第2話

 桜が満開になるにはまだちょっと早い。しかし雨や風によって枝から切り離された花弁もちらほら道路を淡い桃色に染めている。もう少しすれば川沿いに植えられた桜が一気に咲いて花見の時期になるはずだ。

 悠登はそう思いながら春の空気を胸に吸い込み校門をくぐった。今日から俺も二年生。

 相変わらず工事の音はうるさいがそのまま素通りして生徒用の玄関に向かう。この時点で少し胸はドキドキしていた。

 その理由は簡単、クラス替えだ。これは何度経験しても慣れない。自分が知っているやつがどの程度いるか。それを把握しているだけでも慣れるまでの数カ月の振舞い方が決まる。新たに人間関係を築くにしても、だ。

 「……二C」

 他にも何人もの生徒が掲示されたクラス表を見て何度探してもわからんとか、教室隣だけど教科書借りにいくからな、なんて話をしている。そんな中、悠登は自分の名前を二年C組のクラス名簿の中から見つけた。

 「………あった」

 虎澤章助。彼もまた二Cだった。こうなっても、ならなくてもアイツなら騒ぐ。そう思って今日は彼と別行動で早めに来たのだった。…どうせ違うクラスでも休み時間毎に来そうだが。

 「……」

 他にもちらほらと知っている名前の連中がいる。応援団の有志等、知り合いは決して少なくない。それは安心だった。

 だが、悠登が一番気にしていたのは実はそこではない。クラス表を舐めるように丹念に更に眺め、最後に鼻息を一気に噴出した。

 「よし…!」

 上履きを鞄から取り出し教室に向かう。その足取りは軽く、若干尻尾は上に上がって無意識に揺らしてしまっていた。

 教室に入るとまだ時間はあるもののちらほらと人影があった。早めに来て寝ているのは部活の朝練後か電車通学組だろう。

 教卓に置いてある教師用の座席表を見て自分の席を確認する。名前のあいうえお順、いつもの通り廊下寄りの真ん中の列だ。今回は自分より前の名前が多いためか後ろから二番目。ゴミ箱にも近く、なかなか良い。…どうせすぐに席替えしようと皆は騒ぐと思うが。

 自分の席と確認し着席。うむ、この位置はやはり無難だ。いつもなら前の方に指定され女子が俺の背中で黒板が見えないなんて言われる。これならその心配はない。…いや、後ろの席が誰かにも依るか。

 それも確認しておけば良かったと思いながら悠登は机に突っ伏した。少し早く来すぎたとは感じている。まだ眠い。目を閉じて悠登は昨日までの春休みを振り返っていた。

 あの日から一週間。玲奈が来てから経った日数だ。残った春休みの全てを彼女と過ごすことになったが玲奈は本当におとなしくしていた。子どもらしくないと思うほどに。

 買い物に近くのスーパーに連れて行っても何かお菓子をねだることもない。子どもはそういうものだと偏見を持っていたがどうやら違うようだ。風呂も特に騒がず暴れず、こちらとしては洗いやすかった。

 それでも玲奈との距離感がまだ掴めない。一番近いのは間違いなく同じテレビ番組を見ている時だろう。その時は子どもらしいというか、料理番組を見て美味しそう!と言ったりドッキリに引っかかる芸人を笑ったり。…やはり、テレビが大きいからだろうか。

 「あの…獅子井君、だよね?」

 「……うぉ」

 そう言えば玲奈の春休みはいつ明けるんだったか。それと、今晩の夕食はどうしよう。因みに昼は玲奈にロールパンの中にウインナーを突っ込んだものをレンジで温めて食べるように言ってある。

 学校に着いてどれくらい時間が経ったろうか、そんなことを考えていると不意に話し掛けられた。悠登は顔を上げてそこにいた人物に驚いてしまう。

 「いっ」

 突っ伏していた体を一気に持ち上げる。悠登の目に映ったのが、彼女だった。

 「おはよう」

 女子にしては少し高めのスラリとした背。その背に比例するように長くまっすぐ伸びた髪をポニーテールに結わえ、肌は健康的な小麦色に焼けた少女がにこやかに笑い悠登に挨拶する。

 「おは、おはよう…ございます」

 「あれ…起こしちゃった?ごめんね」

 少女は謝りながら席に座る。しかも悠登の隣の席に。自分の座席しかチェックしていなかった自分を内心で殴ると同時に名字の順番に感謝した。

 「いや…寝てなかったし…大丈夫、うん」

 そんな興奮をなんとか抑えそれだけ言うと悠登は沈黙した。どうしよう。

 隣の席に座った彼女が誰かはもちろん知っている。知らないわけがありません。

 彼女の名前は桑野明くわのめい。同じ中学出身ですがクラスが同じになったのは中学校一年生の時だけです。その次が今なわけで。中学では陸上部、高校に入ってから彼女はソフトテニス部で日々汗を流されているようです。クラスの中では一緒だった時も、別になってからもその持前の男勝りとは違うがボーイッシュな性格と朗らかさで人気者です。そうに違いない、そうだと思います。たぶん。

 どうしてここまで言うかと申しますと、クラス替えで一番気にしていたのが彼女と一緒かどうかということでしたし、中学の時からその、何と言いますか…惚れてしまっているものですから。はは、お恥ずかしい。口調が変わっている?…何故でしょう。

 「一緒のクラスになるの初めてじゃないんだけど…私のこと覚えてる?」

 姿勢を起こして顔を前に戻した悠登に再び明の凛と通る声が聞こえた。もしや、と思い少し目を左に向けると彼女がこちらを見ている。

 「桑野さん……中学の時に一緒だったよね」

 生唾を飲みながらそう答えると明が目を輝かせて笑った。いや、輝いたかはわからない。ちょっと言ってみたかっただけ。そんな気がした、だけ。

 「ほらトォちゃん!やっぱり獅子井君覚えててくれたじゃん!」

 「……そうだな」

 もしかしたらここから話を広げ少しずつ仲良くなれたら…。同じクラスだということは確認していたわけだし時間はある…よな。

 そう思っていたが明が嬉しそうに話し掛けた人物に目を向けて悠登はかなり気が落ち込んだ。トォちゃん、と親しげに呼ばれた人物は明に相槌を打って頷く。

 そこに立っていたのは灰と黒が混じった毛皮に覆われた狼の獣人。鼻先は凛々しくて悠登よりも長く、ピンと立った耳にふさふさの尻尾。正直言って色々と羨ましい。

 「狼塚…」

 「よ」

 悠登が狼の名を呼ぶと彼はぶっきらぼうに返事をして明の斜め後ろに自分の鞄を置いた。彼の席は名字から考えてもそこで間違いなさそうだ。一番後ろとはまた羨ましい。

 彼は狼塚徹おいのづかとおるといって中学からずっとサッカー部で活動している。彼と悠登は一応去年も同じクラスだった。話すことはたまにあった程度。見慣れない顔ぶれも混じる中で彼がいるのは割と心強い。

