第3話
今日は対面式。授業が本格的に始まるのは明日から。入学式といい対面式といい、私達新入生が主役のイベントが続きます。受験で頑張って入学した高校はなんと新築。クラスの皆と同じで一年生です。これからこの校舎と新たな歴史を築いていくと思うと、胸に情熱の炎が灯るような気になってきました。
でも、今私がいるのはその灯った炎が消えてしまいそうになるほど静まり返った教室。そこに現れた綺麗な黒髪の女性の先輩が生徒会の人だと知るのはそれからしばらく後の事です。その人は私達にこれから起こる事への対策を教えてくれました。でもクラスの重い空気は変わりません。誰も喋らないんです。
言われたのは大まかに分けて二つ。来客者が入って起立した後の姿勢と、発声は腹からというアドバイス。これに限ります。
その先輩が苦笑しながら頑張って、と言って出て行った数分後でした。それらが現れたのは。
♂
以上、一般的な一年生の回想おしまい。ここからは俺達の出番。
「……この格好、慣れないんだよな」
あちこちに穴の開いた学帽、上半身は袖の無い肩口までの法被、下半身は手拭を袴に数枚挟んだ格好をした狼塚がそう呟いた。それを聞いて同じ格好をした章助が牙を見せて笑う。
「はっはっは!柔道着より軽いしマシだろ?」
そう言って悠登のむき出しの肩を叩く。俺はその手を弾くと自分の格好を確認した。ほとんど章助や狼塚と同じだが、少し手拭を奥に詰め過ぎただろうか。だが、これくらいなら問題あるまい。
今この教室には俺と章助と狼塚しかいない。他のクラスメートは既に体育館で部活毎に固まり、新入生の入場を待っている頃だろう。
「そんじゃあいっちょ、殴り込みに行きますか!」
準備を終えて章助は指をバキボキと大きな音を立てて鳴らす。
「お前、その格好で言うと洒落にならんぞ。いつもならんが」
太い二の腕を出したその格好で牙を鳴らして唸れば子どもは間違いなく泣きだす。中学校と同じ気分で入学してきた新入生の心根を引き締めるには刺激が強すぎるほどに。
「狼塚は手筈通りに廊下な」
「わかった。……見られるんだろうな…」
狼塚の、妹に会うと気まずいという話を受けて担当を廊下で新入生を体育館に案内する役回りに配置してもらった。ただ、そこは通過点なので俺達のような事はしないが学年の全員に見られる。家族なら一目見て気付いて当然だろう。彼はそれを少し悩んでいるようだったがこれ以上はこちらではどうしようもなかった。
「俺達も行くぞ」
狼塚を見送って俺も帽子を被り直す。ビリ、と聞こえたがそういう帽子だ。被りやすくなるならそれで良い。
「あいよ!」
章助の元気な返事を聞いて他の有志達と合流する。手筈の確認なら朝、玲奈を幼稚園に送って学校に着いてから集まりで確認した。
既に三年生、二年生、職員は体育館に移動している。今は一年生のみが教室でおとなしくしている筈だ。生徒会からどう対処すればいいのか説明を受けたかどうかだろう。
二階と三階を繋ぐ階段。そこで有志が待機していると三階の方から一人の女生徒が小走りでやってきた。全員例外なく帽子、法被、袴の姿をしている雄の集団に一人だけ女子の制服。一輪の花だとか紅一点と言いたいが彼女は若干こちらと距離を置いている。
「はぁ…全クラスに説明し終わりました。応援団の皆さん、お願いします!」
その言葉をここにいる全員が待っていた。女生徒はそれだけ言うと引き返していく。
それを見送ることなく俺達はこそこそと下に降りた。新校舎は教室の窓が透けているから身を屈めないと窓から見つかる可能性がある。どうせ始まれば隠れる意味なんてなくなるのだが、最初のクラスくらいは驚かせたかった。
最初のクラスの前にスタンバイ。全員が次の一瞬に備え、身構えていた。
さぁ、対面式の始まりだ。
「きりぃぃぃつ!押忍連呼ぉぉぉぉぉお!」
ダァン、と乱暴に完成して間もない新品のドアを開けて悠登は叫んだ。新入生はその音に驚きながらも立ち上がる。その間に有志も次々教室に入った。
♂!
そうです。入ってきたのはすごい服装の先輩方です。突然ドアを開けて叫びながら入ってきました。私達は起立して、さっきの先輩が教えてくれた通りぎゅっと拳を握ります。その手をまっすぐ下に伸ばして体に押し付け、踵もくっつけ角度は九〇度に固定。その間にも入ってきた先輩の言った押忍、を連呼しています。
「小っさいっ!」
「絶叫だ、絶叫!」
「腹から声だせやぁっ!」
教室に突入してきたワイルドな格好の先輩達は怖い顔でそんなことを言ってきます。しかし、私達も言われた通りにしています。クラス全員、半ばパニックで押忍、押忍、押忍。
「聞ごえねぇっ!」
「まーだー出ーる!」
しかし先輩は満足していないようで何人かに顔をこれでもかと近づけ声と若干跳ねた唾を浴びせています。その距離で聞こえないってあり得ないですよね。まだ出る、なんて何を根拠に仰っているんですか?
…そんなこと、思っていても言えるわけがありません。私が女だからとか、今の私達は押忍押忍連呼マシーンだからとかそういうのは含めずに。隣の背の小さい男の子の机がガクガク揺さぶられてます。でも、よそ見をしている余裕もないです。前だけ見ないと何されるかわかりません。
「俺達はまだお前らの入学を認めてねぇ!」
えぇぇぇ!?入学式の次の登校日がこれです。この後、しばらくは教室内で絶叫連呼をさせられるんですよ。そんな中で、私は教壇の前で怖い顔して腕を組んでいるライオン獣人の先輩が印象的でした。
♂!♂!
これがこの高校の対面式の序章だった。突如教室に押し入り数人の有志で新入生に発声をさせる。突然のことに彼らは驚き、この理不尽な押忍連呼を長いことやらされる。休む間はほぼ、ない。
「お前ら、あの入学式の返事はなんだ!校長先生に名前を呼ばれたんだぞ!?そんな時にあの腑抜けた返事はどういう了見だぁ!」
最初の教室の代表として悠登が据えられ、章助や他の有志はうろうろと教室を徘徊し、立って声を張る新入生を更に煽る。悠登もこの教室では移動しないものの声は張った。
指示されていたのはあまり一人一人に集中して厳しくし過ぎないこと、あと、直接手は出さないということ。以前はそれであれこれ問題になったそうで。
あとは悠登の個人的なこだわり。「聞こえねぇ!」とは言わないこと。
当たり前だが、聞こえている。新入生が顔を真っ赤にして叫ぶその様を否定する気はない。聞こえない、と言っているやつもいるが教室にいる全員が叫んでいるのに聞こえないということはないだろう。こうした追いつめる状況を作り上げるにはもってこいとも言えるが。
「まだ出るだろう、もっとだもっとぉお!」
敢えて鼻に皺を寄せるようにして悠登が叫ぶと返ってくる声もビリビリ耳の鼓膜を叩くようになる。目標はあと、数分。
♂!♂!♂!
「止めぇ!」
ライオンの先輩が叫ぶと全員がピタ、と止まりました。他に多数の叫びが飛び交っていたにも関わらず一人が一度声を張っただけで全員にしっかりと届いたんだと思います。
「押忍連呼しながら出席番号順に体育館に移動!駆け足ぃ!」
窓際一番前の生徒を睨むと慌てて走って出ていきます。その際、声を出さなかったので絶叫だ、とまた怒鳴られていました。そう、私達の喉はまだしばらく休めないようです。
それから再び自分が出るまで押忍連呼。私が教室を出て、二階の奥にある体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下に向かう時には既にB組の教室も絶叫を開始していました。そしてそれ以降の教室内は不安にどよめいています。あぁ、できることなら今すぐ逃げろと教えてやりたい。ですが、こうなった以上皆で同じ体験をするのが正しいと思います。そう思うことに決めました。
廊下にも何人か怖い人が立っています。でも、その中である人を見つけました。
お兄ちゃん…?お兄ちゃん、応援団なんてやってたの…?
