第1話 菅原さんの場合
お気に入りの真っ白いピーコートを着て出かける日は、いつもより少しだけ機嫌がいい。外を歩いていても、誰に見せるわけでもないのに嬉しくなって、なんとなく足取りも軽くなる。
だからといって、向かう先はいつも通り、ひとつしかないのだけれど。
駅前の大きな十字路の横断歩道は、少し時間が早過ぎるせいか車通りは疎らで、私は余裕を持って青信号を渡り切る。美登里駅のロータリーが見えて、狭苦しい中央の広場には、土が敷かれて木が植わっている。私は俄かに、これからの季節のことを思い出して気が滅入った。
毎年のクリスマスの時期には趣味の悪いイルミネーションが施されて、下卑た色にうんざりさせられる。紫色とか、オレンジ色とか、そういうちょっと引いてしまうような色、一色で全部飾るのだ。担当者のセンスを流石に疑う。
ともあれ時刻は朝の五時。慢性早起き症の私は、今日も今日とてスーパーの前に来ていた。
と、プラのちりとりと箒を持って店の前の掃除をしていたおじ様が話しかけてくる。
「や、早いですね先生。まだ開店準備中ですが、寒いでしょうし中へどうぞ」
私は苦笑いして答えた。
「ありがとうございます。それと、先生はやめてくださいって言ってるじゃないですか」
スーパーみどりの店長・
「いやいや、立派な先生ですから。それに私どもにとっては貴重なお客様ですし」
「そりゃあ客ではありますけど……そもそも石蕗さんのほうが、私よりも歳上じゃないですか」
いつも私が辞めてくれ、と頼んでも、石蕗さんは、決まってこう言うのだ。
「決して先生が作家だからこう呼んでいるんじゃありませんよ。尊敬できる人のことは先生、そういう風に決めているんです」
「……はあ。石蕗さんのご期待に沿えるよう、精進いたします」
「はは、なんてね。今日も頑張ってください」
私は困ってしまって、そんな風に場を乗り切った。石蕗さんの言うことは、時々冗談なのか本気なのか判らなくなる。
店内は開店準備中との言の通り、私以外のお客さんは一人もいなかった。私はゴミ袋をまとめている石蕗さんに、レジ越しに声をかける。
「あの、今日は瀬川さんは?」
「夜勤だったんですが、ちょうどさっき上がってしまいましたよ。何かご用でも?」
「いえ……ありがとうございます」
そうか、瀬川さんは今日も遅くまで働いてたんだ、と何となく感慨に耽って、それでも別に何か特別なことをするわけでもなく、私はイートインコーナーのいつもの席に着いて、ノートパソコンを開いた。
お腹はそれなりに空いてるけれど、朝のお弁当が並ぶにはまだ少し、時間があるのだ。私はそれまでの時間を、捗らない原稿に使うことにした。
「お待たせしました。惣菜も準備出来てるみたいなので、お食事にしてはどうでしょう?」
気が付けば結構な時間が過ぎていた。原稿の進捗を何となく確認すると、思いの外いつもより捗っている。
「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて、ご飯見てきますね」
私はわざわざ開店準備を終えて、声を掛けに来てくれた石蕗さんに会釈して、席を立った。
レジの脇にあるイートインコーナーのテーブルから、雑誌の並べられたラックを通り抜けて惣菜コーナーに出る。開店したばかりだから品揃えは多くないけれど、朝の通勤客のためにお弁当が並べてあった。
と、そこに一通り目を走らせると。
「……あ、麻木さん。今日も用意してくれてる」
ひとつのお弁当の上に、小さい白い紙が貼り付けてあって、丸で囲われた「詩」という字が控えめに自己主張していた。
惣菜部の麻木さんは、私がこのスーパーで毎日、ご飯を食べるようになってから、ずっと私用のお弁当を作ってくれている人だ。直接顔を見たことはないのだけれど、石蕗さんが麻木さんのことを教えてくれた。
自分では食生活に気を遣うことなんて出来ない私にとって、麻木さんの考えてくれるお弁当の献立は、本当にありがたいものだった。一度石蕗さんを通して、どうしてこんなに良くしてくれるんですか、なんて訊いてみたことがあるのだけれど、好きでやっていますから、との一言しか返ってこなかった。
