三題噺「三分間の赤、一瞬の青」

桜枝 巧

「三分間で、一体何ができるだろうか」

 三分間で、一体何ができるだろうか。

 カップラーメンを作る。

 正義の味方が戦う。

 携帯のミニゲーム一回分をプレイする。

 そんなことをつらつらと考えながら、私は横断歩道の先にある信号が青に変わるのを待っていた。

 歩行者用の信号機が止まれと告げてから再び横断を許可するまで、およそ百八十秒。友達とも別れ、家へ帰るための最後の信号で捕まった。

 ついてないなぁ、と溜息をつく。

 不透明な空気の塊は、まるで何事もなかったかのように空へと溶けていった。

 一月もあっという間に後半を迎え、日は西の空にわずかなオレンジ色を残すばかりとなっていた。寒さで自然と肩にかけた学生鞄を持つ手が震える。

「六十」

 頭の端でカウントしていた数字を、小さく口にしてみる。白いもやっとした何かが吐き出される。溜息も、数字も、前をスピードを上げて走り去っていく車から出る排気ガスも、そこから出されれば同じものに見える。きっと、鞄の中に入れられた進路希望調査書のせいだろう。四月に高二になって、十二月に十七歳になって、冬休み慌ててそれっぽい大学を調べた。渡されたプリントに、大学名を書いた。その下の「教育学部」の文字も、確かに私の字だ。しかし、一つ上の先輩は現在進行形で入試と戦っている最中だというのに、自分の前は真っ白な靄がかかっているようで、はっきりとしていない。

「七十」

 小さく口にした、そのときだった。

「赤崎……か?」

 どこかで聞いたような、男子にしては少し高め、女子にしては少し低めの、少し苦いカフェオレを口にしたような声がした。振り向くと、そこには私の学校のものではないブレザーに身を包んだ男子がいた。動いた拍子に、チャームも何もつけていない鞄が肩からずり落ちる。

「やっぱり赤崎だ。相変わらず、どんくさいなぁ」

 最後に会った、もとい、お互いの存在を認識したのは中学校の卒業式だというのに、あの頃と同じように接してくる。寒いのか、ほのかに顔が赤い。びっくりした、ほんと久しぶりだね――向こうから話しかけてきたというのに、本当に驚いている様子だった。

 ……はて、こいつの名前は何だっただろうか。

 人生楽しそうな、軽めのクラスメイト、ぐらいのイメージしかなかったからよく覚えていない。私、忘れっぽいし。今のクラスメイトの名前すら、あやしい。

 百。頭の中のタイマーは止めないまま、久しぶり、と口にする。さすがに「名前なんだっけ?」とは訊けない。

「冷たいなあ。……おお、その制服は沙良高か。さすがだなあ、頭良かったもんなぁ、赤崎。俺なんか……」

 一人で取りとめのない話を垂れ流す元クラスメイトを横目に、私はまだこの男子の名前を思い出そうとしていた。確か、そんなに難しいものじゃなかった。珍しかったら、覚えているはずだし。……たぶん。中学の時から伸ばしっぱなしの髪の毛をいじりながら考える。

 百三十。カウントダウンも忘れない。隣の謎男子の声は――まあ、無視することにする。

 目の前では自動車が絶えることなく流れていく。赤い信号は冷たい風の中でルビーのように輝く。赤い信号がルビーなら、青色はラピスラズリ、だろうか。以前ネットで偶然見かけた、エジプトなどで見られる高級宝石のことを思い出す。私の、つまり十二月の、誕生石。夜空の色をした、きれいな宝石だ。

 「それでさ、金本が……」名前の分からない元クラスメイトはどうやら思い出話をしているらしいが、その金本とやらも誰か忘れてしまったので何の話かさっぱり分からない。中学時代、ボーっとしてたら終わっちゃったし。ときめきも青春もかけらすら見当たらなかった。

 そうだ、名前。信号が変わるまでには思い出したい。クルマ……カゼ……ルビー……ラピスラズリ……カネモト……ダメだ、思い出せない。

 百六十五。後十五秒。

「ああ、それで、だ」

 不意に思考が途切れる。どうやら名前の分からないこの男子は、私の隣でずっと話を続けていたらしかった。小さじ一杯分の罪悪感が私を包み込む。下に目を向けると、綿毛となったタンポポらしい花が、まだ真冬だというのにアスファルトの割れ目の中で揺れていた。

 ゼロ。

 その瞬間、目の前が青く染まった。

「はい、確か誕生日、十二月だったよね。一か月遅れだけど……いいかな?」

 顔を上げると、元クラスメイトが青いビーズの様なものがついた、小さなチャームを指にひっかけこちらに差し出していた。

「ほら、十二月の誕生石って、ラピスラズリなんだろ」

信号が青に染まるのを待ちわびていた人々が動き出す中、どうだ、とでもいいたげな笑顔で、元クラスメイトは明らかにプラスチック製のそれを私に向かって突き出してくる。肩からずれて来る鞄にも気がつかず、私は思わずそれを受け取った。かじかむ手のひらの上で、青い光が私を照らしている。

 いたずら? そもそも、私の誕生日なんていつ知ったのだ? そして――何故?

 クエスチョンマークが頭の中で回り続ける中、ふっと先ほどの綿毛が風に舞い上がり、目の前を横切る。じゃあ、そういうことで。少し顔を赤くした男子が、横断歩道を渡り始める。

「……春だ」

思わず、声が出た。

「ん、何?」

元クラスメイトが、こちらを振り向いた。そうだ、こいつの名前、春田、だったか。

 何かが自分の奥の方で、変わった気がした。

 私は点滅しだす信号機を横目に、走り出す。春を追い越す。全然関係がないのに、鞄の中にある進路希望書の上の文字が、やっとプリントに染みついた気がする。

 通り過ぎる瞬間に、こちらを呆然と見る春田の耳元で呟いてみる。

「何でもないっ」

 きっとあの綿毛は、またどこかで花を咲かすのだろう。

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