♂!♂!♂!♂!
一定時間叫ばせてからの体育館への移動。今回ばかりは廊下を走っても教師は怒らない。そもそももう体育館に移動が済んでいるから他に誰もいなかった。逆に走らないと俺達が怒鳴る事になっている。入学早々校則と矛盾させる真似をさせているが今日だけ特別ということで。
「くぁー、叫んだ叫んだ…」
章助は新入生の消えた教室で机に体を預け大きく息を吐き出した。その様子は疲れた、と言うよりはやり切った達成感に喜んでいるようだった。
「皆はもう自分の部活んとこ行っていいです。あー、借りた袴とかは昼休みに各自返して」
悠登がそう言うと有志達はそれぞれ着替えてから行くかそのままの格好で行くか話しながら出て行った。
「はー……」
A組から順にやらせたこの流れもやっと終わった。今頃A組の出席番号の早い者から対面式会場に入っただろう。ここからは俺達より廊下担当の狼塚達の方が忙しい。待ち時間に並ぶ新入生に大声で押忍と連呼するように怒鳴っている筈だ。
「俺達も行くか?」
「そうだなー…」
実を言えばあの先は部活陣営が重要なので居場所がないからあまり行きたくない。だが、ここでこっそり休んでいるわけにもいかなかった。
体育館の正面は今頃新入生が叫んでいるので俺達は外履きに履き替えて違う入口から入る。着替えてからでも良かったが悠登と章助は二人で体育館に向かった。
♂…♂…♂…♂…♂……
お兄ちゃんは私に気付いたようでしたが怖い顔をして何も言ってくれませんでした。私はそれがとても悲しかったのですが今日という異常な日です。もう、何があっても大抵の事では驚きません。帰ってから思いっきり甘えることにします。
先に教室から出て行ったクラスメート達が入口の前でやはり押忍連呼。この時点で既に男女関係無く皆が魅力的なハスキーボイスになっています。そもそももうオスだかモスだかアスだか、しっかり発音できているかも怪しい。けど、叫ぶのは止められないんです。まるで泳ぐのを止めると死んじゃうマグロみたいに。
少しずつ、ゆっくりと並んでいるクラスメート達が体育館の奥に消えていきます。あれは何でしょう。合唱コンクールの時とかに使うひな壇でしょうか。それが暗幕に包まれた入口の前で階段になっています。入学式の時はあんなもの、当然ありませんでした。
「押忍!押忍!押忍!」
「小ぃせぇぇぇぇぇぇえ!」
対面式会場である体育館間近、となっても入口までは遠く、今もなお私達は怒鳴られています。こんなに怒鳴られたのはお兄ちゃんとキャンディーボールでサッカーをしていて、誤って近くで洗車をしていたお父さんの頭に思いっきりボールをぶつけた時以来かな。
時間が流れてなんとか確実に前進していきます。入口の前にいる迫力ある先輩が体育館に入る前に何か耳打ちしています。皆が頷いて中に入って行きました。
何が起きるのだろう。今までを思うと不安しかありません。しかし、遂に、私の番が来てしまいました。
「いいか、入ったら名前とクラス、入りたい部を絶叫で言うこと」
「はい…」
はい、と言ったつもりでしたがへい、とかへあ、と言ってしまった気がします。しかし、とうにゲシュタルト崩壊した押忍以外の言葉を発する。数時間前まで当たり前に使っていた筈なのにそれがもう遠い世界のようです。
頷くと先輩二人が暗幕をめくって私を通してくれます。一瞬真っ暗になり、前につんのめりましたがここもまだ階段状になっていることに気付きました。一歩、二歩と進み、もう一枚の暗幕をくぐります。
いきなり照明で眩しい、と思うとそこで急に階段が終わっていて、今度は前に飛び出してしまいました。そこに広がっていた光景に私は身を固めました。尻尾も巻いたと思います。
「大丈夫ー?」
「よく来たー!」
「水泳部よろしくー!」
「え…?」
薄暗い体育館で自分だけ高い台に乗って、照明が私に向いていると理解するのにどれだけの時間を要したでしょう。私にスポットライトが当てられ、数百人の先輩が私を見て様々話し掛けているんです。俺達の部に入ってとか、私の身を案じるような先輩の声が聞こえてきます。
「お名前どーぞ!」
事態の把握に頭を働かせているとメガホンでそんな声が聞こえます。それが私に言っているのだとすぐに気付きました。
自己紹介をして私は前に進みました。台で作られたレールをとことこと。その間、左右両方から部の勧誘のチラシやら気遣いのお言葉を頂きます。
この達成感は何でしょう。これが、この高校の対面式なのだとやっとわかりました。高校デビューとか考えていた人はデビューなんて考え吹き飛んだのではないでしょうか。どんなに奥手な人ももう人前で叫ぶことに羞恥心なんて覚えません。皆が皆の前で絶叫する自分の声を聞かせ合ったのですから。
これでようやくこの高校の一員になれたような、そんな気がしました。喉は辛いけど、この瞬間は私がこの高校で主役になれたんです。
「こちらがこの高校の応援団長だ。団長と校旗に名前と押忍、絶叫!」
道の終点に着くと照明と校旗の前で仁王立ちしている誰かが私を高い台の上から見下ろしています。応援団長と紹介されたその人物は逆光で顔を見ることはできません。しかし、放つオーラというか重いスピリチュアルな雰囲気は先程まで私達に怒鳴っていた応援団員を下っ端に思わせるようでした。嘘です皆怖いですごめんなさい。
それでも今朝から今までの体験を思えば。そう思い、私は最後の絶叫に挑みます。
…ところで、暗くてよく見えなかったのですが端で皆が整列して何かを連呼していたように思えたのですが気のせいでしょうか。
♂
それでその後、新入生全員が揃うまでしばらくまた押忍連呼してもらい、揃ったら今度は校長のありがたいお話を正座で聞いてもらうことになります。最初のクラスの新入生は実に約二時間叫び通してもらうわけで、本当にお疲れ様です。
「あらー…あの子泣いちゃってるな…」
「うーん…」
悠登と章助は暗い体育館の壁に背を預け新入生が入ってくるのを見ていた。今入ってきた女の子はぐすぐす泣いてどこかの部の女先輩から送られる頑張ってコールに何とか頷いている。
「俺達のせい?」
章助はこちらを見ているが何とも言えない。毎年何人かはああいう女子もいるらしい。去年はあの洗礼を受けたのは自分達なので比較はできない。確認と注意もしたのだから直接ぶたれた、なんてことは絶対にないと思うが。
「さぁな…」
喉が潰れ、声にならない声で自己紹介する新入生を暗い体育館でも盛り上げる運動部。部員の少ない文化部は少しその後ろで新入生を見守っている。悠登はそこよりも離れた場所で章助の疑問をはぐらかした。
新入生も多種多様なもので、ずっと叫んでいただろうに元気に自己紹介し野球部に入部希望と高らかに宣言する者もいれば両手を挙げてわー!と叫ぶ女子もいた。こちら側から対面式を見るのは初めてだったから新鮮だ。
去年は祭に参加するだけだったが今年からは祭を作り上げていく。対面式の終盤、校長が場を和やかにしようとして言った駄洒落を聞きながらそれを少し自覚できた気がする。
