貴方の眠り買います

宇苅つい

貴方の眠り買います

■■プロローグ


 早朝。M上氏の自宅にはいつも通り、新聞が配達された。

 今日の朝刊には、とある全面広告が載っている。


 曰く、『貴方の眠り買います!』


■■1


 昨晩もよく眠ることができなかった。M上氏は生あくびをしながら、新聞を取りに門まで出る。隣家からは昼飯を作る匂いが漂いだしている時間なのに、M上氏ときたら、つっかけ履きに寝癖の頭、パジャマの上から薄手のカーディガンを引っかけただけという、なんともだらしない格好である。それ故に、今のように往来を誰かが通りかかろうものなら、大慌てで家の中に逃げ戻って来るハメになる。M上氏は誰とも顔など合わせたくなかった。服装のみの問題でなく。


 どこかの誰かが家の前を通り過ぎるのを待って、M上氏はこそこそとポストの中から新聞を取り出す。

 本来、新聞を取るのはM上氏の役目ではなかった。社会人となって独り立ちするまでは息子が、その後はずっと細君がその役目を負っていた。

 M上氏が朝目覚めると、細君が味噌汁の実を刻む音が台所から聞こえ、丁度顔を洗い終えた息子が洗面所から出てきざまにM上氏に向かって「オハヨー」と言う。階段を降りたM上氏は息子と入れ違いに洗面し、歯を磨き、さっぱりとした心持ちで玄関脇の靴箱の上にきちんと置かれた新聞を取るのだ。たまたま新聞が取り忘れられ、靴箱の上にない朝は、M上氏はそりゃあもうむっつりと憤慨致したものだった。M上氏は秩序を重んじていたのである。


 そんなM上氏にエポックが訪れたのは、定年退職の折だった。

 息子は既に家を離れ、夫婦二人の暮らしである。これからは仕事一徹の自分を切り替え、趣味を見つけたり旅行をしたり、そんな第二の人生を思っていたM上氏に細君は、「離婚して下さい」と言ったのだ。

 M上氏が軽蔑する三文小説のごとき顛末であった。


 M上氏は卓袱台ちゃぶだいの前にあぐら座りで新聞を広げる。本日の朝飯兼昼飯は昨日コンビニで買い求めた握り飯である。さして喰いたいわけでもないが、梅干しはともかく具がしゃけの奴は、早く喰わねば悪くなる。電気ポットに残っていた湯でインスタント味噌汁を作って、M上氏は新聞を横目にもそもそと喰う。未だカーテンも開けてはおらぬので、室内の明るさは蛍光灯に依っている。「真っ昼間ですよ、今は」とでも言いたげなキンキンと刺すごとき光を投げる照明の下、ガサガサと紙面をめくる内に、その全面広告が出てきたのだ。

 『貴方の眠り買います!』


「……なんだ、これは」

 M上氏は口の中のしゃけと米粒を覗かせつつ呟いた。味噌汁で咀嚼物を喉の奥まで流し込むと、湯気で薄曇った老眼鏡に舌打ちしつつ、声に出して読みあげてみる。


  貴方の眠り、高く買い取ります!

  貴方は今、一日が長すぎると思っていませんか? 不要な時間をどうぞ我が社にお売り下さい。

  査定無料。時間・応相談。

  ご自宅にて誰にでもできる簡単なお仕事です。年齢制限なし。資格も不要。

  契約は月極更新ですから、貴方の生活ペースに柔軟に対応致します。

  コンサルタントがご自宅までお伺い致します。先ずはお電話を!

  フリーダイヤル 0120-×××-×××


  睡眠運用株式会社 S.E.C. Sleep Employment Corporation



「……睡眠、運用、株式会社ぁ?」

 細かく区切って会社の名前を二度読んでみる。M上氏は首を捻る。手に持った握り飯からしゃけのかけらがボトリと落ちて、新聞紙に丸い油染みを作った。


■■2


 魔が差したとしか思えない。

 M上氏の前には、若い営業マンが立っている。彼が玄関口で「S.E.C.営業担当 O村」という名刺を差し出してきた時にはもう既に、M上氏は得体の知れぬ会社に電話など入れてしまったことを深く後悔していた。O村は荒そうな黒々とした髪の毛を短く刈り上げた三十代前半くらいの男である。ワインレッドのネクタイがかっちりと結ばれたワイシャツの襟元からは、若さと活力が溢れている。M上氏はなんとか家の中まで上げずに、この営業マンを追い返す方法を考える。こんな男に営業トークなど長々と垂れられた日には、何やらとこちらに都合の悪い契約をきっと押しつけられてしまうに決まっている。

