草笛

春葉つづり

第1話 草笛の娘

 寂しいと感じたことはない。父の背中はいつも大きな海を思わせた。私よりはるか大きい重厚なつくりの机に、昼も夜も向かっている。くずかごはいつも丸まった紙屑の山で、それを開いては裏返して落書きをして遊んでいた。


 父の職業は聞いたのだけれど忘れてしまった。ただ、入れ替わり立ち替わり人が来て、父が何かを渡すとその人たちは、満足そうに帰ってゆくのだった。父はお酒が大好きで、たびたびその人たちとお酒を飲みに出かけてしまっていた。夜中に帰ってくることもまあ、あったと思う。


 私は母と二人だった。正直父の顔などあまり見ていないので、覚えているのは背中と酒のにおいと、机の上に置かれたなんの液体が入っているのかわからないコップ。たぶんお酒だったと思う。

 父は私と遊んでくれることはなかった。いつも仕事で返事は生返事、たまに五月蠅いと怒鳴られる。

 父は頭ごなしに叱る人で、遊んでくれた記憶はほぼ無い。母と喧嘩もしていた。そのたびに私の精神は冷たく揺れた。そうして深い海の底にどこまでも沈んでいって、自分を落ち着かせるのだった。


 ある日、外で遊んでいると綺麗な女の人がやってきて私に話しかけた。

「あら、ここはひょっとして、矢神先生のお宅かしら?」

 たしかそんな名前も聞いたことがあるような気がする。でも、考えれば考えるほど誰が矢神と言っていたか分からなくなってきて私は、唐突に悪童のほほえみを浮かべてしまった。

「そうですけど」

「先生によろしくね」

 はい、と返事をしたけれど、この麗しい女性がだれか分からなかったし、父にそのことを言う勇気もなかった。表札を見ると矢神の文字はなかった。乱雑な字で矢上とあるだけだった。

 耳に、うるわしい人の足音だけがずっと響いていた。「矢神先生」はこの足音を知っているのだろうか。

 

 おはじきを二つ、ぱちぱちとならして足音を作っている。父は、ひたすらに机に向かっている。会話などむろんあるわけもなくそこに期待もなかった。時計の秒針の音も聞こえないで、ただ照明の薄暗い明かりだけがゆらりゆらりと、部屋を照らしている。母はとっくに寝てしまった。起きてきた私になにも理由を聞くわけでもなく、「寝なさい」というでもなく、父は何も喋らなかった。

 責め立てたりしない父のようすに、それは愛情なのかもしれないと、密かに、嬉しくなってしまったのを憶えている。

 寂しいのか、寂しくないのか、やはりよくわからなくなってきたのだ。

 おはじきで作る足音で、自分に気づいて欲しいとか、あの女の人を思い出してみて欲しいとかそんな邪念はいっさい無かった。これは無意味な行為である。子供らしい遊びでもない。ただ、どこまでも無意味なのである。心の底が卑しいのかも知れなかった。


 目の前におにぎりが置いてある。勿論じぶんのものである。母が握ってくれたものだ。私はしつこいくらいこのおにぎりを要求した。けれどもある日、ある知り合いのおばさんがおにぎりは愛情たっぷりだものねと言ったのを聞いて、とたんに興味が薄れた。それでも母はこれを作った。今日目の前にこれがある。父の好物でもあるらしい。



 父の背中を見るのは飽きない。私は彼の素性を知らない。あの女の人がだれなのか、父は何に興味があるのかを知らない。

 夕焼けの空き地で草笛を鳴らしていると、近所の子供が笑いながら過ぎ去っていった。

 自分が大人になるのも父がいなくなるのも想像がつかない。母は愛情をくれるのに印象が薄い。家で一番いばりくさっている大人は父だ。父は、父がいなくなったら。たんぽぽの茎はなぜか苦い味がした。


 父がくれたのは、おろしたてのガラスペンだった。なぜそんなものをくれたのか、そういう心境になったのか私には分からない。大事に箱に入っていて、そういうものを私にくれた。箱の上から重なった掌は、ひどく熱かった。父は何かを喋ったようだったけれど、忘れてしまった。これが噂の矢神だったのかもしれなかった。そうだとしたらそれは矢神であって父ではなかったのかもしれないけれど、そんなことはどうでも良かった。


 父が一度だけ台所に立ったことがある。つくったのはおにぎりで海苔が巻いてある。出来はあまりよくなくて、どうも人間くさい出来上がりで、ひとが握ったものだと思うとどうしても食べる気にはならなかった。母だってひとなのに、それとは異質のひとだった。私は一口食べてへらへらしておいしいと言ってみせた。味は濃ゆくてしょっぱい味がした。

 ただ台所に立つ父の背中だけはっきりと憶えている。広い背中、華奢な腕。着物から伸びた足。


 父が死んだ。そう記したら本当に死んでしまうのだろうか。彼はまだ生きている。ただじっと時計を見つめている。摘んできた草笛を噛みながら三角座りをして、じっと針を見ている。どうして私は求めないのか。子供らしく笑った試しがない。そうすれば、と考えてその考えがなにより恐ろしくてやめてしまった。どうやったら得られるか、それともほんとうに欲しいものなのか、ますます分からなくなって、涙がこぼれた。

 父はいない。死んでいるのかもしれない。

 それが、安堵の材料か苦しみの始まりなのかわからない。止まれ止まれ、止まるな止まるな、そうしているうちに、すべて止まってしまうのを私は知っているはずだった。

 ただじっと草笛を吹くこともせずに、私は父の書斎にいた。数年後もきっとここにいる。同じ気持ちのままで。


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草笛 春葉つづり @erision

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