その後は一部の有志を除く応援団員と生徒会長から各自新入生への歓迎の出し物や挨拶を披露。章助とコンビでやらされた漫才もどきは校長の駄洒落よりは新入生も笑ってくれた気がする。ただし、もう思い出したくない。台本を章助任せにはしない。
「よぉし、終わり」
対面式が終わって先に制服に着替えた頃には昼休みも半分過ぎていた。自分や有志の法被や袴を回収して片付ける。対面式で使った暗幕や台は午後から体育館を使う部の方で片付けてくれるそうで、朝の準備から引き続き申し訳ない。
「お疲れさん」
そう言って部屋の前で待っていたのは章助だった。
「先に戻ってていいって言ったろ」
「昼飯はお前と食った方が美味いだろ?」
誰かと一緒に、ならわかるがそこで俺を出してどうする。そうは思ったが今日は弁当を用意していた。帰るのは食べてからでいいだろう。
教室は既に掃除が終わって始業式の日と同じように残っている生徒はまばらだった。ただ、そこに明は残っていた。あと狼塚も。
「あ、獅子井君お疲れさま!縞太郎君も!」
教室に入るなり明が笑顔で労ってくれた。その笑顔だけで大抵の疲れは吹き飛ばせるような気がする。
「ありがとう…でも頑張ったのは新入生だよ。俺はあんまり」
口から出るのは素直な礼の言葉だけではない。新入生も本当によくやったと思う。
「うーん、そうだねぇー…去年私達も大変だったもんね」
悠登が着席しながら弁当を取り出す横で明は食べ終わったのか弁当箱を巾着にしまっている。すぐに鞄に詰めてそれを担いだ。都合良く今日も昼を一緒に、とはいかないらしい。
「じゃ、部活あるから先に行くね」
明は最後にそう言って手を振りながら少し慌ただしくしながら出て行った。自然と目は彼女の去った出入り口に向いてしまう。ちょっと残念だった。
「狼塚もお疲れさん!」
「……妹に見られた」
出入り口を見ている悠登の後ろで章助と狼塚が話し始める。弁当の蓋を開けながら悠登もその話題に加わることにした。
「章助が対面式で狼の女の子が出てくる度にアレが狼塚の妹かーって騒いでさ」
「見た限り五人くらいはいたよな!」
「そんなにいない」
「えー」
「時に狼塚、尻尾凝ってないか?」
「心配いらん」
そんな話をしながら昼食を食べて少しすれば狼塚も部活へと向かった。これ以上残ってすることもない悠登も帰宅しようと鞄を持つ。
「よーし悠登、帰るか!」
章助は俺と帰る気満々のようだったが片手を軽く挙げてひらひら動かし断る。
「俺、幼稚園に寄ってあの子を迎えに行かないといけないから」
そういうと章助の目が丸くなった。数秒して口を大きく開けて頷く。そこで見えてしまったが牙に海苔が貼り付いていた。
「はいはいはい!あの子…玲奈ちゃんな!もう春休み終わったのか」
あぁ、と頷いて悠登は教室を出る。章助も横に並んでいた。
「今日は始園式があるみたいでな。俺らと同じ、明日から本格スタートみたいだ」
昇降口で靴を履き替えながらそう教えてやると章助はわかったと答える。外に出ると既にグラウンドで野球部が元気に走りまわっていた。中には制服のままその様子を見ていたり、グローブ片手にキャッチボールする者もちらほら。早速体験入部や見学をしているらしい。
「てぇことはこれから毎日幼稚園に送り迎えするのか」
春の空を見上げながら章助が呟く。桜の花びらがちらほら舞い散る時期になってきた。
「俺の親、二人とも仕事してるしな。バス送迎を待ってもいられないし、最寄りバスを使うほどの距離でもないからな」
それに、玲奈も去年は父親と一緒に歩いて通っていたと言っていた。その後に自分の学校に行っていたと思うと大変そうだが、それに比べれば俺の負担は軽いものだと思う。
「じゃ、俺こっちだから」
「おう」
章助の返事を聞きながら、いつもなら右に曲がる交差点を俺は直進して横断歩道を渡った。そしてすぐにため息が出る。
「…なんでお前がいるんだ」
横にいる虎男を睨む。すると彼はニヤリと笑い自分の胸を叩いた。
「俺も一緒に行ってやるよ!玲奈ちゃんとは顔なじみだろ?」
そう言えば玲奈は先週章助が来た時も驚きはしたものの少し口数が多かった気がする。それは章助が精力的に彼女に話し掛けているということもあるのだろうが。
「物好きなやつだなー…」
それだけ言って二人で幼稚園へ向かった。通りを跨いですぐのところにあるので時間はそんなに掛からない。
着いた幼稚園は昔は淡いクリーム色の建物だったが今では少し目に痛いピンク色に壁が染まっていた。今日の朝、約十年振りに来たがあまりに変わっていたので最初自分の目を疑った。
「うぉ…なんだこの色」
章助も似たような反応をしたがまさにその通りだった。昔の面影をあまり感じさせない。カラフルな遊具も増えて逆に前と変わらない部分を探す方が難しい。
「……こんなに建物ちっちゃかったか?」
「俺達が大きくなったんだろ」
小さいとは俺も思ったが幼稚園児だった自分と今の自分。身長は倍とまではいかずとも目線はかなり違う。ジャンプしなければ届かなかった照明のボタンが今では簡単に届くのも時間の流れの中では当たり前のことだった。
「はぁ…鬣のなかったお前が今ではこんなにモジャモジャになって…」
変な言い方は止めろ。鬣の生えない雄ライオンなんて物足りないだろう。それにこの前切ったばかりだ。手入れだって怠っていない。
幼稚園児の頃の細いお前は、と言いながら章助と懐かしい話を繰り広げてもいいが玲奈を待たせている。幼稚園は午前で終わりと言っていたからそれなりに待たせたのではないだろうか。弁当は持たせたから昼は大丈夫、だと思う。
食べていなければ帰ってから食べさせるか。そう考えながらそろりそろりと園児の玄関横、職員室と直接繋がった職員玄関をそっと開けた。すぐに数人の先生がこちらに気付いてくれた。
「どうされました?」
可愛い熊のアップリケの付いた黄色いエプロンをした女の先生が玄関口まで来てくれた。愛らしい目をしたアップリケを見ているのに、あの担任の顔を思い出してしまうのは少し抵抗があるが既に洗脳されていると思い知らされてしまう。
「あの、楢原玲奈の迎えの者です」
そう言うと奥に座っていたこげ茶の猫頭をした先生の一人が立ち上がった。あの人は朝も見た気がする。
「玲奈ちゃんですね、今呼んできます」
そう言ってすぐに先生は職員室から出て行った。数分と待たずに玲奈が横の玄関から現れる。
「それじゃあ玲奈ちゃん、さようなら。気を付けて帰ってね」
「さようならっ!」
先生にしっかり挨拶して玲奈は悠登の横にやってきた。しかし、他の先生の目が少し変わったことに気が付いてしまう。
「あ…」
そうだ、今の事情を知らない者から見ればライオンの高校生が人間の幼稚園児と並んで歩くというあまり見かけない状況を作り出してしまう。
「……しばらくこの子を預かる事になった獅子井です。朝は時間が無くてご挨拶できませんでしたがこれからよろしくお願いします」
同級生にはなかなか自分からは言えないが幼稚園の先生となれば事情を話さないと怪しいだけだ。頭を下げただけだが先生方の返事も聞こえてくる。
「すみません獅子井さん。私の方でも玲奈ちゃんのお父さんから事情は聞いていました。他の先生方や親御さんには私からも説明していこうと思います」