 心強い反面そんな彼に羨ましい羨ましい、という気持ちが募るのだが、一番何が羨ましいのかと言われれば彼が憧れの明の幼馴染で家も近所、さらに登校は毎日当然のように一緒ということだ。次点で彼の尻尾のふさふさともふもふ。とても撫で回したい。

 羨ましいだけならいいのだが、そういう経緯のせいで二人は付き合っているという噂は度々聞かれる。直接本人に聞いたことはない、聞いてしまうのが怖かったから。

 「なぁ狼塚」

 「なんだ?」

 悠登はいつもその話は気にしないようにしてきた。そうすればどちらかわからないのだからチャンスに期待もできる。

 「尻尾触らせてくれよ」

 だから悠登はいつも次点である狼塚の尻尾を優先する。おそらく彼と初めて話すようになってから、話をすれば毎度言っていると思う。

 「嫌だね」

 そして彼は毎回断る。最近は蔑むような目をして、だ。ふむ、押してダメなら引いてみるか?…なんて駆け引きを隣に座る明といつかできたら…。言ってて悲しくなる。

 「いいじゃない。トォちゃん、私にはたまに触らせてくれるのに」

 明の何気ない一言はちょっとショックだった。バッと狼塚の方を見ると彼は気まずそうに目を逸らす。そうか、尻尾を触らせてしまう仲なのか?てか、やっぱり羨ましい。もう頭の中がごちゃごちゃしてる。

 「えっと…どうかした?」

 明が驚いた様子で悠登を見ているので正気に戻った。危ない危ない。

 「いや…いいな、って思っただけ…」

 明の前で狼塚の尻尾に一喜一憂。言いたくないが男の尻尾に興奮なんてどうかしている。理解しているが狼塚の尻尾は別格だと思う。アイツのふかふかの尻尾がいけない。

 などと内心で言い訳しながら自分を落ち着かせる。非常に恥ずかしい。狼塚よ、頼むからそんな目で見ないでくれ。

 「そう言えば聞いたことなかったけど尻尾を触られるってどんな気分なの?」

 「う…」

 「え…」

 あぁ、俺のせいで会話が終わる。そう思ったが明はすかさずに次の話題を悠登と狼塚の間に放った。しかしその質問は非常にデリケートで答えにくい。

 「あ、もしかして私…すごく聞いちゃいけないこと聞いた…?」

 悠登と狼塚の空気を察してかすぐに明は二人の顔色を窺うようにきょろきょろし始める。おろおろと慌てるその姿にもちょっとときめいてしまう。

 「ひあっ!」

 明を見て表情を思わず緩ませたその時だった。悠登は自分の尻尾から激しい電流が走るような感覚に襲われる。声を抑えられず、情けない悲鳴にも似た声が出てしまった。

 「こんな気分だよ。うーん、手にフィットするいい手触り。もみもみ」

 「ふんぬっ!」

 「うぐっ……」

 背後の声を聞いてすぐに誰が後ろにいるのかわかった。そもそも、こんな無礼なことをするのは一人しかいない。悠登は躊躇うことなく肘鉄を後ろに突き出した。

 苦悶の声と同時に自分の尻尾から手が離れたことを確認するとゆっくり振り返る。

 「章助ぇ…」

 立っていたのは想像通り、またコイツ。章助は片手を腹に当て押さえ、もう片方は手を開いては閉じてまるで残った感触を堪能しているようだった。

 「おはよっす!」

 肘鉄が効いていないのか章助は笑顔だった。忌々しい。

 「……あぁ」

 「悠登ぉ、なんで俺を置いて先に行ったんだよぉぉぉ」

 お前に会いたくなかったからだよ。遅かれ早かれこういう風に急に肩を掴まれ揺さぶられる気がしていたから。そう思うと明と話せて上がってきていたテンションが一気に冷めてきた。

 「縞太郎君、おはよう」

 「よう桑野、久しぶり!」

 悠登とは裏腹に明と章助は楽しそうだ。縞太郎、は章助のあだ名だ。どっかの通信教材のキャラクターみたく縞模様の虎だから、それに因んだらしい。その父親と名前が同じになっているがそこを皆が気にする様子はこの数年、ずっと見られない。そもそもあまり知られていないということか。

 「尻尾ってその…敏感、なんだね」

 章助の席はちょうど悠登の斜め後ろらしいと確認したところで明が笑う。というか、もしかすると俺が笑われてしまった。

 「え、いや…あれは…」

 「そうだぞ桑野。触る時は優しく丁寧にな!なんなら俺のを触るか?」

 敏感ではあるが不意を突かれたせいであって普段なら、と訂正しようとすると章助が悠登にもたれかかりながら割り込んできた。重い。

 「え、いいの?」

 明は嬉しそうだった。狼塚は苦笑している。俺も似たような顔をしていることだろう。

 「おうよ、ほれ」

 そして章助は悠登と明の中間に立って尻尾を明に向ける。止めるべきか否か。

 「わぁー、太い!トォちゃんより芯がしっかりしてるって言えばいいのかな?」

 楽しそうに明が章助の尻尾を触っている。それを見ていると悠登も触りたくなってくる。もちろん、狼塚の尻尾が。あ、また目ぇ逸らされた。

 「明、皆見てるぞ」

 「え?」

 窓の方を見ながらボソリと狼塚が呟くと明の手が止まる。悠登も見回すと、確かに何人か、特に獣人の女子がこちらを見ていた。

 「あ、はは…。…ごめん」

 明が手をサッと後ろに隠す。知らなくともこうして察しが良いのも彼女の特徴だろう。

 「俺は気にしないんだがなぁ…」

 「……気にしろ」

 そうしているうちに明は登校してきた友人の席の方へ行ってしまった。少し残念だったがその間に彼女の座席を確認する。間違いなく、悠登の隣だった。さっきは悠登と話すために隣に座ったわけじゃない。

