* * * * * *

 いや違う。姿かたちはよく似ているが、様子がおかしい。エーコは自身の直感を信じ拳銃を下ろさなかった。マスクのボイスエミッター機能をオンにする。

「お前は一体?」

「……アノニマ……プネウマ。VIXEN所属……」

アノニマは左手で静かに鯉口を切った。エーコは長いダブルアクションのトリガーを半分ほど引いていた。

「動くな。認識番号は?」

「……MT2655……」

瞬間、エーコは引金を絞った。引金を叩く、叩く、叩く。銃声が続けてトンネル内に反響こだまする。弾倉は空に。アノニマは右手を柄に添えたまま低い姿勢で素早く間合いを詰め、居合いの構え、一閃。

 エーコはスクールバックでアノニマの斬撃を受け止める。バックステップ。破れた鞄から九ミリ機関けん銃を取り出すと、全自動フルオート射撃。二十五発の弾倉を一・三秒で空にするが、アノニマはその銃弾を刀によって弾き返す。脳内機械は視覚機能と肉体の運動機能を極度に増長しその反応速度を高めている。

「いいや、……CW0286……だった、かな?」

音声認識。そのどちらも照合する。所属は実験部隊eXperiment。ただし

 エーコは伸縮式の警棒を振り出した。アノニマはゆったりと刀身を光らせながら、裂けるような笑みを浮かべていた。(それはまるで三日月が光を失くしたようだ)

 『キツネ』を殺せ。


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「エーコ? 応答しろ」

妨害電波アクティブ・ジャマーが出ているらしい。街は騒がしく散発的に銃声も聞こえる。裏路地を通り過ぎる影。アノニマはサイバネ義眼でその姿を捉え、後を追う。光学迷彩で背景に溶け込んだ機械人形オートマタだ。螺旋弾倉ヘリカルマガジンの短機関銃を装備している。電子消音器eサイレンサーの搭載された四・六ミリ口径拳銃を二点バーストにセットし、こちらも光学迷彩を起動。その機械人形が自律行動しているのか遠隔操作されているかは不明だが、その追跡には意味があるはずだ。

 恐らく、核攻撃後の状況制圧を念頭に置いた展開だろう。と、アノニマは考えた。ならば電磁パルス対策も為されているはず。奴らの純粋水爆がハッタリだとしても、電磁パルス兵器は既存技術だ。通信の回復時に備え音を漏らさず会話できるよう、マスクを装着する。ビルに落ちる影、空は陽もないのに妖しく明るい。紫の靄パープル・ヘイズだ。

 Jアラートが発動。テロリスト達は姿を隠しているため国民保護サイレンではない。北朝鮮からの弾道ミサイルという話だ――馬鹿な。有栖は北朝鮮の支援を受けているだろうが、まだ何も達成されていないこのタイミングで国家間戦争を起こすシナリオはあり得ない。情報撹乱、虚偽の存在しないミサイルだろう。妨害電波によって正しい情報の共有を防ぎ、集団パニックを起こす事が狙いか。

 アノニマは梯子を昇り、高所から周囲の状況を確認する。東京では監視の為の無人機は巡回していない。人間たちが相互監視及び密告のウェット・ウェアであるからだ。この国の人間はみな社会の一部として機能する労働機械ロボットである。人々は手錠の代わりとしてその腕に時計を嵌め、秒針はチクタクと鳴り響きその爆発までの時間を刻んでいる。

――居た。有栖だ。黒檀の長髪を高い位置で結わえ、紅白の巫女装束に身を包んでいる。周囲には機械人形オートマタの『光の部隊』が姿を溶かしながら護衛している。アノニマは屋上の手すりにワイヤーをフックすると、壁を駆け下りて電波欺瞞紙散布手榴弾チャフ・グレネードを投擲。少量の火薬は四方に雪のような欺瞞紙を撒き散らす。機械人形たちは一時的に統制を失う――やはり遠隔操縦の無人機ドローンか。アノニマは拳銃で人形たちを撃ち倒すと、有栖に銃口を向ける。有栖は振り向いて道化の笑みを湛え、指でピストルの形を模すると、「BANG!」と呟いてアノニマを撃ってみせる。

 瞬間、空から落ちる人影。それは腰に日本刀を差している。アノニマは二点バーストの拳銃を発砲すると、居合いの構えから銃弾を弾かれる。銃口から予測される軌跡の銃弾はことごとく弾かれて(それは決定論だ)、やがて弾倉は空となり、弾倉を交換する隙に間合いを詰められる。アノニマは握ることで展開されるカランビット・ナイフでそれを凌いだ。続いて肘打ちを受け、ベルトに差していたバックアップのリヴォルバーを奪われる。