「はい、お願いします。では失礼します」
もう一度頭を軽く下げて悠登と章助、それに玲奈は幼稚園から出る。すぐに職員玄関が後ろで閉まったのは聞こえていた。
「待たせてごめん。お弁当は食べた?」
悠登は玲奈の歩幅に合わせるべく彼女より少し後ろを歩いた。見ているとすばしっこく足を動かしているがやはり足の長さが違う。それに、前を見ているようで見ていない。後ろにも気を付ける様子はないし、子どもがここまで無防備だとは思わなかった。
「うん。たまごやきおいしかった」
玲奈はこちらを見て頷いた。ほら、後ろを向いて歩くと危ないぞ。
「そっか。……荷物、持とうか?」
少し砂糖を多めに入れてみたがどうやらお気に召したらしい。美味しいと言われれば作った甲斐もある。
「ううん、だいじょうぶ」
玲奈は再び前を向いて歩きだす。親に連れられて帰る幼稚園児は荷物を親任せにして自分は駆け回っていそうなイメージがあるがそれも偏見だろうか。
「なぁ玲奈ちゃん、俺のこと覚えてくれた?」
家に向かいながら坂道を歩いていると章助が玲奈の横に立って話しだす。玲奈もいつものように頷いていた。
「しょうすけのおにいちゃん」
玲奈がそう答えると章助は嬉しそうに耳と尻尾をピンと立てる。玲奈に彼の笑顔がわかるか疑問だが。
「そーそー!なぁ、悠登とはいつも一緒に風呂に…」
「おらっ!」
屈んで玲奈の耳元で何を言うかと思えば。悠登は最後まで言い切る前に章助の後頭部に一撃叩き込んだ。
「……殴られたとこ、ちょっと腫れた気がするんだけど」
「氷やるよ。だから帰れ」
そしてまたもまっすぐ帰ることなく悠登の家に来た章助。他に行くところはないのか、と思いながら玲奈と一緒に録画したディスチャージ仮面を見る彼の頭に小さな氷の塊を押し付ける。
「これ意外に面白…って、冷たっ!直でやるか普通?」
氷の冷たさに驚きながらもそれを受け取る章助。親が建築現場で働いているから冷湿布もコールドパックもあるのだが、彼がそれでいいと思っているなら黙っておこう。
「どうしてたたくの?」
ふと、玲奈がこちらを向いてそう言った。う、と声を詰まらせたが一度落ち着いて考えれば何ということはない。
「コイツがヨコシマなことを考えてたからだよ。それに、コイツは殴られるのが好きなんだ」
そう教えてやると玲奈が隣の章助を見る。氷が解けて手を濡らしながら章助がこちらを向く。
「お前に叩かれるのは好きだけど痛いもんは痛いんだぞ?」
しれっとあまり聞きたくないことを聞いた気がする。どこに本当に叩かれ蹴られて喜ぶやつがいる。しかもそれが幼馴染だとすればショックも大きい。友人としてそれを冗談だと思うことにした。
「たたかれるのがすきならそれははんせいじゃなくてごほうびになるんじゃない?」
「ぶほっ」
何とか流した次の瞬間、玲奈の一言に悠登は咳き込んでしまう。園児の口からそんな発想を聞けるとは思わなかった。
「はっはっは!玲奈ちゃんの言う通りだな!」
「じゃあもう課題見せないとか家に入れない、の方が効くか?」
「ごめんなさい」
効果は抜群だった。お前の話をしているのに他人事のように話しおって。しかし、反省にならないなら意味がない。それは的確だった。
「じゃあ玲奈ちゃん、またディスチャージ仮面見せてな!」
「うん!」
氷を溶かし切ってから帰る章助の後ろ姿を見ていると本当にディスチャージ仮面に興味を持ってしまったと思う。アイツもテレビ見るのは好きだしな…。
☆
翌日から玲奈の幼稚園と悠登の授業が本格化した。朝は七時半頃から幼稚園で預かってもらう子もいるということだがそこまで早く預けることはしない。しかし悠登の通学時間に合っていると思うと安心した。
「そこで音を上げていぃー!って伸ばすんだよ」
「いぃーでーたちー!ってことですか?」
「うんうん、そんな感じ」
地獄のような対面式から一日だけの平穏。それを終えた今日から更なる地獄、応援歌練習というものが始まってしまう。新入生にとってはこの一週間をひっくるめて地獄に付き合ってもらうことになる。
応援歌練習、その名の通り応援歌を練習してもらう。この高校に伝わる応援歌と応援の手振り等を団長と副団長を筆頭にクラスを二手に分けて昼休みと放課後にみっちりと。当然、対面式と同じような状態で。
しかし、唯一の例外がある。それがこの朝練というものだった。八時までの間は先輩後輩として普通に接し、優しく丁寧とは言わずとも聞かれたことにはしっかり答えている。怒鳴らず。
「ありがとうございます!」
応援歌練習と言うが応援歌は覚えている前提で進められる。入学前に渡されたCDを聞いて、歌詞カードで校歌をまず把握。そして入学してからは生徒手帳に書かれているそれぞれの応援歌を暗記。覚えていないことがバレたら両手をしばらくの間挙げてもらうことになる。結局それは全員が体験することになってしまうのだが、それはまた別の話。
「ここはどうなっているんですか?CDだとちょっとわかんなくて…」
「そこは…」
校歌や応援歌の収録されたCDだが、実はあまり役に立たない。毎年この高校で録音したものを渡しているのだが、全校生徒で叫んでいるものを録っているため音程把握に向いているとは言えない。そう、実は悠登も既にCDデビューしていた。むろんメジャーではない。
CDはかろうじてギリギリの音程で叫んでいるだけ、生徒手帳にあるのは歌詞だけ。これで応援歌を把握するのは残念ながら難易度が高い。そのため応援団では応援歌練習の間は参加自由ではあるものの体育館での朝練を勧めていた。今年は思いの外参加してくれる新入生も多い。
「狼塚、そろそろ教室に戻らないか」
朝の和やかな応援歌練習を終え、新入生が教室に戻っていくのを見送る狼塚に話し掛ける。本当に律義に朝連まで手伝ってくれるとは思っていなかったので逆に先日は申し訳なくなってきた。無論、一番忙しい放課後は手伝えないともう言われている。
「そうだな」
手振りを教えていて変形した制帽の形を整えながら狼塚が頷いた。章助もその間に切り上げこちらにやってきた。
授業は去年と同じように流れる如く、遠慮なく進んでいく。数学の時間ではジャンボに今日は回答を差されないと読んだ野球部は部活に備え寝て、物理の時間はバスケ部がうとうとと頭を揺らした。授業の変化と言えば現代文の担当が変わったくらいか。去年もあの先生だったと愚痴っているやつもいたっけ。
「遅ぇぇぇぇえ!」
昼休みになると新入生が今度は自由参加ではなく強制で応援歌練習に集められる。入学したての期待膨らむ昼休みや休み時間。友人を作る一番の機会を彼らは早弁に潰され、生徒手帳を睨み頭に焼き付けることに費やされる。新入生は否応なく最初は生徒手帳と戦友にならねばならなかった。
「そうじゃねぇえ!今教えたばかりだろうが!」
暗幕で明かりがほとんど入らない暗く狭い教室に押し込められることで与えられる心理的圧力。応援団や有志が横に来る度に新入生には緊張が過る。その上耳元で怒鳴られればたまったものではない。頑張り抜いて見返してやる、と目に光が宿っていた生徒も段々と疲労に濁っていくのはこちらからも見ていても胸が痛む。
