プライド~Lock on!~
琥河原一輝
第1話
その日から、俺達の生活は今までと違うものになっていった。俺は今でもその日をたまに思い出すが結果的にその変化は良いものであったと言える。…たぶん、だけど。
切っ掛けってのはいつも小さなことだと思う。それを思い出すとしょうもなかったりするけど、それは時に人をこれでもかと大きく揺さぶる。良くも悪くも。
出会えた瞬間ってのは当事者である自分にはそれが起きたかも判別しにくい。でも、逃しちゃいけない何かを連続して繋いだ結果が今の自分を成立させているのは確かなんだ。
俺にそんな切っ掛けが訪れたのは、新学期が始まる少し前のことだった。
唸りながら鏡に映る自分の顔、というより頭を見てはあーでもない、こーでもないとブラシを通す。こういう時自分の癖っ毛具合が苛立たしい。
「うーん…」
顎下の鬣は整然としていると断言はできないものの、校則通りにちゃんとこの前第二ボタンが隠れない程度に散髪した。短くなったからすっきりした筈だがその反面で寝ぐせがつきやすくなって今こうして苦戦している。
ワックスは校則違反だしそもそもあんなべたべたして臭いだけの代物を使いたいとは思わない。あれに頼るのは自分のポリシーに反する。
「……よしっ!」
その意地から丹念に続けたブラッシングのおかげではねっ返った寝ぐせは完全に消えた。いつもの少し硬めの鬣はおとなしく横になってくれている。
ひとつ言っておきたいが別にお洒落さんというつもりではない。身だしなみは整えたいという当たり前の発想だ。お洒落をするなら規則と、避暑の次からだ。
「いってくる」
今日は木曜、両親はとうに仕事に行っていた。今日は返事が返ってこないが一応言って俺は鍵を閉めると家を出た。向かう先は春休み終わり間近の我が高校。
その姿はライオンの頭に夏は鬱陶しい全身ふかふかの短い毛皮。最近先端にある房毛のボリュームアップが気になる尻尾を持つ
そう、それで終わりの筈だった。
♂
今日は雲一つない青空と日光から穏やかな春らしい陽気がもたらされていた。どうせなら布団くらい干しておくんだったと思いながら久々の通学路をのんびりと歩く。通学通勤ラッシュで人混みに捕まってしまうのは数時間前の話。今のような昼前ならば歩行者はもちろん車通りもまばらで、そう多くはなかった。
住宅街を抜けて古本屋の裏を通り、川を包む長い堤防をまたぐ橋を渡ればあとはもうすぐにでも学校には着く。その橋の手前で悠登は横断歩道の向こうでこちらに向かい手を振っている人物に気が付いた。
「おっすー!」
黄色がかった茶と白の毛皮に黒い縞模様があちらこちらに走る虎の頭を持つ少年。…少年と呼ぶには若干気が引ける程の巨躯を制服の上からも見せつけている彼に悠登は合流した。
「もしかして待ってたのか?」
「いや、今来たとこだって、気にすんな!」
屈託なく口元をぐにゃりと曲げて虎は笑顔を表現した。なんでも人間には獣人のこのような顔が怒っているように見えて怖いのだとか。確かに、怒りと笑顔の表情はこちらから見ても紙一重な部分はある。
数日ぶりの挨拶もそこそこに二人は歩き出した。市役所の前で見た時計の時間からしてまだ余裕はあるが目的はコイツ、幼馴染である
「なぁ悠登、春休みの課題終わったか?」
今日はちょっと遊びに行く感覚なのか章助は胸ポケットにシャーペンとメモ帳だけをはみださせ手には何も持っていない。やる気がないのか俺が筆箱とルーズリーフだけ入れた鞄を持っているのが間抜けなのか。考えると少しむなしくなる。
「数学がちょっとだったかな。でもあと一週間あるしな、どうにでもなる量だ」
俺がそう答えると章助は頭を抱え出した。見てすぐにわかる。コイツは終わっていないと。
「そうなんだよぉ……。あと一週間なんだよな……信じらんねぇ。あと少しで俺達二年生になんだよな…」
「何を当たり前のことを…」
中学生の時も彼、章助は似たようなことを言っていた。その後に起きた事も思い出して悠登は苦笑する。
「頼む悠登!今日この後って暇だろ?お前の家でやらせてくれよ…」
確か中学の時は写させてくれ、だった。写すかやるのか、その差を思えば彼にも進歩が無いわけでもないらしい。
「……俺は自分の課題しかやらないぞ?」
「おっしゃ!お前の恩に脱ぐぜ!」
「着ろ」
手を合わせ、ご丁寧に耳まで畳んで頼みこんでくる章助に承諾してしまう。どうせ断ったとしても家が近所だから数分で飛んできて家に入ってくるし。
そんな口約束をしつつ車道に比べやたら歩道の狭い橋を渡る。かなり古いらしく、歩行者は二人並んで歩くのがやっと、手摺は錆だらけだ。そんな橋の上から堤防を見ていると数人の人間と獣人がジャージで走っている。川沿いにある学校から陸上部が走っているのは普段からいつも帰りに見ていたが、授業の無い日は一日でも走っているんだろうか。少し気になるがそんなことを聞けば間違いなく入部しないかと言われそうだ。人数が少ない部に近づく恐怖は前の一年で幾度となく味わわされた。
俺達は獣人、人間と区別された表現をたまにされる。体格の差、毛深さ、尻尾の有無。挙げれば色々あるが一番はやはり“顔”だろう。動物園にいる動物との差が人間と猿に比べると実に少ない。かくいう俺も、隣にいる章助も裸で四つん這いになれば猛獣と間違われすぐに警察を呼ばれるだろう。……いや、それは変質者として普通に呼ばれるか。
ただし顔以外、知能や骨格は種族に若干の差はあるもののほとんど人間と変わらない。それぞれライオンならライオン、猿なら猿から進化して今の姿になったと言われている。だから昔、違う大陸では労働力としての奴隷にされた時期もあったらしいがそれは今日では歴史の教科書で子どものうちから習うこと。今は普通にお互い、区別に使うことはあれど差別として人間、獣人という言葉を使うことはなくなっていた。
「おーい」
そんな見た目の違いに悩む日は誰にでもある。しかしそれも世間を知っていく上で段々と折り合いをつけられるようになった。人は人、自分は自分。それを割り切った上で皆が隣人と暮らしている。
「うぉーい……無視すんなっての!」
「ひっ…!」
人間と獣人が肩を並べて走り込み、汗を流す様子を眺めているといきなり胸を揉まれた。短い悲鳴を上げて跳ねるといつの間にか背後に回っていた章助が指をワキワキさせている。本人はスキンシップのつもりだろうが手付きはその域を脱していた。
「春休み中にまた育ったか……善きかな」
自分の手を眺め、先程の俺の胸の手触りを確かめるように手をぱくぱくさせて悦に入る章助に身震いする。因みに太ったという意味ではない。筋トレを欠かさずやっていただけだ。休み中に胸囲が増えていたのは自分でも少し嬉しかった。
「…育ったのはお前の方もじゃないのか?お前に言われても説得力感じないぞ」
俺の指摘にそうか?と言って章助は自分の体を見ている。悠登の父程ではないがその若さには不釣り合いとも言える筋肉量は間違いなく運動部の連中と比較しても多い筈だ。
「あ、そう言えばこの前また通販で買ったやつがあるんだが、それのおかげかな?どうよ?」
歩きながらも両腕を折り畳み上腕二頭筋を膨らませる章助に暑苦しさというより息苦しさを覚えながら悠登は目を逸らした。視界には入れておきたくない。一瞬章助の服からビリッという何か裂けた音が聞こえたのもきっと気のせいだ。
