ホウには好きな女がいた。口下手な奴には似合わない、美人だった。それも、金がなかった頃の俺達が必死に追いかけていたような、ファンデーションで塗り固めた嘘の塊でない、可憐なイメージの女だった。事実、俺達のように闇の中で生きている人間ではなかった。堅気の普通の大学生だった。

 俺は一度彼女に会ったことがある。ホウははにかみながら、喫茶店で彼女と談笑していた。昔からやつをよく知る俺から見れば、笑ってしまうような光景だった。窓の外から見た光景だったので、その時ホウとその女──イザベラという名前だったらしい──が何を話していたのか、今となっては知る由もない。ただ、その時の俺はホウと常に一緒だったし、ホウと成功することだけを考えていた。ホウも、望んでいたかどうかは別として、一緒に仕事をいくつも成功させた。若かった俺達は、銃を持って鉄砲玉のようなことも何度もした。生傷どころか死にかけたことも数度あった。だが、それでもいつかデカい金を掴んで、ビッグになるという夢は、いつだって最高の治療薬になった。

 俺には頭があったが、ホウにはそれがなかった。俺は、いつしか組織の中でも頭脳労働を任されるようになった。ホウは、ヒットマンとして働いた。ヒットマンなんて言葉はこけおどしにすぎなかった。やっていることは、生死をかけて相手を殺す、それだけのことだ。鉄砲玉と変わらなかったのだ。

 俺は、組織の所有するフロント企業の幹部を任されるようになった。ホウは、まだ命をかけていた。俺達が一緒に酒を飲むことも、女を追いかけることも、いつしか徐々に少なくなっていった。





挿絵(By みてみん)

 俺は、路地裏に潜り込んで、鉄のゴミバケツに腰掛け、高級なコートが汚れるのも構わずにセカンドバッグを漁った。丸いレンズのサングラスに、ベレッタF92が一丁。輪ゴム止めのお札が十枚。ロウが、必死にかき集めてくれた金なのだろう。俺はすべてコートの内ポケットに突っ込むと、サングラスをかけ、改めてタバコを吸い直した。

 何が、ビッグになる、だ。

 俺はどこまでも愚かな自分をコケにするように、くぐもった笑いを漏らした。そして、自分を呪った。もしこの世に神が居て、すべてを運命という名のメモか何かで決定しているのであれば、ここまでうまくダンスを踊らされた人間もいないだろう。神はよほどはしごを登った人間を蹴落とすのが好きらしい。いや、全てが予定調和なのだとすれば、俺はまだはしごを登り続けているのだ。そして、クライマックスに達した時、その瞬間を見計らって蹴落とすつもりなのだ。だから俺は生きている。

「参ったな」

 俺はコートの中の銃と、セカンドバッグに入っていた銃をベルトに挟む。ここから先は敵しかいない。味方はもういなくなった。俺は、ある時点から一人で生きてきた。若かった。自分の戦いが、いつか報われることを信じていた。戦い、相手を殺し、いつか何か得られるものがあると信じていた。だが、それは、猜疑心というレンガを積み上げた城を作っただけだった。

 名誉。金。恋人。かつて俺にあったものは、今や一つも残ってやしない。

「いたぞ!」

「こっちだ、回れ!」

 男たちの怒声。銃声が返事代わりに響く。俺は二丁の銃を抜く。右手、左手。殺しで金を稼いでいたころから、銃弾をばらまくのだけは得意だった。3発目に放った9ミリ弾が男の心臓を、8発目がもう一人の男の足を貫いた。逃げなければ。俺はベルトに銃を仕舞い、当所なく走り始めた。

 ネオン看板が火花を散らす。雨が降り始めたのだ。泥混じりの雨を浴びるのは、随分とお似合いだな、と俺は自嘲気味に考える。コートを着ていたのは正解だった。大通りに抜ける。鉄のゴミバケツからぶちまけられたゴミが転がる、人気の無い大通り。いや、人気はある。柄の悪いチンピラ達が、銃を持って並んでいる。見慣れた我が社の社員達。人混みをかき分けて、傘を差した男が一人出てくる。

「ハン」

「そうさ。逃げなくたっていいだろう」

 俺は奴に返しきれないほどの恩義がある。それを返そうと躍起になって生きてきた。ハンは俺をどう思っているのか。俺は知らない。うまくやってきた、という自負はあった。それが真実でない、ということに目をそむけてきた。

