さらば愛しき日々よ
高柳 総一郎
上
俺達に言葉はいらなかった。互いの目線を配らせれば、何をすべきか、何をして欲しいのか分かったものだ。
安酒をあおって、化粧を塗りたくった女を口説いた。金なんかなかった。着古したヨレヨレのスーツが俺たちの戦闘服で、気が向いたらチンピラどもと殴り合いの喧嘩をした。のしてやったこともあるし、ゴミ溜めの中に放り込まれ、そこで朝日を見たこともある。体中は傷だらけで痛かったし、俺も、ヤツも顔中アザだらけで、それはまあ無様な面だった。そんな状況になってしまえば、残っているものといえばタバコくらいなもんだった。俺達は、朝日を肴に二人で一本のタバコを吸った。生ごみの据えた匂いと、立ち上る紫煙の薫り。それが俺たちの全てだった。
1
俺はベンツに乗っている。中には女の身体みたいに柔らかいシートが備え付けられていて、俺はそれに腰掛けている。隣には、スーパーモデルも顔負けな女が座っている。優秀な秘書だ。
「何か」
「次の予定を聞くつもりだった」
「一時間後にワン氏との会食が」
「老人の機嫌取りか」
「役員会でも決まったことです」
秘書は手帳を閉じ、長い足を組み直す。
「次の予定が一時間後なら、それまで時間があるわけだな」
俺は秘書を抱き寄せる。嫌がりもしない。そうすることが仕事なのだ。腰掛けているシートの何倍も柔らかい乳房を掴む。
「社長……」
「黙っていろ」
わかっていた。俺は秘書を抱き寄せながら、冷たいものを感じている。あの頃のような情熱は、もう俺の中には残っていない。およそ、金で手に入るものはすべて手に入れた。なんだって可能になる地位もある。だが、それだけだ。肌が肌に触れ、暖かいものを感じている。それは、俺が真に欲しいものとは違ってしまっているのだ。
「今は地固めの時期です」
マホガニー製のベッドかと見紛うようなデスク。雲に包まれているのではないかというほど柔らかく、身体を包み込む椅子に収まりながら、俺はハンの話を聞く。
「我々は、組織から独り立ちできるようになった。今度は規模を広げることを考えなくちゃならない」
「そこで、ワンに顔を売るわけか」
俺達の会社は、極道者のフロント企業でしかない。ワンのような一流の極道に比べれば、吹けば飛ぶようなシノギだ。生まれたての赤ん坊と言ってもいい。
「そうです。独立したてということは、言い換えりゃ回りは敵だらけってことです。後ろ盾は慎重に選ぶべきだ」
「なぜワンを?」
「……昔、顔を売ったことが。社長はその時、ムショにいました」
「そうか」
ハンは、俺に良くしてくれる。当然だ。俺達は、長いことうまくやってきた。やつも、そう思っている。
「三日後にアポをとっておきます」
「頼む」
どこか虚脱感を感じながら、俺は秘書を連れてベンツを降りる。アポイントメントを確認させ、エレベーターに乗る。ガラス張りの眼下には、ネオンまたたくビルがちらついている。まるで天上へ昇っていくようだ。神がいるとしたら、こんな気分で見下ろしているのだろうか。
「いい気なもんだ」
「ワン氏の後ろ盾は、今の会社に必要なものですよ」
「分かってる。そっちじゃない」
俺は地上から目を離し、ネクタイを締め直す。扉が開く。高い天井のオフィス。出迎えはない。俺はワンと比べれば格下だ。ナメられているのだ。
「極道も歳を食えば、人をバカにすることが許されるんだな」
俺はいやみったらしい大理石の床を蹴った。そんなことで傷がつくわけも無いこともわかっている。子供がダダをこねるのと理屈は変わらない。
「……何か匂いませんか」
秘書の鼻は随分効くらしかった。そういえば、錆びた鉄板のような匂いが漂ってくる。おかしい。小奇麗なオフィスには似つかわしくない。俺は、大きな扉を押し開けた。
「見るな!」
秘書を押し戻すと、開きかけた扉を一度閉めた。中は地獄が広がっていた。ワンは死んでいた。恐らく警備に当っていたのだろう、大柄な男も。頭は吹き飛んでいて、血と脳漿が強化ガラスを濡らしていた。
「死んでる」
「まさか……ワン氏は青龍会の大幹部ですよ」
「だが、死んでる」
俺はコートの裏ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。タバコを持つ手が震えていた。秘書の言うことに、間違いはない。この国の極道連中でワンの名前を知らないヤツはモグリだ。そのワンが、口をだらしなく開いて、事切れている。