我が幼馴染にはここ数年、テレビ番組で扱われ気に行った商品を通販で買うという高校生らしくない趣味ができた。しかも買うのは主に自分の体を鍛えるフィットネスなマシーン。小遣いの大半はいつもそんな通販に消化しているが彼の凄い所はそれをずっと使い込むということだ。だからこそ今の彼の肉体があるわけで。因みに例外として彼が買った防水のDVDプレーヤーは今何故か悠登の家で父のお気に入りとしてたまに風呂で稼働している。
「お前、そんなに鍛えて何をどうするつもりだよ」
「悠登を一生、この手で守る」
「はいはい」
そして何故鍛えるのかと聞けばこうして力強く拳を握って芝居じみた口調ではぐらかす。もう何度聞いても答えたくない、ということはわかった。大方、男らしくありたいとかだろう。
途中の公園や工事現場を突っ切り久々の学校に着いてしまう。春休みだから静かかと思えばサッカー部も野球部も部活動に従事し、体育館の横を通れば女子バレー部の声も聞こえていた。
校舎の中に入ればどうだ、と思えば吹奏楽部が教室をいくつか占拠してそこかしこから様々な音色が聞こえてくる。靴を履き替えながら平日の廊下の方が静かだと思った。
「今日って声出しすんのかね」
「日程の確認と準備だけだろ」
そんな話をしながら階段を上がる。所々に設置された窓から入る日差しが隅に溜まった埃を掃除して欲しそうに見せつける。掃除なら春休み前に大掃除と言って学校中でやっただろうに。
「おぉー、やってんなぁ…」
章助は窓の外を見て嘆息を洩らしている。そこから見えるのは先程通過した工事現場。扱われているのは全高こそこの校舎と似たようなものだがもはや違うものだった。
この学校は全部で五階建て。一年生の終わりに新校舎と体育館が完成したばかりの新品。そんな新品も春休み中の文化部に掛かればすぐに使い古される。今一番この校舎内について詳しいのは教師や用務員を除けば彼らで間違いあるまい。旧校舎はなんでも付属中学の校舎を建てるためだそうで今も重機でぶっ壊している最中。そう、章助が見ていたのはその旧校舎だった物だ。騒音の考慮はされているらしいが今年も授業中はさぞうるさくなることだろう。
「お前、あっちに何か心残りでもあんの?」
試しに聞いてみると瞳を潤ませ章助はこちらを向いた。そんな目をしても無駄だ、何も伝わらない。
「当たり前だろ!俺とお前とで、一つ屋根の下で過ごした思い出の建物が減るんだぞ!」
去年の思い出はあるが逆に今いる校舎の工事の方が俺は印象深い。そこは感性の違いか。
「……あっそ。じゃ、行くか。皆もう着いてるかな」
章助はいつまででも工事現場を窓から見ていたそうにしていたが彼の耳を一度揉むように引っ張ると嫌々窓から離れた。そんなに見たいなら帰りでもいいだろう。
♀
「なぁんだよぉ!先生からプリントもらって終わりって!」
まだまだ続く昼下がりの帰り道、隣で吠える虎男に悠登も同意せざるを得なかった。これならメールでも良かったんじゃないだろうか。
章助の言ったことが全てだった。三階にある生徒会室を借りて段取りを決めるものだとばかり思っていた。しかし着いてみると誰もいないし鍵も開いていない。仕方なしに職員室で適当に先生を捕まえて話を聞いてみると
「あ、このプリント見といてだって。色々決めるのは始業式か入学式の後だって。担任の先生には各自でその話をしてもらうし放送もするからさ。準備は体育館を使ってる部の人達にも手伝ってもらうから安心。その時はよろしクマ!なんちゃって!」
だそうで。面白くないですよ、とだけ言って渡されたプリントを片手に引き返した。時間にしてほんの数分。章助がトイレに寄ったのも含め十分は経っていまい。
「あー、どうせなら校舎の中ぶらぶらしてから帰った方が良かったかな」
時間ができたのに普通に外に出てしまった。今から引き返す気にはならない。悠登が気だるげに呟くと章助も頷く。
「そうだな、図書室とか何階だっけ?引越しの時非常階段で段ボールリレーしたことしか覚えてねぇや」
「お前図書室なんて旧校舎でも行ったことないだろ」
「うん」
そう即答されると逆に言うことがなくなる。それを汲み取ったかこの話に飽きたか、たぶん後者。章助は頭の後ろで手を組みこちらを向いた。
「でもこうしてお前と二人で過ごす時間が増えたからいいや」
嬉しそうに言う章助を前に深い深いため息が出た。どうしてそうなる。
「おい、まさかお前の家で課題片付けるって話、忘れたんじゃないだろうな?」
あ、そんな話を学校に向かう途中でしたっけ。すっかり頭から抜けていた。
なぜなら、どうせコイツはいつも暇さえあれば呼ばれずともちょくちょく俺の家に来ては入り浸っていた。最近は課題に追われていたようだが我が家に防水プレーヤーを始め、様々なコイツの私物が各所にあるのがその証拠。
「だったらついでにお前が忘れてった雑誌とか持ち帰れよ」
横断歩道前の信号でそう言うと露骨に章助は眉間に皺を寄せた。
「お前は学校のロッカーに物を残すなって言う先生かよ…」
いや、お前のフィットネスマシーン、俺の親父に勝手に使われてるぞ。たぶん気にしないんだろうが。
「持ち帰らないと捨てるぞ」
信号が青に変わった瞬間悠登がそう言い捨て歩き出すと章助の表情が変わる。いらないのは捨てて、必要な物(※親父が)は残せばいい。
「ちょっと待てよ!高かったのもあるんだぞ!」
横断歩道を渡り終えたところで振り向きそう言った章助の鼻に人差し指を突き付けた。あ、ちょっと湿ってる。
「だったらなおの事だろ。今日はこっちでとりあえず少しお前の私物をまとめとくから今日と今度来た時は少しずつでも持ち帰れよ!」
「本当に先生じゃねぇか…」
何か言ったか?という意味を込めて悠登が睨むと章助は口元を押さえて首を縦に振った。それで良い。
都会ではないからということもあるが来る時と同じ、ほとんど歩行者とすれ違うことはなかった。公園前を通れば小学生が何人か遊んでいるのを見かけた程度。章助の話の聞き役になりながら悠登は自分の家へ向かう。この天気なら学ランではなくワイシャツで十分だったかもしれない。
「……じゃ、また後でな」
「あぁ!すぐ行くからよ!」
怒った相手に家に来いと言うのも変だがもう怒られたことを忘れたらしい章助は嬉しそうに太い尻尾の付け根を立てて悠登の家の先にある路地を曲がった。こうした流れもいつもとあまり変わらない。あぁ、アイツが来るんだしどうせなら少し部屋の片付けもしておくか。良い機会だから溜まっている去年のプリントも整理しておこう。
そう思い家の鍵を取り出し挿し込む。回して鍵が開いたことを確認して、それを抜き取って引き戸の玄関を開けた。外出時間にして約一時間強。
「あ……?」
玄関を開け、あまりに驚いて悠登は口をあんぐりと大きく開けた。開いた口のまま一度後ろを確認する。誰もいない。
一応自分の家の表札を見る。大理石に「獅子井」としっかり刻まれていることを確認して悠登は自分の家に入り、施錠はせずに戸を閉めた。
「…だ、誰……?」
「…………」
悠登は何故か自分の家の玄関に座る人間の少女に恐る恐る、そう話し掛けた。
♂♀
五才か六才くらいだろうか、肩口まで髪を伸ばした人間の少女はリュックサックを抱え大きな目をぱちくりさせて悠登を見上げていた。よく見れば、悠登の通う高校の通りをいくつか越えたところにある幼稚園の制服を着ている。悠登も章助も同じ幼稚園に通っていたからすぐに気付いた。
…なんでこの子はうちにいるんだ?鍵なら最初のページでわざわざ閉めたと書いた。となると窓かどっかから中に入った?そしてこの子はなんで答えてくれないんだ?