 会社にいた頃なら簡単にいなすこともできようが、もう今のM上氏には無理な気がした。M上氏のゴマ塩頭は清潔感を欠いて伸びすぎであったし、ネクタイだってしていない。何よりもM上氏が生涯を掛けて手に入れた名刺の肩書きが既に彼からは失われていた。M上氏はただのM上氏だった。妻すらいない独りぼっちのM上K蔵なのだった。


「お電話を頂きまして、まことにありがとうございます!」

 O村は訓練されたものであろう斜め四十五度の、とても美しいおじぎをした。上がりかまちに立つM上氏の目にO村のつむじがよく見える。午後からの陽気に少し汗ばんでいるような、そのうずまき具合をじっと見る。既視感がある。小学生の時分のM上氏の息子、そのつむじとよく似ていた。


 まぁ、上げてしまったものは仕方がない。

 卓袱台を挟んで向かい合わせに座ったO村に、不器用な手つきで茶など注ぎつつ、M上氏は思う。こうして自宅に上げたのは、別に人恋しかったなどという理由では断じてない。眠りを売るとはどういうことか。M上氏には確かに興味があったのだ。色々とこの若造から根掘り葉堀りと聞き出して、矛盾点があればビシリバシリと青冷めるまで追求し、それに飽きたらとっとと追い返してやればそれでいい。何せ、M上氏は暇だった。時間だけはたんまりとある。


 新聞広告で、M上氏の目に留まったのは、

『貴方は今、一日が長すぎると思っていませんか?』

 という一文だった。退職し、妻に去られてからのM上氏の一日は空恐ろしく長かった。日中はいつまで待っても日が暮れず、夜は夜で長々と夜のままで居座り続ける。居間の壁時計の進みが余りにもノロイので、壊れているのではないかと思い、新しい時計を買いに走ったほどである。店員に勧められて他より二割増し高い最新式というのを買った。何でも何処やらに念波だか電波だかを飛ばして、それで正確無比な時間を刻む高性能な時計だという口上だった。古い時計と新しい時計。二つ並べて比べてみたが、どちらも申し合わせたように、ピタリと足並みを揃え、同じだけしか針が動かぬ。何時まで経っても夜は明けず、昼は執拗に昼なのである。M上氏は腹を立てた。正確無比と言われた新しい方のを箱に仕舞い、物置の奥へ放り込んだ。テレビ台の斜め上に掛けられた時計は、結局元のお古のままだ。



 煎れた茶を勧めてやると、壁掛け時計を背にした位置に正座しているO村が、恐縮しつつ一口啜った。「新茶ですか、旨いですね」と見え透いた世辞を言う。確かに新茶ではあった。M上氏の息子は都会を嫌い、月給取りを嫌い、どういうツテを辿ってだか地方の茶葉農家で働いている。これはそこから送られてきた茶葉である。たまには顔を見せろと言っているのに、なかなか忙しがって帰ってこない。

 別にM上氏は、「オマエはこの家の跡継ぎなのだから」とか、「親の面倒はみるのが筋だ」などと、大時代に構えるつもりなどないのである。ただ、たまには立派に成人した一人息子と赤提灯にでも連れだって、酒など酌み交わしてみたいのだ。脂身の強い物を好む息子に、「この焼鳥屋のボンジリはオツだろう?」や、「この日本酒はキリリと際だって辛かろう」を教えてみたい。酒も進んだ頃合いには、「どうだ。オマエ、そろそろイイ人はおらんのか?」と問いかけるのだ。……はて。そういう話は、妻の方とはしているのだろうか? M上氏にはよく分からない。



「それでは、さっそくご説明に入らせて頂きます」

 M上氏の物思いを打ち切るように、正座しているO村が言った。O村は声を出すとき、幾分上口唇がしゃくれるクセがあるようで、鼻の下に一本太い横シワが入った。横シワは人相学上大変宜しいと聞きかじった覚えがある。いや、アレは額のシワのことだったか。そんなことを思いつつ、M上氏の方も鷹揚ぶって訊ねてやる。

「眠りを買い取るということだったが、どういうことかね?」

「はい。ワタクシ共、S.E.C.では睡眠時間の売買を仲介しているのです」

 O村は、にこにこすらすらと淀みなくしゃべる。鼻の下の一本シワがぐにょぐにょ動く。


■■3


「睡眠不足の時の頭のぼぅーっとした感じ。M上様もご経験がおありですよね?」

 O村が同意を求めてくる。

「人間は眠りなしには生きられないように出来ています。まあ、一日や二日は徹夜でも大丈夫かもしれません。ですが、脳という奴はちゃんとした睡眠時間を取ってやらないと、まともに働いてくれないんです」