昼は昼休みの間だけだが放課後の応援歌練習は遠慮なく一時間半。出来が悪ければ追加され、スムーズに進もうと時間が短くなることはない。それが一週間続く。新入生の大半がこの時点でこの高校を選んで失敗だったかもしれないと疑い始める。
「今日の応援歌練習は以上!したぁっ!」
団長に応じるように最後、全員がした!と叫ぶ。ありがとうございました、の意が込められた挨拶を終えるとやっと新入生は日常に帰れる。これが最後、と思えばこそ出る踏ん張りの絶叫。皮肉にもその日一番の一体感を生む瞬間がこの時だと思う。
「した!」
「した!」
ただ、その後の新入生が応援団や有志に挨拶して帰っていく表情は達成感や安堵感に満ちていた。皆がいなくなってからの団長の表情も若干だが緩む。
「ちょっと今日は予定より進まなかったな…。できればもう一つ教えたかったんだが…」
疲れているのは何も新入生だけではない。それをリードする団長もまた汗だくになりながらも全力で何度も機械のように手振りを徹底して行っている。
「でも一年生も頑張ってくれている。俺達も負けないようにしないとな」
しかしその疲れを感じさせないように団長は明日の予定を軽く修正する。明日は昼にやる予定だった前日の確認を少し短めに終わらせることになった。
「今日から応援歌練習が始まった。これはこれで、皆も大変だと思うが明日からもよろしく頼む。…した」
有志の一人一人を見てした、と団長が言えばもちろん全員でしたと返す。この後団長は副団長の方と合流してそれぞれの進行具合を確認するみたいだ。
「……さて」
俺も玲奈を迎えに行かないと。若干、汗ばんだ法被は今晩消臭剤を少しかけておこう。
「さー、玲奈ちゃんを迎えに行くぞ!」
「………あぁ」
誰もいない教室で制服に着替えて帰ろうとすれば副団長側を担当していた章助に捕まってしまう。特にそれを拒否する理由はないのだが彼の張り切り具合に頭の中で疑問符が浮かんだ。
「なぁ、お前って子ども好きなのか?」
袴を脱いでそれを畳んでいる章助に直球で聞いてみる。
「あ?そりゃあ嫌いじゃないけど…なんで?」
答えを聞くだけでなく法被を脱ぎながら章助に聞き返された。ところでその肩甲骨、どうすればそうなるのだろう。
「いや、昨日も一昨日もついてきただろ。用事もないのにさ」
ワイシャツに腕を通す章助にこちらも答えると彼はあぁー、と声を出した。
「暇だしさ」
その程度の理由だったか。深く考える必要はなかったらしい。
章助の着替えを待って幼稚園に向かう。冬至が過ぎて数カ月、陽はだいぶ長くなってきたが歩くうちにも空は少しずつ暗くなっていった。
「どうも、獅子井です」
「玲奈ちゃんですね。すぐ呼んできますので」
幼稚園に着いて先生とのやり取り。これも少しずつ慣れていくしかない。
「玲奈ちゃん、さようなら」
「さようなら!」
章助が幼稚園の遊具を楽しそうに見ている横で軽く頭を下げる。そう言えばもう、自分の知っている先生が一人もいなくなっていた。
「なぁキックスクーターで遊んだの覚えてるか?あれ全部新しくなってんのな!」
帰り道、遊具をチェックしていた章助は幼稚園の門から出てすぐにそんなことを言ってきた。そう言われれば遊んでいた気がする。
「俺、年長の時に新しく増えたキックスクーターのデザインが気に入らなくてずっと古い方に乗って遊んでたな」
「俺もそうだなぁ」
幼稚園に通っていれば自分の古い記憶も蘇ってくる。すると玲奈がこちらのズボンを引っ張った。
「どうかした?」
「ようちえんじだったことあるの?」
少しグサッと刺さる事を言われた。それを聞いて章助が吹き出した。
「ぶはっ…!はは…ははは!うん、そうだよ!はは、はははは!」
笑い過ぎだ。腹を抱える章助を肘でつついたが笑い止む様子はない。
「だってよぉ…。あ、玲奈ちゃん。俺達、玲奈ちゃんと同じここの幼稚園に通ってたんだよ」
その話はしたことがなかったっけ。玲奈はそれを聞いて驚いているようだった。
「そうなの?」
「うん、まあ」
だからどうだとも言えないのだが。建物の色も、今の園長も違う。玲奈の担任も悠登とはそこまで年齢差を感じない。
「あ、だったら卒園アルバムとか見ようぜ!」
急な章助の提案にすぐに顔を渋めた。
「なんで」
「いや、こういう時じゃないと見ないだろ?な?」
わざわざ闇に置いてきた物を引っ張り出す気か。そう思った時に横にいた玲奈と目が合ってしまっていた。
「みたい…」
「……わかった」
結局断れなかった。それを章助に笑われたので彼の足を踏ん付けておく。
帰宅してまずは風呂の用意。その間に玲奈は居間でテレビのスイッチを入れ、章助は俺の部屋からアルバムを取りに行った。
「あぁ、どこに何があるかは知ってるから任せとけって」
そんなことを言っていたが何故把握しているのかは聞かないでおいた。
「あったぞーぃ!」
本当に迷うことなく持ってきたのが怖い。小学生や中学生のアルバムは持ってきていないようなので少しだけ安心する。
「俺もどこにやったか忘れてたのに…」
「ちゃんと把握しとけよー?」
注意までされてしまった。悪いのは俺か?
「みせて!」
玲奈は章助の手からアルバムを受け取るとすぐに床に置いてそれを開いた。まず年長組全員が写った写真でページを捲る手が止まる。
「懐かしいな…」
自然に苦笑いが浮かんでしまう。そもそも懐かしすぎて半分他人事のように思えてしまう。そのくせ見られたくないという気持ちも入り混じっているのだから収まりが悪い。
「ほら、玲奈ちゃんこれ!これが悠登で、隣が俺!」
すぐに自分を見つけ章助が指差す。玲奈もすぐにその指の先に目を向けた。
「ちいさーい!」
そりゃあ、十年以上も前なので。玲奈は楽しそうに若干端の方で幼稚園児の悠登が章助に抱き付かれている写真を眺めている。
「よぉし次は…これだっ」
次に章助が見せたのは各クラスの写真。クラスの集合写真の周りに個人写真が並んでいる。
「玲奈ちゃんはひらがな読めるの?」
「うん!」
「そっか。じゃあ俺や悠登はどこかわかるかな?」
こうして見ていると本当に章助は子どもの扱い方に慣れているような気がする。そう見えるだけで実際は同レベルで楽しんでいるだけのようにも見えるのだが。
「これ、しょうすけおにいちゃん」
「正解っ」
とらさわしょうすけ、と書かれている上の写真に当時の章助が写っていた。目がまるっと大きく、線もずっと細い。今と比べれば当時の可愛らしさは微塵も感じられず、時の流れは残酷で非情だと言わざるを得ない。
「えーと…」
次は悠登の名前を探しているようだった。悠登は既に右端にいる当時の自分を発見したが玲奈が見つけるまで黙って見守る。アルバムの名前をなぞる手が自分に少しずつ近づいていくのは見ていて少しスリルがあった。
「……これ!」
見事ししいゆうと、のところで指を止め玲奈が顔を上げた。
「うん、それだよ」
悠登が答えると玲奈が笑顔を見せる。そんな彼女を見てこっちまで表情が柔和になった。
「やったぁ!」
喜んで玲奈はアルバムに目を落とす。しかし、写真を見た途端にその表情が曇った。あれ?
