第12話 別れ際に『大好きだ!』と叫んだ(僕 中学3年生)『希薄な赤い糸・男子編』

 昨夜(ゆうべ)から全天を覆(おお)う雪雲で、空は真っ黒だ。

 外は陽が落ちた後のように暗く、身体(からだ)の芯まで冷(ひ)える寒々(さむざむ)しさは、更(さら)に息苦しい胸の痞(つか)えを重くした。

 今朝はバスを乗り継(つ)いで受験した高校まで、合格発表の掲示(けいじ)を見に来ている。

 入試に合格した受験番号の一覧(いちらん)は、玄関ホール前の特設掲示板に貼(は)り出されていた。

 僕は、自分が受験した専攻科と番号を探(さが)す。

 バス停から、ここに来る途中に彼女からのメールがスマートフォンに着信した。

【合格したよ!】

 合格を知らせるベタな短い一言(ひとこと)に、彼女の嬉(うれ)しそうな笑顔とプレッシャーから解放された安堵(あんど)の喜(よろこ)びが見えたようだった。

 彼女が受かって、とても良かった!

 僕も、凄(すご)く嬉しい。

 『おめでとう』メールを、一字(いちじ)一字、声にして打ち込む。

【コングラチュレーション! 僕は、これから番号を確認するところ】

 僕らは互(たが)いに合格発表まで、スマートフォンのメールを交換して来なかった。

 久し振りの彼女のメールに、僕の胸は嬉しく高鳴(たかな)る。

 これで僕も合格していれば、モアベターだ。

 不合格ならば、彼女と決定的に差が付いてしまうだろう。

 今でも、そうなのに……、彼女が僕をバカと思わずに見下さなくても、僕は、頭の賢(かしこ)さの違いにコンプレックスを抱(いだ)き、益々(ますます)、彼女と話すのを躊躇(ためら)うようになると思っていた。

 入試の当日は、今日のような空模様に、湿気の多い雪が一日中降り続いた。

 足下(あしもと)が滑(すべ)り易くて危ない。

 行き帰りで滑って転んだりでもしたら、それまで、気を付けてきた言霊(ことだま)の呪詛(じゅそ)を唱(とな)えてしまい、アクシデントの多い将来を暗示するような気がして、不安な人生の第1歩にならないように慎重に歩いて縁起(えんぎ)を担(かつ)いでいた。

 初詣(はつもうで)は、金沢市の受験の神様、金澤(かなざわ)神社で友人達と大晦日(おおみそか)から元旦(がんたん)にかけて、除夜(じょや)の鐘(かね)が鳴る中、御賽銭(おさいせん)に紙幣を大奮発して願(がん)を掛けた、合格祈願と恋愛成就の二年参(にねんまい)りをした。

 ちゃんと、『夢牛(ゆめうし)』に手を置いて合格を願(ねが)い、合格と縁結(えんむす)びの願いを書き込んだ絵馬(えま)も掛けた。

 御神籤(おみくじ)は、『願い、遅(おそ)きに叶(かな)う。恋愛、強き想いは必ず伝わる。待ち人、やや遅(おく)れて来る』の大吉で、お持ち帰りして社務所で購入した合格祈願の御守りに今も挟(はさ)んでいる。

 連るむ仲間達は、それぞれ、別々の高校を受験する。

 誰(だれ)一人(ひとり)として、同じ高校を受験しない。

 僕達は、別々の高校に進学しても、変わらぬ友情を二年越(ご)しに誓(ちか)い合った。

 今朝は、地元の上野八幡(うえのはちまん)神社へ行って、念押しの神頼(かみだの)みも済ませて来た。

 ちゃんと、初詣と同じ、大奮発した御賽銭を入れて、二拝二拍手一拝(にはいふたはくしゅいっぱい)をし、鈴(すず)をしっかり鳴らして、小声で願いを唱えている。

 神頼みは、ばっちりだ。

 『どうか、彼女にバカだと知られて、避けられませんように』と、掲示された受験番号の列に、自分の番号を探す。

 バカでない事を願いながら見た、合格者発表は、一念発起(いちねんほっき)した受験勉強と神頼みした甲斐(かい)が有ったのか、掲示板に僕の受験番号が載(の)っているのを見付けて、安堵に胸を撫(な)で下ろしながら、大きく溜め息を吐(は)いた。

