温を掌で感じていた。

 「忙しいと玲奈ちゃんと話したくないのかな?」

 そう言いつつ手を静かに離すと玲奈は難しい顔をしていた。また何か考えているらしい。しかし悠登は今回最も玲奈の口から聞きたかった本音を既に聞いている。

 「よっと…」

 立ち上がり悠登は譲司の携帯電話をテーブルから持ち上げる。玲奈が不思議そうにこちらを見ている間に電話帳で玲奈の父親を検索し、携帯を彼女に向けた。

 「玲奈ちゃんと話したくないってお父さんは言った?」

 向けられた携帯に戸惑う玲奈に悠登がそう聞くと玲奈は頷きも、首を横に振る事もしない。

 「きいたことない……。…でも…」

 「押しちゃった」

 玲奈が何か言う前に悠登は通話ボタンを押した。それを聞いた玲奈が膝を抱えるのを止める。

 「話してみなよ。お父さんだってきっと、寂しいんじゃないかな」

 「おとーさんが…」

 携帯電話を受け取った玲奈から離れる。少しして、玲奈の肩が跳ねた。

 「お、おとーさん…?」

 そこからの玲奈を見ていて心が落ち着いたのは何故だろう。たぶん、今まで見られなかったため不安だったこの子の子どもらしい一面をしっかりと見ることができたからだと思う。

 電話に出て、不安そうに恐る恐る電波越しに父に話し掛ける。それが父とわかった瞬間の安堵。玲奈は興奮を抑えながら冷静を装い相手の出方を窺う。その感情がある時、どっと爆発して彼女に喜びの笑顔が宿る。そして近況を報告して笑い、聞いているのかと笑顔のまま父に怒り、そして最後にまた笑い。

 「うん、うん、じゃーね。うん、だいじょうぶ!じゃーね!」

 携帯電話を返されて画面を見れば通話時間は十五分ちょっと。親父はいつまでトイレに行っているのかと苦笑しながらその携帯を元の位置に戻す。

 「あのね!おとーさんもさみしかったって!またいつでもでんわしてって!」

 玲奈が後ろから元気に話し掛けてきた。しかし、悠登が振り返るとその力み具合が消え、うろたえだす。散々無邪気に部屋で腕を回し、跳ねて、転んでなおも元気に話していたのに今更隠すことはあるまい。

 「良かったじゃない。だから言ったでしょ」

 しかし内容には触れず悠登が笑みを浮かべて彼女の前でしゃがむ。目線が合うと彼女に笑顔が戻ってくれた。

 「……うん!」

 頷いた玲奈は今まで見た中で最も満面の笑顔を見せてくれた。その笑顔にしたのは彼女の父親と俺、だと思う。俺が、ってのは自惚れかもしれないけど。

 「でも、ここだってもう玲奈ちゃんの家なんだよ」

 これも言っておかないといけないことだった。父のいない寂しさは彼女の父と話すことでしか払拭できないかもしれない。それを少しでも感じさせないように俺達がいる、いつも横に。

 「ここも…?」

 「そう。だから無理しないで、何かあったら俺に話してみてよ。あと…今まで気付いてあげられなくて本当にごめん」

 今度は俺が頷いた。玲奈が口を開こうとしたがドタドタと足音が廊下から聞こえてくる。

 「おぉーい」

 まるで狙っていたかのように譲司が居間に戻ってきた。その手には見覚えのある袋。

 「おい、それ…!」

 悠登が声を荒げると譲司がにや、と口の端を持ちあげて笑う。それは今日の昼に借りて部屋に置いていたレンタルDVDだった。

 「悠登よぉ…俺が玲奈ちゃんと遊んでる間にAⅤ借りてくるとは…やるねぇ」

 にやにやする親父を今すぐに黙らせてやりたかった。壊したい、その笑顔。

 「エーブイ、ってなに?」

 だが、その汚い笑顔を粉砕する前に幼稚園児が発した言葉に悠登は戦慄した。何てことを言わせてしまったのか。しかも言わせた本人に反省する様子はない。

 「そ、それは……アニマルの出るビデオ…じゃない、かな。動物映像?」

 今時の子にただのビデオ、と言って通じるだろうか。玲奈の顔は明らかにわかっていない。

 「ち、違うんだ!A…じゃない、借りたのはディスチャージ仮面なんだよっ!」

 話題を挿げ替えるのが一番の近道。玲奈の好奇心が込められた視線に耐えかねてそう判断した悠登が借りたDVDのタイトルを伝える。

 「えっ!」

 よっしゃ、食い付いたぁ!と、内心でガッツポーズする。親父が一瞬悔しそうに顔を歪めたのは見逃さない。子どもの無邪気さを利用し俺をからかったその罪、体で償わせてやる。