「えーっと……この辺で友達とかくれんぼとかしてた…?」
人間の子ども達に姿を見て泣かれる、というのは中学辺りの鬣がもっさりしてきた頃から既に何度も経験して慣れてしまった。残念なことに。
しかし、その対策として獣人の事情をわかってくれている世間慣れした親に愛想笑いをする。親が近くにいなかった場合ごめんねと言って逃げることしか今までしてこなかった。今回の場合、そのどちらも使えない。逃げようにも俺の家はここだ。今さっき確認した。
幸い悠登を見ても目の前の少女は泣き出す様子はない。ならばと極力怖がらせないように悠登は両手を軽く挙げて荷物を足下に置いた。何をしているのだろう。
少女は長い沈黙の後に首を横に振った。誰かと遊んでいないということは判明する。
「……そっか。…ここ、君の家じゃない、よね?どうやって入ったのかな?」
笑顔は怒っているように見えるんだったか。特にこんな幼い、自分の腰にも身長が満たないような少女に獣人の表情を判別するなんて無理だろう。悠登はなるべく表情は作らず、しかし刺激しないよう口調は穏やかに、優しく質問を続けた。
すると少女は突然持っていたリュックサックを横にぼん、と放った。予想外のその行動に思わず肩を跳ねさせてしまう。
そして彼女は制服のポケットから白い封筒を取り出すと悠登に差し出した。
「……俺に?」
少女は頷いた。どうしようと思ったが悠登はそれを両手で受け取る。
……あれ?紙だけじゃない。
既に開けられていた封を傾けると悠登の掌にポトッと鍵が収まった。顔を近づけてみるとそれは間違いない、この家の鍵だ。
「これで入ったの?」
先程と同じように少女は頷いた。どうなっているんだと思い鍵を封筒に戻す。
「なかもよんで」
喋った!少し舌足らずな声で少女はそう言いこちらを見ている。彼女から目を離せずに悠登はそのまま封筒から折り畳まれた手紙をスッと抜き取り開いた。そうしてようやく手紙に目を落とす。
その手紙には見慣れた癖字で簡単に要点だけ書かれていた。最初の一行で握りつぶしたくなる気持ちを抑えて悠登はそれを読み続ける。
【我が愛しの息子悠登よ!元気か!知ってる!だって毎日会ってるもんな!
今日お前にこの手紙を書いたのは他でもない!今お前の目の前にいるであろう楢原玲奈ちゃんについてだ!】
楢原、という単語を見つけて一度目を離して少女を見る。今も彼女はこちらを怖がる様子はなく、玄関に座り浮いている足をぶらぶらさせながら悠登を見て首を傾げた。
楢原?知ってるぞ。お隣さんだ。親父の親友の教師で何度も家にも来て酒盛りをしていた。そう、この手紙も完全に親父の字だ。
「楢原…玲奈ちゃん?」
「うん」
そう言われてみれば回覧板を届けに行ったことはあるし、子どもがいるなんて話も聞いたことがあった。さっきはリュックサックで胸元が隠れて見えなかったが制服に貼られたバラの形の名札にもひらがなで“ならはられいな”としっかり大きく書かれている。どうやらお隣さんの子らしいとは理解した。それだけ確かめ悠登は再び手紙を読み始める。
【知ってると思うがその子はお隣さん、パパの友達の娘さんだ!今日からしばらくその子を預かることになったんだよね。ここは今日から玲奈ちゃんのお家にもなるんで夜ろ死苦ぅ!
いやぁ、お前ってば前からパパに下の兄弟が欲しいからママと夜の運動会に励めって言ってたろ?良かったじゃないか夢が叶って!じゃ、そういうことで! パパより☆
PS.パパもママも仕事で忙しいから電話してこないでね。あと、今日はこの前買ってきた入浴剤を入れてお風呂沸かしといてくれると嬉しいな!】
「………」
要件を書いて俺の言ってもいない下ネタを挟み、雑務を押し付け、更にご丁寧に問い質してくんなよと釘まで刺してその手紙は締めくくられていた。露という漢字は書けなかったらしい。最後まで読んで今度こそ手紙をグシャグシャに握り潰す。玲奈がいることも忘れて。最後に丸めてボール状にしてからそれを思い出してハッとした。
「どうしたの?」
この手紙の中身はわかっていないらしい。これ以上近付いて大丈夫かと不安にも思ったが意を決して悠登は玲奈の隣に座る。
「あのさ…。君はお父さんから何か聞いてないかな?」
彼女の前でしゃがもうかとも思ったがこの顔が若干怖いことは知っている。だから敢えて隣に座った。玲奈はすぐに頷いてくれる。
「おとーさん、“たんしんふにん”しなくちゃいけないからおとなりのししーさんちでおるすばんしてねっていってたよ」
「……そうなんだ」
単身赴任。確か楢原さんの家は母親も仕事の何かで長いこと海外出張してたんじゃなかったか?それで寂しいとか言って親父と酒を飲んで泣いていた。となるともう別居でこの子一人が残されることになる。
何が…どうなっている?この子の話と雑な手紙だけじゃ全容を把握しきれない。悠登は自分がパニック状態と言わざるを得ない。こっちに落ち着きがないというのにどうしてこの子はこんなにも動じないでいるのだろう。
「おじさんのおなまえは?」
さてこれからどうしよう、と少し沈黙して落ち着きを取り戻そうとした矢先に玲奈からの殴打のような一言。さすがに初対面の少女にいきなり高一の自分がおじさん呼ばわりされると思わなかった。ごめんなさい、動揺を隠しきれなかった。
「お、お兄さんは獅子井悠登、だよ」
こんなセリフを本当に言う日が来るとは思っていなかった。この子にとって鬣さえあればライオンは大人なのだろう。早く大人になりたいと思う一方で青春の青年期をすっ飛ばされたこの虚しさ。今日という日に体験するとは思わなかった。俺は、ではなくお兄さんとわざわざ訂正した辺り自分もまだまだ若いと自覚する。それが見栄とは気付いていないのだが。
「そうだ、ここじゃ少し寒かったんじゃない?入りなよ」
少しずつ暖かくなってきているもののまだまだ上着は欠かせない。ましてや毛に覆われていない人間なら当たり前だ。皆が手袋やマフラーを欠かしていない。
そう思ったところで悠登は気付いた。何故、親戚じゃないのか。この子と自分達では種族の差もあるだろう。当然、彼女の服には尻尾を通す穴もない。考えれば考えるだけ色々と思いついたがそうしている間に玲奈は靴を脱いでそれをきちんとそれを揃えた。
「おじゃまします」
玲奈はそう言ってまっすぐ進んでいく。お邪魔します。人の家に入る時は当たり前に言う言葉。しかし悠登は先程クシャクシャにした手紙に書かれていた“今日から玲奈の家にもなる”という一文を思い出してしまう。
廊下を進めばすぐに居間に着く。居間と言っても畳みの敷かれた部屋に大きめの四角いテーブル、一昨年親父が福引きで当てて無理矢理持って帰ってきた大型の録画もできるテレビくらいしか説明するものはない。
「おっきい…」
玲奈は部屋に入ってすぐにテレビに気付くとその前に行ってあちこち見回している。それは俺も思った。棚の上に置いていたリモコンを手に取りスイッチを押して点けてやる。でも平日の昼時だ、子どもが喜ぶような番組はやっていないだろう。
パッと点いたテレビに映し出されるグルメレポーター。急に点いて画面にどアップで出現した恰幅の良い中年に玲奈は驚いて一瞬体が跳ねた。
「すっごーい!」
初めて聞いた玲奈の感情的な一言に悠登は少し笑みを浮かべた。そう言えば笑顔じゃなくて笑みなら人間にも伝わるらしい。今度試してみるか。
「リモコン、ここに置いとくね」
テーブルに置くと玲奈はすぐにリモコンを手に取り色々押し始める。慣れた手つきで迷いもない。
しばらくリモコンを預け彼女のさせるままにし、悠登は自分の荷物を部屋に置きに行った。そう言えば玲奈はどの部屋を使うのだろう。普通に考えれば客間か親父達の部屋か?
