第2-3話 姉と弟

 翌日、遅刻すれすれで教室に駆け込んだ俺は、早速黒の手帳を中臣へと手渡した。

 おまえが落とし物なんて珍しい。相当焦っていたんだな。


「……拾ってくれたの? よかった。ありがとう。大事な手帳なんだ」


 中臣の表情が緩む。その笑顔は、いつもにこにこしているこいつを毎日眺めている俺をして、初めて見るような、溶けちまうような顔だった。危ねえ、俺が女だったら一発KOだったな。だが生憎俺には男の極上の笑顔に胸を高鳴らせるような趣味などないんでね。感謝の気持ちは可愛い女の子でも紹介することで返してもらいたいもんだ。


「うん? ……考えておくよ」


 なんだ中臣、その微妙な間は。


「だって、谷口、面食いだから、色々難しいなあってね?」


 いつもの人を食ったような笑いに戻ると、中臣は小さく舌を出した。

 その様子に、俺はどこか安心をした。どんな過去があっても、こいつも結局、普通の中学生なのだ。しかも、多分、扱いは面倒だが、根はいい奴なのだ。


 森さん、心配なんてせずとも、こいつはうまくやりますよ。そう、俺は心中で太鼓判を押して席に着いた。



 放課後になってから怪しい動きを見せたのは、今日は中臣ではなく涼宮の方だった。


 五限のチャイムが鳴ると同時に教室を鮮やかなクラウチングスタートで飛び出した。とはいうもののここの3カ月でクラスメートの全員が涼宮の奇行には慣れ始めていたため、大した反応はない。


 例外は俺と中臣である。涼宮の異状は世界の異状。

 閉鎖空間と《神人》が涼宮の精神状況によって生み出される以上、『機関』のメンバーであるところの俺たちは、涼宮の普段と違う様子に始終気を配らなければならない。


 秘密結社っぽく『機関』なんて名乗っているが、こうなるともう『世界を穏健に保つために涼宮ハルヒを監視する団』とでも改名するべきじゃないかね?


 学年でもトップクラスのスプリント能力を誇る涼宮を追跡するのはそこそこ骨が折れるものだった。っていうか、中臣、よくついていけるな。やっぱり体育の授業は手を抜いてるだろおまえ。


「ばれた? 変に目立って涼宮さんに対抗意識を持たれても面倒だしね」


 は。そういうことかよ。まあ、こういうときは心強いがね。


「谷口こそ、ほとんど息を切らしてないじゃない?」


 まあ、こっちも鍛えさせられたしな。悩んでいるなら体を動かせ、がうちの師匠のモットーだ。


「いいお師匠さんがいたんだね? ……と。涼宮さん、止まったよ」


 物陰から伺うと、涼宮が立ち止まったのは運動場の隅にある体育用具倉庫だった。

 陸上部が鍵をかけ忘れたのだろう。開けっ放しの扉を躊躇なく開けると、涼宮はしばらくして、中から石灰の袋を両脇に抱えて現れた。そのまま体育倉庫の裏へ周り、手ぶらで戻ってきてまた体育用具倉庫へ。今度出てきたときには、白線引きを持って登場、体育用具倉庫の裏へ。


 なにやってるんだ、あいつは。


「さあ? ただ、ものを見る限り、白線を引くんだろうね」


 だろうな。それくらいは俺にもわかる。石灰と白線引きを使ってそれ以外の何かができるなら教えてもらいたいもんだね。


 問題は、こんな時間にこんな用意をして、涼宮がどこにどんな意図で白線を引くつもりなのかということだ。まあ、こいつの奇行の意味を理解できたことなんて俺にはないわけで、考えても意味がないのかもしれないが。


 それからさらに石灰数袋と錆びだらけのリヤカーを倉庫から取り出すと、涼宮はやってきたのと同じ速度で教室へと取って返し、早々に下校していった。まったくもって台風のような奴だ。

 体育用具倉庫の裏には、涼宮の持ち出したものが雑然と置かれていた。


 どういうつもりだ、あいつ。


「夜に校舎に忍び込む気なんじゃないかな?」


 その心は?


「この倉庫に鍵がかかるのは夜だよね? そこから外に道具を持ち出したということは、鍵のかかっている間にここにあるものを使いたいからだと思うんだ」


 なるほど。……っていうと何か。涼宮はまた夜に学校に不法侵入して悪さをするつもりか。

 全く行動原理がわからん。


「今に始まったことじゃないけどね?」


 よくまあ、おまえら機関の連中はこれに付き合ってられるよな。俺一人だったらとうに投げ出してる自信があるぞ。世界がどうなろうか知ったことかってな。

 と、俺の言葉に、中臣はいつになく真剣な表情でこちらへ向き直った。


「谷口、僕の手帳の中身を見た?」


 そんな目で見られて、隠し事をできるはずもない。

 悪い、見たよ。写真だけだけどな。


 俺の言葉に、中臣はぎこちなく頷いた。わかる。俺だって、もし逆の立場ならそうなっていただろう。見られたくなかった気持ちと、そもそもそんなものを落としちまった自分への怒り。