 胸の息苦しい痞えは、直(す)ぐには無くならなかったけれど、心から安心した僕は彼女へメールを打つ。

【僕も、受かったよ】

 互いに志望校へ合格したのは、喜ばしい事だけど、4月からは方角も、授業カリキュラムも違う、交流事情や行動接点の無い、別々の高校へ進学する。

 今日からは、確実に僕の人生は、彼女と別れ出して行く。

 もう、同じ狭(せま)い時空にいて、同じ空気を吸う事は稀(まれ)だ。

 今までのように、日常的に通学路や校内で、彼女を探して見付け出す事はできない。

 これからは、アナログなリアルを拒(こば)む彼女との出逢いは、本当に偶然(ぐうぜん)のみになってしまう。

 別れ始めた二人(ふたり)の人生は、再び、交差するのだろうか?

 デジタルなメールは、きっと、離れて行く彼女のハートを掴(つか)み切れなくて、高校での新(あら)たな出会いに掻き消されるだろう……。

 そして僕は、決定的に失恋(しつれん)してしまうんだ。

 そう考えると、僕の心は憂(うれ)いた。

【おめでとう! 良かったね】

(ああっ、最高だ!) 

 メールを文字を見た瞬間、コーラス祭の時のように彼女の声が聞こえた…… 気がする。

 例(たと)え、ドライに打たれた言葉でも、この発光画面に浮き上がるデジタル文字に込められた、彼女の気持ちは本物だと思いたい。

 他の誰の、どれほどの褒(ほ)め称(たた)える美辞麗句(びじれいく)よりも、文字にされた彼女の御祝(おいわ)いの言葉が、僕は一番嬉しい。

【言霊に気を付けたのと、金澤神社の御神籤が、大吉だった御蔭ね。私と、あんた自身と、金澤神社に感謝しなさい!】

(驚(おどろ)いた! 彼女は、僕が大吉を引いたのを知っている? なぜ?)

 直ぐに僕は、スマートフォンの電話やメールでダチ達に問い合わせた。

『僕は合格していた。そっちはどうだった? それから、彼女は、僕が金澤神社の御神籤で、大吉を引いたのを知っていたぞ! びっくりだ! その事を、誰かに話したか? 初詣で彼女を見たか?』

 回答は直ぐに来て、友人達みんなは、志望校に合格していた。

 彼女の件については、誰もが、連れ達以外には話していないし、あの場で彼女を見掛けていなかった。そして、皆一様(みないちよう)に、『お前らの異常で、不自然な関係など、知らん!』などと、打ち返えして来ていた。

【どうして、金澤神社の大吉だと、知っているんだ?】

 彼女への疑問は、彼女へプレッシャーを与えない限り、彼女自身へ訊(き)くのが一番だ。

 大吉の御神籤の事は、友達以外に話してもいないし、見せてもいない。

 クラスメート達に出逢ったのは、参拝(さんぱい)が済んで境内から出た後で、それも、擦(す)れ違い様の軽い挨拶(あいさつ)だけだ。

 僕達が気付いていないクラスメートがいたとしても、孤立(こりつ)主義と思われている彼女へ、挨拶以外の会話などしない。

 彼女を知る、男子や女子は敢(あ)えて、彼女と必要以上に親しくしようとしていない。

【秘密、教えない】  

 きっと、二年参りの初詣の場に彼女がいたと思う。

 離れた場所から僕を見ていて、僕が御神籤を結ばなかったから、御神籤が大吉で、合格の御守りにする為に持ち帰ったと考えたのだ。

(いったい彼女は、何処にいて、僕を見ていたんだ? 境内で、同級生らしき女子はいなかったよなぁ……)