「このテレビ、すごいりっぱ!」
部屋から戻ると玲奈は俺に気付いてそう報告してくれた。
「で、でしょ?」
気に入ってくれて何より。しかしさっきより明らかにテンションが高い。少しぼんやりしてから居間に戻った自分に玲奈の方から話し掛けてくるとは思わなかった。
彼女の言うとおり我が家には相応しくない程の立派なテレビでとても目立つ。章助にも指摘されたっけ。…あれ?
悠登の頭から玲奈の事が消える。どうしても何かが頭に引っかかったからだ。
何だっけ。そう思い先程まで考えていた事を単語に分解して思い出す。玲奈、我が家、相応しくない、テレビ、章助。…しょう…すけ…?
「あ…!」
章助だ!奴が来る!それを思い出した悠登は鬣と尻尾の先の房毛をブワっと逆立てた。どうにかしないと!
すぐに携帯を開いて章助にメールする。【悪い、今日は都合悪い!またにしてくれ】
携帯を閉じて数秒、メールの受信を伝えて携帯が震える。開くと【何かあったのか】とだけ書かれていた。章助のレスポンスの速さにこういうときだけ感謝する。
何か、あった。テレビを食い入るように見ている玲奈の後ろ姿を見て苦笑すると悠登は携帯に文字を入力する。【落ち着いたら話すって。今日はちょっ
「悠登、どうしたぁ!」
文字の入力途中に外から大きな声が聞こえる。間に合わなかった。彼のレスポンスの速さ、巨体に合わないフットワークの軽さ、そして家の近さを呪った。すぐに玄関が勢いよく開かれ、ドタドタと騒々しい足音が聞こえたと思えば章助が姿を現す。そういえば鍵閉めてなかったっけ。家の入り方を知りつくしているコイツには無駄だけど。
「悠登っ!」
息を切らし、鞄を片手にワイシャツのボタンも全開にして居間に章助が入ってきた。そして人の肩を掴んでガクガク揺さぶり始める。
「なんで来ちゃうかなぁ…。しかもこの速さ、自転車使ったろ。なんだよその格好…」
もう何から言えば良いのかわからない。玲奈の方を見ればリモコンを握りしめて怒鳴りながら入ってきた章助に驚いて身を固くしていた。
そんな揺さぶられている俺の目線を追ったのか章助も玲奈の方を見た。二人の目がしっかり合うと俺の肩から手が離れた。
「こ、こんにちは…」
「こんにちは…」
章助の挨拶に玲奈も返し頭をぺこりと下げた。そのやり取りを終えると油の足りない機械のように章助はぎこちない動きで首をこっちに向ける。
「……隠し子?」
「ふんっ!」
そう言った章助に迷うことなく俺は彼の腹に膝蹴りを食らわせた。容易く沈みこちらに倒れ掛かってきた彼を避けると畳にドサッと顔面から着地する。年齢を考えろ、俺はお前と同い年だ。
「いだぁい…」
「……違うっての」
それでも一応否定する。こうなった以上誤魔化しても意味はない。
「ほんとか!」
いきなり章助は腹を押さえながら顔を上げる。悶絶していたんじゃないのか。逆にそのガチガチに割れた腹筋へぶつけた俺の膝の方が少し痛い。
「……ちょっと来い」
玲奈の前でする話ではない。悠登はそう思い章助を連れて廊下に出た。玲奈はこちらを気にしているようだったがテレビの音量を小さくして廊下に背を向ける。気を遣わせたのはこちらだったかもしれない。
手短に、と言っても会ってまだ一時間も経っていないから話せることは少ない。先程起きたこと、わかったことを有りのままに章助に伝える。
腕を組んでうんうん頷きながら悠登の話を聞いていた章助。最後まで聞くと彼は気まずそうに目を逸らして頭をバリバリと掻いた。
「羨ましい……」
何を言われるかと思えば。章助はしみじみといった様子で吐き出すようにそう呟いた。
「どこが?」
他人事と思いやがって。内心の苛立ちを隠すことなく怒気を声に込めて悠登は聞いた。
「だってこの家に住めるんだぜ、あの子!」
ぶちっ。にっこりして言い切った章助を見て頭の何かが切れた。
「お前が羨ましいのはあの子の方かぁっ!」
悠登は拳骨を思い切り章助の額に叩き付けた。鈍く重い音を響かせ章助は頭を押さえてうずくまる。
人間の小さな女の子と暮らせるなんて、とか言われると思えば。他人事どころか思い切り感情移入している。
「痛いっての……。可哀そうだろ、俺が」
いいえ。頭を撫でながら立ちあがった章助は目尻に涙を浮かせていたが悠登は彼に同情は微塵もしない。俺の味方でないのなら間違いなく敵だ。
「しかしよ、あの子の親戚とかはいないのか?」
頭から手を離した章助は俺と同じ疑問を口にする。誰でもそこには行き着くということか。
「俺もそう思った。けど今は二人とも仕事だから詳しいことはわからない」
「だからとりあえずテレビ見せてたってわけかー」
章助は廊下から居間を覗いて玲奈の様子を見ている。悠登は頷いて話を続けた。
「そういうこと。詳しいことがわかったら話…」
「じゃ、今日は居間で勉強会だな」
詳しいことがわかったら話す。だから今日はもう帰れ。そう言うつもりだったが章助は悠登の言葉を遮るように言うと居間に入って持っていた鞄から課題のプリントの束と冊子を取り出して広げる。
「どした?早くやろうぜ」
こっちが気にしていることを何でもない事のようにスルーして章助はこちらを見てくつろぐ。玲奈も目の前の虎野郎をチラチラ見て気にしていた。
「君、悠登ん家のお隣さんで玲奈ちゃんって言うんだって?」
無遠慮に章助が聞くと玲奈は静かに首を縦に振った。
「俺、虎澤章助。よろしくね」
もう一度玲奈は頷く。それで満足したのか足を広げて座る章助は居間の前で立っている悠登に顔を向けた。完全に帰れと言うタイミングを逃した悠登は章助を追い返す気力も失せて自室から数学の冊子を持ってきた。…ついでに飲み物と飴を数個用意して。
「お前が変に意識するとあの子も余計に緊張すんだぞ」
居間に戻って章助に言われた最初の一言がそれだった。俺が心配しているのは、玲奈がこの家に来ていきなり虎澤章助という異物に遭遇したことなのだが当の本人達が気にしていない。
玲奈に紙パックのリンゴジュースと飴を渡してやるとありがとう、と言った。そして小声であのおにいちゃんかっこいいねと囁く。俺の時はおじさんだったのに。訂正した効果だと思いたい。いや、そうに違いない。
かっこいいと言ったり動じないところを見るとどうやら人間の子ども特有の獣人差別も恐怖も玲奈には無いらしい。悠登と章助、この第一印象が大抵は猛獣と言われる二人に構わずテレビを見て隙だらけの背中をこちらに向けているのだから肝が据わっている。それともよくわからないから反応しようがない、というのが正しいのだろうか。
何はともあれおとなしくテレビを見てくれているのはこちらとしてもありがたい。章助もたまにテレビのBGMに合わせて鼻歌交じりに課題を進める。
それから数時間、冬に比べ格段に陽は長くなったものの段々と窓から射し込む日光が橙色になる。空も暗くなってきた。
「今日はこんくらいで勘弁してやるかっ」