「……け、ないね」
アルバムと俺を見比べて玲奈はそう言った。彼女の言うけ、が鬣を意味していることはすぐにわかった。
「そうなんだよぉ…。昔は鬣なかったんだよなぁ。くうー…幼稚園児の悠登も可愛い」
章助は何だか悔しそうに意味のわからないことを言っている。それを無視して悠登は玲奈に視線を戻した。
「普通俺達は中学くらいまで生えないんだ。だからこれは間違いなく俺だよ」
そう教えてやったが玲奈はどこか満足していない様子だった。もう他に証明する方法はない。
「じゃありゅうせいくんもそのうちはえるの?」
「りゅうせいくん?その子、ライオンなの?」
玲奈が不安そうな顔をしながら頷く。しかし相手がライオンだったら話が早い。
「普通ライオンの男の子は皆生えるよ。親父も生えてるだろ?」
「そうなんだ」
玲奈の顔がホッと緩む。その方が良い、ということだろうか。
「なぁ悠登、これ写メっていいか?」
「せめて自分の家でやれ。お前もあるだろ」
玲奈と話す横で携帯電話を取り出す章助の手を掴む。そんなもん撮ってどうするつもりだ。
「あ、これ。懐かしー!」
ぐいぐい章助の手を引っ張っていたが不意に彼が手を止めた。何が、と思い悠登もアルバムに目を落とす。
「ほら、これ!」
「これ…」
章助がとんとん指で叩いて示した園児服を着たわんこの写真。その下においのづかとおる、と名前が書かれていた。
「狼塚…!?」
驚いて思わずアルバムを両手で持ち上げてしまった。
「あれ、お前狼塚のこと覚えてなかったのか?」
章助は頭の後ろで手を組み俺を見ている。コイツは覚えていたのか。
「ほれ、桑野もいるだろ?」
「えっ!」
桑野、と聞いて悠登は再びアルバムを見つめる。すぐにくわのめいちゃんを発見した。
「ほ、本当だ…」
知らなかった。中学で初めて会ったものとばかり。この事実を今の今まで知ることなく過ごしてきていたとは。
アルバムを再び置くと玲奈は園児全体での集合写真を見始める。その中にも俺と章助、更には狼塚だけでなく明も写っていた。
「…………」
「どうかしたか?」
しばし、明の写真を見ていると章助が俺の顔を覗き込んできた。すぐに俺は首を振る。
「いや、懐かしいなと思って」
そうは言うが明達のことは思い出せない。しかし、幼稚園児時代のめいという少女の顔はおぼろげながら見覚えがある気もする。その気持ちを大事にしたかった。
幼稚園が一緒で、更に最近は毎日顔を合わせているのだ。記憶がこんがらがっているんだろう。悠登はそう思うことにしてしばし三人でアルバムを眺めた。意外に高校の同級生が何人も出てきて驚いてしまう。世間は狭いと言うか、何というか。
♀♀♀
朝七時十五分。両親の弁当作りに追われて早起きはお手の物になっていた悠登からしてみればこの時間はそれほど早くない。弁当を作るようになってもう五年近く、ようやく手際は良くなった。手の込んだものを作る余裕はこれから身に付けていけたらと思っている。譲司の好き嫌いの克服が悠登の弁当作りにおける近年の目標だった。
故に悠登はこの時間にはすでに体も頭も覚醒していた。一方で玲奈はまだ眠そうにしているのでそんな彼女を連れて家を出るのは心苦しい。こちらの朝練の都合に合わせて早く起きてもらい慌ただしく連れ出すのだから。
「忘れ物ないよね?」
「うん」
だからせめて歩く速さは急がせないようにしている。遅くに起きて慌てるか、早くに起きてマイペースで行くか。前者が身に染み付くと良いことがない。いつか必ずすんでのところで間に合わない場面に遭遇する。だから朝のうちは辛いが早めに玲奈には寝てもらっていた。
「おはよーございます!」
「玲奈ちゃんおはよう」
幼稚園に着くのが七時半前後。先生に会えて喜ぶ玲奈を預かってもらう。先生の横を通り幼稚園に向かう玲奈の足取りは軽かった。
「あら獅子井君、おはよう」
「……おはようございます!」
その後は小走りに学校へ向かい、応援歌の朝連に向かう。玲奈をゆっくりさせた遅れはこちらで取り戻したかった。
しかし、悠登に後ろから話し掛けてきた人物の声を聞いて一拍、間が生まれた。振り向けばそこには幼児が二人、おば…年上の女性三人。
「今日もお疲れ様」
「いえ。通り道ですから」
髪を茶髪に染めたママさんがそう言って笑いかけてくれる。その間に彼女の横にいた子は幼稚園に向かっていく。
ライオン獣人の母親、犬獣人の親子、そして今お疲れ様と言ってくれた人間の親子。ここ数日、時間帯のせいか必ず会うグループである。獣人高校生の俺と玲奈の組み合わせのせいかすぐに覚えられてしまった。
「ねぇ、獅子井君。今あなたの通ってる高校って応援歌練習の真っ最中でしょ?」
ライオンマザー、獅子ヶ谷さんはいきなり悠登が抱えている話題を振ってきた。彼女は高校生の母親ではないので、その情報をどこから仕入れているのか出所が読めない。
「えぇ、そうなんですよ。これから俺も朝連で」
そう答えると母親達は一斉に顔を見合わせた。
「ほらー!言ったでしょ?あそこはもう入学してすぐに応援歌練習始めてるって!」
獅子ヶ谷母が得意げに言うと他二人もほんとー!なんて言ってキャイキャイ騒ぎ出した。その間に俺は彼女達の横をすり抜けようとする。
「あら、ちょっと待って。獅子井君、一昨日自分は二年生だって言ってなかった?」
犬ママの一言にざわめきが止まる。そして彼女達の視線が俺を捕まえた。
「二年生なのに応援歌練習するの?」
その質問を投げ掛けながら茶髪母様が俺の手首を掴んだ。あの、離して下さい。
「俺、応援団に入ってるんです。これから朝練もあって」
やむなく答えると手が離れた。今度からは捕まらないようにしないと。
「あら、そうだったの?ごめんなさいね、引き留めちゃって」
「もう…若い子がいるからってがっついちゃダメよー?」
「だってあの尻尾の房毛が可愛いじゃない?」
「それなら私のもあるわよ?」
母親達が機関銃のような勢いで言霊をぶつけ合って笑う様子に固まりながら悠登はじりじりと後ろに下がった。彼女達の輪に加わるのは悠登にはまだ早い、と肌が感じ取っている。
「ねぇれーなちゃん、なんでいつもあのライオンのひとといっしょなの?」
よし、今日は初めて会った時よりも質問責めにならなかった。おば…目上の人に自分の情報を開示するのは少し怖い部分もあったがある程度話さなければならないことは言うべきかもしれない。
ここでの振舞い方についても考えねば、と思っていると園児の声が聞こえてきた。犬の男の子だ。獅子ヶ谷さん以外の名前はまだ実は知らない。
「あ、あのね…」
あらゆる策を講じていると玲奈が犬の子と小さい声で話をしている。ここからでは彼女の声は小さくて聞こえない。
犬の子の質問は聞こえたのでその様子が少し気になったが携帯を見て時間が推していることに気付いた。たどたどしいかもしれないが説明している玲奈にこちらから割って入らなくても伝えられると思う。
悠登はそのまま小走りで応援歌の朝練に向かった。十分以内には着けたが昨日よりは遅くなってしまった。だからどうということはなく、もちろん授業に遅刻というわけでもない。
「悪かった、狼塚!」
「俺は気にしてないんだが…」
だが、狼塚はもちろん有志には自分のいない分を繋いでもらっていたわけで。新入生数人に囲まれるようにして応援歌を教えていた狼塚に朝練が終わった後に謝った。
「何か用事でもあったのか?」
聞いてきた狼塚の尻尾が一度揺れた。それに目を奪われながらも悠登は彼に答える。
「ちょっとな…。次からは気を付ける!」
朝練後の短い時間で彼に説明するのは難しい。それに、事情を話して変に気を遣われたくなかった。だから次はこうなるまいという意志を表明するだけで終わらせてもらった。
「わかった。じゃ、次に遅れたら飲み物一本奢ってもらおうかな」