 彼女に諭されたので、帰りに金澤神社へ立ち寄って、志望高校合格の御礼参りをした。

 あの時、彼女も、ここに初詣に来ていたのなら、絵馬を納めているのに違いないと思い、絵馬掛けに彼女の絵馬を探す。

 最初に、僕の絵馬を探した。

 僕の行動を見ていたのならば、僕の絵馬の近くに掛けているかも知れないと考えたからだ。それに、近くに掛けていて欲しかった。

 絵馬掛けには、多くの絵馬が何層にもビッシリと、隙間(すきま)無く掛けられて、場所も、うろ覚(おぼ)えで分らない。

 適当に当りを付けて根気良く、1体ずつ捲(めく)り、やっと捜(さが)し当てた僕の絵馬は、10体ほども下に埋もれていた。

 捜し当てた僕の絵馬には、菅原道真(すがわらのみちざね)の絵が描かれた面同士を重ね合わせて、もう1体の絵馬が結ばれている。

 手前に願い事が書かれた面を見せるのは、僕の絵馬だ。

 直ぐに反(かえ)して結ばれている裏の絵馬を見ると、彼女の名前が有った。

『志望校へ合格しますように!』、『願いが叶う、幸せな年になりますように』

 ピッタリと合わせられた彼女の絵馬に、ヘタったような丸っこい大きな字で、そう書かれていた。

 彼女の絵馬の紐の結びと僕の絵馬の結びを解(ほど)き、それから、互いの絵馬の結び紐(ひも)を1本ずつ絡(から)ませながら、2体の絵馬は合わせて縛られ、そして、残り1本ずつの紐で掛け結び直されている。

(こっ、これは……)

 ダチ達と、はしゃぎながら慌ただしく済ませた二年参りで、直ぐそこにいた彼女を、見い出せなかった自分に焦りと苛立(いらだ)ちを感じて、胸が苦しくなる。

 僕を見てくれていた彼女に……、自分の絵馬を、僕の絵馬に重ねて結び直す彼女に……、痛いほど胸が締め付けられる愛しさと切なさを感じて、嬉しさで全身が小刻(こきざ)みに震(ふる)え、肩や背中が、加速して流れる血液で熱く、ポカポカと顔は火照(ほて)り、ジンジンする耳の後ろの小さな痛みが、頭の中を白い靄(もや)が掛かるように、ぼやーっと痺(しび)れさせて行った。

(……もしかして、社務所の売り場脇で、ぶつかりそうになった女の子が、彼女だったのか……?)

 違う学校の子だと思って、気にもしていなかった。

(あーっ! そういえば、ぶつかる寸前にまで、近づいた時、漂った懐かしい感じの匂いが、そうだったんだーっ。大好きなら、直ぐに気付かなきゃ、全然、ダメじゃんかー)

 あの時、もし気付いて立ち止まり、フードを被って俯いていた彼女が顔を上げたとしても、僕は何が言えただろう?

 きっと、互いにメールで交わした新年の挨拶を声で繰り返しただけで、それ以上は何も言えないままにいて、僕は巡(めぐ)り逢えたチャンスをロマンスにできていなかったと思う。

(ふっ、まったく、いつどこで、彼女に見られているか分らないな)

 そう思うと、その擽(くすぐ)ったい嬉しさと入試に合格した喜びで、僕はヘラヘラニヤニヤと一日中笑っていた。

 もう僕の頭の中は、幸せのバラ色に彩(いろど)られている!

 だけど、表裏に記された願いと名前が晒(さら)されているから、絶対に学校の誰かしらに見られていると思う。

 いくら合格祈願力を強める効果と、あと、3ヶ月足らずで卒業してしまう時期の、一度切りの事とはいえ、人目を気にしない彼女の大胆(だいたん)さに、『敵(かな)わないな』と羨(うらや)んでしまう。

     *

 卒業式の朝、いつものように徒歩で、学校へ向かう。

 この3年間、通(かよ)ったこの道で起きた出来事や場面や想いを思い出しながら、僕は歩く。

(これから先、将来、この道をこうして歩いても、今のこの思いを、再び、同じように感じるだろうか?)