 クラスはすぐに席替えムードになるのだろう。しかし最初の一カ月や模試、期末考査ではこの指定席に座らせられる。そうなれば定期的に明とは隣になれるわけで。

 そう考えるとまぁ健全な男児である自分も色々思うところがあったりする。その妄想をどの程度実行できるだろうか。先程までを冷静に振り返っても不安が過った。

 「あー…私が一年間、このクラスの担任になる熊田詠です」

 クラスの席がほとんど埋まった頃にチャイムが鳴って数分。あまり待つことなくメタボリックな体にスーツが窮屈でメランコリックになっている熊の中年が教室に入ってきた。熊田詠と名乗り鼻の上にちょこんと眼鏡を乗せた彼が今年の担任。去年も数学は彼が担当だった。

 「今更私のことで言うことはねぇべ?皆知ってるだろうしな」

 体が章助と同程度に大きく、少し目つきは悪いが話してみると怖い印象は消える。少なくともこのクラスで彼に怖い印象を持っているとすればそれは転校生か一回も彼の授業を受けていない者だろう。数学教師以外に強いて紹介するならあだ名はジャンボ、略語を作るのが好きで奥さんは過去にミス何とかに選ばれたことがある人、ということくらいか。

 「君らは今日から二年生なわけだ。まぁそろそろ大人になっていく自覚は持ってください。いねぇとは思うが、くれぐれも酒やタバコは止めろよ」

 熊田が一年の始まりのテンプレートのような話をしているがそんな話は何度も聞いている。悠登や他の生徒も私語はしないものの半分程度にしか聞いていない。

 そんな話を数分聞かされ今度は自己紹介をさせられる。そこも難なく皆が無難に出身中学と今の部活、最後に何か一言。一言は狼塚も明も、悠登も章助もよろしくお願いしますと言って終わり。誰かのウケを狙った一言は仲の良い身内らしき数名にしか反応は見られなかった。

 「えー今日の予定ですがまずは掃除です。その後始業式と新任式をやって、帰りのHR後に解散になります。部活とかあるやつは弁当ここで食ってからでもいいんで、最後のやつ窓の戸締りだけは頼むな。質問あるやつはこの後来て下さい。…じゃ、机後ろに下げて」

 ザッと今日の予定を読み上げ熊田の手振りと同時に皆がのろのろと机の上に椅子を乗せて後ろに固める。来て早々にやらされるのが掃除。これもいつものことだ。

 「掃除の分担表は前のホワイトボードに貼っとくから各自で見てそれぞれの場所を頼むなー」

 教室内がざわつき、廊下に他のクラスの生徒がちらほら見えるなか熊田が声を張る。それを聞いて皆が分担表を確認して各々の担当場所へと向かった。

 掃除の分担の方法は最後の二つ以外は五人で一組。残念ながら知っているやつはいない。

 と、思いきや悠登の担当場所は運よくこの教室。しかももう一つの班と一緒。そこにいたのは…。

 「狼塚…」

 「尻尾ならダメだぞ」

 教室班Aに狼塚。B班に悠登がいた。この掃除のローテーションがいつ変わるかはまだ聞いていなかったがしばらくは彼とここを掃除することになる。

 「そんなにがっつかないって…」

 尻尾の話題は一日一回、それか二回。触ってみたいがもちろん扱うのは尻尾だ。しつこくすれば決定的に避けられる。扱いにくい問題だと悠登もわかっているからある程度自重している。あくまでも、自分の中でだけだが。

 「なぁ、虎澤のじゃダメなのか?」

 何故か掃除時間になると男子はベランダに出る。それは新校舎になっても変わらず教室担当の男子達の何人かがベランダに出ていた。それで隣の教室の連中と話をしていたりする。

 そんな中、悠登と狼塚はベランダの出入り口で話をしていた。同じ教室担当でも話せるのは彼くらいのものだ。狼塚の方はどうだかわからないが。

 「あんな太いのと比べるなよ」

 狼塚の振ってきた話題にしっかりと反論。向こうから尻尾の話題をする分には俺の決め事ではノーカウント扱いにしている。

 「……悪い。触らせないけどな」

 しっかりと言ったからか狼塚はその少し太い声を低くして謝った。しかも少し耳を畳んで。それなのに一言多いのが惜しい。

 「桑野さんには触らせるのに?」

 悠登がそう言うと狼塚は声を詰まらせた。

 「うっ…。それはアイツが…なんだ…」

 何と言えば良いのかわからないと言う風に狼塚は自分の長い鼻の横を掻いている。言えない何かでもあるのだろうか。

 「……お前ってまだ桑野さんと一緒に登校してるよな?」

 今までは聞かないようにしていたが自然な流れで明の話に持っていけた。そうなれば聞いてみたいことは多々ある。意を決して少し遠回りするように、だが直接聞いてみた。

 「それは大抵家から出る時間が被るだけだ。俺が寝坊したとか、アイツに朝練がある日は一緒じゃない」

 狼塚はため息交じりにそう言った。つまり毎日連絡を取り合って迎えに行くとかそういう話ではないらしい。

 「へぇー…」

 でも実際そんなもんかと思う。家が近所の幼馴染。言い換えれば悠登と章助もそうだがこの二人も狼塚と明と同じ。狙って一緒に登校なんてほとんどしたことはない。

 それが聞けて少しだけ安心できた、気がする。

 「急に明の話なんてしてきてどうしたんだ?」

 しかしその安心も狼塚の切り返しに容易く崩された。

 「いや、ふと中学でもそうだったなーって思ってさ」

 努めて冷静に返すと狼塚はその大きな鼻をふーん、と鳴らした。少し、不満そうに。そこで急に俺と狼塚は肩を掴まれた。

 「ほれ、お前ら掃除当番だべ?サボってねーで箒頼むわ」

 そこにいたのは担任のジャンボだった。持っていた自在箒を渡すとベランダに出て他の教室掃除担当を捕まえ始める。

 「……やるか」

 そう呟いて狼塚は一人で埃を掃き出した。話題を何とか逸らせて今回はジャンボの乱入タイミングに少し感謝する。

 「だな。とっとと終わらせよう」

 悠登も押し付けられた箒を握り狼塚に続いた。始めなければ終わりもない。

 年度初めということで少し長めだった掃除も終わり、申し訳程度に設けられた休憩の後に体育館に移動。そこからはざわざわしつつ会の始まりを待つばかり。背の高い後ろの方は特に話し声が大きかった。