 O村は鞄から取り出したパンフレットを広げる。黒い半円型の帽子を被り、白馬に跨る英雄が描かれた有名絵画が載っている。

「M上様はお考えたことがありますか? ナポレオンは日に四時間しか寝なかったと言われています。でも、もし彼がもっと睡眠時間を取れていたら? 素晴らしい政策や戦時下での必勝法を思いつけたかもしれません。そうしたら、彼はもっと長きに渡って英雄で在り続けられたのではないでしょうか。歴史は変わっていたかもしれないのです。同じように、アインシュタインやエジソンに、もっと多くの時間があったら? 彼らは更なる偉大な発明や発見を残したかもしれない。……人生の三分の一は寝ていると言われます。ワタクシ達人類はもっとその時間を有効に活用し、効率よく運用していくべきなのです」


 ほうほう、来たぞ来たぞ、とM上氏は思う。歴史上の偉人伝など持ち出して、いかにもそうなトークをするのは、営業術の常道だ。

「しかし、人間に与えられている時間は、等しく一日二十四時間だからねぇ」

 M上氏は苦笑う。O村がずいっと体を乗り出してきた。

「そこなんです。我が社では画期的なシステムを発明致しました。この装置を使うと、人から人へ眠りを転用できるのです!」

 パンフレットがめくられる。「特許××××」と書かれた画期的システムとやらの図解が細々と書かれている……ようだ。M上氏は目を眇めた。紙面に首を近づけ、続いて離し、口唇をへの字に曲げながら、しぶしぶ老眼鏡を掛ける。文字は見えるようになったものの、カタカナ語だらけのその解説はM上氏には難解で、結局さっぱりヨめなかった。


 O村によると、例えばAという人物の眠りエネルギーをBなる人物に与えることが出来るのだそうだ。Aが会社と契約して四時間分の睡眠時間を売ったとする。買い取られた眠りエネルギーは、端末機で圧縮し電子信号に置き換えられて、中継局に飛ばされる。中枢センターに届けられたエネルギーは、丸秘技術の加工が施され、純度・濃度が高められつつ、買い手側のこれまた受信機に送られる。そうして、買い手側のBはものの数分仮眠しただけで、四時間の睡眠を取ったのと同じだけの体力・気力の充足が得られるのだという。

 しかも、その画期的な装置の中枢はあくまでもS.E.C.の本社にあり、買い手側と売り手側が持つ発信・受信の端末機は、何処にでも携帯できる軽量・小型なものなのだ。サンプルを見せて貰ったが、M上氏の目にはほぼ腕時計のような形の……いや、腕時計そのものとしか見えやしない。


「こんなもので、そんなことが可能なものかね」

 サンプル端末機をしげしげと眺めて訊ねてみる。

「テレビ、携帯電話、インターネットを考えてください。声や影像が電子信号として世界中を飛び交う世の中なんですよ。睡眠エネルギーだって飛びますよ。今や科学はSF並です。日進月歩どころか分進秒歩してるんです」

「うぅむ」

 そう言われると、M上氏はただただ頷くしかない。


 よろしいですか、とO村は言う。

「人間は二種類に分かれます。時間が一日二十四時間では足りない人と、二十四時間では多すぎる人です。我が社ではその需要と供給の橋渡しをしているわけです」

「つまり、私のような社会に用なしの老人から時間を吸い取り、その分を余所に回そうと言うわけなんだな」

「ああ、どうぞ、そんな風にマイナス思考でお考えにならないで下さい」

 フンと鼻を鳴らすM上氏に、O村はさも哀しげな声を出す。

「最近は不況で貯蓄を銀行に預けていても、ちっとも利息がつきません。でも、折角の財産を遊ばせておくのは勿体ない。どうにか出来ないものだろうかとお考えになるでしょう? 時間もそれと同じなのです。お金と同等、いや、それ以上の価値を持つ大切な資産なのです。運用していくべきなのです」

「フン!」

 和牛商法もIT株も、契約時には良いことばかりを並べるのだ。私は知っているんだぞ。


「実を申しますと、我が社のシステムは、本来時間が足りない人のために考えられた物ではないのです。逆に時間を持て余している方のために考えられたものなのです。近年、鬱病やノイローゼでお悩みの方が急増しています。更に進んでそういう方々の自殺や犯罪も増加の一途を辿っています。ワタクシどもS.E.C.はそれを食い止めたいのです」

 O村は口元の横シワを見え隠れさせつつ熱弁を振るう。

「大変失礼ではありますが、M上様は現在、一日が長すぎると、そうお考えではありませんか?」

 O村は室内を見回した。部屋は来客の為に体裁を取り繕われてはいたが、それでも端々には埃が目立った。M上氏は返事をしない。


「お恥ずかしい話ですが、ワタクシは引き籠もりでした」

 唐突にO村がそう告白を始める。

 新卒で勤め始めて間もない会社が、突然倒産したのだという。その後の再就職もままならず、O村はいつしか自分を最低のダメ人間であるように思った。実家の自室で悶々として外にも出ぬようになると、家人は腫れ物を触るような嫌な目つきでO村を見るようになったという。ダラダラと一日寝そべって、まったく何も手に付かない。カーテンを閉め切り、夜とも昼ともつかぬ薄暗い部屋の中で、ただ蒲団をひっかぶり、自分はダメな奴だ、もう死んでしまいたいと、そればかりを思ったという。