 そう考えていまうと、足裏から伝わる路面と見慣れた町並みや、学校に近付くほど騒(さわ)がしくなる朝の喧騒(けんそう)と漂う朝独特の臭いも、全てが感慨深く、大切な気がしてくる。

 熊走(くまばし)りの坂を上り、小立野(こだつの)3丁目の曲がりくねった旧道を抜け、左に亀坂(がめさか)を見ながら下馬(げば)の広見(ひろみ)に出る。

 小立野通りと左側の白山坂(しらやまざか)が交わる石引(いしびき)の交差点だ。

 ここから湯涌(ゆわく)街道が小立野通りに繋がる幹線道路は、石引通りと名前を替えて直線で兼六園(けんろくえん)に至る。

 その兼六園から400メートルほど手前に、今日が最後の登下校になる市立の中学校は在った。

 僕は、此処での3年間を忘れたくなかった。

 暫し校門の前で立ち止まり、冬の青空に映(は)える三尖塔(さんせんとう)を見上げて思う。

(ずっと、忘れないでいたい。僕は決して、忘れないぞ!)

 彼女も、僕も、互いの志望した高校に合格した。

 四月から僕達は、違う高校へ通う。

 互いの学校は方向の違う、遠く離れた場所に在った。

 二人の通学するコースや手段や時間帯は違い、彼女を見掛ける機会は殆ど無くなるだろう。

 合格発表日から彼女との唯一の繋がりとも言えるスマートフォンのメールは再開されているけれど、高校で彼女のハートを射止める僕以外の新たな出逢いが有れば、僕にときめきと安らぎを与える彼女のフレンドリーなメールは、来なくなるに決まっている。

 電話や直接話すのは、彼女から拒否されているけれど、僕はずっと、彼女と親しげに話したいと思っていた。

 楽しいアニメを観た後や感動する物語を読んだ後の嬉しさが染み込んで来て、泣きたくなるような気持ちで彼女と感傷深く話したかった。

 どうせ話すなら高尚(こうしょう)な話しでもと思うけれど、『高尚とは何ぞや?』と、考えてしまう。

 学校の成績では遥(はる)かな高みにいる彼女に、僕の考える高尚な教養の有る話題など、御呼びじゃないだろう。

 下手(へた)に理屈っぽいウンチクなど垂れて、ドン退きされるのは嫌だ。

 テレビのドラマやバラエティーをテーマに、あーだこーだも、軽くて頭の思考とメモリーがスカスカと思われる。

 それに僕はテレビを見ないから話にならない。

 日常の身の回りの出来事や思いや考えなどは、メールで普通にダチに話すかのような口語体で交わしている。

 同じ内容を繰り返すのも無粋(ぶすい)だと悩んでしまい、結局、話すどころか、挨拶もできないくらいに声を掛けるのを躊躇(ためら)ってしまう。

 どうも、順番が逆のような気がする。

 姑息(こそく)にスマートフォンのメールで告白したのがいけなかったと思う。

 あれからは、ずっと彼女にイニシアチブを取られっぱなしだ。

 隣どうしのクラスに分かれた3年生では、教科書を忘れたふりをして彼女に借りに行き、会話のきっかけをと考えたけれど、その後の展開を悪い方ばかりに想像してしまって実行できなかった。

 中学生の3年間で彼女と話したのは、2年生の時の朝の挨拶とスマートフォンでの謝罪だけだ。

(生声(なまこえ)は、挨拶を返した一言だけ……。不甲斐(ふがい)無さ、勇気の無さ、意気地の無さ、全く、自分が情(なさ)けない)

