第2話 ビネツノカンケイ
バーランド城の自室の扉を閉めてそこに寄りかかると、アル・イーズデイルは盛大に溜息をついた。
「……………っとに、マジかよ…」
嘆く理由はただ一つ、十年前に飛び出した実家に帰らねばならなくなったから、である。
横暴な母と姉妹達に辟易して、できるだけ顔を出さないようにして来たというのに―――
『アル…一緒に行ってくれますよ、ね?』
上目遣いにそう言って頼むピアニィに―――彼の女王に、断りきれず首を縦に振ったのが、今更ながら悔やまれる。
とはいえ、一度承諾したことはしかたない。せめて今夜は、旅から帰った疲れも癒すためにぐっすり眠ってしまおう――と、扉から離れたその時。
「―――あ、あの、アル…開けてください…っ」
扉の向こうから聞こえるのは、確かにピアニィの声。
「姫さん…?」
妙に切羽詰まった様子で、ノックもせずに囁く声に、かすかな不審を抱きながらもアルは扉を開けた。
「アルさ…アル、ごめんなさい、寝てましたか?」
「いや、これから寝ようと…って姫さん、なんだよその大荷物は」
心配そうな声でこちらを気遣うピアニィは、腕に大小のビンが入った籠を抱えていた。
「お薬ですっ! これがカゼの薬で、こっちは腹痛の薬、こっちは頭痛の薬で…アルがさっき体調悪そうだったから、ナヴァールに借りて来たんです」
言われてみれば、確かに薬効の記入があるラベルが見える。中の液体が一部不気味に濁っているのは見なかった事にして、アルは廊下に出て扉を閉めた。
……おそらく、というか間違いなくピアニィにその意図はないにしても、若い娘――それも小さいといえど一国の女王が、夜に男の部屋を尋ねるのは外聞のよろしくない話になる。
それならこちらが外に出てしまえばいいと、内心で考えながら――アルは扉にもたれて溜息をついた。
「……あのなあ、姫さん。別にアレは体調が悪かったわけじゃ…」
胸を張って言えたものでもないが、ナヴァールの屁理屈と実家への恐怖が足をふらつかせただけである。何とか安心させようと口を開きかけたが、ピアニィの言葉がそれを遮った。
「でも、昼間お庭で話したときも、顔赤かったですし…もしかして、熱でもあるのかなって……」
「―――――――…っ」
昼間――――アルが帰還したのを見て泣きじゃくるピアニィを宥めるために、庭に連れ出し話をしたときの事。
お帰りなさい、と満面の笑顔を向けられた時には、息が止まるほどに心乱れた。…今の自分のように。
なんとか動揺を顔と声に出さないようには務めた。けれど、顔に――頭に血が昇るのまで、押さえきれるものではなく。
「…………別になんともねえよ。顔が赤かったのだって、光の加減だろ」
無愛想な声と表情を作り、ふいと顔をそらした、その時。一瞬視界から、ピアニィの姿が消えた。
横目で伺うと、薬の籠を廊下の端に置いているピアニィの背中が映る。そしてふいに―――アルの頬に、小さな指先が触れた。
「―――っ!?」
慌てて身を反らしかけたアルの背に、先ほど閉じた扉が当たる。目の前では、ピアニィがひどく心配そうに、アルの頬に触れた指を見つめていた。
「………やっぱり少し、熱いですよっ……アル、熱が…っ!」
言うが早いが、ピアニィの小さな手がアルの襟を掴み、前へ引き寄せる。普段なら体格差――というか筋力の差で、アルの体は揺るぎもしない…はずだった。
だが、動揺しているところに加えられた予想外の力には、抗う術もなくて。引き寄せられるまま、アルは中途半端な中腰の姿勢で固まった。
「ちょっ……おい、姫さ―――――」
戸惑い抗議する声が、額に触れ前髪を除ける手に止まる。そして、真剣な――思いつめたような表情のピアニィの顔が、目の前にあった。
思わず息を詰めたアルに構わず、ピアニィはさらに顔を近づけ――――静かに額が触れ合った。
「―――――」
「――……熱い……アル、やっぱり体調が悪いんじゃ…!? あたしが無理に言ったから…!」
吐息のかかるほどの距離で、今にも泣きそうな表情で、ピアニィが取り乱した声をあげる。その必死さを訝る余裕は、今のアルにはなかった。
目の前にはピアニィの顔―――桜色の唇。無理矢理引っ張られた姿勢はバランスが悪いことこの上なく、ほんの少し崩れたらピアニィを巻き込んで倒れることは確実だろう。
