6 街への道と人の影

 ひゅっ、という風を切るような音で目がさめた。


 視界いっぱいに映るのは青々と茂った数々の広葉と、風に吹かれて緩やかにゆれる枝だ。


 仰向けの体勢を変えないまま視線をずらすが、やはりあるのはモザイク画にも似た緑色の群である。時折、葉の隙間から白みがかった空が覗いていた。


 鼻腔をくすぐるのはしっとりと湿気を含んだ土の香り。どこか遠くから聞き慣れない鳥のさえずりが響いていた。


「森……? 俺は確か――あぁ、そうか。そうだった」


 起きてすぐは少し混乱したが、口にしてみたところで、ようやく自分の置かれている状況を思い出した。なんとなくやりきれない気持ちになって、浅いため息をつく。


 陽光は柔らかく、まだ真昼のような苛烈さを伴ってはいない。空気が冷たく澄んでいるところをみると、どうやらいまは早朝であるらしかった。


 上体を起こしてのびをしながら、凝り固まった身体をほぐす。やはり固い床で寝ると疲労は癒えづらい。


「なにか、聞こえたような気がしたが――」


 レイジは気だるげに辺りを見回して、そこで音の正体を知った。


 寝床の側――木の生えていないちょっとした広場のようになっている所に、スライアがいたのである。


 外套は脱ぎ去っており、猫を思わせる形の耳と腰の辺りから伸びる尻尾が露わになっていた。


 彼女は持ち前の装備である細身の剣を手に、鍛錬をしていた。すぼめた口から鋭い呼気を吐き出すと同時に一歩踏み込み、素早く剣を振る。

 縦に、横に、あるいは斜めに。彼女の目前にある空間が切り刻まれるたび、先ほどと同様の音が生じた。華奢きゃしゃな見た目とは裏腹に、その動作は洗練されており無駄がない。剣術の心得がないレイジから見てもそれはよくわかった。


「やっ! ……はぁッ!」


 修練であるからか、気迫こそ感じないが――汗粒を垂らしながら一心に剣を振り続ける彼女の顔つきは真剣そのものである。横で眺めているレイジに気付く様子もまったくない。


 彼女は数分の間そうしていたが、やがて剣を鞘に収めると、気を落ち着かせるように深く息を吐いた。


 と、そこでようやく観客の存在に気付いたらしい。


「……起きたのね」

「ついさっきな。……動き始めるか?」

「そうね。今日で町まで着けるといいんだけれど」


 彼女は言いつつ手近な枝に引っかけてあった枯れ草カーキ色の外套を羽織ると、それに付いているフードで頭をすっぽりと覆い隠した。


 それにならってレイジも自分の装備を確認する。


 サバイバルキットに含まれていた医療品のうち、変質しやすい抗生物質を初めとする薬品類は既に捨てているが、その他に欠けている物はない。すぐにでも行動が開始できる状態だ。


 ベルトに小型ポーチとホルダーを通しつつ立ちあがる。


「それじゃ、行きましょうか」


 ちょうど準備を終えたらしいスライアに付き従って、彼もまた歩き始めた。



   ●



 太陽が天上から照りつける昼、おそらく正午を少し過ぎた頃。


 二人は大木の作り出した陰に座り込み、食事を摂っていた。内容は昨日と同じ堅焼きパンのほか、スライアが道すがらに見つけた野生の果実だ。

 梅に似た小さな実の外皮は厚く酸味も強いが、水分を欲している身体にはありがたい。道中に清水の湧き出している場所はあったものの、携帯用の革袋はスライアが持っている一つしか無いため節約するに越したことはない。


 やはりというべきか、今日も昨日と同じく歩き通しだった。


 数時間にわたって代わり映えしない景色の中を歩き続ける羽目になった。時折は森の切れ間から遠方の山脈などが見えるのだが、それらの地理情報も既存のデータとは大きくかけ離れていた。


 朝に出発した物を最後に古代の建造物には行き当たっていない。いまさらながらに地殻変動の大規模さを実感する。


 懐から取り出した風変わりな形の方位磁針コンパスをじっと見つめながら、スライアは口を開いた。


「……どうも昨日、神像から逃げるときに出る方角を少し間違えたみたいね」

「おいおい、まさかこのまま目的地に着けないんじゃないだろうな」

「その心配はないわ。逸れてるのは本当に少しだけだから。記憶が正しければ、もうすぐ主要な都市を結ぶ通りに出るはずよ」

「記憶、ってなぁ……いまさらだが、紙の地図は無いのか?」

「路銀が尽きかけてたから、ここ近辺の地図は買ってる余裕が無かったのよ。ま、地図だって安物はあまりアテにならないけれど。……それに、お金があるなら、そもそも盗掘なんてしてないわ」


 言われて、昨夜のことを思い出す。確かに彼女は壁に地図を描いていた。紙の地図があるのならそんなことをする必要は無いはずだ。

 旅に最低限必要であるはずの地図すら購入する余裕が無い。そんな懐事情を抱えていながら、彼女は食糧を自分に分け与えていたのか。


 そんなことをいまになって知り、わけもなく恥ずかしい気分になる。手中にあるパンがやけに重たく感じた。


「食べ終わったらすぐに進みましょう。夕方までには着けると思うけど、もし記憶が違っていたら大変だから」


 レイジの考えていることを知るよしもなく、彼女は言う。それに対してどんな反応を示したらいいのかがわからず、結局は黙ってうなずくに留めたのだった。



   ●



 すぐ主要道路にぶつかる、という彼女の言葉は事実だった。


 一時間も行かないうちに、雑草が茂り木が立ち並ぶ道とも呼べないような地帯から、土の色が露わになっている道路へと出たのである。当然ながら舗装などされていないが、ならされた道はこれまでより格段に歩きやすい。