 高校生になっても当分は、この情けない関係は覆せないだろう。

 それでも僕は、彼女に恋をし続ける。

 今は氷壁の態度と凍(い)て付く言動でスノーホワイトのような彼女だけど、いつかは和(やわ)らいで、霞(かす)み立つ春の穏(おだ)やかな光りに咲き誇(ほこ)る満開の桜のように、優しく僕に接してくれると信じていたい。

 そうなるように僕は、彼女に想いを送り続けよう。

 もしも、無念の定めで絶望に鎖(とざ)されても、彼女の幸せを願って別れる男でありたいと思う。

 見上げた三尖塔から、既に定位置に固定された校訓の像へ目を落とす。

(彼女と、いつの日にか、この像のような寄り添う二人(ふたり)になりたい)

 モデルになった熱い夏の日、横に並んでポーズをとる女子部員を見て、僕は、そう思っていた。

     *

 卒業式には、お袋が来ていた。

 式が終わると、お袋が講堂から退出中の僕の傍(そば)へ来て誘う。

『これから、買い物に行くけど、いっしょに来る? 行くなら待ってるから』、

 これが休みの日なら買い物の荷物持ちとして同伴して、小遣いがピンチな時にはオネダリもするのだけど、今日の今からは、僕の人生の最前線で行うべき大事な事が有った。

 故に残念ながら、お袋とはいっしょに帰れない。

 僕が断ると、『わかった。じゃあ、行くわ』と、いつもの如く、あっさりと後腐(あとくさ)れ無く、親子の大事な絆(きずな)は違う処に在るからと言って、上辺(うわべ)の体裁(ていさい)に拘(こだわ)らない母親は僕を置いて、さっさと行ってしまった。

 玄関脇のゴミ箱に使い古した内履(うちば)きを捨て、校舎の玄関から外へ出た時に校門を出て行く彼女が見えた。

 既に、親といっしょに帰ったと思っていた僕は、慌てて校門へ走りながら、序幕を終えた『校訓の像』を一瞥(いちべつ)して彼女を追い駆けた。

 あれだけ僕がモデルをしていたのに、男子像の顔は、輪郭が僕っぽいだけで、目鼻立ちは僕らしくなかった。

 製作中や完成後も、設置される前に何度も見たけれど、美術雑誌で見るモデルのような標準的な日本人少年顔の、僕に似ていない他人だった。

 真夏の熱く蒸(む)れる美術教室でモデルをしてジンマシンになったり、別の日にも、表情や身体の各部位のモデルになってスケッチを描かれたり、写真も撮られたりしていた。

 ……それなのにだ。

(全然、僕じゃない! 彼女が見ても、僕がモデルだと、分んないじゃん!)

 青信号が点滅する横断歩道を駆け渡り、そそくさと彼女が歩く対面の歩道を歩く。

 中学生最後の日の下校は、いつもの彼女の前後を少し離れて歩くのとは違って、真横に彼女を感じながらの下校になった。

 ちらちらと真横の彼女を見て、僕に気付いた彼女が僕を見そうになると、見詰め合っても構わないと思っているのに、さっと、顔を前へ戻してしまう。

 時々、同時に向き合ってしまい、一瞬、見詰め合ってから恥ずかしくなり、互いに慌てて顔を逸(そ)らした。

 これで車道が無ければ、初々(ういうい)しい初デートみたいだ。

 T字交差点で彼女が停まったり、遅くなったりすると、ワザと僕はスローに歩いて、彼女が横に並ぶを待つ。

 僕が信号待ちした時や、小路から出て来る自動車を遣り過ごす時も、同じように彼女もスローに歩いてくれて、僕は嬉しさで心臓がドキドキと高鳴り、自動車の行き交う車道を飛び越えて、彼女の肩に触れるほど近くを並んで歩きたい衝動に駆られた。