 始業式が始まるとさすがに生徒達も静かに話を聞いている。校長の話は毎度自分の読んだ本の中で印象に残ったことを話して終わる。今回取り上げた本は少々古く、図書室にも置いてあるそうで。どれだけの人がそれを読むだろう。旧校舎の図書室は二階の端にあり、人が利用している印象はあまりなかった。

 そして最後に校歌斉唱。去年の選挙で選ばれた新しい応援団長が皆の前に立つ。

 ボロボロで所々穴の開いた制服に裸足という服装。登校時は下駄と学帽、更に古びた肩提げの鞄を見ることができる。その格好に伸び放題の髪と髭という井出達。迫力は敢えて取り上げなくとも十分だった。この高校の特徴であるバンカラ応援、というやつだが伝統の長さは知っていても応援団のこうした伝統については兄弟や知っている先輩がいないと知らずに入学して怖い目を見る。今では悠登や章助はどちらかといえば怖がらせる側なのだが最初は驚かされたものだ。

 応援団長の指揮に合わせて副団長が太鼓を鳴らし、皆が声を張る。しかしこの高校にОBだった教師の声の張り具合は生徒数人分にも及ぶ。なんでも昔の応援練習は今の比ではないほどに厳しかったのだとか。

 新任式が始まると教師陣も生徒陣もだんだんとざわつき始める。今年やってきた新しい教師の挨拶、生徒会代表の歓迎の言葉。あまり静かではなかったものの滞りなく、予定時間よりは早く終わることができた。

 「あー、終わった」

 新任式が終わればあとは教室に戻るのみ。章助がそれとなく列から外れて悠登の横に並ぶ。

 「団長髪伸びたなー」

 章助に悠登はまず思ったことを話す。すぐに向こうもおぅ、と頷いた。

 「団長になってからずっと伸ばしてたみたいだしなー」

 伝統だと人間の団長は坊主か長髪にする義務のようなものがあるらしい。今では嫌なら服は普通の制服、頭髪もどちらかにする必要はないらしいのだが団長は律義に守っている。意外なことに獣人が団長になったという話はあまりないようだ。

 教室に戻るともう帰る気満々、部活に行く気満々の連中が鞄を机の上に置いてそわそわしだす。中にはもう弁当を食べ始めている連中もいた。

 「ほい、皆さんまずはお疲れさんでした。この後は解散です。明日は今日と同じ時間に登校。それだけは忘れず、遅刻しないように」

 聞いていてもいなくても、というより聞いている前提で熊田は明日の入学式の話をしている。それにしてもスーツがキツそうだ。

 「あと、こん中に応援団のやついるか?そいつらはこの後ちょっと生徒会室に行って下さい。じゃ、部活なり弁当なり、どうぞ」

 最後にそう言って熊田はホワイトボードにあった今日の予定を消し、O―EN生徒会室、と書いてから明日の入学式の予定を書いていた。応援、の漢字を面倒臭がったようだ。その間に帰るやつは帰っていく。

 「よぉし、行くか悠登!」

 「いでっ…」

 章助は元気に悠登の肩を叩く。不意打ちの力任せな一発にヒリヒリする肩を押さえ悠登は立ち上り、最後に明の方を見た。

 残念なことに明はこちらに背を向けて友人と楽しそうに話をしている。笑って微かに上下するその背中だけでもずっと見ていられたが諦めて生徒会室に向かった。

 「どうしたよ、新学期から元気ねぇぞ?」

 こちらの表情の変化に機敏に章助は反応してくれるがこの男に相談しても全てが体当たりになりそうな気がする。しかしあの明と同じクラス。隣の席なのだ。落ち込む暇はない。そう思うと元気が出てきた。たとえむさい虎が目の前にいたとしても。

 「いや、なんでも。行くぞ」

 ちょうど二年生の教室と同じ階の端に生徒会室はあった。着くと既に団長、副団長、その他の団員や有志が集まっていた。

 「時間か?」

 「はい、ちょうど」

 それから数人が集まってふと、団長が言うと副団長がすぐに返事をした。副団長は同じ学年で今日の校歌斉唱や特別な行事にしか制服をバンカラスタイルにはしていない。

 「月曜はいよいよ対面式だ。他の部からわざわざ集まってくれたことにまず感謝する」

 低い声は張らないと少し聞きとりにくい。しかし団長はそのままで話し続ける。騒がしい廊下と別のこの空間だけは妙に静かだった。

 「例年女子は泣かしているが…とりあえず直接触れたりはしないようにと先生方からは言われている。今日はそこら辺の注意だけだ。あとは当日の朝、また集まってほしい。有志の方はまだ集めているから参加してくれる生徒がいるようなら俺まで連絡してほしい」

 そう言うと団長は軽く頭を下げた。確かにこの人数では少ないかもしれない。

 「俺からは以上、押忍」

 押忍、と全員が返事すると団長は一人出て行って階段を上がる。自分のクラスに戻ったのだろう。要件を伝えるだけの業務的な内容だったが彼も普段は高校生だ。押忍、なんて挨拶をするが部活もあれば友人もいる。彼の普段、団長としての振る舞いの徹底に我々はそれを忘れてしまいがちだが。

 「十分ちょっとかー。どうする?」

 団長の話が終わって章助が肩を組んできた。それを外しながら悠登は彼を見る。

 「どうするって何をだよ」

 十分、それはここに来て皆が集まり話を聞いて解散になるまでに掛かった時間だ。時刻はまだ十二時半にもなっていない。

 「昼飯だよ。ラ・ン・チ!」

 口を大げさに動かして昼食時を知らせる章助を見てそう言えばそうだと思い出す。玲奈や両親の昼は用意しておいたからいいものの自分の事はどうせ昼頃には終わるから、と考えていなかった。