 「よ、良かったね玲奈ちゃーん」

 しかし玲奈の前では猫をかぶりたいのか笑顔をひきつらせながら袋を取りに来た彼女にそれ手渡す。そこで悠登も思い出したことがあった。

 「それ、月曜日にはお店に返さなくちゃいけないんだ。今から見る?」

 聞いているのかいないのか、玲奈の目はDVDに釘付けだった。もう他に何も見えてないようにすら思える。

 「これ、いつの?」

 「最初のやつだよ。一話から四話まで」

 こちらを見ないまま真剣にディスクを眺め聞いてくる玲奈に俺も親父も動けなくなった。固唾を呑んで見守っていると彼女は唸りだす。何事かと思ったが玲奈は辛そうにDVDを袋に戻した。

 「……あしたに…するっ」

 どうしてこんなに辛そうなのだろう。明日は休みだから喜んで見ると思ったのに。

 「なんで見ないの?悠登が借りてきたのに」

 譲司が玲奈の顔を覗き込むように体を屈める。その顔に彼女は袋を押し付けた。

 「うぷ…」

 「あしたのディスチャージかめんにおきれなくなっちゃうから!それにいまみたらこのまえのおはなしとごちゃまぜになっちゃうかもしれないし…」

 そこまで考えておいでだったとは。ちょっと見くびっていたかもしれない。次に玲奈に何か借りてくるなら金曜日、下校してからにしよう。というか、一話完結だったしあれだけ繰り返し見てごちゃ混ぜになるかも、と心配するとは。しかし悠登は彼女の選択を尊重し歯磨きをさせて部屋に戻した。

 「で、どうだったよ」

 居間に戻ると譲司がまだ残っていた。リモコンを片手にチャンネルをいじくっている。

 「ちょっと電話借りたぞ。…やっぱり寂しかったみたいだ」

 寝そべっていた親父がリモコンを置いて俺を見る。

 「そうか…。あのDVD、玲奈ちゃんとの取っ掛かりにしようとしたんだろ?必要なくなったみたいだけどよ」

 そう、あのDVDは自分の勉強と、玲奈と会話を続けるのが難しくなったらもう少し時間を開けるために使おうと思っていた。しかし譲司が言ったように必要なくなってしまう。玲奈の方も頑張って気持ちを伝えてくれたから。

 「そもそも見せるために借りたんだ。見てもらうさ」

 俺も今後の放送に備えて視聴することになるのだろう。それはついでで良いが。

 気付いたのだが、俺は間違っていたみたいだ。俺がやっていたのは子どもをモノで釣ろうとしていたにすぎない。本来なら先程のように向かい合って話せば済むことなのに。俺は結局電話をさせるまで玲奈と話すことを恐れたままだった。

 「でも、取っ掛かりなんてもういらないと思う」

 それに気付く切っ掛けをくれたのはあのDVDだった。借りる前に気付けって話かもしれないけど。

 「仲良くやっていけそうでパパは安心したよ。パパ達には頑なに大丈夫って言ってたからさ。お前には真っ先に心を開いてくれたんだなぁ…」

 譲司は笑って立ち上がった。居間の前に立っていた悠登とすれ違いざまに耳元へ口を寄せる。

 今日仲良くしていたのは親父達だ。いや、今まで仲良くしていたのはきっと親父と母ちゃんだけだったろう。そんな二人ではなく俺に最初に本音をぶつけてくれたらしい。その気持ちに俺はこれから応えてやりたい、一番近くで。

 「ところで、本当にAⅤは借りてないのか?」

 …せっかくいいところだったのに。最後にボソ、と呟いた親父に俺は今度こそ腹へ掌底を叩き込む。俺が章助や親父に手を出すのが早いのは彼ら二人が頑丈だからだろう。親父を倒した翌日、ディスチャージ仮面が始まる前に家へこの前持ち帰らせた筈のダンベルを持って現れた章助を見て、そんな気がした。


 「今日で応援歌練習も終わりか…」

 入学してから一週間と半分程経過した放課後。満開になった桜の花びらがほとんど散った頃、新入生の応援歌練習が終わる。前日に続いて校舎の裏、すぐ近くの川の堤防に一年生を集めて傾斜のきつい坂にしばらく立って参加してもらう。もちろん、強い風に煽られ動くだけでも目を付けられてしまうから全員が体勢を整え足に力を入れながら声を張り上げる。

 自分が体験した去年を思い出す。あの日は河川敷の風が強く冷たかった。俺の鬣は乱れるだけで無事だったが隣の女子は髪が長くて口に入っているんじゃないかというぐらいサラサラの髪がはためいていたのを覚えている。皆が明のようにポニーテールにすれば良いのにとか思ってない。断じて。…信じて。

