【5分で読める短編】終電

とむ少佐

終電

 それは雪も降るような寒い夜のことだった。

 なんとか残業を終わらせ、やっとのことでホームまで辿り着いた僕は、終電を待つために待合室のドアを開けた。

 待合室にはくたびれたジャケットを着込んだ初老の男が、一人ぽつんと佇んでいた。僕はその向かいに座る。

 ホームには、僕と同じような境遇のサラリーマンが点々と電車を待っていた。彼らの吐く白い息を見ながら、よくもまあそんなところで待つもんだと、透明な箱の中で寒さをしのぎながら思った。

「みんな、似たような格好をしているんだねぇ」

 ふと向かいの男が呟いて、僕はちらりとその人を見た。彼はしげしげと僕のことを眺めている。僕は少しばかり嫌悪感を抱きながら、「ええそうですね」と気のない返事をした。

 平日の深夜、都心から少し外れたビジネス街で終電を待つのは、残業に足を取られたサラリーマンくらいだ。彼らは一様に、冬用の黒いビジネスコートを着込んでいて、僕もそうだった。

「わたしはずっと理容師をしているもんで、残業とか終電帰りというものはよくわからなくて」

「はあ……」

 僕の素っ気ない返事を聞いたからか、男は喋るのを躊躇した。

 話が続けられるのを避けようと、僕はおもむろに腕時計を見た。終電が来るまで、まだ十五分ほど時間があった。



「お兄さん、お兄さん」

 声をかけられて、ハッと目を覚ました。目の前には初老の男が立っていた。

 終電の列車が、ホームでその口を開けている。

「乗り遅れちまうよ」

 起こしてくれたのは向かいに座っていた初老の男だった。

「ああ、すみません。ありがとうございます」

 僕はそう言って席を立つ。危うく、待合室で一夜を明かすハメになるところだった。

 待合室を出て、初老の男の後を追うように電車に乗り込んだ。

 連結ドア近くの三人は座れる角の席を、とあるサラリーマンが足をおっぴろげて独占していた。なんとなく、そいつから少し離れた席に座りたかった。

 少し歩いて車両の真ん中くらいの座席に座ると、初老の男は向かいあたりに落ち着いた。

 発射の笛が鳴り、扉が閉まると、初老の男が不意に立ち上がった。

 彼は迷うことなく前の車両へ歩いて行き、その背中が連結部のドアで隔たれるまで見送って、僕は角席の銀の支柱に頬杖をついてもたれた。

 座席の下に感じられる少し熱いくらいの暖房が、拭いきれずにいた先ほどの眠気を手伝って、僕はまた浅い眠りに落ちていった。



「お兄さん、お兄さん」

 声をかけられて、ハッと目を覚ました。目の前には初老の男が立っていた。

 この車両はまだ、夜風を切って走っていた。駅に着いたわけでもないし、とすると起こされた理由がわからなくて、なんとなしに辺りを見渡した。

 角の席を占拠していたサラリーマンが床に倒れていた。その周りに赤い円が広がっている。

「この路線の終電で、痴漢に遭ったって、娘が言ってね」

 前に立つ初老の男が言った。

「黒いコートの男だったって言うんだけど、みんな似たような格好をしているから、わからなくてねぇ」

 男の手には銀のカミソリが握られていた。赤い液体が滴っている。

「お兄さんは違うと思うんだけど、一応ね。ごめんね」

 それが僕の首辺りにしゅっと振るわれたころ、町の理容室で見たことのあるカミソリだなと、ぼんやり思った。

 そうだ、この男は理容師なんだったな。



「お兄さん、お兄さん」

 声をかけられて、ハッと目を覚ました。目の前には初老の男が立っていた。

 終電の列車が、ホームでその口を開けている。

「乗り遅れちまうよ」

 そう言って、初老の男は僕を電車に乗るよう促した。僕の足は動かなかった。

「い、いえ、私は、妻を待っているものですから」

 咄嗟に嘘が口を突いて出た。初老の男は、一瞬、眉を上げた。

「おや、奥さんと一緒に帰るのかい」

「はい、『いつも』そうなんです」

 自分の笑顔が引きつるのがわかる。男はしばし僕のことを眺めたが、発車予告のベルが鳴ると、待合室のドアを開けた。

「じゃあ、あんたは違うね」


 発車を告げる鋭い笛が寒空に響いて、僕が乗るはずだった終電はその口を閉じた。

 待合室の中に一人残された僕は、ただ、震えていた。



<了>

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