狼塚は初め、明らかにまだ何か言いたそうにしていたが冗談っぽくそう言うと尻尾をのんびり揺らしながら先に教室へと向かう。その尻尾を見るために悠登は敢えて彼と並んで歩くのを止めた。
「声出せぇぇえ!」
「昨日よりも小さくなってんじゃねぇかぁ!」
応援歌練習も始まって早いもので数日。今日が終われば土日を迎え、新入生は二日間だけ喉を休めてレベルアップした状態で残りの応援歌練習に挑める。
しかし、その二日を休むだけに費やせば確実に金曜日よりも劣化した状態、最悪の場合はせっかく積み上げてきた応援歌の歌詞や手振りを忘れてしまうということも有り得る。そしてそれを思い出すまでにまた時間が…と、休むことは必ずしも得策と呼ぶことはできなかった。
「腕はしっかり伸ばせぇ!」
そのため新入生は明日からの休みのため、応援団は忘れさせないため、それぞれがそれぞれの思惑を交錯させながら気合を入れて声を張る。怒鳴られたくなければ覚えれば良い、声を出せば良い。それこそこの応援歌練習という荒波を足掻いて航海する唯一無二の方法だ。こちらは決して華麗にサーフィンする余裕は与えない。
「う……」
今日の練習も延長さえなければ残り半分。出席番号で当てられた新入生も今のところ歌詞を間違えることや覚えていないということもなく、一人で歌わされたとしてももっと声を出すよう怒鳴られるのみ。それは有志達の間でも頑張っていると話題になっていた。
しかし、悠登が新入生の列と列の間を歩いているとある女子生徒の体がぐらりと揺れる。
「おっと!」
すかさずに悠登がその女子の肩を掴んで支えた。すぐに新入生達にざわめきが広がる。
「大丈夫か?」
静かにその女子に声を掛けると呼吸を乱しながら頷いた。それも首が落ち着かないだけで本当に頷いたかわからない。その間に新入生達も姿勢を崩しこちらを見ている。
「うるせぇぇぇぇえ!」
だが、そのどよめきも団長の一喝でピタリ、と止む。
「誰が姿勢崩して良いって言ったぁ!」
そう怒鳴った次の瞬間には列が整い、練習前と同じように緊迫した沈黙に薄暗い教室が包まれる。聞こえるのは悠登の腕の中で苦しそうにしている女子の呼吸音くらいだった。
「獅子井、保健室」
「はい!」
団長はそれだけ言った。俺が返事をするとすぐにまた練習は再開される。
「次、B組出席番号三十一番!勝利賛歌二番を絶叫!」
「押忍!」
そんな声を聞きながら女子を引きずるようにして応援歌練習の教室から悠登は保健室に向かう。吐き気はしないか聞いたが大丈夫です、とか細い声で新入生は答えた。
「失礼します」
階段をふらつく女子に合わせてゆっくり下り、俺は着いた保健室の扉を開ける。微かに鼻をつく消毒薬の匂いにこの部屋は教室とは明らかに違う雰囲気を持っていた。新校舎でも旧校舎でも、身体測定は体育館でやっていたし掃除も担当になったことはない。
こうして考えると保健室に入るのは今日が初めてだな、と思い一歩保健室に足を踏み入れて先客がいたことに気付く。それが誰かわかって悠登は目を見開いた。
「あら、応援団の…。どうかした?」
白衣を着て髪をアップにした女性の養護教諭がこちらを向いた。一瞬頭が止まった悠登もすぐに横にいた女子を中に入れてやる。
「すみません、この子がちょっと貧血になったみたいで」
「脳貧血かしらね。とりあえずそこに寝かせてもらえる?」
先生に言われるまま悠登は入口からすぐのベッドに女子を寝かせた。先生もすぐに立ち上がってベッドの方へやってくる。
先生が女子と話をしている間に悠登は先程まで先生が使っていた椅子の方へ移動する。そして、その椅子の前にあるソファに座っていた人物の前に立った。
「獅子井君…」
そこにいたのはユニフォームを着た明だった。むき出しの右膝に大きな絆創膏を貼っている。
「それ、どうしたの?」
明の膝を指差すと彼女は恥ずかしそうに笑った。
「あはは…。ちょっとテニスコートで転んじゃって。大丈夫、大丈夫!」
言いながら片目を瞑りつつ足を動かす。血も滲んでいるのだからまだ痛むだろうに。
「部活の怪我か…。その、お大事に」
どう返したものか迷ったがお大事に、が一番だと思った。本人は至って元気そうだが。
「ありがと!ところで獅子井君、今の子…」
先生の背に隠れて見えない女子を見ようと明が体を揺らす。
「貧血でふらっと倒れちゃって。俺が近くにいたから連れてきたんだ」
そう答えるとふーん、と明が鼻を鳴らした。そしてこちらに顔が向く。
「厳しくし過ぎなんじゃない?」
「こっちだって気を付けてるつもりなんだけど…」
明が少し楽しそうに笑う。からかわれていることくらいわかっていた。二年生、三年生から見れば今の期間は新入生に頑張れよ、と言いながら憐れむように生温かく見守る時期と言える。俺達や有志のように再び参加することがなければ既に思い出として済ませてしまうのだ。
「あ、桑野さん」
「なに?」
思い出、という単語で思い出す。先日見た幼稚園のアルバムに明や狼塚が写っていた。あまり覚えていない自分が言うのもどうかと思うが彼女にも聞いてみたい。意識したものじゃないがこうして二人で会話ができているのだから。休憩時間や昼休みに新しい級友と話せないのは何も新入生だけでなく、有志達や悠登も同じだった。
「ちょっと確認したいというか気になっただけなんだ。…この前章助がさ、幼稚園のアルバムを引っ張り出してきたんだけど俺達って幼稚園一緒だった…よね?」
しばし横になる女子の方を見ていたが質問し終えて明の方を見る。彼女は座ったままこちらをじっと見ていた。その視線に驚いて俺はキュっと口元を引き結ぶ。
「うん、そうだよ!そっかぁ、縞太郎君達も覚えてたんだ」
心なしか嬉しそうな明の笑顔に心臓が跳ねた。薄い法被の上からでは毛皮越しとはいえ自分の鼓動が大きくなったことにもすぐ気付く。相手に気付かれないか、それも心配だったが落ち着くまで悠登もここで休みたかった。もっとも、明がいては落ち着きようがないだろう。
「昔トォちゃんや真衣と話したこともあるんだよ?あのライオンの子としましまの子はいっつも一緒で私達みたいだね、って」
「しましま…はは…」
その頃から章助とセット扱いされていたのか。それに、その頃から狼塚と話をしていたんだ。新たに知った真実に少し動揺していると明が立ち上がった。
「話してたいけど私…そろそろ戻らなくちゃ」
明との距離が近い。思わず悠登は一歩身を引いてしまった。その間に明はソファの横に立てていたテニスラケットを片手に保健室のドアへ向かう。
「あのさ…。適度に、頑張って」
明が保健室を出る直前、悠登はそれだけ言った。それを聞いた明が最後にこちらを見て、また笑う。
「適度に…そうだね、ありがと!獅子井君も適度に頑張ってね。その格好、似合っててカッコ良いよ。じゃあ、失礼しました!」
明が先生に一礼して出て行った。悠登は明の去ったそのドアをしばし見つめてしまう。
頑張ってと言われた。似合ってると、カッコ良いと言われた。それを明に。聞き間違いなく。
「この子は少し横になっていれば大丈夫だからあなたも戻っていいわよ」
「ばうっ!…げほ、わ、わかりました…お願いします。……失礼しました…」
危うくその場に人がいるのを忘れて叫んで飛んで喜びそうになった。その前に止めてもらえて良かったと思う。見られたらしばらく立ち直れない。
驚いたり慌てたり興奮する己を自制しつつ保健室を出た。もう廊下に明の姿はない。
いきなり動いて怪我を悪化させねばいいがと思いながら悠登は応援歌練習に戻る。自分の中につかえたもやもやもあそこで叫べば少しは晴れる気がした。
「最後まで声出せぇぇぇい!」
応援団や有志の怒号はまるでストレスの捌け口として新入生に当たり散らすような真似をすることになるが決してそんなつもりはない。この日の応援歌練習は悠登も一段と気合を張って最後まで突き進めた。カラオケで叫ぶと気が晴れる、と言っていたクラスメートがいたがそれを初めて実感したかもしれない。叫ぶのが、心地好かった。