 「これでしばらくは早く帰れそうだな、悠登っ」

 俺に遅れて着替えを済ませた章助が制帽を被りはしゃぐ。とりあえず俺も章助も服装は整った。乱れているように見える部分はわざとだから多少アンバランスくらいが丁度いい。

 「そうだなー」

 早く帰れるなんて言われるまで意識してなかったな。それだけ応援歌練習に熱を入れていたとも言える。対面式に続き、応援団の中ではいきなり目玉となる行事が連続していたのだから当然と言えば当然か。

 でも、これが終われば玲奈の迎えを今までよりずっと早くできる。それは彼女にとって負担を減らすことに繋がるだろう。

 敢えて黙って迎えに行って驚かせてみようか。なんて考えていると妙な視線に気が付く。

 「……お前、なにニヤニヤしながらボーっとしてんだ?」

 章助の指摘で気付いたがどうやらニヤニヤしていたらしい。だが、今回はその笑みを止めようとはしなかった。

 「……早く帰れるっていいな、って思ってさ」

 悠登が答えると章助は鼻を鳴らす。

 「だな、今日も終わったら玲奈ちゃんを迎えに行くんだろ?」

 毎日ついてきてるくせに。そう思いながら最後に法被の襟を正す。

 「あぁ。そのためにもさっさと終わらせるぞ。…俺達だけ気張っても意味ないけどな」

 あいよ、と章助の返事を聞いて俺達は最後の戦場に向かった。最も、この終わりというものは一時的なもの、一つの区切りに過ぎない。

 いつものように新入生より早く着いて整列させる。今までの暗い、閉鎖された狭い空間と違って澄んだ空気を吸いながらの応援。ただ、堤防でジョギングしている他の高校の生徒や散歩する老人達には思いっきり見られている。

 しかし今までの経験から新入生達は既にそれを恥ずかしがるような羞恥心を捨て去っていた。やがて到着した団長が整列する一年生達の前に立つ。そして台に乗った瞬間に応援歌練習、総仕上げの始まりだった。

 「お前ら!今日で応援歌練習も最後だ。今日はこの一週間の総復習をする!お前らができなければ今日はいつまででも延長されると思え!」

 新入生が押忍!と全員で返事をする。しかし団長は腕を組んだまま揺らがない。

 「声が小っせぇ!」

 低いがよく通る声で張られた声にもう一度押忍。俺達もそれぞれの列を徘徊する。

 「いいか、俺達の声を堤防の歩行者でも向こう岸でもない、あの山に、いや、あの山を更に越えて届くぐらい……最後まで声は絶叫!いいなぁ!」

 団長が後ろを向いて指を差した先。雪が頂上を覆った山がスーパーや電気屋の遠くに見えた。そこが、その奥が目標。全員が即座に押忍と叫んだ。

 「まずは校歌からだ!」

 そこから俺達の出番が増えた。少し離れた場所で同じように仕上げを指揮する副団長の方から声が聞こえたことから先に向こうが始めたのがわかる。団長も慌てた、とは言わないが終わる時間はなるべく合わせたいと言っていた。

 「ちげぇだろぉ!先週言ったこともう忘れたのかぁ!」

 しかし、練習に手抜きは見せない。容赦なく怒鳴り、やり直しも続く。俺達が怒鳴りながら動きや歌詞のヒントを出すと、直ちに修正して追い付こうとするその姿にこちらも申し訳ないとは感じている。しかしこれは俺達なりのツンデレだった。いつデレの部分を見せるのか、と聞いてはいけない。

 「ちゃんと手ぇ上げろ!」

 章助も完全に団員として非情に徹していた。団員側も声をずっと出し、時に応援歌の歌詞をド忘れした生徒の記憶を引っ張り出してやる。

 「次は豪気節だ!」

 途中やり直しながらも仕上げが続く。太鼓と団長の手振りに合わせて新入生も腕を振り、叫び。向こう岸からはどう見えるのだろう。今は団員として真っただ中を歩いているがいかんせん、近い。もう少し離れて見てみたい気になってきた。

 「声小さくなってきてんぞぉ!」

 そんなことを考えながらも悠登は声を張り上げる。新入生に先輩が負けていられなかった。今年の新入生も必死に食らいついてきてくれているのだから。

 時間は叫びと共に流れ、陽は見る見るうちに傾いた。陽の暖かさが段々弱まり、風も徐々に冷たくなってくる。ただ、ここにいるほとんどの者は顔を真っ赤にして汗ばんでいると思うが。

