ネズミを殺せ<キル・シャルリ> Vol.2

二〇一九年末 降誕祭クリスマス聖夜イヴ 新月 イングランド ロンドン


 雪が降っている。時計台が一六〇年間もの間、変わらぬ時を刻んでいるのと対照的に、人間の時間と記憶は前後し、改変され、歪められる。テムズ川はそんな人々の気も知らずに悠々と流れている。

「日向有栖が施した大規模遺伝子治療計画は、相殺部門Neutralize/Nettingが該当領域に遺伝子サイレンサーを導入する事で収束させる手筈だ。ある程度の臨床試験は必要になるがな」

Cの通信相手は暗闇に光るスマートフォンをフリックしながら、テキストの終わりまで来ると画面をタップしてそれを閉じた。

「暗殺対象の資料は読み終えたか? 奴が『キツネ』だ。……では健闘を祈る」

アノニマ・プネウマ5・200・5・10・200は頷き、電子消音器eサイレンサーの装着された五・七ミリ口径フォルト28拳銃の遊底を引き装弾。光学迷彩のポンチョを羽織り、UAE製ネイキッド・バイク『アル=カマル』に跨る。

 光に溶ける。


 * * * * * *


 大麻の匂いだ。対象ターゲットが近いらしい。アノニマ・プネウマ5・200・5・10・200赤外線サーマルゴーグルを装着し、胸元で祈るように拳銃を構える。

 夜は新月。お月様も見てやしない。降り注ぐ雪の結晶が揺らぐ。青女論。庶子公ギヨームと共にやってきたフランスネズミかもしれない。【私の猫はどこに居ますかOù est ma chatte?】

 牙と爪。三日月のようなカランビット・ナイフ。胸元には琥珀アンバーと狼犬の牙から出来た首飾りが光る。

「1JN420? 応答しろ」

雪の白は血の紅に染まる。1JN420のスマートフォンを拾い上げると、顔認証。暗殺対象は電話口に答える。

「バージョンアップしたな。対象への憎悪・怨恨なしに記憶・人格の上書きオーバーライドに成功したか」

Cはそれに答える。

「ああ。【日向有栖】の分散分人Distributed Dividualsのメソッドを参照した。変性意識/夢を見るような感覚で、キャラクターを碇とし、その対象と自己を同一化する。物語の主人公と自分を重ねるのと同じだな……」

その際、見た目も重要となる。記憶移殖と整形手術、あるいは仮想現実で、今や人は理想の自分アバターとして生きる事が可能になっている。今はデータの集まっているLV1918とMT2655の記憶複製に留まっているが、いずれ確立するメソッドにより汎用化・一般化する技術だろう。記憶は、思い出される事で定着する。読みだされる度に歪められ、改変され、脱構築され、換骨奪胎される。ゆえに思い出の形は、一定ではない。

「私を本気で殺すつもりなら、七ヶ国軍セブン・ネイション・アーミー暗殺者ウェットボーイも必要ない。武装した無人偵察機トライローターで充分だ。違うか?」

「うん。我々も一枚岩ではない。というよりも人間集団、組織である限り、思想や信条の統一なんて無理難題さ。派閥コロニーはどこにでもあるし、どこも政治的利害で動いている」

「だから、は、お前の意図や意志ではないと?」

「どうなんだろうな。お前の存在が都合の良かっただけなんだが」

――シャルリとサクラは元々、女王ヒメを頂点に据えた社会性形成の観測が目的だった。しかしシャルリは麻薬絡みの利己的行動、サクラは我々の欺瞞に気付き攻撃行動・敵対行動に出てしまった。……個人の自由が拡大するにつれ、その恋愛市場=生存競争=経済格差と社会淘汰は激化した。我々は多様性保護を目的として、昆虫における真社会性をモデルに置いた。一個の繁殖個体に対して不妊の労働階級が、共同で繁殖個体と子の保育を助けるものだ。血縁度の高い共同体の中で自分自身の遺伝子を残す事に拘るより、兄弟姉妹を助ける事で、同種の遺伝子を残す可能性の高まる行動を取るわけだ。昆虫の場合は無精卵と有精卵で生まれる子の形質が異なるため、血縁選択としてよりシンプルかつ合理的だ。

 といっても、真社会性昆虫のように繁殖階級と不妊カーストとを完全に区分することを目的にするわけではない。同類交配は起きるだろう。この言い方は少しだろうが、生存競争に敗れた不妊カーストの保護と保全――言ってみれば、彼ら彼女らの内面の幸福を実現しようと試みるものである。多様な視点を持ち、考え方を少し変えてみる、程度の事だな。イスラムでは近親婚は一部禁忌タブーであるものの、いとこ婚は奨励されている。ムハンマドの夫人の中に従妹が居たからな。ゾロアスター教でも最近親婚はフヴァエトヴァダタと呼ばれ最も徳のある行為とされ、その流れを汲むヤズディ教徒もまた族内婚を行っている。日本人やユダヤ人といった『単一民族国家』もいとこ婚に寛容だ。つまり、【家族】【民族】という血縁、遺伝子を保護する為の戦略という事だ。

 我々は、それぞれ異なった形質を持っている。性別や遺伝子のレベルから、生活習慣、宗教、思想、言語や文化のレベルまで。個人の多様性、集団の多様性、文化の多様性、世界の多様性。夜に目を光らせる人間が居るから昼の人間が安心して眠る事が出来る。或いは異性愛者が子を為したり、同性愛者が身寄りの無い養子を引き取り、育てたり……我々は、支え合って社会を、文明の光を形成する。