「その時、大学の先輩の紹介で出会ったのがS.E.C.です。その頃はまだ、特許の認可も下りておらず、言わば人体実験というような形でしたが、ワタクシは喜んで志願しました。眠りの供給側は、それこそ夢も見ずに死んだように眠れると聞いたからです。その頃のワタクシは寝ても覚めても悪夢のような日々で、とにかく一日二十四時間が長くて長くてしょうがなかった。その時間を減らしてくれるというなら、もう何でも良かったんです」

 O村がチラリと探るような目でM上氏を見た。M上氏は何かを見透かされているようで、どきりとする。いやいや、私は何も死にたいなぞとは思っておらんぞ。ただ、定年したてで、離婚もしたてで、今一つ新生活のリズムが掴み切れていないだけだ。


「結果は大正解でした」

 今のワタクシを見て下さい。もうすっかり元気です、とO村が言う。

「ムダに時間が余っているから、その分、余計な事を考えたりもするのです。その所為で鬱病やノイローゼにだってなってしまう。そうして家族に厄介者と言われる。更に何も手に付かなくなる。気ばかりが焦る。無駄に時間だけが流れていく。……なんという悪循環でしょう。ワタクシはそれを断ちたいのです。心が疲れている時、やむなく仕事が何もない時、大いに結構。休んでいて良いではありませんか。現在は眠りを売っていても、そのうちやりたいことが見つかる日がきっと来ます。その際に時間が足りなければ、今度は我が社を仲介に、売る側でなく買う側に回っていただければよいだけです」

「……ああ、なるほど。そういうことになるわけか」

 M上氏はポンと手を打つ。売ることが出来るなら、買うことだって出来るわけだ。道理である。そう言われてみれば、いかにも無駄のない話に思えてくる。


「時間とは資産であります。有効に活用し、運用して行かなくてはなりません。それが我が社の理念であります。我が社の活動によって、社会問題となっているニート諸君も速やかに賃金収入を得、ご本人は勿論、親御さんからも沢山のご満足の声を頂いております。ワタクシもS.E.C.のシステムで救われました一人です。もっと、多くの皆様にこのシステムをご紹介したくて、営業マンになりました」


 そのように語るO村は、とてもかつて引き籠もりであったようには見えなかった。生き生きとして見える。仕事にやりがいを感じ、人生を楽しんでいるように見える。


「買うのと売るのを短期間でコロコロ切り替える方もいらっしゃいますよ。例えばあまり売れっ子でない作家さん。締め切り前や筆の乗っている時にはどんどん睡眠時間を買って、バリバリ働いて頂きます。その反対に、干されているときやアイデアのない時には存分に寝て、売って、それで定収入を確保して頂くという寸法です。喰うために焦ってアイデアを絞り出し、枯渇していく心配がないと、とても感謝されております」

「ははぁ」

 作家は余程のネームバリューがないと喰っていけないとはM上氏も聞き及んだことがある。それならどうして喰えぬ作家になぞなるのやら。不思議でしょうがなかったが、なるほど、こんな抜け道があるのか。世の中とはまぁよく出来ているものだなぁ。

 サラリーマン人生一筋だったM上氏は、感心するやら呻るやらだ。


 O村がパンフレットの次のページをめくって見せる。

「ご契約は一月単位の更新になります。単位的には二時間が最小単位でございまして、上限が十時間でございます」

「一日は二十四時間でしょう。丸ごと売れないのは何でです?」

 そこでO村は胸を張る。

「睡眠時間を売って頂く皆様にも、最低限六時間の睡眠時間は健康のために必要です。他にお食事の時間や運動の時間、余暇の時間など考えますと、十時間以上の睡眠エネルギーを買い上げてしまうのは、売り手側の健康上大きな問題になるのです。それで弊社独自の上限を設けている次第です」

「おお、そこまで考えてある訳ですなぁ」

 M上氏は納得した。そして、この会社はなかなか信頼に足る、良心的なシステムだと思った。M上氏は退職したら、これまでの実直一筋だった自分を変えて、ちょっとした冒険にも挑んでみたいと思っていた。具体的にどんな冒険だ? と問われると途端にモゴモゴしてしまうが、とにかく今までの自分がやったことのないような冒険だ。このS.E.C.というシステム。こういうのも冒険の一つと言えなかろうか。