 「……これが最後の最後だ。一発で終わらせるぞ」

 団長が頬を伝う汗を西日に光らせながらそう宣言した。そして手を掲げる。もう、俺達から叫べと言うまでもない。全員が団長だけを見ている。

 最後の発声。それは綺麗なものではない。しかし掠れ、潰れ、しゃがれながらも一丸となった新入生の声は最後にこの町に響いた。

 「……以上で、応援歌練習の一切を終了するっ!したぁ!」

 団長の挨拶。それに全員が応えた。団長がセンター台から飛び降りても、誰も動かない。

 しばしの静寂。風が一度吹き抜け皆の火照りを微かに冷ました。

 「……」

 そして、団長が今まで見たことのない小さな挙動でちょいちょい、と手招きをする。それを合図に章助が声を出す。叫ばず、いつものトーンで。

 「ほれ、全員団長のとこ!駆け足!」

 そう言うと戸惑いながらも新入生達が坂を下り始める。ずっと同じ傾斜に足を固定していたためか転びそうになる者も何人かいた。

 「よし、もうちょいこっち」

 団長が手招きして新入生達が彼を囲む。人数が多いのであまり広がり過ぎると声が聞こえなかった。

 「えー…なんだ。皆、まずはお疲れさん」

 そう言った団長からは先程までの覇気を感じない。というのも、今までや校舎を歩きまわる時のように気を張ってないからだろう。そんな団長の様子を見て新入生達は苦笑し、未だ気まずそうにしながらも軽く頭を下げた。

 「対面式から今日まで、お前らは本当によく頑張ってくれたと思う。それは俺も、有志達にもしっかり伝わってきた」

 言葉を選らんでいるのか団長は途切れ途切れに、しかしきちんと自分の気持ちを口に出す。新入生達もそれを静かに聞いていた。

 「まず、バンカラ応援なんてもんがまだあることに驚いたと思う。それでお前達には入学早々辛い目に合わせた。だが、これはうちの高校に入学したという自覚を促す伝統行事であり、何も憎くてやっていたわけじゃない。それはわかってくれ」

 それに頷く生徒達。団長の言葉、気持ちを噛み締めるようなその姿に悠登は玲奈を思い出していた。

 「お前らは挫けることなく皆で気持ちを一つにして、応援歌練習をやり抜いた!それは間違いない事実だ。それは誇って良いことだと、俺は思う。君達の根性は本物だ。最後の一体感を、どうか卒業しても忘れないでほしい」

 団長の語りに女子生徒の何人かが涙ぐんでいた。それだけ辛い一週間だったのだろう。

 「この経験をいつかかけがえのない高校時代最初の思い出として、君達が思い出してくれたら嬉しい。俺のような男についてきてくれた君達を、俺は心から誇りに思う。これからの高校生活、今日までの応援歌練習のように、全力で楽しんでくれ!俺達は、改めて君達新一年生の入学を歓迎する」

 言うと同時に団長が一年生へ拍手を送る。さらにその一年生達を囲む俺達応援団員や有志が彼らに惜しみない拍手を送った。それを受けてどうしたものかわからずうろたえる一同。去年の俺達と同じだった。

 「よぉし、一年生!団長を胴上げだ!」

 ひとしきりの拍手を終えるとお調子者の団員が変な提案を持ちかけた。それが章助なのは言うまでもない。

 「いや、俺はいいって!ちょっと!」

 去年の団長は逃げ切った。だが、今年の章助は敵だ。すぐに後ろから羽交い絞めにされる。

 「おい一年、早く早く!」

 ノリの良い一年生が面白半分に団長を囲む。あー、今年はこうなるか。

 「終わったなぁ…」

 予め玲奈には今日の迎えが遅くなるかも、とは伝えてある。外だから時間はわからないが空を見る限り既に昨日よりも時間は遅いな。

 「あの…」

 「え?」

 何故か胴上げされてしまう団長。あの夕陽に向かってダッシュだ!とか言って西に走り出す一年B組男子達。泣いて抱き合ったり、疲れはどこにいったか談笑を始める女子達。それぞれがそれぞれの青春を謳歌していた。