「一体何が起こった。ここで」
「このフロアは、わたしたちが乗ってきたエレベーターでしか来ることは出来ません。少なくとも、わたし達の来る前にワン氏は殺されていたことに」
俺は大理石の床にタバコを落とすと、踏みにじった。とにかく、ここから出たほうがよさそうだ。エレベーターの回数表示を見る。上がってきている。逃げ場は無い。忌々しい扉が開く。銃を持った男たち。何か言う暇もなく、マズルフラッシュが瞬き銃声が轟く。俺は秘書を抱えて物陰に飛び込む。
俺はコートに1丁しまってある銃を抜く。トリガーを引く。銃弾は男たちの胸や足、手をえぐる。破裂する強化ガラスの音が耳を裂く。もう若くない。腕はがくがくするし、耳に針でも流し込まれたような痛みを感じる。
「くそっ」
「社長!」
秘書が俺を支える。身体が触れる。俺の身体は温まることを知らないように冷たいままだ。
「耳が痺れたようだ」
俺は若くない。だが、若い時と同じように動いてやろうとする気力と精神は残っていた。身体はついていかない。
「病院へ……」
「病院? 違うな。行き先はそこじゃない」
タバコの火をつけるのに、随分時間がかかったような気がした。耳鳴りは収まっていたが、手の震えは止まらない。俺は無理やり左手でそれを押さえると、できるだけタフに振る舞った。
「今すぐここを出るぞ。社に戻る」
2
俺達には金が無かった。ケチな仕事で稼いだ。俺は少しは頭が回ったが、ホウにはそれがなかった。口下手で、すっとろくて、優しかった。女には、俺よりホウのがモテたと思う。
いずれにせよ、俺達には何も無かったことだけは確かだ。お互いが、お互いしか持たなかった。だから、お互い考えることも、目指すものも対して変わらなかった。金持ちになる。金持ちになって、いい女を抱いて、良い酒を飲むのだ。俺達は安酒をあおりながら、いつもそのことについて話した。今考えれば、ホウはそこまで金や、女や、酒に執着は無かったのかもしれない。いつもただ笑みを浮かべていて、どこかミステリアスな雰囲気を漂わせていた。それがまた女達にウケた。俺は女に関して言えば、ホウをお膳立てしておこぼれを預かった。
仕事は、チンピラの小間使いでしかなかった。海賊版のビデオテープをダビングし、売りさばく。取り締まりが厳しくなれば、逃げ出す。たまに賄賂をわたして見逃してもらうこともあった。俺達はうまくやっていた。俺は、チンピラの仕事で一生を終えるつもりは無かったし、ホウは好きな女ができて、所帯を持ちたがっていた。俺は、上に行かなくてはならなかった。その上で、ホウを引っ張り上げるのだ。ホウは相変わらずスッとろいままで、組織の幹部などのぞむべくもなかった。お互いが、幸せになることを望んでいた。その手段として、俺がそうすべきであると、信じて疑わなかったのだ。
運転手は既にいなかった。いや、車が既にどこかにいってしまっていた。行方を知る必要はないだろうが、このまま手をこまねいたままでは、こちらが彼の二の舞いになることは疑いようがなかった。
「タクシーを呼びましょう」
「そうだな」
タクシーに乗ると、見計らったかのようにパトカーが殺到する様子が遠ざかっていった。この後の展開は、わかりきっている。俺は頭をかきむしった。どうしてこんなことになった。狙われたからといって、銃を撃ったのも今考えれば不用意だった。恐らく、あの部屋で銃を撃ったのは俺だけということになっているのだろう。
何もかも仕組まれている。俺以外の、誰かによって。
「ともかく、社に戻りましょう」
「分かってる」
「動揺しておいでですか」
「そう見えるか」
「五年も秘書を務めさせていただいていればわかります」
「君はついてこない方がいい。損をするだけだ」
「この五年間、社長の判断に間違いはありませんでした」
秘書は窓の外を見ながら淡々と答えた。
「それはこれからもそうであるべきです」
「ビジネスに絶対が無いのと同様に、人の判断にも絶対はないと思うがな」
「人の判断に、数字による結果が必ず伴うわけではありません。損得で図りきれない正しさも存在します。逆にどれだけ数字が伴っても、他者から見れば間違いであることもあるでしょう」