「ワンが死んだのは聞いた。これからこの街は、大きく揺れる。ワンを殺したやつを殺せば、幹部にだってなれるだろう。……俺がチャンスを掴むには、お前は邪魔なんだ」

「ワンを殺したのは誰だ?」

 当然の疑問だった。答えも分かっている質問だ。くだらない愚問でしかない。ハンは、傘の下で少しだけ唇を歪めた。

「さあな。だが、お前は死ぬ」

 俺は銃を抜いた。右手と、左手に。







 ホウは、敵対組織の幹部を殺し、刑務所に入った。イザベラが一晩中泣きはらしたのを、俺はよく覚えている。一晩中。俺は、彼女に何をすることもできなかった。曲りなりとも親友の女に手を付けるわけにもいかなかった。

 ホウが出てきたのは、十年経った時だった。お互い、皺が増えていたのを笑いあったのをよく覚えている。本当に久々の感覚に、俺達はあの頃へ戻った時のような気持ちで、夜の街へ繰り出して、昔のように酒を飲んだ。女は抱かなかった。俺は既に昔のような節操の無さは無くしていた。ホウは、イザベラへ会いたがっていた。十年の月日は長く、イザベラは首を吊って死んでいた。なぜ死んだのかは分からなかった。ホウはグラスを握ったまま何も言わなかった。 俺は、その次の日には迷わずホウを会社の幹部に据えた。

 その頃から、俺達は決定的におかしくなった。ホウは、脇目もふらずに働いた。もちろんそれは俺も同じだったが、ホウと俺には、決定的に違っていることがあった。ホウには、もう失うものがない。そのがむしゃらさが認められたのか、ホウは組織で一目置かれるようになった。

 俺達が酒を飲んだり、女を追いかけることはとうとう無くなった。立場はやがて逆転した。ホウは会社代表を務めるようになり、俺は幹部役員の位置に甘んじた。俺達はビッグになった。ケミカル臭のする酒や、どこの部位か分からないジャーキーをかじること無く、本物の酒と肴、混じりけのない純粋な美しさを持つ女を抱けるようになった。

 いつだ、それは。いつそんな機会を持てというのか。俺達はそれぞれ役割を持ち、任務が与えられている。そんな時間があるのか。そんな暇があるのなら、俺がやつに勝つことを考えるべきではないのか。俺の脳内には、優先順位と金のことしか無かった。当然、二人のことなど隅に追いやられた。

 俺達はおかしくなった。昔、俺達は二人で一人だった。今は、完全な別物となってしまった。それだけならまだいい。昔を忘れ、今を生きることに躍起になった結果、過ぎ去った時のことを考える暇もない。

 俺達は、変わった。

 それは決して好ましい変化ではない。崩れ落ち、腐食し、劣化した関係だ。ホウも、俺にも、あの時の情熱は残っていない。俺は、その時からある考えを持っていた。俺達のどちらかを犠牲にして、火にくべることができれば、またあの時のような情熱が戻ってくるのではないか。俺達が、俺達以外に何も持たなかったあの時に、戻れるのではないか。

 俺達は、変わらなくてはならないのだ。




 俺は来た道を逃げた。十人以上通りに敵がひしめき合っているのだ。突っ込めば死ぬ。飛び出してきた人間に、容赦なくトリガーを引く。あっという間に肉塊となった男を飛び越え、俺は走る。臓物にナイフを突き立てられたような鈍痛が俺を襲う。腰がズキズキと痛む。俺は老いている。

 8人目を殺した時まで、俺はどこをどう走っているのか分からなかった。気づけば、目の前には教会が建っている。お世辞にも、神の施しは受けられそうにない、朽ち果てた教会だ。

「ぴったりだな」

 俺は独りごちると、濡れて火が消えたタバコを投げ捨て、最後の一本を取り出し、火をつけた。箱はくしゃくしゃにつぶした。肺は、タバコの煙は欲してないようだったので、後はくわえるだけにした。

 男たちの足音が、夜の街に水を散らしている。

「残りは……五人か」

 俺は額に銃のバレルを当てる。今更神に祈る気にはなれなかった。俺は、ハンを殺す。親友を殺す事を神に懺悔しなければ。それは祈りではなく、許しを請うことに他ならなかった。