 「どうするかな…。俺は帰る、かな」

 その方がまともに食える。学校の自販機には菓子パンしかないし。先生達が出前とか頼んでいるのを見ると真似したくなる。

 「じゃあ俺もお前の家に行こうかな!ついでにご馳走になるか!」

 「どうしてそうなる…」

 元気に言う章助にうんざりとする。しかし彼は不敵に笑いながらこちらを見た。

 「ちっちっち、忘れたのかい悠登君。君は俺に、忘れ物を取りにおいでと言ったよな?」

 そんな優しい言い方はしていないが似たような話はした。

 「つまり俺はお前の家に行く義務があるのだよ!俺の意思に関係なく、な!」

 口調を変えても鼻息が荒い。興奮しているのがわかるがあの家に何の魅力があるのか。

 「でもあの子にパン食わせて俺達だけ何か食うってのも悪いか…」

 ふと、昼食後の玲奈を横に自分だけラーメンやら何やら作る自分の姿が浮かぶ。なかなかに後味が悪い。だったら俺も昼はパンでもかじろう。

 「そりゃあそうだがとりあえず荷物取りに行こうぜー」

 章助のその提案には賛成だった。悠登も他の連中に紛れて廊下に出る。戸締りは副団長がしてくれるようだった。

 教室に戻ると人はそれなりに減っていた。半分以上席が空いて電気の消えた昼の教室は妙に居心地が良いと思う。

 「お、戻ってきた」

 教室に入ると狼塚がこちらに気付いた。そのすぐ近くには明が残ってまだ座っている。

 「あれ?獅子井君も縞太郎君もすぐに帰っちゃったのかと思った」

 自分の名前を明が親しげに呼んでくれる。それだけでどうしてこんなに嬉しいのだろう。悠登は尻尾が立たないように気を付けながら自分の席に座った。

 「ちょっと応援団の集まりがあって…」

 自分の口調が少しおとなしいものになっている事に気付きつつもどうにもできない。できることなら普通を心掛けたいが上手くいかなかった。

 「狼塚も桑野さんも部活は?」

 章助が早速自分のロッカーに置き勉するつもりか資料集などを鞄からガサゴソ取り出している。その間に悠登は彼らと話してみることにした。幸い、狼塚がいれば少しは話しやすい。

 「私は午後から部活。さっきまで真衣と話してて今からお昼食べようかなって」

 そう言って明は控えめな大きさの巾着袋を取り出した。真衣、はよく明が話している保谷さんのことだろう。

 「俺も部活だよ。昼は食ったからもうすぐ行く」

 狼塚はもういつでも行けるようにと鞄も机に置いていた。部活が始まるギリギリまでいたい、というところか。

 悠登は狼塚を見ていて先程の応援団の集まりで話していたことを思い出す。そうだ、狼塚なら頼りにできるかもしれない。

 「なぁ狼塚、月曜の対面式に応援団有志として出てくれないか?人手が足りなくてさ」

 有志、要はボランティアだ。ちょっと手伝ってくれれば良い。偉そうに腕を組んでいるだけでも彼ならばそれなりに迫力は出る。

 「いや、妹に出くわすと気まずいから今回はちょっとな…」

 断られるかもしれない、とは思っていたがその理由は予想外だった。

 「妹なんていたのか」

 「うん、トォちゃんは妹二人と弟一人の四人兄弟だもんね?」

 悠登の疑問を狼塚に代わって明が答えてくれた。確認するように彼女が狼塚の方を見ると静かに頷いた。

 「そりゃあ気まずいか…」

 狼塚の言い分もわかる。対面式は初動のインパクトが命だ。そこに知り合いや家族がいれば当然それは薄まってしまう。

 「とりあえず校歌は覚えとけって釘は刺しといたけどな」

 苦笑する狼塚に同じように悠登も苦笑いで返す。それが必要になってくるのは来週からなわけだが、早いに越したことはない。

 「獅子井君、応援団やってたんだ?」

 狼塚に頼れないとすると章助が誰か捕まえてくることに賭けるか、と考えていると不意に明がこちらを向いた。物珍しそうな目で自分を見上げる彼女に一度胸が高鳴る。

 「あ、まぁ…。一応」

 どうしてこう会話を盛り上げられないのか。あ、ってなんだ。あ、って。せっかくの機会をふいにしてしまっているのがわかっているくせに。

 「ねぇトォちゃん、やりなよ。このあとの応援歌練習だって忙しそうだし…」

 悠登が脳内で高速反省会を繰り広げていると明が狼塚に食い下がった。彼女の親切心にその反省会も一時中断する。

 狼塚は頬杖をついて明をしばし見ていた。ダメ押しと言わんばかりに明が小さくお願い、と言って手を合わせる。それを見て狼塚は長い息を吐き出した。

 「はぁ……。こっちにだって部活があるから放課後の練習の方は無理だぞ」

 それは逆に、放課後以外なら良い、というわけで。

 「じゃあ対面式と朝練は手伝ってくれるんだな!」

 俺が笑ってそう言うと狼塚の顔が固まった。

 「おい、俺は朝練なんて聞いて…!」

 「章助、来いよ!狼塚が有志やってくれるってよ!」

 廊下に向かって声を張るとすぐにおぉ!という声がして章助が教室に入ってきた。狼塚が何か言いかけているようだったが聞こえない。この丸い耳は今だけ飾りだ。

 「サンキュー狼塚!いやー、助かるわー!」

 章助は教室に入るとまっすぐに狼塚に歩み寄り抱き締めてやる。本気で嫌がる狼塚を悠登と明は楽しそうに見ていた。

 「トォちゃん嬉しそう」

 俺にはそうは見えない。腰にしがみ付いて腹に頬擦りしている章助をおぞましそうにひきはがそうとして苦戦しているように見える。あれは早急に助けてやるべきものだ。でも明が楽しいなら、と思い静かに着席して二人の様子をしばらく見守る。

