第3話 花の香の君

 周辺国の巡察からノルウィッチ城に戻ったアル・イーズデイルを迎えたのは、どこかせつなくなるような甘い香りだった。


 ふわりと儚く、けれど無視できないほどに強く漂う香りに戸惑っていると、通りすがったメイド長が軽く会釈して香りの理由を教えてくれた。

 いわく、なじみの庭師が香りの強い花をピアニィに献上しに来ているのだと。ピアニィも執務室にいると聞いて、ぼんやりと頷きアルは廊下を歩き出した。


 甘く、強く、漂う香りはどこか懐かしささえ感じさせる。

 どこで嗅いだ香りだったか―――記憶をたどりつくす前に、アルの足は見慣れた扉の前についていた。

 軽くノックして、開いた扉からはそれまでとは比べものにならないほど、強い甘い香りがあふれ出る。

「あ、アル! お帰りなさい!」

 幾重にも花弁を重ねた大ぶりな花を、いくつも抱きしめたピアニィが振り向き、嬉しそうに声をかけてきた。

 ひとつがピアニィの顔ほどもありそうな花は、濃淡はあれども女王の髪と同じ薄紅色をしていて。

 たた、と駆け寄ってきたピアニィがニコニコと、抱きしめた花束を差し出してきた。

「見てください! このお花、ピアニィって言うんですっ。ジニーちゃんが持って来てくれたんですよ!」

「別称を、百花の王とも言う花ですな。まさに陛下にふさわしい」

 積み上げられた書類を分類しながら軍師が補足する。その横で、やに下がったとしか言いようのない緩んだ表情の庭師が花瓶に同じ花を生けていた。

「あぁ……そうか。……綺麗だな」

 ぼんやりと返した言葉に、ピアニィが頬を染め―――精彩を欠いた声に気づいたのだろう、翡翠の瞳を瞬かせながら身を乗り出した。

「……アル? どうかしました?」

「…………いや……香りが、強くて」

 呆けたようなアルの声に、庭師が緩んだ顔を引き締める。

「す、スミマセン! 花粉の莢を取り忘れておりましたっ」

 慌てて道具を取り出す庭師の背中に、軍師ナヴァールは小さく笑い声を上げる。

「まあ、そこまで焦ることもあるまい。書類を崩してくれるなよ」

「そんなに香りします? あたし、あんまり感じないんですけど……」

 花束に顔を近づけるピアニィの、肩先でさらりと薄紅の髪が揺れ―――ふわりと、あらたに香りが漂う。


 頭の中まで、甘い霞のかかったような不確かな状態で。

 アルはただ心のおもむくままに―――香りを感じるその中心に手を伸ばした。


 牡丹の花を紡ぎあげたような、輝く薄紅の髪に触れて、ひと房をそっと取り顔を近づける。

「―――――あ、あ、ア、アルっ……!?」

 狼狽しきったソプラノに構わず、息を吸い込むと―――切なくなるような甘い香りが胸に満ちた。

「…………あぁ、やっぱり。花じゃない、この香りだ。よく似てるけど―――」

 得心したように呟いて。アルが視線を上げると、そこには見たこともないほどに真っ赤な顔をしたピアニィがいた。

 どうした、と問いかける直前に………自分のしていることを思い出して。

「―――――――っ、ぁ…っ、その、悪ぃ……っ」

「…………ぁ……ぃえ……ぇと……っ」

 慌ててピアニィの髪を離し、一歩下がって距離を取り直すと、耳まで赤い顔が胸に抱いた牡丹の花束に埋まる。


 ぎこちなくも甘い空気を漂わせるふたりを、軍師と庭師がただニコニコと見守っていた。

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はなびらの落ちる隙間 さいころまま @saikoromama

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