 団長の胴上げには参加したかったが位置が離れていたせいで乗り遅れてしまった。そう思っていると突然隣から話し掛けられる。

 「あれ、君は…」

 横にいたのは背の低い女子。誰かと思えばそうだ、応援歌練習中に具合が悪くなった子だ。

 「えっと…先日はすみませんでしたっ!」

 急に頭を下げられこっちが慌ててしまう。何に謝っているかは一つしか心当たりがない。

 「い、いやいや、気にしないで?…今日は大丈夫だった?」

 悠登が聞くと女子は顔を上げた。泣きそうになってる。…俺のせいかな。

 「はい、おかげさまで…」

 気まずいのだが。謝るだけ謝ってクラスメートの元に戻るかと思ったが離れてくれない。

 「あ…お疲れ様。大変だったよね」

 そうだ、労いの言葉を忘れていた。極力怖がらせないようにそう言うと女生徒は鼻をすすって笑ってくれる。

 「はい…。ありがとうございまづ」

 づ。声がハスキーになっているのは仕様、そうさせたのはこちらだから笑ってはいけない。

 その時から急に声を枯らした女子が体を揺らし始める。振り幅の程度は大きくないが、もじもじしているというか。

 …トイレ、だろうか。そうか、この子は俺から離れないんじゃない、俺がいるから気まずくて離れられないんだ。トイレにせよ何にせよ、ここは俺から空気を読むべきだった。

 そう反省してス、と足を前へ踏み出す。遅ればせながら俺も団長の胴上げに参加するか。というか、いつまでやっているんだあいつら。

 「……うん?」

 ガシッ。そんな音が聞こえたと思えば俺の手首が何者かに掴まれている。

 「あ、す、すみません!」

 俺の手を掴んでいたのは結局その子だった。どうしよう、もう直接聞くしかないのだろうか。

 「どうかした…?」

 なんかこう、団長含め俺達の威圧が完全に消えてしまっている。俺の方が恐る恐る聞いているじゃないか。

 「あ、あの…これ!」

 悠登が尋ねると女子が自分の手拭を差し出してくる。これは応援の時に女子は頭、男子は制帽に巻き付けるものだ。

 「手拭…」

 差し出されたのでつい受け取ってしまった。こんな新品、もらうわけにはいかない。これからも使う機会はあるのだから。

 そう思っていると彼女は自分のポケットをごそごそし始める。そこから取り出したのは黒のマーカーだった。

 「あの…サイン下さい!」

 衝撃の一言だった。そこでようやく去年の応援歌練習でも有志達に群がる女子がいたことを思い出す。あれはサインを求めていたのか。

 「え……俺の?」

 念のために自分を指差して聞いてみる。

 「はい。あの…できれば伊藤さんへ、って。あ、私伊藤です!」

 今更自己紹介ありがとう。

 「あー、俺は獅子井。あの…悪いんだけど俺サインとか書けない、よ?」

 ここでオッケー!なんて言ってさらさらと書けるやつがどれだけいるか。自分のサインを練習してみるなんて俺には無縁の話だった。この子、伊藤さんには申し訳ないが手拭を返す。

 「そうですか…。すみません、無理をお願いして…」

 ……次までには練習しておくべきだろうか。そこまで露骨に肩を落として落ち込ませると罪悪感が生まれてしまう。

 「じゃ、じゃあ握手…してもらえませんか?」

 引き下がったと見せかけ食い下がるか…。しかし、ハードルは随分と下げてもらった。

 「……俺でよければ」

 急いで袴で手を拭いて手を差し出した。握手を求めてきたのは伊藤さんの方だったが彼女はゆっくりと俺の手を握る。その間、十秒もなかったと思う。

 「ありがとうございました!」

 「伊藤さんも一週間ご苦労さま」

 そうして伊藤さんの手が離れる。あぁ、女子の手を握るなんて貴重な機会がこんな時に巡ってくるとは。やましい気持ちはないのだが少しは胸が高鳴る。

 「あー!かっちゃんずるい!なにしてんの!」

 直後後ろからの大声に思わず尻尾が跳ねた。耳を向けると数人の足音がこっちに近づいてくるのがわかる。

 「ちょっと応援団の人に握手してもらってたんだ」

 「本当ですか!」

 得意げに言う伊藤さん。ただの握手、後ろめたくはないが人間の女子高生四人に囲まれてそれを問い質されると委縮してしまう。多数派に少数が勝つのは難しいというか。

 「う、うん…」

 事実を認めると女子の甲高い声が一気に悠登の耳に入る。

 「私もお願いします!」

 「せっかくだし私もー!」

 このミーハー集団はなんだろう。ただ、四方を固められた悠登に逃れる術はなかった。見回せば他の有志も女子と楽しげに話していたりする。これもまた思い出作りということか。

 「はい…じゃあ皆、お疲れ様…」

 圧倒されながら手を出すとすぐに両手を握られる。こういう時、どうすれば良いのだろう。はしゃぐのは応援団の硬派なイメージを壊しかねない。ただ、今の反応は無愛想に思われないだろうか。俺の手がふかふかでぷにぷにだからと喜ぶような子達だ、俺達の表情の変化もよくわかっていまい。

 「ありがとうございましたーっ!じゃなかった、したっ!」

 「……したっ!」

 存分ににぎにぎされてしまった。肉球はないんですかー、なんて言われたが手にはない。あるのは足で、手は人間より若干柔らかくて俺の場合黒いだけだ。さっきより一気にどっと疲れてしまった気がする。それでもけじめとしての挨拶はしっかりと済ませた。