 大きな通りということもあってか、ちらほらと人が行き交う姿も見えるようになっていた。歩いている者もいれば、大きな荷台付きの馬車を操って進む者もいる。


「……人が、いるんだな」


 それを見て、奇妙な言葉が口からこぼれる。


「それはいるでしょうね。ここまで会わなかったのは、単に道を逸れてたからよ?」


 そんなことはわかっている。わかってはいるが――冷凍睡眠コールドスリープが覚めてからこれまで見た人間といえばスライアと兵士風の男たちくらいのものだったから、いまさらになってようやく実感が沸いてきたのだ。


 しばらく歩いているうち、ふと、通行人と目が合うたびに怪訝な表情をされていることに気付く。


「なんだか、注目されてないか?」


 小声で問うと、スライアはこちらも見もせずに答えた。


「やっぱり自覚はなかったのね。自分の服装、見てみたら?」


 言われて納得する。確かに自分が着ているジャケットなどは明らかにの服装からかけ離れていた。

 周りを歩く人々はおおよそがスライアのような外套か長衣を身につけていたから、レイジの風体は悪い意味で目立ってしまっている。


 慌ててレイジは人々から視線を切って、ぼんやりと地面を眺めた。


 自分たちの生きていた時代から数百年あるいは数千年を経た以後であっても、人類は営みを続けている。それはある種の安心感をレイジに与えていた。


 しかし、それは同時に、これが夢ではないというどうしようもない現実リアルを見せてもくる。


 切り替えをしたつもりではあったが、ふとした瞬間に底冷えするような重苦しい感情が胸の内に生じてしまう。理解はしていても、そうそう簡単に納得できるものでもない。

 それでもやはり、なるべく暗い考えはすまいと思い直して彼は面を上げるのだった。

 そうした視線の先――まっすぐと伸びる道の奥。地平線の彼方に、ゆっくりとなにかが姿を現し始めた。


 町だ。


 山の緩やかな斜面に沿う形で、大小数々の家屋がびっしりと建てられていた。その外周をぐるりと囲むように、数メートルほどの高さを有する石壁が立っている。

 町の中央にはやたらと背の高い尖塔が屹立しており、それが町中に影を落としているため、微妙にゆがんだ日時計を思わせる形になっていた。


「見えてきたわね。あれがこのあたりで一番大きな町よ」


 町の名はシグレイラというらしい。言語が違っているから当然だが、耳慣れない響きだ。


「実を言うと、帝国の町に入るのは初めてなんだが……入る前に気をつけておいた方が良いことはあるか?」


 スライアは例によって怪訝そうに眉をひそめたが、いい加減に問い返すのも無駄だと思ったのか、すぐに表情を戻した。


「特に止められることは無いと思うけれど、その〈遺産〉……メル、だったかしら? あなたはどうにかしないと駄目ね」


 レイジの近くを浮いている黒色の総合補佐機器コンシェルジユ――メルを指でつつきながら、彼女は言う。どうもこうするのが気に入ったらしい。いまはフード付きの外套で隠しているが、彼女の特異な耳や尻尾のことを知った後だと毛糸玉へじゃれつく猫に見えなくもなかった。


『やめてください』

「いいじゃない、ほらほら」

『警告、当機には迎撃の用意があります。いかに現地協力者と言えど、それ以上の攻撃は敵対行為と見なします』

「だってあなたの動き面白いんだもの。どうやって浮いてるの?」

『攻撃の継続を敵対行為と判断。――レイジ、迎撃の許可を』

「却下だ」


 物騒な発言をし始めたメルに適当な答えを返しながら、レイジは軽く考え込む。

 彼女の指摘はもっともだった。この服装は確かに目立つが、それ以上にメルはまずい。昨日の兵士からも「それは〈遺産〉か」と問われたように、メルの外見は明らかに技術の産物である。


「服はどうしようもないが、せめてこいつは隠した方が無難か」

「私の腕輪くらいならいくらでもごまかしが効くから問題はないけど、これほど奇妙な見た目をしていると、どうもね」

『自律型総合補佐機器コンシェルジユにおいて、球体はきわめて一般的かつ合理的設計です。私の外形に対しての「奇妙」という評価は不適切であると提言します』


 相も変わらずどこかズレた発言を繰り返すメル。それを無視してスライアに尋ねる。


「もし隠さないまま町に入ればどうなる?」

「良くて没収、下手をすれば投獄の後に処刑」

「オーケー、すぐ隠すことにしよう」


 極めて簡潔な答えだが、レイジとしては洒落にならない。すぐさまメルを掴んでジャケットの内ポケットにねじ込む。見た目にも不自然な膨らみができてしまうが、この際それは仕方がない。


「これでよし、と。少しばかり窮屈だろうが、我慢しててくれよ」

『……レイジ、あなたは私を小動物ペットかなにかと勘違いしていませんか?』


 平坦ながらも抗議じみた響きの言葉を半ば無視して、レイジは上着の前を閉じきった。


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