この状況を、何とか打破するべく。アルは小さく息を吸い、できるだけいつもどおりに聞こえる声を出した。
「…姫さん、落ち着け。大丈夫だから……手、離してくれるか。この姿勢はきつい」
「ぇ―――――あ、は、はいっ」
取り乱した自分を恥じるように、ピアニィが顔を赤らめて手を離す。解放されたアルは、やや大げさに溜息をつきながら――僅かに距離をとることを忘れなかった。
「…やれやれ。あのな、姫さん。別に俺はどこも具合悪くねえし、熱もない。そんなに心配しなくってもいいって」
「で……でも、さっき、顔が熱くて―――」
「ああ…疲れてるし、よく眠れるようにと思って…さっき寝酒飲んだからな。それでだろ」
なおも心配そうなピアニィに、アルは小さく優しい嘘をつく。――――ピアニィを目の前にして動揺したなど、言えるわけもない。
もっとも、実際寝る時に飲むつもりで、部屋には酒を運んでもらっていた。
母親からの手紙のプレッシャーに勝てる気がしなかったという、これまた人には言いにくい理由ではあるが。
酒を飲んだと言う割に酒精のにおいひとつしないのだから、見るものが見ればすぐにバレる嘘である。だが、酒を飲んだことのないピアニィには見破れるはずもなく。
「そう、だったんですか…ごめんなさい、あたし勘違いして……」
胸の前に手を合わせ、申し訳なさそうに俯く姿に、かすかな罪悪感が胸を刺す。それを軽い咳払いでごまかすと、アルは話題の糸口を変えた。
「まぁ、その…心配かけたのならすまん。なんか病気にいやな思い出でも―――」
あるのか、と聞きかけて――自らの口にした言葉の過ちに気づく。俯くピアニィの視線が、完全に床に向いた。
「……お母様は、亡くなるほんの半年前まで、あたしと普通にお話していました。御病気だって言われたけど、そんな素振りもなくて…」
レイウォール王妃、ティナ・アヴェルシア。その名を口にしたあと、ピアニィの手が小さな拳に握られた。
「―――それに、お父様も。今までに何度も、お加減が良くなったり悪くなったりを繰り返していて…だから、病気は怖いんです。
元気だって、そう思っても、急に悪くなって…もう会えなくなるかも知れなくって――――」
ピアニィの父親、レイウォール国王オーギュストもまた、重篤な病に冒されているという。家族を失った記憶が、ピアニィの過剰な心配の源なのだろう。
声が消えると俯いた顔が上がり、泣きそうな表情のピアニィが胸元に握った拳に力を込める。その手も白い頬も、震えているのが離れていてもわかった。
「……ごめんなさい、心配しすぎですよね―――アルにも、迷惑…」
言いかけたピアニィを遮るように、アルはわざと大きな動作で動き―――床に置かれていた籠を拾い、中からひとつの薬瓶を取り上げる。
「頭痛の薬は、これだったよな。二日酔いになるほど飲む気はねえけど、先に借りとく」
「え………あ、アル?」
戸惑った様子で幾度もまばたきするピアニィの手に、薬瓶の籠を押し付ける。
「姫さんはまだ、仕事があるんだろ。ナヴァールの旦那に返しといてくれ。…助かったよ」
迷惑に思ってなどいないと示すと、ピアニィの表情が花開くような笑顔に変わる。
「―――――はいっ! じゃあ、お仕事に戻りますね! おやすみなさい、アル……!!」
「ああ。姫さんも仕事、頑張れよ。―――また明日」
大きく頷いたピアニィが、籠を抱えて廊下の奥に駆け去る。
その背中が完全に見えなくなってから、アルは背後の扉にもたれて大きく溜息をつく。
ピアニィに引き寄せられ、額が触れ合った時―――アルは何度も、このまま身を預けて口付けてしまいたいという衝動と闘っていた。
「……そんなこと、できるわけねえってのに…なに考えてんだよ俺は」
独り言を口にするのは、自分に言い聞かせるためでもあった。捨てなければいけない気持ちだと、わかっているはずなのに。
やはり、疲れているのだろう。運んでもらった酒を飲んで、さっさと寝てしまうに限る。…何よりも、そうでもしないと眠れる気がしなかった。
ひとり動揺する自分にもう一度深く溜息をつきながら、アルは自室の扉を開いた。
…後日。
このとき動揺していたのが自分だけでないと知って、アルは散々に文句を言うことになるが…それはまた別のお話。
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