「………」
応援歌練習と同時に今週の学校も終わる。やっとやってきた休日前の夜。ちょっと夜更かししたくなるそんな夜に風呂上がりの悠登は居間で授業の課題に取り組んでいた。まずは古文。
本来自分の部屋がある悠登は夕食と風呂を済ませば自分の部屋で勉強や筋トレなりテレビを見て過ごしていた。しかし、玲奈が来てからは彼女の就寝の早さに合わせて起こさないようにと悠登は居間で過ごすことが増えるようになる。悠登の方は毎度夜中にトイレに起こされているのだが。
「悠登ぉ~…」
ごしごし。親父の顔が俺の顔に押し付けられる。
古語辞典を引きながら今日の応援歌練習を思い出す。昼休みの帰りに副団長を見つけたので彼に進行状況はどうか聞いたら少し手振りを失敗して笑われたらしい。それでまた失敗して笑われたらどうしようと悩む副団長を励ました。彼の努力と真面目さ具合は知っている。だからこそ彼は悩んでしまったのだ。
「うぉぉ~ん」
ごしごし。ごしごしごし。親父が俺の顔を今度は押さえて顔を擦り付けてくる。
辞書に書いてあった古語の意味を書き写しながら思い出す放課後。あの倒れた女子も帰りに保健室に寄るとすっかり具合も良くなっていた。例年対面式の厳しさに泣き、応援歌練習で倒れる生徒がいることは知っていたし、去年もそんな人がいたと思う。それが自分の目の前で起きたことには驚いたが、倒れる前に間に合って良かった。
「悠君ってばぁ~…」
「だぁぁ!さっきからうるっさい!」
そして、保健室で明と過ごしたひと時…。それを思い出す前にごしごしと自分の顔を休むことなく押し付けてきていた親父を俺は張り倒した。親父はその巨躯に似合わぬ勢いで簡単に床に横になる。
「いだい…」
そう呟いて譲司はなかなか起き上がらない。そこまで強くしたつもりはないのだが。
「はぁ…。息子が学校の課題してる邪魔すんなよな…」
そう言った途端むく、と親父は体を起こした。その顔に張り付けられた表情は怒りというよりむくれる子どものように見える。
「なんだ悠登よ、知らないのか?パートナーのいないオスライオンはこうして顔をすりすりし合って互いに寂しい気持ちを慰め合うんだぞ?」
「アンタにゃ妻がいるだろうが…」
変なことを言い出す譲司を一瞥してノートに目を戻す。しまった、どこまで書いたんだったか。それを思い出すように教科書とノートを見比べながらシャーペンのノックボタンをカチカチ押して芯を出す。
「あぁ、俺には今でも仲良しのハニーがいるよ?けどお前には高二にもなって彼女の一人もいないじゃねえか」
ノートに芯を押し付け課題に戻ろうとした瞬間、譲司の言葉を聞いてボキッと芯が折れる。それは悠登の心の寛容さが折れる音にもよく似ていた。
「そんなの余計なお世話だろ!それに俺には…っ!」
俺には好きな人が、と言う前に口を閉じることができたのは幸いだった。ただ、言いかけた段階で譲司の好奇心は既にくすぐられていた。
「俺には何だ?片思い?三角関係?禁断?ねぇ、ねぇねぇ!」
譲司はすぐに起き上がると耳と尻尾を立て、目と牙をぎらぎら光らせながら悠登にじりじり近付いてくる。その姿はまさにケダモノにしか見えない。自分も鏡を見ればそんなこと言えないが。
「俺には…俺には…その…ほら、あの子がいるし」
咄嗟に思い付いて悠登は自分の部屋の方を指差した。すると譲司の動きも止まる。
「玲奈ちゃん、か。お前から見てどうだ?」
すぐに譲司は察してくれた。しかしその顔からふざけた様子が消える。
「どうだ、と言われても…」
意外にもこの話題を続けようとする譲司の漠然な質問に言葉を濁らせてしまう。向こうはいつもほとんど俺任せなのに。
「お前にばっかり任せてるだろ?平日は寝る前にちょっと話すくらいしかできないし。それは悪いと思ってるんだよ」
悠登の考えを読むように譲司が耳を畳む。顔に出ていたかな、と頬肉を持ちあげてみたがよくわからない。
「……良い娘だとは思うよ。あの子は買い物に連れてってもお菓子をねだりもしない。テレビ見てる時しか騒がない。好き嫌いも言わずに子どもらしくないってくらいにしっかりしているというか…」
親父の質問に教師の子だから、他人だから等々、考えてしまう。そんなこと、絶対に玲奈には言えないのに。
譲司は顎下の鬣を触りながら悠登の話を黙って聞いていた。こちらが言い終えてから触っていた手を膝に置く。
「たぶん、遠慮してると思うんだよな。玲奈ちゃんも言いたいことがあると思うし、寂しいって思ってる筈なんだ。来た日以来、父親に電話しようともしないんだぜ?」
呟いて唸る譲司に悠登もペンを置いた。顔だけでなく体も一度彼に向ける。玲奈が父親と連絡を取っていないというのは初めて聞いた。
「なぁ悠登。お前は玲奈ちゃんがいるって言ったが…。それは勝手に引き受けた俺のせいで仕方なく、なのか?」
譲司の言葉に悠登は声を詰まらせた。黙っている間も彼はこっちを見ている。
「俺はさ、一年間だけかもしれないけど玲奈ちゃんに寂しい思いをさせたくないんだ。あんなに小さいのに母親も父親も仕事ばかりだろ?」
「……そうだな」
子どもを優先して仕事を放棄するのも、仕事を優先して子どもに寂しい思いをさせるのも、両方正しいとは言えない。それを間違っているとも言えなかった。そんなの、玲奈の父親との話でわかっていた。
「だから、この家にいる間は玲奈ちゃんにはあったかい気持ちでいてもらいたい。俺も涼も仕事はあるが休みはなるべく玲奈ちゃんと一緒にいたい、って思う」
その言葉に嘘はないと思っている。事実として悠登の母、涼は今でこそOLだが悠登が生まれたことを機に一度は仕事を辞めて長い間専業主婦になっていた。
「……それで俺にどうしろって?」
親父の言っていることはわかる。ただ、言いたいことがまだ読めなかった。
「お前さ、前から思ってたけど…本人がいない時は玲奈ちゃんの名前出さないよな。あの子、あの子、って」
頬杖をついた譲司の一言。それはできれば指摘されたくなかった部分だった。彼に言われた通り玲奈とどう向き合えば良いのかわからなくて悠登は無意識に名前を出すことを避けている。後からそれを思い出してはそれで良いのかともやもやしていた。
「それは…」
「距離を置きたいとか、そう思ってるわけでもなさそうなんだよな。お前はちゃんとやってくれてるし」
譲司はそう言って立ちあがると悠登の頭に手を置いた。
「お前が玲奈ちゃんとどう接していいかまだ迷ってるのはわかる。せめて明日と明後日は俺達に任せな」
ぽんぽん、と軽く悠登の鬣を撫でて譲司は居間から自分の部屋へと戻ってしまう。悠登は撫でられた頭を押さえながらその背を見送った。
「……俺が変なのかな」
玲奈と接する時間は譲司の言った通り悠登の方が圧倒的に長い。しかし、それだけだった。
帰ってからしか話さない譲司も涼も、玲奈との接し方は特に変わったものではない。風呂上がりのだらしない様も仕事疲れも隠さず素のままで過ごしている。
それに比べると自分はどうか。まだ腫れ物のように玲奈を扱っているのではないかと思う日もあった。この生活に馴染んできたということはいつまでも一泊二日のお客様のようにというわけにはいかない。それがわかっていながら玲奈の聞き分けの良さに甘えていた部分があった。彼女がどう思っているかも知らずに。
「……任せろ、か。だったら…」
悠登は一度教科書を閉じて自分の携帯を取り出した。電話帳からいちいち検索するまでもない。メールの受信箱から一番先に出てくる人物の名前を出してそこに返信すれば良かった。
【明日、ちょっと付き合え】
これでよし。直後に来た返信メールを見ることなく悠登は古文の課題に頭のスイッチを切り替えて教科書をもう一度開いた。
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