 二人は銃口を向け合い対峙する。それは歩く影ドッペルゲンガー。アノニマ・プネウマの様態。三位一体の。そして名前の無い聖霊アノニマ・プネウマの人格。

「……サキーネ?」

アノニマは呟いた。自分と同じ顔をしたもう一人の自分ドッペルゲンガーは答えずただ、口裂け女グラスゴー・スマイルのように笑った。発砲。義肢が銃弾を弾くと、今度はこちらから間合いを詰める。銃撃は通用しない。双方は右手に拳銃、左には逆手に刃物を握る。

 もう一人の自分は身体を翻し踊らせるようにして斬撃。アノニマは下方向に避けながら足払い。相手はそれをバク転しながら避け体勢を整え直し、拳銃を二発発砲。アノニマは地面を横方向にローリングし銃撃をかわす。しゃがみから牽制に銃撃。照準は外れ、相手はゆっくりと踵を鳴らしながら接近する。アノニマは照準を外さないまま立ち上がる。

 地面が蹴られる。放たれるのは突き。それはアノニマのサイバネ義眼を掠め、破壊する。同時に後方に飛び退いており、背中を地面にスパインの体勢から続けざまに銃撃。それは上方の電線を断ち切り、二人は同時に感電する。

 重なり合った二つの身体に雪のような電波欺瞞紙が降りかかる。それはたった二人の双子の姉妹が、孤独と寒さに寄り添って眠っているようだ。


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 有栖は携帯型EMPを発動する。日本警察に新規に採用されたK9拳銃はスマートガンのシステムが組み込まれている。テロ活動の過激化に加え二〇二〇年の東京五輪開催にあたり、火力向上による治安維持の目的と同時に市民団体の圧力への対応を要求されたゆえの折衷案だったが、この場合、機能しなかった。有栖は旧式の二十六年式拳銃で警官たちを射殺する。

「ふん、際限のない暴力の規制がこの国の政治的正しさか。国家が暴力や犯罪行為を阻止できずに、何が国民・国家という幻想を形作ると言うのか?」

これで【怒りの葡萄】作戦は、終わり。匿名たちの国民の怒りはネットワークを通じてボットネット、一房クラスターの葡萄を形成し、僕らの行動を覆い隠してくれた。相互に交流し接続された個々の人格とは、ゾンビや殭屍キョンシーと変わりなく、意識や自由意志は存在せず、蟲や畜生と人間との差異とは何か。

「それは自分たちには価値が存在すると自分たちで取り決める事さ」

 これまで散々述べてきたように人間は物理的な肉体を有しておりそれに意識を意志を依存している。国民主権の国家体制はマスメディアによって、情報によって制御可能だと思われていた。政治的正しさとは、浮動票を誘導し得票数を獲得するという意味での正しさでしかないが、大衆の操作と誘導には限界がある。情報操作の限界は先の大統領選で露呈した。すなわち正しさとは、力だ。物言わぬ大衆サイレント・マジョリティの制御と統制……その言語活動の管理。思考プロセスの技術的数値化、誘導。社会を一つの電子機器として捉え、そこで走り交わされる共通の言語をソフトウェア、社会装置――企業・法人・組織・共同体をハードウェア。人間の脳をウェットウェアとして定義する事。言語の互換性翻訳可能性は高まり、社会装置はどこも似たようなメソッドで運用されている。脳内ウェットウェアにおける線形の言語処理機能/意識が同じく言語によって制御可能なら、残るは非線形/複雑形の無意識――直感・問題処理を司る――を統制・誘導すること。重要なのは、感情サンチマンを基礎として脳に記憶されるプロセスだ。対象へ抱く感情を基礎に、対象と自己との境界を曖昧にし、記憶を植え付け、同一化させる……改竄された記憶・経験・体験の移殖実験Warped Experience's Transplantation。対象への憎悪を、対象そのものであるように転移させる。ミイラ取りがミイラに――LV1918とMT2655は、その雛型でもある。