 下馬地蔵を過ぎると、片側2車線の道路が山に向かう下り側だけが1車線になって道幅は狭くなり、彼女との距離は近付いた。

 髪の揺れ、服の皺(しわ)や靡(なび)く様、瞳の虹彩(こうさい)までが、鮮明に見て取れて、その愛らしさに締め付けられる心臓は痛く、送り過ぎた血液で視界の隅が少し暗くなった。

 胸は切なさに大きく喘いで息をするのも苦しい。

 過呼吸で喘ぐ息に思考が鈍(にぶ)り、自分の手足の動きも、ぎこちなく思える。

 僕はリアルに何か、行動を起こして彼女に近付きたいのに、とても、連なって行き交う自動車を避けて通りを渡れそうになくて、目の前の僅かな距離を押し渡る勇気が出なかった。

 20分ほど歩いて着いた僕の家の方へ向かう通りへは、折れずに彼女の真横の位置をキープしたまま、彼女の歩みと向きに合わせて進んだ。

 いっしょに歩ける登下校も、これが最後と思う名残惜(なごりお)しさと、彼女の傍に、もっと居たい気持ちと、僕が考える諸悪の全てから彼女を守りたいとの独占欲から、僕は恥ずかしげも無く、帰宅コースから外れた通りを僕は彼女と並んで歩いた。

 いつもは曲り角で彼女を見送るのに、そうはせずに歩いて来る僕を不思議がる彼女は、じぃーっと、僕を見ながら歩いて行く。

 僕も、彼女を見続けて歩いてみた。

 高鳴る鼓動が更に、テンポと強さを増したのを意識しながら、初めて目も顔も逸らさずに彼女を見詰め続けたまま、僕は歩いている。

 見ていると、慌てたように彼女はスマートフォンを取り出し、素早くキーを打ち込んでメールを発信した。

 直ぐ様、僕のスマートフォンが反応して、彼女からのメール着信コールを奏でる。

 着信コールに気付かないみたいに、僕は、顔を彼女に向け続けて、ワザとスマホを取らない。

 道路の向かい側をスマートフォンを手に持ちながら、僕を見て並んで歩く彼女、その彼女からのメールを受けたのを、ポケットの中で震えながら彼女専用のメロディーを奏でて知らせている僕のスマートフォン。

 今にも、『なぜ、付いて来るの? あんたの家は、そっちでしょう?』や、『なぜ、メールを見ないの?』と、彼女の思っている問いを、僕のスマートフォンがしゃべり出しそうだ。

 彼女が放つ、僕への嫌悪感と、疑惑のプレッシャー、不可解と思われる行動を取る後ろめたさと、晒し者にされるような羞恥心(しゅうちしん)、そして、限界に高まる動悸で僕は、今にも震える足が縺(もつ)れて倒れそうだ。

 何度も、脇道へ逃げて、走り去りたい衝動に駆られる。

 だけど僕を見てくれている彼女が、堪らなく嬉しい。

 そんな、彼女を目を逸らさずに見てる僕は、プレッシャーに勝(まさ)る楽しさで、心はときめいている。

 僕は、奏で続ける彼女のイメージで選定したメロディーを、もう暫く聴いていたいと思う。

【そっちの広い通りへ曲がれば、あんたの家じゃないの?】

 着信音の楽曲を1曲、フルに鳴らして開いたメールは、予想した通りの文面で顔が笑ってしまう。

 曲り角は、もう、疾(と)っくに過ぎていて、バス停一(ひと)つ分以上も後方だ。

 返信をせずに、僕は画面を閉じてスマートフォンを仕舞った。

 彼女との別れは、直ぐ其処に迫っている。

 スマートフォンの発光する画面のドット文字じゃなくて、生声で伝えたい。

 きっと、彼女は向かいの小路を自宅の方へ折れて行くだろうと思い、信号の無い小路が交差する小さな交差点の角で、僕は立ち止まり、大型車の過ぎ去るのを待って見送りの視線を流す。