いつもありがとうございます、と小さく呟いてから、私はお弁当を手にとって、それからホットの紅茶を一緒に選んで、レジに持って行く。なんとなくモーニングティーの気分だったのだ。まあ、気取ったところで所詮、ペットボトルなのだけれど。
今日のお弁当は和食っぽい。実家の食事なんてもう全然覚えていないのだけれど、なんとなく懐かしいような気持ちさえする。椎茸と人参とお麩の煮物に、焼きたての焼き魚。それに甘く煮付けられた黒豆。こんな風に出来立てを食べさせてもらえるのは、栄養バランスに疎い私でも素直に嬉しい。
イートインコーナーに戻って、いったん席にペットボトルの入ったビニール袋を置いて、それから出入り口の側にある電子レンジに向かった。お弁当を取り出してレンジに入れようとして、まだ温かいことに気がつく。これならこのまま食べたほうが美味しいかも。
それでレンジで温めるのをやめて、イートインコーナーに戻ると、品格のある刺繍で飾られて、高価そうな雰囲気を醸し出した、しかし厭らしくない美しさの黒いスーツで全身を包んだ男性が、私のノートパソコンを置いたテーブルからひとつ空けて隣のテーブルに座って、湯気の立つコーヒーを口に運んでいた。
私は久しぶりに見るその人の顔に、ちょっとした嬉しさを感じて、会釈して挨拶した。
「おはようございます。お久しぶりですね、
菅原さんは私の顔を一瞥して、同じように会釈を返してくれる。それから控えめに、落ち着いた低い声で返事をした。
「……おはようございます。忙しかったもので」
ガラス戸から射し込む微かな光が、彼の銀縁眼鏡を柔らかく照らして、数条の微光を反射した。
菅原さんは都内の外資系企業に勤めているエリートサラリーマンらしい。と言うのも、会社の名前を聞けば誰だってわかる。知らない者のいないような、有名な大企業である。まあ、世間知らずの私は初め、その名前を知らなくて、有名な会社だとわかったのはインターネットで検索した時だったのだけれど。
彼もこのスーパーのイートインに顔を出す人々のうちの一人で、夜はあまり見ないけれどちょくちょく朝に訪れている。私みたいに毎日欠かさず日がな一日、イートインに入り浸っているようなのは珍しいということだ。
と、お弁当をテーブルに置いて、思い出したように菅原さんに伺う。
「……あ、私、これから朝ご飯なんです。勝手ですみませんけれど、失礼しても?」
「ええ、構いませんよ。暫くしたら……」時計を見た。私もつられて目を遣ると、短針は六時を指している。「出ますから」
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて、いただきます」
割り箸をぴしりと割って、手を合わせる。それからいよいよ美味しそうなお弁当に口をつけようかというところで、割り箸の割れかたがめちゃめちゃに荒れていることに気が付いて、私はちょっとため息をついた。
「……ふふ。そういうの、気になる
菅原さんが笑って言う。私はむっとした顔を作って、割り箸を恨めしげに睨んでみせる。
「なんとなく、気になりますよねえ……菅原さんもですか?」
「あまりにも気になり過ぎて、私は割り箸を使えません。外食の時もマイ箸ですよ」
私は感心して、ちょっと声を弾ませる。
「へえ……すごい。エコロジーですねっ」
「そんな大層なものじゃありませんよ。神経質なだけですから」
とか、菅原さんは生真面目そうに言った。
そうして、なんだかんだとご飯を食べ進めていると、菅原さんは空になったコーヒーのカップをゴミ箱に丁寧に捨てて、私に会釈した。
「それでは。詩緒里さん、お気を付けて」
「ありがとう。菅原さんも頑張ってくださいね」
◯
気が付いたことであっても、それを口に出してしまうことが必ずしもいい結果を及ぼすとは限らない。
他でもないそのことに、気が付くことができるのは、たいていの人が何か、不用意に気付きを口にしてしまって、どうしようもない失敗をしてしまってからである。
私だってそうだし、きっとあなただってそう。