部屋の中も暗くなり始め、電気を点けようかと思った頃に章助はそう言ってペンを放った。ふー、なんて息を吐きながら大の字に倒れる。
「終わったのか?」
悠登がそう尋ねると章助はすぐによっ、と腹筋を使って起き上がる。
「……まだだけど。お前はどうよ」
やる時はやる、ということで二人は黙々と課題を進めていた。しかし疲れからか、それとも聞かれたくないことだったか章助の表情は暗い。
「今日は早めに始めたしな、いつもより進んだぞ」
悠登が答えるとそうか、と呟いて章助はテーブルに突っ伏した。これ以上は言うまい。残りも結局は彼次第なのだから。
「なぁ、腹減った。ご飯は?」
顔だけ起こしてじっと章助はこちらを見る。そういえばそろそろ夕食や風呂の支度もしないと。何も考えていなかった。
「まだ決めてない…って、食べてく気か?」
顔を跳ねるようにして章助が頷く。まるで当たり前かのように。
「その…玲奈ちゃん」
だらける虎はひとまず横に置いて、悠登が名前を呼ぶと玲奈はテレビのリモコンを持ったまま振り返る。よほど気に行ったのか。
「お腹空いてない?これから作ろうと思うんだけど何か食べたい物ってある?」
悠登が聞くと玲奈はリモコンから手を離しこちらにやってきた。歩く様子は若干まだ怪しく落ち着きがない。
「……ハンバーグ」
「ハンバーグ?」
ボソリと答えた玲奈に聞き返すと彼女は頷いた。
「うーん、材料ないな。買ってくるか」
冷蔵庫にはそれなりに食材もあったがひき肉はなかった。この時間なら少し混んでいるだろうがスーパーに行くしかない。しかし夕食の時間が遅くなる程の時間はかからないだろう。
「よし、ちょっと行って…」
ちょっと行ってくる。そう言おうとした。だが、この二人に留守を任せて良いものか。特に章助。コイツは恐らく俺の部屋を嬉々として漁る。トイレに行くため席を外し、嫌な予感がして静かに部屋に引き返したところ彼は色々とやらかしてくれた。
「……お前帰れよ」
「俺もハンバーグ食べたいぃぃぃい!」
突っ伏したまま子どものように駄々をこねる自分より身長のある高校生。非常に鬱陶しい光景なのだが良いことを閃いてしまう。
「じゃあお前がひき肉買ってこい。お金渡すから。あー、お釣りで飲み物一本くらいなら買ってもいいぞ」
悠登がこの二人だけを家に残さないでひき肉を手に入れる。その最良の方法がこれだ。これなら悠登の部屋の安全は確保され、玲奈も一人にせずに済む。完璧と言っていい。
章助は渋っているようだったが彼に選択肢は多くない。諦めると言うならこのまま帰ってもらってもかまわないのだから。
「……わかったよ」
しかし、彼が断わるわけがないということを悠登は今までの経験から確信していた。自分の方が料理は上手いくせに何故か彼は悠登の料理は食べたいとよく話す。こちらから言えば両親が忙しく弁当を自分で作る機会がどんどん増え、自然と身に着いた程度。強いて料理ができると思うことはなかった。
章助に紙幣一枚握らせ、自転車を漕いでスーパーに向かう彼の背を見送る。彼なら合びき肉を間違う心配はない。そして戻るといつの間にか玄関に玲奈が立っていた。
「どうかした?」
悠登が聞くと玲奈は俯いた。
「わがままいってごめんなさい」
そう言って玲奈は頭を下げる。こちらは少しも気にしていなかったというのに。
「謝ることなんてないんだよ?えっと…」
こういう時、何と言ってやればいいのか。下の兄弟のいない悠登にはわからなかった。そうして会話が途切れてしまう。本当にこの子の方に気を遣わせてばかりだ。
まだ納得はできていない。事態も呑み込めていない。だが、だからこそこのままおざなりにしていいことにはならない。全ては親父達、そしてこの子の親の話を聞いてからだ。
親が帰ってくるまでに俺の作る特製ハンバーグを食べてもらうくらいの時間はある。何かあってもせっかくこうした縁でこの家にいるんだ。せめてテレビのデカい家という印象だけで帰すことはしたくない。
「……章助がお肉買いに行ってる間に俺達もできることしよっか」
ぎこちなかったと思う。しかしできるだけ穏やかに、口を閉じたまま口の端を持ちあげた。玲奈にこれが笑顔だと正しく伝わったかはわからない。しかし彼女もまた、少し口角を上げたように思えた。
ハンバーグ。意外と迷うことなく玲奈から聞けた料理は可もなく不可もない。一応そうしたこねる、という行為を料理でする際に俺は手袋をはめる。毛が入っては問題だからだ。俺達の手は掌に毛はないが手の甲は全身と同じように短い毛に包まれている。それを人に食べさせるのは個人的に抵抗があった。そう言えばその辺の料理店でもハンバーグやパンを作る等の担当に獣人が採用されているという話はあまり聞かない。
そもそも肉が無いのでできることは刻んだ人参と玉ねぎを炒め、冷ましておくくらい。玉ねぎだけでないのは父親が人参嫌いと聞いて、何とかして食べさせようと思い試しに入れた。それがいつの間にか獅子井家のハンバーグに定着している。この程度、風呂に湯を張っている間にできてしまう。あぁ、玉ねぎが目に沁みた。
「風呂…まだ張り終わるまでに時間あるな」
一応追い炊き機能は付いているが二度手間になる。そのため冷める前に入ってもらいたい。今日は夕食と風呂、両親はどっちを先にするべきか。ハンバーグなら冷めても問題はない。野菜は多めにしたしパン粉も牛乳に浸けた。いつ帰ってくるかはその日によるがそこまで遅くはなるまい。まして、今日は玲奈がいるのだから。
「……だよな」
玲奈は…風呂をどうするんだろうか。普通に考えれば、母だ。というか、それしかあるまい。
「どうしたの」
居間に戻ってピタ、と止まった悠登を見て玲奈が顔を覗き込んできた。さっきまでやっていたドラマの再放送が終わりテレビではニュースが淡々と流れている。
「いや、なんでもないよ。玲奈ちゃん、着替えとかはある?」
そうだ、彼女に聞けることはまだあった。決して下心はないが何か不備があって対処が遅くなると大変だ。もっと早くに気付くべきだった。
「うん」
玲奈はすぐに返事をしてリュックサックを引きずってきた。ファスナーを開けるとポンポン衣類が次々に出てくる。
見れば服だけでない。歯ブラシ等の洗面用具にトランプ、謎のフィギュア、その他コップ等の雑貨から嗜好品まで。本当にそのリュックサックに入れることができたのか疑わしくなる量が居間に広げられた。
「…寝巻はこれ、ね」
少し呆気には取られたものの、しばらく泊るには十分。準備したのは玲奈の父だろうが、彼が本気で預けるつもりらしいと十二分に伝わってきた。悠登はとりあえず寝巻らしきものだけ預かり他は部屋の隅に崩さぬように積む。
「たっだいま~!」
玲奈への憂いの一部は解消できた。そこに安心する間も与えぬ絶妙なタイミングに玄関が開いた。声からして親父じゃない、章助だ。本当に自分の家へ帰ってきたようにしっかりと馴染んでいる。
「あったのか?」
ともかく要件が先だ。ビニール袋片手に入ってきた章助は出る前と変わらず、ボタン全開。