「如何でしょうか、M上様。先ずはお試しということで、二時間分の睡眠時間をお売り頂くというのでは?」

「して、如何ほどになるのでしょうかな? ……その、賃金の方は?」

「あ、これは重要なことを申し遅れておりました。申し訳ありません」

 O村が少し顔を赤らめつつ、大急ぎで別の冊子を取り出す。料金体系がグラフ形式で書いてある。

「M上様の場合、このようなお値段になります」

「え、そんなに頂けるのですか?」

 上限一杯まで売れば、なんとかギリギリの生活が成り立つ程度の額ではないか。まぁ、都市部では家賃までは出ないだろうが、それでも寝ていて入る金だとすれば上等である。

「貴重な時間を買わせて頂いているのですから、当然です」

 O村の口元の横シワが深くなる。

「ううむ。しかし、最近の私は実は不眠症気味なのですよ」

 さっぱり眠れぬというわけではないが、どうにも不規則な生活がクセになって、昼に寝ていたかと思うと、夜はずっと起きていたり、そんなM上氏の最近である。契約を交わしたとして、その時間きっかりに確と眠れる自信がない。

「それはご心配要りません。ご契約時間になりますと、端末機を介して自動的に眠くなります。近々、不眠症治療の認可も取ろうかと考えているくらいでして」

 O村がM上氏用の契約書類を作成しつつ答えてくれる。健康状態についての簡単な問診に答えたり、報酬振り込み用の口座番号を教えたり、そんなこんなで時間が過ぎる。


「それでは、後日端末機をお届けに上がります」

 そうして、O村が暇を告げる。

「但し、お気を付け下さい。ご契約頂いた時間帯は眠りがとても深くなります。火の元、戸締まりなどには特にご注意下さい。多少のことでは起きないくらい、深い深い眠りですから」

 詳しくは、端末機に同封される説明書をよくお読み下さい、と言い置いて帰って行く。


 こんなに長い時間、人と会話したのは久しぶりだったなぁとM上氏は思う。なんだか、すっかり気疲れしてしまったが、それは言うなれば心地よい疲れだった。M上氏は足取りも軽く、たたきを上がって居間に戻った。


■■4


 さて、その後のM上氏である。

 届けられた端末機を手首に嵌め、ためすすがめつしてみる。サンプルと同様、ちょっと大振りの腕時計と思えば間違いない。契約時間の設定などはS.E.C.側でやってくれるので、M上氏はただこの装置を腕に嵌めるだけの手軽さである。

 契約初日。ハラハラドキドキしながら、契約時間よりかなり早めに床についた。こんなにドキドキしていては果たして寝付けるものだろうかと危ぶんだが、時間になるとコトリと寝付いて、そうしてそれで何もない。至極普通の、いや、普段以上のなんともすっきりとした目覚めであった。

 これで本当に自分の睡眠時間が余所に持って行かれたのだろうかしら、と思っていたら、その日の昼に担当のO村から電話があった。

「ご契約通り、二時間分のM上様の睡眠エネルギーが無事本社に届いております。如何でしたでしょうか? 何か体調面での不都合やご不明な点はございませんでしたか?」

 と、アフターケアも万全である。何ともはや素晴らしい。

「いつもより長く寝たので、頭が重いかと思ったんだが、そういうのもちっともないですな」

「余分な眠りは我が社のシステムを介して他者に転用されるのですから、長く眠った時に起こる不快な頭痛などのご心配は要りません、勿論」

 O村の自慢げな顔が、受話器の中に見えるような気がする。



 契約更新の一月後、更に時間を延ばして四時間にしてみた。

 そうこうするうちに、M上氏の生活に自然とメリハリがつき始めた。


「ああ、今日も良い天気だなぁ」

 M上氏は朝、目が覚めると庭に出て、ラジオ体操をするようになった。寝覚めの爽やかさ、朝一番に吸い込む清々しい空気がそうしたい気にさせるのである。ラジオ体操をしていると、庭の雑草が目について、そのまま草取りを始めたりする。

「ご精が出ますねぇ」

 門の脇の草を刈っていたら、犬の散歩をさせているご近所さんが道から声を掛けてくれた。M上氏も挨拶を返す。こちらに寄ってきた白いむくむくとした毛並みの犬の名は、そのまま「ムク」というのだそうな。こうして幾度か言葉を交わし合う内にいつの間にか知ったことだ。ムクはM上氏の前にちょこんと座って真っ黒な目玉で見上げてくる。ファサリ、ファサリと尾が振られる。その尾が地面の砂を履く。M上家の門の横に微妙な半円形の模様が出来た。


 退職した独り者の気軽さである。気の済むまで草をむしって、それからやれやれと腰を上げる。腹の虫がぐぅと鳴った。さあ、手を洗って飯にするとしよう。最近のM上氏は食欲だって旺盛だ。