 これで本当に長かった応援歌練習が終わった。センター台だけ片付け、あとは団長が副団長と合流し先生方に報告書を書いて提出するから、と俺達を解放してくれる。

 着替えを済ませて俺は教室を出た。章助のトイレを待ってはいられない。来るなら来い、とだけ言って校舎を後にする。

 「うー…」

 喉の奥から唸り声を上げて携帯電話の時計を見る。いつもより一時間以上過ぎていた。夕飯もどうするか考えていない。

 「はぁ」

 考えても変わらない。とにかくまずは玲奈を迎えに行かねば。それから食べたい物でも聞いてみよう。

 「あれ、獅子井君!」

 校門を出て数歩。後ろから名前を呼ばれて耳が跳ねる。この声を聞き間違えはしない。

 「桑野さん」

 振り返ればそこにいたのはテニスのラケットバッグを肩に掛けた明だった。赤いスクイズボトルを片手にこちらへやってくる。

 「獅子井君、今帰り?」

 横に並んで歩く明の笑顔。珍しいのがいる、と好奇心で話し掛けたんだろうが俺からすればとてもありがたかった。きっと前方を歩いている明を見つけても俺からは話し掛けられない。

 「うん、まぁ。応援歌練習が長引いて」

 尻尾の付け根が立つのはまぁ、後ろに注目されなきゃ大丈夫。しばらくすれば落ち着く。

 「聞こえてたよー。今年もやってるなって先生も嬉しそうだったし」

 悠登の心拍数上昇を他所に明は楽しそうに部活の顧問の話をしてくれた。そう言えば化学の先生はここのOBだっけ。

 「今年の一年生ってどうだったの?長引いたってことは…」

 「いや、あれは団長が白熱したんじゃないのかな。それで終わってからも長くて」

 明はこちらの話をうんうん頷きながら聞いてくれる。毎回相槌を打ってくれるだけでも話している方は続けやすい。

 「あぁ、練習後の青春タイムがあったね。ねぇねぇ、サインとかしたの?」

 しかし明の方から投げられた質問にむせそうになった。そうか、女子の事情は向こうの方がずっと詳しいに決まっている。

 「あぁ…っと、サインはできないからって握手で許してもらった、かな」

 あれから数十分しか経っていないのに遠い過去の話のようだった。否、遠い過去に置いてきたい。そりゃあちょっとは嬉しかった。だからこそ明の前では話したくないというか、尻や尻尾の軽い男とはあまり思われたくない。

 「あはは、人気者は大変だね。いいなぁ」

 横目で盗み見るように明の顔を見ればそんなに深く考えている様子はない。そうか、そこまで俺のことを考えているわけないしな…。……え、いいなぁ?

 「今のいいな…」

 会話の中に含まれた言葉に違和感を覚えて聞き返そうとした。だが、その時後ろからのうるさい足音に明が反応する。

 「あ、縞太郎君」

 歩いていた明の足が止まってしまう。それに並んで俺も章助が追い付くのを待った。

 「少しくらい待っててくれても良かったじゃねぇか。おう、桑野も今から帰るのか」

 俺に愚痴ってから章助は明の方を向く。もう少し遅くなるかと思ったのだが。

 「ちょうど校門で獅子井君に会ったんだ」

 「そっか。じゃあ三人で行くか」

 さらりと一緒に帰ろうと言ってのける章助をこんな時は尊敬する。いや、俺が意識し過ぎてるだけか。でも草食系肉食獣男子なんて言われたくない。

 頭の中でぐるぐる考えながらも明は応援団の活動に興味を持ってくれた。それは悠登も章助も得意な分野だったためそれなりに会話が弾む。厳しい練習を強いていながらもこちらだって準備は大変だとか、特に裏話に対する食い付きが良かった。

 そんな話を続け悠登自身、明との会話に慣れてきた。緊張感が薄らいだ、というべきか。しかし慣れてくると今度はどんどん彼女の様子が気になってじろじろ見てしまうようになった。それである時目が合ってしまった瞬間、今までよりも心臓が大きく跳ねてしまう。