 「あ、そろそろ食べないと時間なくなっちゃう」

 明は時間に気付くと前を向いた。巾着から黄色の弁当箱を取り出すと蓋を開ける。

 「獅子井君はご飯食べないの?」

 少し彼女を見ていたことに気付かれたのか明がこちらを見た。

 「……今日は早く帰れるからいらないかな、って持ってきてないんだ」

 あ。えっと。と、言葉を詰まらせないように意識した。今度は妙な間が生まれたが返しは比較的普通にできた、と思う。この短時間での自分の進歩を褒めてやりたい。

 「そうなんだ…」

 心なしか明の声が小さくなった気がする。何か変なことでも言っただろうか。

 「……パンとか買わないのか?」

 その時、狼塚が章助の頭を押さえ付けながら聞いてきた。お前ら、まだやってたのか。

 「うん、食べていったら?帰るにしても今からじゃちょっと遅くなるし…どうかな?」

 明の言うとおり、気付けばそれなりに時間も経っていた。帰ってから考えれば更に遅くなるだろうし空腹といえば空腹だ、ちょうど良いかもしれない。

 「章助、自販機のパン食ってくか?」

 「俺はなんでもいいぞ!」

 だったらいい加減狼塚から離れろ。悠登が立ち上がって背中を軽く叩くと章助はあっさりと狼塚の腰から手を離す。よほど強い力で抱き付いていたのか教室から出るまで狼塚は自分の腰をさすっていた。

 教室から出て一階下へ。旧校舎では書道室と家庭科室の中間にあった自販機は新校舎では二階、一年生の教室の前にある少し広がったスペースに移動していた。他に置く場所などいくらでもありそうなものだ、とは思っても言わない。一階から吹き抜けになっていて憩いの場になりそうだがそうするには狭いし、一年生が入学すれば人通りで落ち着くこともままなるまい。憩いになるのは今の時期限定と言えるだろう。

 売っている菓子パンのラインナップは校舎と違って一新されていない。入学して利用してみようと見に行ってからまったく。しかし飲み物はたまに買っていたがパンの自販機を使うのは実は今日が初めてだった。これも明に勧められたからというか。

 章助はイチゴのジャムパンとアンパン、それにお茶を買っていた。悠登はブルーベリージャムパンにコーヒー。今日は昼を軽く、夕食をしっかり摂ることにした。

 パンも買って教室に戻れば明はいるのだが狼塚がいなくなっていた。それに教室からは更に人も減っている。静かな教室で開いた窓から入る風がカーテンを揺らしていた。

 「あれ…狼塚は帰ったの?」

 狼塚をきっかけに自分から離し掛けると明はうん、と頷いた。

 「急に行っちゃった…。部活かな?」

 少し寂しそうに言う明の後ろの席に先程買ったパンと飲み物を持った章助が座る。俺は無言でやつを指差した。それを見て彼女は首を傾げる。

 「コイツにまた抱き付かれたくないからじゃないかな」

 「うぉ?」

 何も知らずパンを取り出しかじりつく章助がこちらを見る。すると明は急に吹き出した。

 「あ、あはは!そうかも!縞太郎君の毛がいっぱい付いたって言ってたもん」

 明が自分の言ったことで笑ってくれた。章助はわかっていないままきょとんと明を見ている。

 「毛なんて付くに決まってるじゃねぇか、なぁ?」

 そこだけが問題ではないが悠登はそうだな、と頷いて自分もパンの封を開ける。ブルーベリーの香りを吸い込みながらそれを一口かじった。

 章助と明を交えた昼食のひと時は穏やかに過ぎていった。時間にして十五分かどうかだろう。それでも、憧れの女子とクラス替え初日から話せたことは大きい。この日はそれだけで幸せになれた。

 その日は夕食の買い物をしないでまっすぐ家に帰った。章助にはダンベルやら適当に忘れた物を幾つか持たせて追い返す。少しでも家に入れれば満足したようで思ったよりはあっさり退散してくれた。それはそれで居座る時間に少しずつ満足しなくなってくるのではないかと不安も掠めてくる。

 章助も帰り、両親が帰ってくるまでの数時間。その間はどうやっても悠登は玲奈と過ごさなくてはならない。別にイタズラを恐れて監視するだとか、心配だから四六時中一緒にいるよう義務付けられているわけではなかった。

 しかし子どもにしては少々無口な玲奈と悠登はどう向き合うべきかわからない。怖がっているのか遠慮しているのか、心を閉ざされているのか何かして怒らせたかも判別できないのだ。

 今日は昨日作ったカレーの残り。だから米が炊けて鍋を加熱すればいつでも食べられる。たぶん、明日の朝に最後の残りを誰かが食べて全てなくなるだろう。夕食の仕込みがいらない分、時間にも余裕があった。

 そこで今は居間で玲奈はテレビを、俺はその背中をぼんやりと見ている。考えなくてはならないことがいくつもありつつもこの状況に慣れつつあった。しかしこの日常が崩壊する話題を思い出す。朝にぼんやりと考えていたことだ。

 「ねぇ、春休みっていつ終わるかわかる?」

 急に後ろから離し掛けられたせいか玲奈の肩がピクッと微かに跳ねた。ゆっくりとこちらを向くと彼女はゆっくり、コクッと頷いた。

 「いつ?」

 「げつようびからようちえん」

 ふーん…。なら対面式の日から、か。たぶん始業式か始園式、っていうのかな。それが早く終わっても俺の帰りだってそんなに遅くならないし大丈…。

 「え」

 普通に当日の予定を考えていたが何気に時間が無い。すぐに悠登は立ち上がりカレンダーに印を点けた。これで忘れたと言い訳はできまい。

 「クリーニング…はされてたっぽいしな」

 制服のクリーニングを心配したが玲奈の持ってきた服を見た限り清潔だった。付いてしまった毛をテープか何かで取れば問題はないだろう。

 対面式の日は朝起きて玲奈を連れて幼稚園経由で学校に向かえば良い。両親は朝バタバタしているし。当面の問題は特にない、か。

 聞けたのが今日で良かった。これが日曜日や当日初めて聞いたとなれば…。情報収集もしていかないとな、と改めて思いその日は終わった。

 翌日の入学式。主役はもちろん新入生だ。我々在校生の役割とは、期待に胸を膨らませ、受験を越えて辿り着いた新天地を希望で燃やす彼らを温かく迎え入れてやることにある。

 ただ、その歓迎の方法がこの高校では少々荒っぽいということだ。今日は普通の先輩になっているがその意味は予め聞いていたとしても生で体験しなければ理解したことにはならない。百聞は一見にしかず。