「あそこのスーパー、いつから袋に金取るようになったんだ?なんか悔しー…」
そんなことをぼやいている章助から袋を受け取り中身を見るとお買い得品と値札の上にシールが貼られたひき肉。文句はないがエコバックも持たせるべきだった。
「お前、余計なもん買わなかったのな」
「当たり前だろ。ほれ、お釣り」
渡されたレシートと釣銭を確認すると財布に戻す。自重したのは玲奈がいたからだろうか。
「さぁ、作ってくれよ!これ以上は我慢できない!」
そうまで言われるとちょっと焦る。だったら飲み物でもおにぎりでも食えばよかったろうに。そのための手数料代わりとして多めに持たせたのだから。
「あ、風呂の湯見てきてくれないか。溜まってたら止めて蓋閉めといてくれよ。と、その前に入浴剤入れといて」
時間と章助の有効活用。二つ返事で浴室に向かった彼を見送り、悠登は肉を片手にキッチンに戻ろうとした。
「……うん?」
しかし、ふと悠登の足が止まる。振り向けば玲奈がズボンを掴んでいた。
「どうかした?」
「わたしもなにかてつだいたい」
玲奈の申し出に面食らった。トイレがどこかとか言うのかと思いきや。感化されたのは章助だけじゃなかったらしい。
どうしよう、と考えたがちょうど良い。手伝ってくれるというのならやってもらいたいことがある。
「じゃあハンバーグ握ってみる?準備はこっちでやるからさ」
悠登の提案に玲奈は嬉しそうに頷いた。
玲奈が手伝うと言ってくれてからすぐに悠登はハンバーグの種作りに取り掛かった。と言っても先程の野菜とパン粉に調味料と肉を加え、粘るまで混ぜ合わせるだけ。ここはビニール手袋をはめてやった。
それが終われば彼女の出番。自前の子ども用エプロンを着用して玲奈はその毛の無い小さな手でハンバーグの形を手で作り始めた。
「そうそう、右手と左手でポンポン投げて…」
思った以上に玲奈は上手かった。悠登から何か言わずともどんどん作っていく。エプロンを持っていたことから以前より料理の手伝いはしていたらしい。彼女の手が小さいため今回は一口大のハンバーグを量産することになった。そして大きめの肉団子のようになったいくつものハンバーグを熱したフライパンに敷き詰める。それでも焼き切れずに二回に分けて焼いた。残りは親の弁当用に冷凍しとくか。
「ソースはどうする?」
「しょうゆ!」
ふと、味を決めてなかったと思い、焼けて良い匂いを発し始めたハンバーグを椅子の上に立って見ていた玲奈に聞いてみた。すると彼女は迷うことなく即答で醤油を選択した。デミグラスソースだとかカレーソースは一応パックで買ってある。
だが、玲奈がそう言うならと焼き上がったハンバーグを親用、翌日以降用、今いる三人用の皿に分けて茶碗に昨日の残りの米も盛り、配分する。玲奈の食べる量は考慮したつもりだが残すようなら章助も悠登もいるため心配はあるまい。
「隊長!風呂の準備完了!入浴剤でお湯の色はオール・グリーン!保温状態にして現状を維持しつつ待機、いつでもどうぞ!」
どっかのエセ軍隊のような言い回しと共に章助が敬礼しながら現れた。全身を若干濡らして。そう言えばハンバーグの種を準備していた時からずっと静かだった。まさか。
「お前…」
「お先に風呂、いただきました。あ、下着なら大丈夫。途中で家に寄って持ってきたし」
ウィンクまでして何が大丈夫なのか。頭が痛くなってきたがその前に章助の腹から獣のような唸りが上がる。
「ごはんに…しよ?」
玲奈の提案に悠登は力なく頷いた。元々そのつもりだったのにどうしてこんなに脱力してしまったのだろう。
お前が首から掛けているそのタオルはこの家のだと思いながら悠登は章助にハンバーグと茶碗を運ばせた。悠登は人数分のコップとお茶を用意する。
「……うまいっ!おかわりっ!」
焼けたハンバーグと白米を口に詰め込んで章助が吠えた。そんなに口を開くと溢すぞ。
「……どうも」
でも、うまいと言われて満更じゃない。結局親が帰ってこないためこの三人で早めの夕食が始まった。玲奈は意外にも正しく箸を持って醤油を垂らしたハンバーグを割って食べている。
教育はしっかりされていたということか。しかし本当に小さな口だと感心してしまう。口の開き方が俺達獣人とはまるで違う。自分にも小さい時があって、こういう時期もあったのかと聞かれても思い出せない。
「どうしたの?」
小さな口で米を呑み込むと玲奈はそう言ってこちらを見た。気にしていたのがバレて声を詰まらせてしまう。
「美味しくできたか気になってるんだよ」
向かいに座る章助がフォローするようにそう言うと玲奈が箸を置いた。
「うん、すっごくおいしい!」
そう言って玲奈はこちらを見てにっこり笑った。先程テレビを見て驚いていたのとはまったく違う、初めて見た彼女の笑顔だった。
「美味しくできたのは玲奈ちゃんが手伝ってくれたからだよ、きっと」
悠登の感想に玲奈はまた笑ってくれる。こちらからしても小さく作ろうとしたことはなかった。いつも大振りの物が良いと言うやつがいたからたまにはいい。
「たぁだいまぁぁー!」
噂をすれば、というか少し頭の中に思い浮かべただけ。それなのに帰ってきてしまう。この家の主その一が。
「悠登よぉーい!」
「はぁ……」
居間に入ってきたのは章助よりもボリューム、硬度の双方勝るマッシヴな筋肉を見せつけるようにタイトな黒いタンクトップを着、ニッカポッカを穿いて頭にはタオルを巻いたライオン頭の獣人。それを見てため息を洩らしたのは俺だ。
「はぁじゃなくておかえり、パパ!だろ?」
「うっせ」
無視して米とハンバーグを口に押し込む。粉末でもいいからスープか味噌汁も用意すべきだったと今更思う。
パパと名乗る彼こそが俺の親父、獅子井譲司である。その肉体を活かすための仕事か、仕事のために完成したその肉体か。どちらがが先かはわからないが彼は工務店で建築大工に勤しむ男だ。むさ苦しさで言えば正直章助の比ではない。
「お邪魔してます!」
「おう章助君!なんか若干久しぶり!」
そして章助と親父はとても仲が良い。付き合いの長さはもちろんあるのだろうが、よくある表現を借りるとまるで年の離れた兄弟だ。たまに年の差を感じさせないことすらある。実際親父はまだ四十歳に達していないため若い部類には入るのだが。
「はぁ…いつ見ても凄い肉体だよなぁ……」
親父を見て章助の洩らしたため息は俺のうんざりする意味の方ではなく、まるで見惚れてうっとりするような気持ちが込められている、ように思える。彼が体を鍛えているのは譲司の体に憧れているのでは、と悠登は考えていた。悠登にも、譲司にすら彼はまだ本音を話はしないのだが。
「玲奈ちゃん、ごめんね。悠登がいないと思ってなくてお留守番させちゃったよね」
章助に挨拶が済んだところで親父はしゃがんで玲奈に目線を合わせて話し掛ける。玲奈はううん、と首を横に振る。
「すぐにかえってきてくれたから」
あれ?この二人、面識がある?