 俺からしてみればかなり楽しいひと時だったが狭い通りを抜けてT字型交差点に着く。俺達は直進して横断歩道を渡ろうとしたが明は止まってしまった。

 「あれ、獅子井君達の家ってそっちだっけ?」

 そうだ、明の家と幼稚園は方向が違う。寄らなければもうしばらく一緒にいられたのだが。

 「ちょっとこっちに用事があって」

 そう答えている間に俺達が渡ろうとしていた横断歩道の信号は青から赤に変わった。

 「そっか…。じゃあ明日、また学校でね!」

 「うん、また明日」

 「じゃあなー!」

 そして明が渡る方の信号が青に変わる。彼女はこちらに軽く手を振ると歩道を横断した。

 「さ、玲奈ちゃんを迎えに行くぞっ」

 章助に肩を抱かれて歩き出したが悠登は明の背をしばらく目で追ってしまう。明日になればまた会える、また話せる。そう思えば前を向く気になった。

 そこからは少し速足で幼稚園に向かう。着いた頃にはあの眩しい夕陽も地平線の彼方にほとんど姿を隠していた。

 「お待たせ」

 幼稚園から出てきた玲奈は悠登のズボンにしがみ付いた。普段はディスチャージ仮面を見る時ぐらいしかされないのでどうかしたのか思っていると別の園児が玄関にやってくる。

 「あ、れーなちゃんかえっちゃうの?」

 ライオンの男の子。見覚えのあるその子が獅子ヶ谷さんの子だと気付く。この時間になってもまだ迎えに来ていないようだ。そう言えば、あの人の家も共働きなんだっけ。

 玲奈が先生に挨拶を済ませてライオンの子を見る。だが、その子は俺の顔をじっと見ていた。

 「れーなちゃんはいっつもこのひとといっしょなんだね」

 思ったことを無邪気に口にしただけなのだろうがそれは玲奈からすればあまり聞きたくない一言だったろう。前に彼女と話したことを思い出し俺は一歩前に出て、体を屈める。

 「俺は…」

 「……おにいちゃん、なの」

 だが、俺から話を始める前に少し後ろから声がした。それが、自分の腰にしがみつく玲奈が発したのはすぐにわかった。

 「え、このひとれーなちゃんのおにいちゃんなの!?」

 男の子はくりくりの丸い目を大きく見開いて俺を見る。俺も驚いていたがそれ以上に驚く目の前の少年を落ち着かせようと思った。

 「うん、そうなんだ。よろしく、俺は悠登。向こうの虎は章助」

 玲奈が俺のズボンを握る力をちょっと強めた。それを感じながら男の子に手を出すと彼は俺の手を握った。

 「ぼくりゅうせい」

 りゅうせい…リュウセイ?あぁ、思い出した。章助がアルバムを引っ張り出してきた時に玲奈が言ってた子だ。握手を終えると玲奈は先に外に行ってしまう。やはり辛かったのだろうか。

 「じゃあまたね、りゅうせい君」

 「うん!」

 今度獅子ヶ谷さんに会ったらどんな漢字で書くのか聞いてみようか。そう思いながら悠登は彼と先生を残し、玲奈を追って外に出る。

 「あのさ」

 章助の横で砂場で待っていた玲奈に話し掛けた。靴の砂は後で取り除こう。

 「待たせてごめん!ちょっとのんびりし過ぎた!」

 身を屈めて手を合わせ、なるべく誠意を見せて謝る。薄目を開けると玲奈はこちらに顔を近づけ、指を握った。それを見て完全に目を開ける。

 「……かえろっ」

 言うと同時に玲奈が俺の手を引いた。章助もにっと笑い歩き出す。

 「さぁ帰っぞーぃ」

 幼稚園が見えなくなるまで玲奈は手を引きっぱなしだった。急いで帰りたいのかと思ったが角を曲がってようやくその歩調が落ち着く。章助も黙ったままだったので俺は今日までの話を改めて聞いてもらうことにした。

 「あのさ…。俺と章助って学校で応援団、ってのに入っているんだ」

 口を開くと玲奈が俺を見上げる。わかってくれているのだろうか。

 「今年入学した子達に学校の応援のやり方を教えてたんだけど、今日それが終わったんだ」

 わかったかわかっていないか。そこより大事なのはそれが終わった、ということだけ。

 「だからさ、これからはもうちょっと朝はのんびりできる。あと、迎えも今日みたいに遅くならないと思うから」

 伝えたかったことは言った。しかし、玲奈はこっちを見てぽかんとしている。

 「あ、あの…?」

 「ほんとに!?」

 聞き返そうとしたがその前に玲奈が笑った。間を置いてから突然の反応に驚いてしまったがホッとして悠登は頷く。

 「うん、しばらくは大丈夫。そうだ、夕食は今日まで遅くなったお詫びに玲奈ちゃんの食べたい物にしようよ。何が食べたい?」

 これで許せとは言わないが、せめて何かしないと気が済まなかった。

 「ハンバーグ!」

 逡巡することなく即答する玲奈の思い切りの良さ。下手になんでも良いと言われるよりずっとありがたい。

 そう思う反面、この子がハンバーグをそれ程好きだということに気付いた。言ってくれればもう少し頻繁に作ったのに。

 「……ダメ?」

 「え、あぁ…ごめん。わかった、ちょっと時間掛かるかもしれないけど」

 今までは言いたくても言えなかったのかもな、と思った。

 「俺も食べたーい。この前の埋め合わせー」

 肩に腕を回され重くなる。その章助の筋肉の塊と言える腕を払いのけたかったが埋め合わせという単語に心当たりがあった。それが引っ掛かって払うに払えない。

 「この…。あー、ひき肉ないから買ってきて」

 今日は時間も遅い。こう言えば諦めて帰るだろう。ひき肉がないのは事実だったが。

 「またかよ…!なら先に帰ってろ!」

 本気か、と思ったが章助はもう走り出していた。代わりに行ってくれるというなら好都合だがご馳走すると考えれば釈然としないしこりが残る。玲奈は手を振りながら章助を見送った。