「なるほどなぁ」

 と、M上氏は思う。今の自分のようにやりたい事ややらねばならぬ事がほんの少しの人間には、二十四時間という一日は無駄に長いものだったのだ。これが短くなったとなれば、それなりに貴重にも思えるし、大事に使おうとも思う。S.E.C.のO村が語っていたことは本当であった。

 しかも、現在の状況は、ただ眠っているだけで報酬が得られるというのだから素晴らしい。ぐだぐだしていた時は自分がこの世に無用な人間であるように思えて、生きているのを何とも歯がゆく感じたものだが、今ではそれも気にならない。何より、同じぐうたら寝ているのでも、「眠ることが我が輩の仕事なのだぞよ」という大義名分があるのがよい。報酬があることで、自分はちゃんと社会の役に立っているという充足感も得られる。そうだ、自分はまだまだいける。


 ふと掛け時計に目をやった。おっと、もうこんな時間だ。

「勿体ない、勿体ない。ぼーっとしていちゃ勿体ない」

 M上氏は鼻歌まじりに一人つぶやく。一日を勿体ないと素直に思える。この感じが大切なのだ。

 例えば、郵便局に行く用事がある日。その日は午後から雨ですと天気予報が言えば、ならば是非とも午前中に用を済まそうと思うのに、晴れの日だとどうしてか、いつまでたってもぐずぐずしている。挙げ句、営業時間の四時を回ってしまい、「あー、しまった」と臍をかむ。そういう感じにも似ている。


 数日掛けて、庭の草を全て取り終わってしまうと、なんだか空いた場所に花でも植えてみたくなった。ムクの飼い主のS田さんはM上氏と同じく年金生活者で、庭いじりがご趣味だと言う。相談にのって貰い、今の時期に育てやすい品種を幾つか教えて貰った。植えた苗に水をやり、肥料を与える。日増しに膨らんでくる蕾を眺めながら、M上氏は今朝もラジオ体操をする。


 そういえば、かつてはこの庭にも花が咲いていたのである。M上氏の細君が花壇を作っていたのである。いつ頃からこの庭の花は消えたのだろう? M上氏はその時期を覚えていない。花が咲いていた時と同様の無関心さで、まったく気にも留めなかったのだ。

 M上氏は、別れた細君のことを思う。器量はそこそこだが、おだやかで無駄口も利かず、家庭のことをきちんと収める良い妻だった。M上氏は妻に不服を感じた覚えがとんとない。余りに不服がないもので、それが当たり前になり、そんなもんだと空気のような存在になり、いつしか無頓着になった。

 ああ、私は妻との時間をないがしろにしていたんだな、と今更のように気がついた。いつでもずっとそこに居て、いつでも話が出来るものと。そうとばかり過信して、現在臍をかんでいる。


「明日くらい咲きそうですねぇ」

 散歩途中のS田さんが、M上氏の花壇を見てにこにこと笑った。ムクが塀の隙間から鼻先をこちらに突きだしてくる。フンフンフンと濡れた鼻で蕾の放つ淡い匂いを嗅ぎ取っている。日差しは今日も穏やかでのどけく、ブーンとなにかの虫が飛んだ。


■■5


 来月からは更に増やして、六時間分の睡眠時間を売る予定だった。

 夜は九時に就寝。そして朝は七時に起きる。その十時間の内の六時間はM上氏本人の為の睡眠時間である。余りの四時間に昼の二時間を足した合計の六時間を売るのだ。昼食を取った後、多少腹がこなれた時分の二時から四時までを追加契約の時間に充てようと思う。丁度面白いテレビ番組もないし、これからだんだん暑くなるので、日中の一番過ごしにくい時間帯に小遣い稼ぎを兼ねた優雅なシエスタを決め込もうという算段である。多分、真夏のどんなに暑い日だろうと、コトンと寝てしまえるものと思われる。S.E.C.の端末機はかくも強力である。先だって、震度五の地震が首都圏を襲ったが、深夜のS.E.C.と契約している時間内だったもので、M上氏は全く気づきもせずにそれは安らかに眠っていた。地震のことは朝に通りかかったS田さんから聞いて始めて知ったくらいであった。


 夏はそんな風にゆるりと過ごし、秋は……。秋のことはまだ未定である。S.E.C.との契約を一時中断して、どこか旅にでも出てみようかと思っている。その頃のM上氏が一日二十四時間をどう感じるかは、M上氏本人にもわからない。やっぱり今と同様に長すぎると感じるかもしれない。存外に短いと感じるかもしれない。わからない。でも、長かろうが短かろうが、大切な愛しい時間だと思えると思う。そう思えるような自分でありたい。