「……あ、お茶なくなっちゃった」
一心不乱に原稿を進めて、気が付けば昼前になっていた。ぬるくなったストレートティーは、最後の一口であっけなく喉の奥に滑り落ちた。
新しい飲み物を買って来なくちゃ。
私はちょっと憂鬱な足を持ち上げて、またイートインを出る。昼前で疎らに人がいる店内をのそのそ歩き回って、ついでに商品を物色。
たまには果汁百パーセントのジュースとか、いや、むしろパックの牛乳、うむむ……。
冷蔵庫の前で暫く悩む。たまにこういうことがある。私はけっこう優柔不断なのだ。菅原さんみたいに、強いこだわりを持っていないから。
今日の進捗はお世辞にもあまりいいとは言えなかった。こんな日に限ってやる気はある。人生なんてそんなものである。なんとなく急かされるような、焦る気持ちだけが積もっていく。それでもそのどうしようもない切迫を、取り除くことなんてできやしないのだから、私たちは何事もなかったかのようにやり過ごすしかないのだ。
結局、私はもう少しだけ悩んで、たまには、とコーヒー牛乳を選んでレジに持って行った。お腹は空いていないので、お昼は抜いて問題ないだろう。元来、私は小食なのである。
それから、ノートパソコンを開いて置いたままのテーブルに戻って、見慣れない茶色のパックにストローを挿して、甘ったるいコーヒーと呼びたくないような液体をちびちび喉に流し込みながら、菅原さんのことを考えた。
菅原さんは、今日、おそらくは、仕事に行っていないだろう。
夕方になって、流石にそろそろお腹が空いてきたかという頃になって、黒いレインコートを着た瀬川さんが出勤してきた。
雨なんて降ってたっけ、と思った途端に、ようやくすぐそばのガラス戸を叩く雨粒の音が耳に入って、つくづく私は鈍い女だと思った。
入り口から雑誌が積まれたラックを通り過ぎて従業員通路に入ろうとする瀬川さんを横目に見て、私は控えめに挨拶した。
「こんにちは。夜勤明けなのにまた出勤なんて、瀬川さん偉いね」
「……最近だけだから。眠い」
それだけ言うと、瀬川さんはさっさと店の奥に消えていった。
すごいなあ、と思う。瀬川さんみたいに、あるいは石蕗さんみたいに、毎日決められたルーチンワークをこなして、仕事をして、働いて、お金を稼ぐことが出来る人は、大袈裟でなく、本当にすごいと思うのだ。
私はかろうじて、現時点でちょっとした作家という仕事をもらって、書いたものを読んでくれる人がいて、なんとかぎりぎりお金がもらえている。それでも生活していくには十分というわけじゃなくて、貯金なんて出来やしない明日のこともわからない生活を続けている。
菅原さんは、どうだろう。
そう考えてみて、ようやく思い至るべきところに辿り着いた、という感じがした。というか今までどうしてこれに気がつかなかったのだろう、という気さえしてきた。
菅原さんだって、私と同じなのだ。
バックスペースを叩く。いや、やっぱり私と同じだなんて言うと菅原さんに失礼だから、言い直すけれど。菅原さんにだって私と似た部分があるのだということを要するに、わたしは思った。
うまく働けない時だって、あって当然なのだ。
勝手に自己完結するようで、何となく気が引けるけれど、しっくりくるのだから仕方ない。わかったような気になって、というのはまったく正しい指摘である。私はいつも、わかったような気になってしまう。悪い癖なのだけれど。
だから、私はとりあえず、ひとまずは、悩むのを止めにした。
そういうふうにあってもいいのだと、そういう形だって当然あって然るべきなのだと、納得することにした。
ため息をついて、原稿の進捗を確認する。
よろしくない。よろしくないが、まだ時間はあるのだ。私にも、誰にだって。
「……よし、ラストスパートっ」
私は指をわきわきさせて、キーボードを打鍵するスピードを上げた。
舌の上には、甘ったるいコーヒー牛乳の味が、いつまでも残っていた。
スーパーみどり・イートイン くすり @9sr
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