 個人による情報発信が活発となり、あらゆる情報がソーシャルネットワークで共有され、ハイコンテクストの問答を交わす。問題の解決そのものよりも、それ自身がゲームであり、体験であり、記録でもある。人々は言葉で繋がり、体験を共有し、結託は力である。天災や人災、政治家や有名人のスキャンダル、そしてテロもまたコンテンツであり、その繋がりの反応が恐怖主義テロリズムへのカウンターとなる。……恐怖を対象とした感情に対する免疫ワクチン付与、脱感作。社会的抗体の生成および過敏アレルギー反応の除去。自己免疫疾患の克服。異性や同性への嫌悪感、恐怖。殺人や食人といったタブー。異教徒や異文化、外国語への恐怖。その他尋常ならざる不可解な状況や――それらに対する反応を、【アノニマ】。お前の脳内機械インプラントを通して数値化し、に、ウェットウェアのどの部位が活性化するか、そしてどのように制御できるかを測るのが目的だった。そしてお前は、それらに恐怖するでも麻痺するでもなく、ただ自分の自由意志として、これまで任務を遂行可能であった――。

「……私がヤズディの女というのが、女性解放や対テロリズムの象徴イコンとして都合の良かったというだけの話か。ISILに対するクルド人女性部隊ペシュメルガのように……恐怖主義者テロリストに対し、いつでも暗殺されうるという恐怖テロルを拡散と浸透させる為に」

「そのを利用させてもらった。お前にも対価が支払われたはずだ。労働者は価値を売り、その対価として新たな成果が実る。この経済システムは、そうやって文化や価値の総数を増大させてきた」

シャルリ、日向さくら、サキーネといった実験体を経て、という成果が出た。それぞれの立場や果実の形質は異なれども、この体験は我々とお前のものだ。

「虚偽記憶の移殖と洗脳、および都合の悪い記憶ことばの改竄が、か?」

「子供時代のトラウマとPTSD治療の為には、必要な工程だったと思っている。そうでなければただの社会不適合者ミスフィッツだからな」

そのような極度の社会不適合者ミスフィッツ外れ者アウトサイダー無政府主義者アナキスト不能者Incapablesの社会参加のメソッドの確立。彼ら自身も受け入れてくれる社会ソーシャルを、他人を必要とし、心のどこかで繋がりコネクトを求めている。

「――シェフは元気か」

「ああ。お前に会いたがっていたよ」

「そうか、…………」

雪は踏み固められて表面が溶け出しリクヮデイションやがてアイスバーンと化す。大麻ハッシシのジョイントを棄てると、ブーツで踏み潰す。

「やはり分かり合えないようだな」

新月の夜空に鷹が飛んでいる。光学迷彩を解除し足元に姿を現した陸上歩行型小型無人機『機械仕掛けの沼ウサギマーシュ・ヘア・マキナ』は、それを中継器として裸のネイキッドバイク『アル=カマル』に接続、アノニマの下へを再び呼び戻させる。


 ロンドン橋落ちる 落ちる 落ちる

 ロンドン橋落ちる 素敵なお嬢さん!


 材木と粘土で作ろうよ 作ろうよ 作ろうよ

 材木と粘土で作ろうよ 素敵なお嬢さん!


 材木と粘土じゃ流される 流される 流される

 材木と粘土じゃ流される 素敵なお嬢さん!


 レンガと石灰で作ろうよ 作ろうよ 作ろうよ

 レンガで石灰で作ろうよ 素敵なお嬢さん!


 レンガと石灰じゃ崩れちゃう 崩れちゃう 崩れちゃう

 レンガと石灰じゃ崩れちゃう 素敵なお嬢さん!


 鉄と鋼で作ろうよ 作ろうよ 作ろうよ

 鉄と鋼で作ろうよ 素敵なお嬢さん!


 鉄と鋼じゃ曲がっちゃう 曲がっちゃう 曲がっちゃう

 鉄と鋼じゃ曲がっちゃう 素敵なお嬢さん!


 金と銀とで作ろうよ 作ろうよ 作ろうよ

 金と銀とで作ろうよ 素敵なお嬢さん!


 金と銀とじゃ盗まれちゃう 盗まれちゃう 盗まれちゃう

 金と銀とじゃ盗まれちゃう 素敵なお嬢さん!


 夜に見張りを付けようよ 見張ろうよ 見張ろうよ

 夜に見張りを付けようよ 素敵なお嬢さん!


 見張りの人は寝ちゃうかも 寝ちゃうかも 寝ちゃうかも

 見張りの人は寝ちゃうかも? 素敵なお嬢さん!


 見張りに煙草をあげようよ 一晩じゅう 起きれるよう

 見張りに煙草をあげようよ 素敵なお嬢さん!


 カマルは何も見ていない。番犬ウォッチドッグ人柱見張り番。闇は秩序と倫理の輪郭を曖昧にする。厚ぼったい紫の靄パープル・ヘイズに、新月の輪郭がかげる。

「アノニマ。私は、我々は、お前を誰よりも理解してやれるはずだ」

ステンレス製の一〇ミリ口径オートマチック拳銃SR1911の遊底を引いて装填、安全装置を掛けコック&ロックする。黒のグリップには大きく羽根を広げた鳥の意匠がされていて――アノニマはそれを孔雀ターウースだと思った。

Na. いいや。Tu kes nikare 誰も私の事など min fêm bikin分かりはしないさ.」

アノニマはクルトの言葉で呟くと『アル=カマル』に跨り、テムズ川にかかるウェストミンスター橋を通過――光学迷彩を起動すると、やがて回折されたことばの中に姿を消した。

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ウェット・ガール 名無し @Doe774

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