 風呂上りに一杯やっていたら、電話が鳴った。「もしもし」と出ると息子だった。

「父さん、どうしてる?」

「ああ、なんとかな、一人で気楽にやってるよ」

 そうして、沈黙。M上氏と息子とはどうにも共通の会話の種というのがない。細君がこの家に居た頃は、息子からの電話を取るのは細君であったし、わざわざ代わって貰ってまで話す話題も特になかった。親戚の何某ちゃんが結婚するそうだ、などという話も、細君からすらすらと伝わってしまう。

「あの子、元気そうでしたよ」

「うん、そうか」

 受話器を置いた細君が、本日の会話をそう集約してM上氏に伝え、M上氏もそれに頷く。家を出てからの息子との付き合いは、万事がそのようであったのである。



 話の種がないからといって、毎度のように、「帰って来ないのか?」と訊くのも息子にとっては苦痛だろうと、M上氏は頭の中身を総動員して気の利いた会話文を探す。沈黙が寂しい。折角息子と繋がれた回線時間が勿体なかった。

「あ、あのな……」

「なに?」

「今、晩酌をしておったんだ。つまみにアタリメを焼いてな。オマエが小さい時、水族館でダイオウイカを観たじゃないか。ほら、あのどデカいイカだ。オマエあの目玉のデカいのを怖がってなぁ。あと、足に付いたイボイボと。どっちもコワイと泣いたっけなぁ」

「……」

「……そんなことをな、思い出しながら喰っていた」

「そう」

 息子の応えはそっけない。そこら辺はM上氏の血を引いたのだ。承知している。承知しているが、あともう少し声を聞きたい。

「オマエ、そっちは楽しいか?」

「仕事は忙しいよ。でも、好きな仕事だもの。苦にはしないよ」

「父さんもな、庭で花を育ててみてるんだ。植物というのは難しいな。虫を取ったり肥料をやったり、水をやったり、やりすぎたり」

 ラジオ体操を続けていたら肩こりが減ったことだとか、S田さんと縁側で囲碁を打っていたら、取りこぼした碁石をムクがパクリと喰ってしまい、S田さんと二人、大慌てで動物病院に駆け込んだだとか、そういう取り留めもない話をする。

「結局、碁石は翌日のフンの中から出てきたんだよ」

 ハハハ、と笑う。M上氏が黙ると、また沈黙が出来た。


「あのさ」

「……うむ」

「父さん、なんだか変わったね」

「んん、そうか?」


 この息子が、登校拒否になったことがある。第一志望の高校に受かり、やれやれ一安心と思っていた矢先、それから一月もせぬうちに「もう学校に行きたくない」と言い出した。

 一体何事かと理由を聞けば、息子はぽそぽそと蚊の鳴くような小さな声で、「僕は何のために学校に行くんだろう?」などと言うのである。

 何を甘っちょろい事を言うのか、そんな台詞は百年早いと叱り飛ばして学校に追い立てた。案外そのまますんなりと何事もなかったように息子は学校に戻り、登校拒否事件はものの三日で終わったのだが。


 あの時の息子は、何に躓いたのだろう。部屋に籠城していた三日間、何をぐるぐると考え続けていたのだろう。あの時、息子の部屋の時計は普通に時を刻んだろうか。一日が無情に長かったのではないか。親の目から見れば至極普通に真っ直ぐに育ってくれた息子だが、息子の一日など父親でありながらM上氏は知らない。ダイオウイカを怖がって泣く息子を抱き上げた。その時に間近に見た幼い日の息子のつむじの形しか知らない。ぐるぐるとした渦巻き模様の表面だけしか見てこなかったように思う。


「……オマエと酒を飲みたいよ」

「うん」

 今度の盆休みには帰る、と息子は言った。M上氏は通話の切れた受話器を置く。ああ、S.E.C.のことは何となく言いそびれてしまったが……まあいい。次に遊びに来てくれた時にでも、ゆっくりと話そう。


■■6


 夏が来ていた。ムクの毛皮に覆われた体がなんとも暑そうに見えて気の毒になる最近である。

 M上氏は図書館で借りてきた本を読んでいる。『男の料理』という本である。やもめ用の手軽な調理本かと思ったら、なんのなんの、『男の』のクセになかなか本格的である。カツオブシの削り方、その際の削り器の刃の出し加減まで写真付きで載っていて、いやはや、なんとも驚かされる。M上氏はただ簡単な豆腐の味噌汁の作り方を知りたかっただけなのだが。

 それでも、読み始めてみればそれなりに興味深く、時々メモなど取りながら読み進めている。卓袱台の上には熱い茶が煎れてある。歳を取ると夏でも飲み物は冷たい物より熱い物が宜しかった。その方が数段、胃に優しい。