 入学式なら滞りなく無難に進んでいった。新入生が一人一人名前を呼ばれ返事をし、それだけが式の大半を占める。明も狼塚も離れた席で俯いたまま動かない。首に力が入っていないことから寝てしまったと思える。悠登も中盤に差し掛かる辺りで眠りはしなかったが睡魔に襲われていた。繰り返しやってくる欠伸を噛み殺すため口の端はずっと力んでいただろう。


 「むぉ……」

 入学式の翌々日。明日から悠登は対面式、玲奈は始園式。二人にとってはこの日が最後の春休みと言えた。次はゴールデンウィークや夏休みまでまともな連休はお預けだ。

 そんな日曜の朝。悠登は自分の鬣が引っ張られる感覚で目を覚ました。時間にして、まだ七時前。

 むくり、と部屋に射し込む陽の光に目を細めながら起き上がる。部屋のカーテンは閉めた筈だったが。悠登はカーテンを開け、鬣を引っ張ったであろう、今はベッドの横でこちらを揺する玲奈を見る。

 「どうしたの…?」

 目をこすりながら彼女を見るといきなり手を掴まれた。

 「ディスチャージかめんがはじまっちゃう、おねがい!」

 「な、なに…?」

 前日はいつもより遅くまで起きていたのでまだ眠くて頭が働かない。しかし、そんなことにはお構いなく玲奈はこちらの服を掴んで力一杯に引っ張ってくる。悠登はされるがまま居間に連れて行かれた。

 「リモコンどこ…?」

 着いてすぐに玲奈はこちらを見上げた。今までになくやけに必死なのはわかる。わかってはいたのだが、悠登はどうにも眠くて少しもたついた。

 どうやらですちゃーじ?とかいう番組を見たいらしい。しかしテレビのリモコンがなくて俺を起こした、と。それは理解できた。辺りを見回すと棚の上に長くボタンがやたらごちゃごちゃ付いたリモコンを見つける。親父が置いたのだろう、これでは玲奈の背じゃ届かなかった。

 「あった。これじゃ見つかんないよな…」

 これで安心、と玲奈に手渡してやると彼女はすぐにテレビにも起きるよう赤外線をリモコンから照射した。すぐにスタンバイ状態だった赤いランプが緑に変わりテレビに画面が映る。左上に表示された時間は六時五十八分。ギリギリセーフだった。

 じゃあ九時くらいまで二度寝…。と思い悠登は部屋へ引き返す。玲奈の朝食もしばらくテレビを見ているだろうからその後にしよう。

 「うひっ…!」

 しかしそんな考えは許さないというかのように尻尾に言い知れぬ感覚が突き抜けた。恐る恐る振り向けば、玲奈が顔はテレビに向けたままで悠登の尻尾を掴んでいた。

 「あの…?」

 「はじまるよ」

 ……どうやら、見なくてはならないようだ。幼児ながら有無を言わさぬ勢いで握った尻尾をグイグイ引っ張っている。これが章助や譲司の腕力ならとうに千切れているだろう。

 「…わかった。見るから。尻尾は触っちゃダメだよ」

 「うん」

 テレビに目は釘づけのまま玲奈は頷いた。


 『フフフ……やるな、ディスチャージ仮面!』

 爆煙の中から暗い緑色の甲殻に包まれた虫のような怪人が飛び出る。鎌になった腕を交差させてからの決めポーズはこの怪人なりの構えなのだろう。

 『うぉぉぉぉ!』

 そして煙を切り裂くようにもう一人飛び出した。全身は鎧に身を包み、背中に大きな四角いアタッシュケースのようなものを背負う人間の男。手に握られた剣に画面が寄ると所々刃こぼれしているのがわかる。彼がディスチャージ仮面だということはなんとか前半のAパートで把握した。彼は肩を揺らし息を整えている。形勢は若干不利といったところか。

 『ふ、そんななまくらの剣で俺様とここまで戦えたことは褒めてやろう』

 鎌を上下させ怪人は楽しそうに笑っている。彼はディスチャージ仮面の実力を見極めるため今回ディスチャージ仮面の住む街にやって来た。

 『黙れ、ディオバスタ星人!貴様らに褒められて嬉しいことなんてあるものかぁ!』

 ディスチャージ仮面は叫び、剣を握り直すと怪人、ディオバスタ星人に突撃した。しかし上段から振るわれた彼の渾身の一撃は星人に容易く片手で受け止められる。

 『どうしたぁ!もっと俺様を満足させてみろ!ディスチャージぃ……仮面!』

 『ぐあぁぁぁ!』

 ディオバスタ星人が腕を横に薙ぐとディスチャージ仮面は呆気なく吹き飛ばされる。そこは気合か、倒れても手に剣は握られたまま。武器があればまだ戦えるだろう。

 『こうなったら…アレを使うしかない!』

 剣を杖代わりにしてディスチャージ仮面は立ち上がると突如その剣を投げ捨てた。せっかく手放さずに済んだ武器を自ら放り、丸腰になってしまう。しかし、怪人は動かない。

 『うぉぉぉ!』

 ディスチャージ仮面が叫びながら背中に背負っていた銀色の塊を外し、中央にある窪みに手を入れてハンドルのように回す。ガギン、と何か重い鎖が切れるような音がした。

 『イグニション!』

 ディスチャージ仮面の叫びと共に銀の塊の各所から紅い炎が噴き出した。それと同時に重苦しかったBGМが主題歌のイントロに変わる。

 『バレル展開、ロック・オン!』

 四角かった塊は二つに展開され、さらに先程の取っ手が付いていない方の先端が伸びてガションガションと工場でしか聞けないような音と共に広がり砲身となる。最初は四角いよくわからないバックパックに見える機械だったが、砲身の長い立派な対戦車ライフルのような銃に変形した。