 「俺達はゆっくり帰ろっか」

 俺の提案に玲奈も頷いた。

 「うん!きょうね、てんきがよかったからおひるはそとのゆうぐであそんでたの」

 玲奈が今日の報告をしてくれる。今週に入って最初こそこちらから聞いたが、それ以降は自主的に行ってくれているため悠登はどんどん今の幼稚園で何をしているか彼女に教わった。悠登が田植えをしたのは小学生だったが幼稚園でした記憶はない。水族館には行ったのだが。

 今までの帰宅は玲奈が前を歩いて転ばないように悠登は後ろから歩いているだけ。会話という会話もなかった。ずっと無口な子、と思っていたがそれはそう思い込んでいただけ。本当の玲奈はこんなにもお喋りだった。

 「……それで、りゅうせいくんがディスチャージかめんのまねがへたでねー」

 そして相変わらずのディスチャージ仮面推し。第一話を三回見た俺はもうレセプォルガ博士や兄のキャメロンといった脇役の名前もしっかり覚えた。

 楽しい話を続けたかったのだがりゅうせい君の名前が出て悠登は気になったことがある。これを機に早めに聞いておきたかった。

 「玲奈ちゃんはさ、りゅうせい君がさっき言ったの…平気?…俺のせいで仲間外れとかにされてない?」

 楽しかった話の流れを切ってしまうのはこちらとしても嫌だったが何かあってからでは遅い。話せるようになってきた今だからこそ、聞ける時を逃したくなかった。

 「え?どうして?みんなふつうだよ?」

 不安を他所に玲奈は何でもないことのように悠登の顔を見る。その答えが聞けて安心した。

 「そっか。よかった…」

 一息ついて胸を撫で下ろす。何もないならそれが良い。杞憂で済んだなら、と思っていると玲奈が悠登の指を引っ張った。

 「タテガミがカッコいいねっていわれたよ」

 なんと。鬣、か。顔とか背丈とか尻尾とか、もっと他の部分にも注目して欲しかったが一つでも褒められたとなれば嬉しい。むろん、相手が幼稚園児だろうとも。先生方にはどう思われているだろうか…。

 「なら玲奈ちゃん、そう言ってくれた子にありがとうって言っといてよ」

 子どもに怖がられるし顔には迫力以外ではそこまで自信を持てないがそうか、やはりライオンなら鬣の手入れは怠ってはならない。ワックスに頼らず鬣を活かすにはどうしよう。

 本当はもっと伸ばしたいがこれ以上は校則違反だ。顎下は無理だがいっそ後ろを伸ばしてポニーテール…いやいや、あれは近くで見たい物であって自分でやっても…。

 「うん。……あと…」

 俺の伝言を承諾してくれた玲奈だったが何か付け足そうとした。あと、の続きを待ったがこちらをちらちら見るばかりでその先がなかなか来ない。

 「どうしたの?」

 「……わたしのこと、れいな、でいいよ。………ゆうとおにいちゃん」

 恥ずかしげに玲奈はこちらを見上げた。夕風が吹くと共に俺の握られた指に力が入ったのがわかる。

 意識しなかったがこうしてまともに手を繋ぐのは初めてだった。そして、それ以上に衝撃だったのが今の一言。玲奈と呼んで良いということにも驚いたものの、初めて俺の名前を呼んでくれた。そして、俺を兄だと。

 それをどう受け止めるか。俺は雷に打たれたというか、急に尻尾を握られるように驚いたものの気持ちはある一点、感動して玲奈を見ていた。

 「そう…?ありがとう、玲、奈」

 けれど、我が家に来てから二週間以上経っている。それまで設けられていた壁に一枚風穴を通されたようで悠登自身も彼女と同じように恥ずかしくなって笑顔で誤魔化した。玲奈ちゃん、とはスラッと言えたのにいざ呼び捨てでと言われ早速実践すればたどたどしい。明らかに動じて礼を言ってしまう始末。照れているのはお互い様なのに。

 「うん!かえったらいっしょにディスチャージかめんのにじゅうごわみようね!」

 しかし玲奈の手は離れない。そんな俺の指を掴んで頷き微笑んでいるのだ。

 「……わかった。でも玲奈、その前にご飯が先だよ」

 「はーい!」

 「でも風呂はどうするかな…。親父が帰ってるか半々…そうだ、親父達にも見せようか」

 「ディスチャージかめん!?」

 「そうそう。きっと喜ぶよ」

 「じゃあそうしよう!」


 川沿いの桜並木を歩く春の夕方と夜の境界、まだ少し肌寒い時分に悠登も勇気を出して玲奈の小さな手を包み込むように繋ぐ。それは本当に些細な出来事だったと思う。しかしその時、二人が家族になった瞬間がようやく訪れた。

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