「気にしないで? 拾ってくれたのが谷口でよかったよ。安心した」


 中臣はそう言って、手帳の入ったポケットを叩いて見せた。


「新川さんか森さんに聞いたかな? 僕には姉さんがいてね。この写真は、姉弟で写った最後の写真なんだ」


 美人だったな。びっくりしたぜ。


「うん。綺麗な人だった。臆病だけど、優しくて、天使みたいな人だった。誰からも愛される人だった。僕なんかよりも、絶対に生き残るべき人だった」


 誇らしげに、中臣は言った。照れる様子もなく、心底そう思っているようだった。


「『機関』の大半はね、涼宮さんを、喪っただれかと重ねている。彼女を大事に思っていて、彼女と、世界を守るために動いている。でも、僕は、少し違うんだ。涼宮さんのことは嫌いではないけど、姉さんの代わりにはなるはずがない」


 何か。背筋に、電流めいたものが走った。

 中臣の口調は変わらない。いつも通り。

 教室でくだらない雑談をするときと同じように、中臣は語る。


「涼宮さんは、《神人》を生み出す。《神人》は閉鎖空間を広げ、放置すると世界は壊れて作り変えられる。ここまでは、知っているね。じゃあ、新しい世界はどんなものになるんだろう」


 夕暮れ、逆光で、その表情はよく見えない。ただ、笑うような口元だけが印象的だった。 


「涼宮さんが今の世界に不満を持って、世界を作り変えようとするなら、新しく生まれる世界は涼宮さんの望むようなものなるはずだ。そして、その世界に、僕らが失った人がいて当然だ、その方が良い世界だと涼宮さんに……《神人》に思わせることができれば、新しい世界は「その人が生きている世界」になるんじゃないかと、僕は思っている」


 中臣は、俺に向かって手を差し伸べた。


「彼女を、取り戻したくはない? 谷口」


 世界が、止まった。


 こいつは、何を、言っている?

 あいつを、取り戻す? 世界を壊して、作り変えて? 涼宮の力を使って?

 あいつが、甦る? 本当に? 《神人》を利用して?


 混乱しながら、俺は何とか言葉を絞り出した。

 中臣。それは、森さんや新川さんらに聞かれたら、盛大にまずい話じゃないのか?


「でも、君はあの人たちには言わないよね?」


 なんで、俺に、そんなことを?


「他の能力者おとなたちは、もう喪失を受け入れているけど、谷口、君は違うよね? まだ生乾きの傷だ。だから、わかってもらえると思ったんだよ」


 中臣はそこまで言うと、くるりと背を向けて校舎へと歩き出した。


「さあ、早く新川さんたちに連絡を取ろう? 涼宮さんは夜また学校へやってくる。張り込んで、何か変なトラブルに巻き込まれないか、閉鎖空間が出てこないかどうか、監視しないといけないからね?」


 ◆  ◆  ◆


 涼宮を監視すると言えど、日が暮れた夜に一介の中学生であるところの俺が家を出られるのかというのは不安であったが、中臣が「友達同士で七夕パーティをすることになったのでぜひ谷口君にも参加してほしい」と立て板に水の嘘八百を並べてうちの母親を説得して、晴れて俺は夜の外出を許された。一番大きかったのは、保護者同伴であるという言葉と、どこからどう見ても紳士的という言葉の体現者である新川さんの存在だろう。


「あらあら、あんたに中臣くんみたいな品のいい友達ができたなんてね。驚いたわ」


 そんな言葉を背に俺は新川さんのリムジンに乗り込んだ。自分の息子をどう見ているのだ母よ。


 ともあれ、あんなことを口にした後とは思えないほど自然に、リムジンの中で中臣と新川は雑談に興じていた。まったく、大したタマだよこの童顔ボーイは。

 校門が観察できる物陰には既に森さんが待機していた。黒で統一された動きやすそうな服装は、その身のこなしも相まって女スパイといった感じである。


「こんばんは。まだ、来ていないようですよ」


 そう言う森さんにならって、俺たちは鉄製の校門の監視を始めた。

 涼宮がやってくるまで、さほどの時間はかからなかった。

 Tシャツに短パンの動きやすそうなラフな格好に着替えた姿がぼけた街灯の光に照らされる。


 俺たちは互いに顔を見合わせると頷きあった。中臣の予測的中。追跡開始だ。

 そして、しばしの時間が過ぎて。

 校門の前に、もう一つの人影が現れた。


「おい」


 聞いたことのない、男の声だった。

 どこか気だるそうな口調の、長身の高校生だった。なんで高校生かとわかったかといえば、その服装からだ。それは、県立北高校、山の上にそびえ立つ、登校が何かの罰ゲームかというくらいクソ面倒なことで地元では知られた学校の制服だった。そいつは、小柄な女性をおぶっていた。眠っているのか、ぐったりと力なく男の肩に顔をうずめているので顔は見えないが、後ろ姿と長くウェーブした栗毛の髪だけでも相当な美人であることが伺える。