 電話が鳴った。「はい、M上です」と名乗ると、別れた細君からであった。

「あの、先だって頂いた物のお礼を言いたくて」

 と、今や懐かしい声が言う。

「いやいや」 とM上氏は首を振る。実は離婚の際に取り決めた毎月の生活費とは別に、妻のよく行く百貨店の商品券を送ってみたのだ。S.E.C.でここ数ヶ月の間に得た報酬の一部であった。

「ちょっとね、臨時の収入があったものでね。それでお裾分けをしてみた訳だ」

「別れた女房にお中元を送る人なんて、珍しいですよ」

「いや、だって。他に書きようがないじゃないか、オマエ」

 百貨店の店員に、「おのしはお中元でよろしいですか?」と訊かれ、「ああ、フム。まぁそうですな」と頷いてしまったのだ。その顛末を白状する。快気祝いでなし、新築祝いでなし、内祝いというのも何かおかしい。他にどうしろというのか。

「ホントにもう、アナタったら、どこぞが抜けていらっしゃるんですから」

 コロコロと笑い声が耳に届く。別れたというのに、「オマエ」「アナタ」という呼び方が自然と出てしまうのが不思議と言えば不思議である。だが、旧姓で呼びかけるのも不格好だし、名前を呼びあうのも不都合だ。だから、これで良いのだと思う。


「元気にしているか?」

「はい、アナタもお元気そうで」

 受話器からは、細君の声といっしょに静かなメロディーが聞こえている。何やら複数人の音もする。

「ん? オマエ、今何処にいるんだね? 家じゃあなかろう」

 そう問うと、ちょっと間を置いて、答えが返った。

「実を言うと、近所まで来てるんです。駅前のMという喫茶店」

「なんだ、そこまで来ているんなら、もうここまで来ればいいじゃないか」

 M上氏は鼻を鳴らす。

「一度、そちらに行ったんですよ。庭にお花を植えたらしいって、あの子から聞いたものだから。アナタ、キレイに咲かせていらっしゃるじゃないですか」

 M上氏の受話器を握る手に力が篭もった。


「なんだ、家まで来たのか。どうして訪ねなかったんだ? 元はオマエの家じゃあないか」

「……だって、そりゃあ離婚した女房なんですもの。やっぱり敷居が高いですよ」

「今、どこだって? 駅前のMだって?」

「はぁ。……まぁ」

「そこに居なさい。ちょっと待ってなさい。すぐ行くから。駆けて行くから」

 M上氏は、箪笥の上の財布と家の鍵を引っつかむ。

「駆けて行くって、まぁアナタ」

「待ってなさい。私はオマエにどうしても伝えたいことがあるんだよ」


 門の外へ走り出すM上氏を、庭に植えられた白や赤やピンクの花びらがゆらゆらと揺れながら見送ってくれた。駅までの道を小走りながらM上氏は思う。

 私はこんなに急いで、別れた妻に何を伝えたいんだろう? 庭に花を植えたことは……いや、もうそれは知っているんだった。妻がかつて花壇に植えていた花がアネモネやデイジーという名だったと園芸店で知ったことだろうか? 来年の春の庭にはきっとそれを植えるつもりだと、それを伝えればいいだろうか? 違う、違う。私はもっと別の事が言いたいのだ。妻よ、息子よ、オマエ達こそがこの家の花だったと。家族だったと。愛していると。



 ふいに。

 クラリと来た。走っている最中で立ちくらみを起こしたかと思った。空の真上から射す日差しが強い。ああ、しまった。二時ではないか。S.E.C.との契約時間だ。

 グランと目が回った。この端末機を外さなければ。私は走って行かなければ。……まぶたが重い。


 ああ、ダメだ。眠くて眠くて、もうどうにもたまらない……。


■■エピローグ


 早朝。M上氏の自宅にはいつも通り、新聞が配達された。

 今日の朝刊には、小さな小さな、誰も気に留めないくらいの小さな記事が載っている。


 『往来で倒れていた男性、車にはねられて死亡』

 M上K蔵さん(66歳)は、自宅からほど近い車道の真ん中で倒れていたところを通りかかった乗用車にはねられた。警察では運転手の前方不注意とみて捜査中。M上さんに特別の既往症などはなく……。


 同じ紙面に、昨今の犯罪率が急激な下降現象にあるという記事がある。ニートや不登校児、高齢者の割合も減少傾向にあるらしい。政府の対策が功を奏している結果であると記事では結んでいるが、その具体的な政策内容については特に触れられていない。




 そして。

 今日の朝刊にも、全面広告が載っている。

 既に誰の目にも見慣れたものになりつつある一文が、大きく黒々と書かれている。


 『貴方の眠り買います!』

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貴方の眠り買います 宇苅つい @tsui_ukari

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