「詭弁もいいとこだな」
「社長に必要な答えを示したまでです」
「そうか」
秘書は薄く笑みを浮かべ、それ以上言葉を発しなかった。今はそれでよかった。誰かの言い訳が欲しかった。情けないものだ、四十歳を超えた男の言い訳は。
タクシーは特に障害にあうこともなく、会社に辿り着いた。十階建ての近代的ビル。雑居ビルの一室に構えた事務所から、組織で出世するごとに大きくなっていった、俺の城だ。いつもならある出迎えがない。ワンのオフィスで出迎えがないのは理解できる。だが、自分の会社でそれがないのは、普段の慣習から見ても明らかに異常だった。
いや、ただ一人だけ出迎えに来ている。
会社の役員のロウだ。まだ俺がチンピラのまね事をしていた時から良くしてくれていた男で、こうして立場が逆転した現在でもよく補佐してくれた。
「社長」
「ロウさん。困るな、役員をこんなところまで……他の連中は」
「すまない……社長、あんたには謝らないといけない」
俺はタクシーを降りた。秘書とロウもそれに続いた。
「ロウさん。一体何があったんだ」
「……簡潔に言う。あんたの会社はあんたのものじゃなくなった」
「何?」
「正確に言うなら、買収された。俺の持ってる株式は十五パーセント。あんたの株式は三十パーセントだ。それ以外、すべて買い取られた」
「冗談はやめてくれ」
「わたしが冗談なんかいうもんか。しかもこんな悪質な冗談を」
ロウは年甲斐もなく泣きそうな表情を見せると、ハンカチを引っ張りだして顔を拭いた。昔は鬼とまで呼ばれたロウも、今は孫を可愛がるような年齢だ。極道の世界で、そこまで生き残れたという事実自体が、称賛に値する。ロウの皺の増えた顔に、ルビーのように充血した眼が覗いた。
「ハンの野郎だ。あの野郎、水面下で買収工作を図ってやがったんだ。役員会もやつを中心として、あんたの辞任を決めちまった」
ハンマーでぶん殴られたように、俺の頭は一瞬だけ揺れた。ハン。今まで良くしてくれた。俺もやつに報いた。なぜ。分からなかった。思考が渦を巻き、まとまらない絶望が脳内でバウンドを始めた。
「ロウさん」
その次の瞬間には、奇妙に冷静な気分になっていた。まるで採血して血を失った時のように、熱が自分の身体から失われていったのがわかった。自分をかたどっていた、最後の熱が出て行ったのだ。
「それだけじゃないんだ。ワンが……死んでた。ハメられたんだ。まず間違いなく、俺のせいになってる」
ロウは無言で俯いたまま、ハンカチを握りしめていた。俺も、この歳まで極道として、栄枯盛衰はよく見てきたつもりだ。ふんぞり返って肩を風切って歩いた男が、次の日にはゴミ箱の中に生ごみの一部になっていることなどもざらだった。俺は、いつもそういうものを見ると、鼻で笑ったものだった。俺はああはならない、とせせら笑っていたのだ。四十を越えたところで、俺は自分の愚かさを多少は改める気になった。
使い古された表現かも知れないが、過去が今までのつけを回収しに来たのだ。俺は、ロウのように収まるべき限界を知ろうとしなかった。どこまでも上に登ろうと考えていた。熱を失った俺の、最後の目標だった。だがそれは、単なる奢りに他ならなかったのだ。いつか来るだろうと考えていた『つけを払う』日が、とうとうやってきた。俺は、それを認識するだけで、自然と落ち着くことが出来たのだ。
「ロウさん。彼女を頼む。彼女は、単なる俺の秘書だ。それだけの関係だ」
秘書は無言だった。彼女は、会社の中で好きにされるのが仕事なのだ。俺がそう仕向けただけだ。だがこれ以上は、彼女を巻き込むような真似はできなかった。
「分かった。彼女のことは私がなんとかする」
「すまない」
ロウは、最後に俺にセカンドバッグを押し付けてきた。有無を言わせない勢いの彼に対し、拒絶を示すことはできなかった。
「使ってくれ。あんたのものだ。わずかだが、金も入ってる」
ロウは、味方だった。味方だったのだ。俺はロウにこれ以上迷惑をかけようとは思わなかった。どうせ、この世は敵だらけだ。若い時はそう信じて、世の中自体に喧嘩を売るように生きてきた。それがまた、帰ってきただけのことだったのだ。
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