「もしかして俺が出かけている間に連れてきたのか?」
悠登の問いに譲司はいきなり立ち上がる。
「そう!ちょっと昼に仕事場抜け出して玲奈ちゃんを預かってきたのだよ!」
腰に手を当て偉そうに何を言っている。
「で、ここでお兄ちゃんとお留守番しててねーって言ったんだけどそうしたら悠君ってばいなないんだもん。パパびっくり!」
間が良かったのか悪かったのか。親父の言う通りに話を進められたら逃がさなかったろうな。
「だから手紙を書いて、鍵と一緒に渡してパパは仕事に戻ったのだ!」
それで俺は事情も聞けぬまま何とか耐えたわけか。サプライズという意味ではこれ以上ないほどの威力だったと言える。
一方的に話を終えるとどっかりと座り譲司はテーブルに目を向けた。その視線の先にあるのはもちろんハンバーグ。
「アッー!今夜のオカズはハンバーグじゃん!」
「先に風呂にしろって。その間に用意しとくから」
仕事終わりで空腹だろうがまだあまり時間の経ってない風呂を先に済ませてもらいたい。その引き換えにすぐ用意すると言ったのだから。
「入浴剤、入れてくれた?」
「入れた入れた」
そう言うと嬉しそうに親父はタンクトップを脱ぎつつ浴室に行った。親らしくはないと思う。しかしそれが彼だった。昔からずっと、大して変わらない。
「じゃあ俺は食器片付けとくか…」
三人の空になった皿と茶碗をまとめて手に持つ。親父達には自分で洗ってもらうことも多い。だから今日はこれだけで済むかも。
「ご飯、あれくらいで足りた?」
確認のため茶碗を見せながら玲奈に聞く。悪いがどれも同じ大きさの茶碗しかないため器の大きさに合わせて盛れば彼女には確実に多い。
「うん、ちょうどよかったよ」
「そっか。なら良かった」
腹をさすりながら満足げに玲奈がそう言ったので安心する。無理に食べさせても少なすぎても悪い。少ない場合はおかわりでもさせればいいのだが。
食器を水に浸け少々洗剤を垂らす。これを洗ったら次は親父の飯の準備、か。
そう思ってスポンジを手に取ったところで玄関の開く音が聞こえた。これでやっと揃ってくれたと言える。悠登は一度スポンジを戻して居間に向かった。
「あ、ただいまー」
居間の前で会ったのはピンク地の制服を着た鬣のないライオンの女性。この家の主その二であり、俺の母親だ。仕事は簡単に言うと本人曰くオフィス・ライオネス、略してOLに分類される。
「おう、おかえり。あぁ、章助が来てる。あと…」
悠登が話す途中で母、獅子井涼が頷いた。
「玲奈ちゃんでしょ、わかってる」
……それなら何故教えてくれなかった母よ。どうせ親父が黙ってろとか言ったんだろ。
「それよりうちのダーリンは?玄関に足袋がぶん投げてあったけど」
「あぁ、風呂に入ってるから母ちゃんは先に…」
風呂と聞いた時点で涼は既に空になった弁当箱を悠登に渡して居間に背を向けていた。
「じゃ、一緒に入ってくる。今日もお弁当ありがと」
食事を先に済ませてほしかったのだがこうして帰宅時間と重なると一緒に入ることが多かった。そう言うのなら仕方ない、さっさと洗って二人がすぐ食べれるようにしておこう。
「なんか…今日ってなんでこんなに忙しいんだろ…」
譲司の足袋を揃えて、近くに置いてあった彼の分の弁当箱もついでに回収。洗い物も増えてしまった。
キッチンに戻って再びスポンジを持って泡立てる。こうして食器を洗っている時や掃除をしている時、それは自分が一番無心になっている時間のような気がする。少しの間で良い、全部忘れよう。
「お、もう終わったのか」
「まぁな…」
時間にして十分経つかどうかの食器洗浄を無心で終え、居間に戻ると章助と玲奈が少し離れてバラエティ番組を見ていた。最近そういう番組を見ることは減ったなぁ。章助の横に座って短い間だがぼんやりとする。両親が風呂から上がるまでのつかの間の一服。いつもならこの時間は風呂も終えて部屋に戻っている頃だ。それなら玲奈はもうそろそろ寝る時間だろうか。
「げ…!」
どうして忘れていた。どうして話は後回しにされると決めつけすぐに母を追わなかった。すぐに悠登は立ち上がり廊下へ出る。章助と玲奈が悠登の声に振り向いたがそれを無視して向かったのは浴室。
「おい!二人とも!」
中がどうなっているか見る勇気はないので浴室の扉をドンドン乱暴に叩く。しばらく経ってから磨りガラスのむこうに大きなシルエットが浮かんできた。
「はぁ…はぁ…。どうしたよ」
戸が少し開いて現れたのは息を切らした親父だった。ずぶ濡れの鬣を前からだらしなく垂らした親父は子どもが見たら間違いなく妖怪の類いだと思う。
しかしこの妖怪に臆する悠登ではない。生まれてからずっと見ている顔だ。どれだけいかつくても慣れてしまう。
「おい…あの子って本当にここに住むのか?」
そう言うと親父は鬣を手で退かし目を覗かせた。
「はぁ…はぁ…。当たり前だろ」
当たり前とは思わないがそういうことを言われるとは思っていた。
「だったらあの子の風呂、誰が入れるんだよ」
今なら間に合うかもしれない。母に任せようとしたがそれをすっかり忘れていた。
「はぁ……お前…風呂まだだろ?一緒に入って勝手教えてやってよ」
そう言って親父は扉を閉めようとした。しかし、それを許す俺じゃない。すぐに悠登は扉に手を滑り込ませた。
「なんで俺が…!」
「頼むよ、貴重な夫婦水入らずのひと時なんだからさっ。今日だけでいいか……らっ!」
話の続けようがなかった。先読みしていた親父は戸に引っかけた悠登の指を弾いて完全に閉めた。今度は鍵までも。
有無を言うこともできずに浴室を背に悠登は引き返すことになった。もう、怒った。家族会議決定。
「あ、戻ってきた」
居間に戻ると人の家で自分の部屋のようにくつろいで呑気にテレビを見ている章助。悪いが今日はお開きだ。
「今日は帰れ。ちょっと話すことができた」
そう言うと章助はゆっくりと身を起こした。玲奈はこちらを見ているが今この子に俺が考えていることは知られたくないので平静を装う。
「まぁどうにせよ…頑張れや。な?」
悠登の肩を叩いて章助は静かに帰った。こういう時は空気が読めるのだからいつもすぐに帰ってもらいたい。
「まだ眠くない?」
章助が閉めた扉をしばし見て居間に戻った悠登は玲奈に静かに話し掛ける。親父の言い分からして慣れなくてはならないのだろうがどうにも上手くいかない。
「ちょっと」
「じゃあ、先に歯磨き済ませようか」
眠そうに目をこする玲奈を連れて洗面所に向かう。その頃には隣の浴室も静かになっていた。
玲奈と歯磨きを済ませている間に両親共に風呂から上がり、ずぶ濡れの毛皮を拭きながら居間に入る。玲奈を先に浴室に向かわせる間に悠登は両親の茶碗に米を盛った。
「ま、お前もいつか経験することだからさ、早い方が良いんじゃない?」
「後で覚えてろよ…」
父、譲司にそう捨て台詞を残して悠登も風呂に向かった。そして母は楽しそうにこちらを見ながらハンバーグをかじっていた。
×
「……」
風呂を終えると玲奈を寝かしてくるように、と父は言った。そして彼に案内されたのは悠登の部屋。扉を開けると普段使っているベッドの横に布団がもうひと組敷かれている。枕はピンクの可愛らしいデザインで見たことのないものだった。俺と玲奈が入浴している間に用意したらしい。そこに譲司は玲奈を寝かせると居間に戻ろうと言った。
「俺が何を言いたいかはわかるよな」
「言いたいというか、聞きたい、じゃないの?」
居間に戻ると譲司は胡坐をかいてにっこり笑った。
「玲奈ちゃん、俺は何度か会ったことあるけど良い子でしょ」
「そうじゃなくて…。どういう経緯でこうなった」