 日向有栖は信号拳銃を取り出すと、先端に小型核弾頭ミニ・ニュークを填め込み、それを仰角に構え呟く。

「戦略兵器は僕らの手の中に」

空には鳩が羽ばたいている。美しく青きドナウ、爆発版。サクラはうっとりとそれを眺めていた。さあ、。日向有栖――いや、サクラを殺せ。個人の藐忽と人権の蹂躙を止めろ。


 一瞬だけ思いとどまったの背中に、は拳銃を撃ち込んだ。信号拳銃の引金は絞られず取り落とされ、アノニマは荒く呼吸しながら近付き、その先端から小型核弾頭を取り外す。

「何も……何もRien! 変わっちゃいないn' a changé何度でも繰り返されるTout a continué……」

「…………」

アノニマは斃れた女の傍に転がる拳銃を蹴って離す。

「お前はアノニマ……それとも、か? いや、そんな事に違いはない……」

「…………なぜ、を私に扮させた?」

「――はは! 何も分かってないんだな、お前は? 幸福な事だ――お前の脳を弄び、形成手術を施したのは雌狐VIXENのほうさ」

「……何だと?」

有栖は上体を起こしアノニマの襟首を掴む。

「僕も、お前も、奴も……あの雌狐VIXENの飼い犬に過ぎない。僕はただ、僕たちの持つの存在を証明したかった……それだけだ」

人間の意志は無意識下において行動の1/3秒前には決定しており、これを準備電位という。それが意識に昇り実際の行動に移るまでの間、自らの意志で決定したと錯覚する。その準備電位と意識的決定の僅かな一瞬に、その行動を拒否することも出来る。これを自由意志の根拠とする説が存在する。有栖はアノニマの唇に自らの唇を重ねた。それは人体通信Intra-body Communicationによる情報共有だ。その唇が離されたとき、アノニマは思わず呟いた。

「……【社会的不能者への免疫付与Vaccinate Incapables真社会性国民国家へ向けての演習eXercise for the Eusocial Nations】……?」

有栖は道化の笑みを浮かべて言った。(それとも、確立した通信の中でアノニマと共有したのかもしれない)

「……僕らのような恐怖主義者テロリスト飼い馴らすapprivoiserためのメソッドの確立。それこそが雌狐の目的だ。ビッグブラザーによる統率ではなく、リトルシスターたちが密告し合う……それはテロリストに留まらない――あらゆる犯罪の芽を摘む為の統制・規制・管理。社会的不能者に限らず、あらゆる種類の人間に各々の役割を与える事で、不安と恐怖を取り除く――ひいては、個人である事を放棄させ、死と恐怖の克服の為の免疫付与。社会的抗体の生成。無差別テロと『政治的正しさ』の名の下に行われるを…………異教徒・同性愛者・外国人などへの免疫寛容が破綻し、異物を認識し排除しようとする免疫系が過剰反応し、『正常』な細胞・組織にまで攻撃が及ぶ【自己免疫疾患】として捉え直し、克服する…………お前はAセクシャルの女性性の英雄像Asexual Principisとして、奴らに祀り上げられただけだ」

「……真社会性……?」

「奴らがこの国をモデルにしたのは理由がある。会社・企業といった共同体に対しての無償奉仕、非正規雇用・ワーキングプアの若者の突発的犯罪、それらに伴う過労死の増加、自由恋愛市場の激化。LGBT系や『政治的正しさ』の文脈を持つ雌狐にとって、自らの役割をそこに組み込まなければならなかった。多数派の異性愛者は子を為す事ができるからな。人間はあくまで社会的動物だ。この国では血を残すという事が不文律に重視される――天皇家もそうだな? この国の基礎はなのだ。共同体・会社・企業を疑似家族として捉える事。新たな家庭を作る事。しかし自由恋愛市場の激化は、結局のところ経済的格差を浮き彫りにし、家を亡くした/作れない子供たちが行き場を失くした感情から犯罪を起こす。――それらを真社会性における『不妊階級』として捉え直し、娯楽や数多の欺瞞によって無制限に遅延させようと試みるのでなく――結局、マスメディアによる情報統制には限界があったわけだからな――、自らの社会的役割があると錯覚させる。自らを疎外した社会に対するアレルギー反応を取り除く為の脱感作。兵隊としての企業戦士。自らの判断と責任によって、死をも厭わず、自らの自由意志を行使した結果と錯覚させながら、行動を誘導する――まさに今まで、お前がそうしてきたようにな」

「…………」

「雌狐は僕らと同じ穴のむじなだ。種が違うから分かたれたのみの話だ。両立主義者によれば、行為が強制されたものであっても、行為者の個人的な意図や欲求に合致していれば、それを自由意志と呼ぶらしい。――お前はどうだ? 雌狐にその行動を誘導されていると知ってなお、それがだと言い切る事が出来るか?」

有栖の頭部が吹き飛ぶ。それは狙撃だ。サプレッサーによって抑圧された銃声が空気を揺らす。有栖の脳と脳内機械インプラントが剥き出しになり、その肉体はやがて生命活動を停止する。

「エーコ? いや帽子屋か? それとも……」

アノニマは呟いた。上空では光学迷彩を装備した無人偵察機トライローターが旋回している。その更に上空では衛星が。そしてはるか天上では太陽――あるいは神が我々を監視していることだろう。


 なお、この混乱に乗じて、皇居に保管されている八咫鏡やたのかがみの複製が強奪されたとの情報もあるが、誰もその鏡を見た者は居ないため、定かではない。

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