「出てこい、ホウ!」

 ハンの声が響く。

「決着を付けるんだ!」

 ハンは、俺を恐れている。そう言っても、やつは恐らく否定するだろう。会社から俺を追い出しても、それだけでは安心できない。いつか、俺が殺しに来ると錯覚する。し続ける。そうしてハンは、一生安眠できないというわけだ。

 いつからだろう。昔の俺達は、お互いに対して疑いをかけるということは知らなかったように思う。それが、長く策謀と疑心の海の中に浸かっていただけで、こんな風に変わってしまうのか。

 教会の扉が開く。ショットガンを持った男が飛び出す。俺は容赦なく左右のベレッタのトリガーを絞る。男はダンスをひとしきり踊り、穴ぼこだらけの死体になった。

 三人の男がその隙に転がり込み、ステンドグラスや十字架、パイプオルガンが銃弾で爆ぜる。俺はかつて説法を聞きにきた人々が座ったであろう椅子の影に転がり込み、手首から先だけそこから出し、トリガーを絞った。当たるかどうかは問題ではなかったが、運悪く一人の男の命を奪ったらしく、くぐもった悲鳴が聞こえた。

 ふと、俺は腹を触る。濡れていた。当たり前だ、雨の中を走ってきたのだから。だが、それが赤いのはどういうことだ。いつの間にか、俺は銃弾を食らっていたようだった。俺は椅子の影から文字通り飛び出すと、昔のように空中にいながらもトリガーを絞り続ける。残っていた二人の男に命中。

 俺の身体は埃っぽく、赤錆びた匂いのする教会の床に投げ出される。血はまだ流れている。命がこぼれているような錯覚が目の前をぐるぐる回り出す。

「ホウ」

「ハンか」

 ハンは丸腰だった。俺は、椅子に手をかけ、立ち上がろうとする。力が抜けてしまっている。恐らく、二度と戻らないだろう。

「使えよ」

 俺は左手のベレッタを渡した。ハンの顔を、久しぶりに見たような気がした。雷鳴が教会の中を照らし、皺が深く刻まれた、疲れた男の顔が闇の中に浮かんだ。

「撃てよ、ハン。ボスになりたいんだろう。組織で、この国で、もっと上へ行きたいんだろう」

「そうだ。……俺は、もっと上へ行きたい。男として、極道として当然のことだ。お前を、殺して」

 絞りだすような声だった。俺は、ハンに銃を向けた。ハンも俺に銃を向けた。メキシカン・スタンドオフ。先にトリガーを絞ったほうが、生き残る。

「ホウ。なあ……俺達は、なんでこうなったんだ。何が間違ってたんだ。俺達は、良い酒を飲んで、良い女を抱きたかっただけなのに」

「ワンの殺しをお膳立てしたのはお前だろう。今更なことを言うなよ……それに、俺は、もう死ぬ」

 俺は、腹を押さえていた左手をハンに見せる。血にまみれた左手を。

「撃てよ、ハン。そうすりゃ、お前はワンの仇をとったことになる。デカい功績だ。もっと上へ……」

 ハンは、それ以上何も言わなかった。ただ、かちかちと銃口だけが揺れていた。長い時間が過ぎたような気がした。雷鳴に似た音が轟いたが、窓の外から光は届いてこなかった。教会で雨宿りしていた鳩が、羽ばたき音を残して飛び去っていった。俺の力は完全に失せ、再び俺は埃っぽい教会の床に転がった。

「ホウ……ホウ!」

 ハンの声がする。懐かしい声だ。

「タバコをくれ……昔みたいに……」

 ハンは、懐からタバコを取り出すと、それを咥え、震える手でライターを握り、火を点けた。それを、俺の口に咥えさせてくれた。貧乏だった俺達が、タバコ代を節約するために二人で一本を吸っていた、あの頃。

「そうだ……二人で一本……」

 霞む視界には、ホウの姿があった。顔はもう見えない。俺の顔に、水滴が落ちたような気がした。それがなんであったかを確かめる時間は、俺には残っていなかった。


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さらば愛しき日々よ 高柳 総一郎 @takayanagi1609

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