まだるっこしいのはもういい。悠登がはっきり言うと譲司は鬣を掻いてから自分の携帯を取り出した。何度か太い指でボタンを押して、それを悠登に差し出す。
「じゃあさ、直接聞きなよ」
欠伸をしながら言った親父はただ面倒臭がったと思った。しかし、それが一番早いとは俺もわかっていた。
呼び出し音がしばらく鳴る。一度耳元から携帯を離して画面を見ると既に四十秒鳴らしていると表示されていた。
「……もしもし?」
唐突にその時は訪れた。電話のスピーカーの向こうから中年の声が聞こえる。
「あの…獅子井です。楢原さん、ですか?」
「あ?譲司?どうした、玲奈に何かあったのか?」
声の主は悠登が名乗るとすぐに玲奈の名を出した。間違いない、玲奈の父親だ。
「違います。俺、譲司の息子の悠登です」
携帯の奥でへ?という声が聞こえた。心なしか眠そうに思える。
「悠登君?あぁ、久しぶりぃ~!」
急に声が元気になって嬉しそうな声が聞こえた。こちらとしてはあまり印象に残っていないのだが。
「急にすみません、もしかして寝ていましたか?」
「う?あぁ…ちょっと引越しの荷物いじってて昼寝のつもりが…え?もうこんな時間か!しまったなぁ…」
やはり敬語で喋る悠登に気付かず譲司と言ったことといい、寝ぼけていたらしい。
「……掛け直した方がいいですか?」
「いやいや、起こしてくれてありがとう!で、どうしたの?」
こちらとしてはすぐにでも話を聞きたいが一応の社交辞令。ここでじゃあまたね、と言われたら食い下がっていた。
「あの、親…いえ、父から玲奈ちゃんを預かる事情について聞いていなかったんです。それで話を聞こうとしたら携帯を渡されたので」
そう言うと笑い声が聞こえてきた。
「ははは、君を驚かそうとしたんだね」
たぶん。というか、そうとしか考えられない。
「うーん、こっちはそれなりに前から話していたんだ。単身赴任でさぁ…。僕んとこの奥さんが海外にいるってのは聞いてる?」
ようやくまともに話をしてくれる人が現れた。それに妙に感動して悠登ははい、と携帯で話しているのに頷いてしまった。それを見てにやにやする親父も今は捨て置く。
「で、単身赴任してる間玲奈を預かってくれないかとは話したんだけど…」
そこまでは玲奈本人からも聞いている。しかし解せない部分があったことを思い出して悠登は彼の話に身を委ねるのを中断した。
「あの、どうして玲奈ちゃんを一緒に連れて行かなかったんですか?それに、親戚とかじゃなくてどうしてこの家に?それがわからなくて」
一番言いたかったことはこれで言えた。電話の向こうもしばし静かになる。
「うーん…親戚はさ、近くにいないんだ。こっちでも探してみたんだけどね」
乾いた笑い声が聞こえる。
「で、玲奈にも時間を掛けて話を聞いてみたんだ。僕と一緒に来ないかってね」
そういう話はちゃんと出たらしい。だからこそ、続きが気になる。
「でも玲奈は戻ってくるなら動かないで今の幼稚園を卒園したいって言ったんだよ。それは玲奈に決めてもらったんだ」
「それで親戚が近くにいないから家に、ですか」
うん、と聞こえた。親父も聞こえているのかいないのかうんうん頷いている。とりあえず親父に背中を向けて話を続けた。
「そうなんだよ、玲奈はここにいたいって言うのに預けられる親戚が近くに住んでないって相談したらすぐ、隣の俺を頼れば良いじゃねぇか、って言ってくれてさぁ。あの時は男らしさに思わず惚れそうになったよ」
後ろに顔だけ振り返ると、その男らしい人物は大きな欠伸をして下着のランニングシャツの中に手を入れて腹を掻いている。ある意味これも男らしいのだろうか。悪い意味で。
「……事情はわかりました」
経緯について聞くという目的はしっかり果たせた。まさか本人と直接即日話をすることができるとは考えていなかったので後に引きずることはなさそうだ。
「……やっぱり迷惑だったかな?」
突如スピーカーの向こうから聞こえてきた一言に思わず声を詰まらせた。
「い、いえ…ただ、びっくりしただけで…」
電話の向こうから声は聞こえない。
「……」
どうしようかと迷った。だがここで黙っても仕方ない。それが今一番してはいけないことだと思う。
「親と離れて暮らすってあの子にとっていいのかな、と思います」
しばらく黙っていたが遠くでそっか、と聞こえた。
「でもあの子の意思を尊重してあげるのも大事だと思います。だからこの判断が正しいかはわかりません。わかりませんけど…俺達はお宅の娘さんを大切に預からせて頂きます」
どっちが間違っている、正しいとは言えない。両方を両立することができなくてこうなってしまっただけだ。これが最良の選択かは今わかることではない。
しかし、悠登はこうなった以上それを受け入れると決めた。これもまた、いくつかの選択から自分で決めたこと。だから悠登は自分でも驚くくらい気持ちをはっきり伝えられた。
「ありがとう。よろしく頼むよ」
そう言われたところで電話を親父に向けた。だが手を振って受け取るのを拒否している。
「あの…父に代わりますか?」
「え?向こうに話すことがあるなら代わるけど…」
もう一度差し出した。今度は体ごと首を振って嫌がっている。
「……ないみたいです」
「玲奈ももう寝てる時間だよね。…それじゃ、また何かあれば」
そうして電話は切れた。そうだ、玲奈とも話をしたかったろうに。
「……終わったか?」
「なんで電話に出なかったんだよ」
電話を投げて親父に返すと笑って誤魔化した。
「電話にはでんわ!なんつってな」
譲司のくだらない駄洒落に辟易して目を逸らすと涼がテーブルに突っ伏していた。これは半分寝ている。
「ほら、まだ寝るなって…」
揺すって起こそうとすると譲司に手を掴まれる。
「……はぁ、俺は歯磨き済ませたからな。ちゃんと歯ぁ磨けよ」
「お前も宿題しろよ」
母を寝かせておいてやりたいということなので後は任せる。どうせそのうち起きるか運んでいくだろう。これもまたいつものことだ。
窓もカーテンも閉められた暗い部屋に戻ると寝息を立てて眠る少女。その少女を起こさないように悠登は自分のベッドに入った。すぐに壁と向き合うように寝返り目を閉じる。いつもの寝る時間には早いが先に寝ている玲奈を起こすわけにはいかない。
頭の中で様々なことが過る。どうせ両親は忙しい。今までと同じように玲奈についてもほとんど任せられるだろう。金の問題に関してはこちらでは手に負えないが。
今日は本当に濃い一日だった。しかしこれならすぐに眠れそうだと思う。春休み中は夜更かしも多かったからたまにはこういう日もあるべきだ。
そう思った悠登の狙いの通り、あっさりと眠りに落ちた。今日は昼寝をする暇がなかったからかもしれない。
「……う?」
それから数時間。唐突に悠登の目が覚めた。少し顔を上げて時計を見るとまだ日付は越えていない。すぐに寝直そうと目を閉じた。
「痛っ…」
その時、頭が痛んだ。違う、鬣を引っ張られたらしい。すぐに悠登は身を起こした。
「…トイレ、どこ……?」
ベッドのすぐ横に玲奈が立っていた。足をもじもじさせて。悠登は反射的に彼女を抱えて駆け出した。そう言えばトイレの場所を教えていなかった。ということはこの子は昼からずっと溜めていたことになる。いや、風呂で済ませていたかもしれないが。
「ごめん、もうちょっと我慢して…!」
もう少しでこの日が終わる、というところでまさかの失態。この後でようやく悠登の長い一日が終わることになった。
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