 すると、驚いた事に、いつも僕の方を見向きもしないで無視して行くだけの、冷たい彼女が立ち止まって、道路の向う側から僕を見ていた。

 まさか、ドライな彼女までが立ち止まるとは思わなくて、心が震えてしまう。

 彼女が背にする小路の向こうに彼女の家が在り、角を折れて家へと向かう彼女に僕が声を掛けて振り向かせ、冷(ひや)やかな反応の彼女を見えなくなるまで見送るという、自虐(じぎゃく)的な片思いで終わって仕舞う、中学生最後の思い出作りをしようと考えていたのに……。

 これでは、見送れない。

 已(や)む無く生声で彼女に伝えて、さっさと格好良く立ち去る事に決めた。

 ゆっくりと拡声器のように両手を口に添えて、大きく息を吸う。

 覚悟は、できている。

 これで、彼女と意志の疎通(そつう)は断たれて、メル友は終了するだろう。

 ここで望みが絶たれて、悔(く)やまれる思い出にしてしまうかも知れないけれど、僕はどうしても言いたい。

 言おうか迷うより、言えなくて悔やむより、言ってから後悔したいと思う。

 コーラス祭の時のように、一瞬の溜めを置いて、一気(いっき)に叫ぶ。

「大好きです! 今も、これからも、大好きです。僕と付き合って下さい!」

 言い放った瞬間、大きな車が続け様に轟音を立てながら、目の前で交差して彼女を隠し、押し退(の)けられた大気は、旋風を巻いた風圧となって僕を襲う。

 放った声が向こうへ抜け通って、彼女へ届いたのか不安だったけれど、全ての音を一瞬に潰(つぶ)した大きな音と、眼を瞑(つむ)った顔を逸らさせるほど、強く吹き寄せた風が、テンパって限界寸前の気持ちを、更に殺(そ)がしてくれて、2度目を叫ぶのは、とても無理だった。

 体裁などを気にする余裕の無くなった僕は、そそくさと身を翻(ひるがえ)して、旧湯涌街道へと逃げる。

 颯爽(さっそう)と歩き去ろうと、決めていたのに歩調は速くなる。

 大股歩きは、早足になり、早足は、小走りになった。

 背後から彼女の声がした時は、小走りから駆け足に移っていた。

 2度ほど聞こえた彼女の声は、風に巻かれて途切れ勝ちで、何を言っているのか分らない。

(やっぱり嫌だ! きっと、絶対、僕はフラレてしまう!)

 本当に僕は言ってから、後悔している。

 駆け足はダッシュになった。

(僕がフラレる言葉を、彼女の生声で聞きたくない!)

 僕は、全力で走って逃げた。

「さようなら。またね!」

 今度は、はっきりと聞こえた。

(彼女の声だ……)

 彼女の声に振り向くと、旧湯涌街道の車道に立ち、僕を見ている彼女の姿が有った。

(僕は……、彼女に、フラレていないのか……?)

 叫んだ生声の告白が、彼女に聞こえているのか、いないのか、確信は持てなかったけれど、彼女が終わりに言った、『またね!』は、とても、親し気に聞こえて凄く嬉しい。

(僕は、まだ、完全にフラレてないじゃん!)

 彼女は、嫌だとは言わなかった。

 『またね!』なら、当分、メル友は続けていられそうだと思う。

 それでも僕は走り続けている。

 一旦(いったん)逃げた以上、『またね』で親しみを感じたからと彼女の方へ戻るのは、浅ましいと思ってしまったから戻る事は出来ない。

 何度も、何度も、僕は振り返り、その度(たび)に車道の真ん中に立ち、僕を見続ける彼女を見た。

 それは、僕が思い描いていた思い出作りの中の僕役をするように、僕が見えなくなるまで見送り続けている彼女の姿だった。


つづく

『桜の匂い 第2章 想いのままに(高校1年生~高校3年生) 男子編』へ

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桜の匂い 第1章 希薄な赤い糸 男子編(小学6年生~中学3年生) 遥乃陽 はるかのあきら @shannon-wakky

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