 『ローエンラオプティーア・カノン!ディスチャージ!いけぇぇぇぇ!』

 主題歌のサビ、主人公の叫びと共にトリガーが引かれてローエンなんとかカノンが発射された。派手な演出で放たれた光線が伸びてディオバスタ星人に直撃する。

 『く…これほどだったとは…力量を読み違えたか…だったら…!』

 鎌を交差させ正面から受け止めた彼はどうやらディスチャージ仮面は大したことがないと油断していたらしい。だが。

 『ぐぁぁぁぁぁぁぁぁあ!』

 尾を引く長い叫びと共にディオバスタ星人は必殺技の光の中へ消えてしまった。悪役の敗因の一つは確実に己の慢心にあると思う。…謙虚な悪役というのもなかなか倒して後味が悪いものだが。

 そうして敵を退けた後に主人公は計算が苦手というお茶目な一面を覗かせ、その場にいた主要人物達を笑わせてエンディングが始まった。その後に当然の次回予告。街から納豆を殲滅するために新たなディオバスタ星人がまたやってくるらしい。


 CМの後は次の子ども向け番組が始まるらしいがここで玲奈は躊躇うことなくチャンネルを変えた。移動した先の番組は今日の凄技お兄さん。

 「ふぅ」

 悠登の隣に座っていた玲奈はテレビを見終えてやっと一息ついた。そう言えば番組中はずっと画面をしっかり見ていた。俺を逃がさないように服を掴んで。

 「おもしろかったね!」

 満足げに頬を紅潮させて玲奈は悠登を見る。その目は輝きに満ちて若干受け止めきれず目を逸らしてしまった。

 「そ、そうだね。けど…まだアニメあるみたいだけどそっちは見ないの?」

 見ていて懐かしいなと思ったものの、話の感想について追及されたら上手く答えられない。なんせ今日初めて見ていきなり二十四話なんて書いていたのだから、展開は歴代特撮ヒーローと似たようなものだとしても主人公と敵を把握するので精一杯だった。映像の技術が格段に進歩しているのはよくわかったのだが、今時の作品は専門用語がやたら長く複雑で多い。

 「うん、きょうみないもん」

 自分なりに感想をまとめながら無難に返したつもりだった。だが玲奈は特撮物が好きなのか、この後の女の子と一部の大きな男の子が見そうなアニメはどうでもいいようであっさり切り捨てた。だからといって子どもがアニメより爪楊枝で城を作って完成と同時に叫ぶお兄さんの方を普通優先するのだろうか。

 「そ、そっか。じゃあ俺は…」

 ディスチャージ仮面も終わったんで改めてもう少し寝よう。そう思った。

 「はうんっ…!」

 また悠登の尻尾から全身に電撃が瞬間的に流れた気がする。やはり玲奈が尻尾を掴んでいた。

 「ごはん…」

 「……ですよね」

 悠登は苦笑し尻尾をさすりながら朝食の準備に取り掛かった。もう今日は二度寝する気分ではなくなる。午前中は新しく買った教科書の買い忘れがないかチェックでもしていよう。

 おかげで今日は早めに寝て、明日も早起きできそうだ。本格的な新学期の始まりに合わせて生活リズムを整えられたのは僥倖…と思うことにしよう。昼寝するのも気持ちいいかも。

 自分と玲奈へ今日の朝食にベーコンエッグと白米を用意する。両親は土日となると昨晩の疲れから大抵午前中は寝ているので食事は昼からでいい。そうなるとまたも朝食は二人きり。同じ部屋を使っている言わばルームメイトなのだが距離が縮まるまでまだ時間を要しそうだった。

 「あのさ、先週もディスチャージ仮面ってあったの?」

 黄身に醤油を垂らしながら悠登が聞くとすぐに玲奈がこちらを見た。反応速度から見て食い付きが良い。これは話をする上で良い取っ掛かりを見つけたかもしれない。

 「あのね、このまえはいまやってるアニメのスペシャルだったの」

 特番で先週は休みだったから寝ていたのか。俺が見るとしたら普通に起き、テレビを点けてやっと思い出す気がする。その辺も把握しているのならよほど好きらしい。

 「そっか。先週見れてなかったらどうしようかと……あ」

 思いだした。

 「どうしたの?」

 玲奈は悠登を見ているが悠登はテレビの画面を一度見て、次にリモコンを手に取る。

 「このテレビさ、もう終わった番組を録画できるんだよ」

 テレビ画面を番組表表示に変えてそう説明すると玲奈は首を傾げた。自分でもいきなり言ってもわかりにくかったと思う。

 「そうだなぁ、さっきのディスチャージ仮面をまた何度も見れるって言えばどう?」

 そう言った途端、玲奈の顔に笑顔が宿る。ただし、と悠登はリモコンをテーブルに置いた。

 「ご飯を食べてからにしよう。やり方調べなくちゃわかんないし」

 「うん!」

 玲奈は頷いてベーコンエッグとの戦いに戻った。早く録画に取り掛かりたいのだろう。一週間前の番組まで遡れるとどこかに書いていた気がするので慌てることもないのだが。

 食後の頭の体操と言わんばかりにテレビの説明書とリモコン、画面を見てじっくりと四苦八苦すること一時間。手順の確認も含めて録画機能を玲奈と完璧に理解した。今まで使ってこなかったがわかればなんと便利なことか。レコーダーだけ買ったくせに使わないでいた譲司にも教えてやらねば。

 「これでディスチャージ仮面は…」

 毎週録画予約完了、と。たまに番組の都合で録画ミスも起きるだろうがその辺は手動で直せば何とでもなる。こちらにはテレビに強い玲奈もいるのだから。ついでに、リモコンが届かない場所にあった際は横のスイッチから手動でも動かせることも言っておいた。

 「まずあさにみて、ごはんたべながらみて、じかんあるときにいつでもみれるね!」

 玲奈は悠登の言葉に続けるように笑顔で言った。

 「えっ」

 「えっ」

 …どうやら録画をすれば良いだけということではないようです。しかも、口ぶりからしてこれからも俺はあの番組をこの子と見ることになりそうです。

 ひとまず教科書のチェックを始めよう。そして明日の対面式の確認メールを狼塚に送ろうと思う悠登だった。

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