 どこからどう見ても、怪しいことこの上ない人間だった。


 駆けだそうとする森さんを、新川さんが制止する。


「なによっ」


 その視線の先で、門にへばりついたまま涼宮は男に振り返った。


「なに、あんた変態? 誘拐犯? 怪しいわね」

「おまえこそ何をやってるんだ」

「決まってるじゃないの。不法侵入よ」

「そんな堂々と犯罪行為を宣言されてもな」

「ちょうどいいわ。誰だか知らないけどヒマなら手伝いなさいよ。でないと通報するわよ」


 何だ、アイツは。あの涼宮の奇矯な言動に一歩も引かずにやりとりしてやがる。

 というか、なんだあの噛み合いっぷりだ。新手の夫婦漫才か何かか。涼宮を初めて前にした奴は大抵怒り出すか固まるか愛想笑いを浮かべて遠ざかるだけだってのにな。


 涼宮も心なしかいつもよりノリノリで話してる気がするし、あの北高生は何だっていうのか。


「入りますよ。追いましょう」


 校門のカギが内側から開けられ、涼宮と男とはグラウンドへと侵入する。

 俺たちは慌ててその後を追った。

 俺の前を行くのは森さんと新川さん。そして後ろからは中臣の足音が……しない?


 振り返ると、中臣はぼんやりと立ち尽くしていた。一体どうしたっていうんだ。おい、中臣。置いていくぞ。


「ん? ああ、うん。ごめん」


 俺の声に弾かれるように駆けだす中臣。


 さて、謎の北高さんよ、変に涼宮を刺激して俺らの仕事を増やさないでくれよ。



 結論から言えば、北高男は特に涼宮を刺激することはなかった。


 男は背負っていた女性を暗がりに寝かせると、涼宮の指示のままにまるでブラウニーか何かのように甲斐甲斐しく動き回っては白線引きを使ってグラウンドに縦横無尽に線を引きまくった。


 しばらくして、謎の幾何学模様が校庭いっぱいに描き切ったところで、男は校庭の隅に座り込んだ。

 ハルヒは男から白線引きを引ったくって線に微調整を入れながら、男に語り掛ける。


「ねえ、あんた。宇宙人、いると思う?」

「いるんじゃねーの」

「じゃあ、未来人は?」

「まあ、いてもおかしくはないな」

「超能力者なら?」

「配り歩くほどいるだろうよ」

「異世界人は?」

「それはまだ知り合ってないな」

「ふーん」

「ま、いっか」

「それ北高の制服よね」

「まあな」

「あんた、名前は?」

「ジョン・スミス」

「……バカじゃないの」

「匿名希望ってことにしといてくれ」

「あの娘は誰?」

「俺の姉ちゃんだ。突発性眠り病にかかっていてな。持病なんだ。所構わず居眠りをするので、かついで歩いていたのさ」

「ふん」


 噛み合わないような、けれど、随分付き合いの深い二人のような、そんなやりとり。

 しばらくそんなことを続けて、どうやら涼宮の目的の模様は完成したらしい。

 そのあと小声でいくつか言葉を交わした後、涼宮は校庭から立ち去っていった。


 北高男は白線引きやもろもろの道具を律儀にも体育倉庫に片づけた後で、倉庫の錠前に鍵を差し込んだまま、寝かせた女性のところへと戻った。なるほど、最後に鍵をかけた人間が抜き忘れて体にしたわけだ。なんであいつが鍵なんか持っているのかといえば、まあ涼宮のやつが持ち出したのを渡したんだろう。本当になんでもありだなあいつは。


 北高男がわずかに肩を揺らすと、そいつに背負われてきた女性はゆっくりと体を起こした。

 そして、その表情が、薄明りに照らし出される。


 そこにいたのは、すんげー美少女だった。


 童顔でありながら整った顔立ち。ウェーブした栗毛の髪。ロリっぽさを持ちながらも姉めいた芯の強さをどこか感じさせる様子。


 もう少しわかりやすく、具体的に言い換えよう。そこにいたのは、


「……姉、さん?」


 リトル中臣と共に写真の中へと収まっていた、こいつの姉の姿、そのものだった。


「中臣、やめなさ――」


 森さんの制止も聞かずに中臣が走り出す。どんな手品によるものか、その動きの起こりは俺をはじめ誰も知覚することができなかった。


 そうして、中臣が北高男と女性に気づかれる、その直前。


 無情にも世界は灰色に――閉鎖空間へと、塗り替えられたのだった。

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