スーパーみどり・イートイン

くすり

プロローグ 斎藤くんの場合

 この小説に意味なんて無い。

 こう書き出してしまうと、じゃあなぜ私はこんなものを読んでいるのだろう、今すぐ読むのをやめてしまいたい、と思われる読者の方も少なからずいらっしゃるだろうと思う。そんな方にはただ一言、伝えておきたいことがある。

 大丈夫。書いている私も、なぜ私がこんなものを書いているのか、今すぐ書くのをやめてしまいたい、と思っているのだ。

 ではどうして書いているのか?

 その質問には、簡単に答えることができる。

 それは、私が人間だからであり、そして生きているからだ。

 私に限らず誰でもみんな、自分を表現したがっている。それは生きた証を残すためであり、死んだ墓標を遺すためなのだ。人間が人間であるためには、いつでも自分が自分であると叫び続けなければいけないのだ。

 だから私は、生きるために書く。死ぬために私を書く。

 私は書き続ける。

 いつか私が、私を書き上げるまで。


      ◯


「詩緒里さん、こんばんは。今日もですか」

 オレンジ色のパーカーに重ねて学ランを着た男の子が目の前の席に着く。私は彼の顔を一瞥して、キーボードから手を下ろした。

「お疲れ様。斎藤くんは塾の帰り?」

「ええ、テストも近いんで」

 そう、一通り挨拶を済ませると、私はパソコンの傍に置いてあるココアを取って、音を立てないように一口啜った。気が付いたら結構冷めてしまって、もうあまり美味しくない。

「新しく買ってきましょうか?」

 それを見かねてか、斎藤くんは私に声をかけてくれる。私は一度遠慮して、自分で買うわ、と言うのだけれど。

「僕もこれから夕食を買ってこなきゃいけませんから。、ですよ」

 じゃあ、お願い、と躊躇いつつも言うと、斎藤くんは人懐こい笑みを浮かべて足取りも軽く席を立った。

 斎藤くんは気のいい少年である。

 彼は進学校に通う高校生らしい、初めて会った時にそう言っていた。大学受験を一年後に控えた二年生で、毎日親と学校からの重圧に苦しんでいる。それでも自分と向き合いながら、どうしようもない現実と戦っている。

「どうぞ。二杯目はコーヒーですよね」

 席に戻ってきた斎藤くんが私の前にカップを置いてくれた。湯気を立てるコーヒーからは香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

「……ありがとう。代金おかね払うわ」

「いいですよ。そのぶん、いつも相談に乗ってもらってますから」

「……悪いわよ。私はこうして、書いているだけなのだし」

 私は財布を取り出して、小銭を渡そうとするのだけれど、あいにく持ち合わせが無くて、千円札を取り出す。それを見た斎藤くんは、案の定、それじゃそれが崩れて細かいのが出来た時に、と言って受け取ろうとしなかった。

「もう、仕方ない人。自分の食事はそんな不摂生なくせに、他人ひとにものを奢るなんて」

 私はちょっと恨めしい顔を作って、斎藤くんの抱えた菓子パンを見る。ツナコーンマヨパンは彼の好物である。だってパンを買う時はいつもこれだもの。

「もう遅いですから。あまり重いものは食べられないんです」

 斎藤くんはそう言う。確かに、コーナーの隅に掛けてある時計は既に二十三時過ぎを指している。私は自分の飲んだココアの空きカップと新しいコーヒーに目を遣って、もたれないかと少しだけ自分の胃を心配した。

「詩緒里さんは大丈夫ですよ。いつも胃腸とか強そうだし」

「……それ、どういう意味?」

「いえ、別に。他意はありません」

 そう言って斎藤くんは笑う。私は歳上の女の威厳を見せるためにちょっと顔を顰めて見せるけれど、すぐに彼と一緒に笑った。

 初めから、威厳なんて別に無い。こんな時間にスーパーのイートインで燻っているのは、私も斎藤くんも一緒なのだから。

「だって詩緒里さん、今まで緊張したこととかないでしょ。いつもそうやってマイペース」

「私だって緊張することぐらいあるわ。本当は今だって緊張してる。あがり症なの」

「どうしてすぐわかる嘘つくんです?」

「……ちょっと言い過ぎた」

 斎藤くんは私を見てひとしきり笑うと、それからパンの包みを開けて何口か食べた。私もむすっとした顔をしながらも、コーヒーが冷めないうちに一口飲んだ。挽きたてドリップとかいうスーパーのプライベートブランドは、馬鹿にできないくらい、なかなか美味しい。

「……それで、今日はどうだったの?」

「いつも通りですよ。授業を受けて、自習をして、課題を出されて、それだけです」

 私は斎藤くんの顔を見て、ため息をついた。

「わかりやすい嘘つくなって、私の台詞だよ?」

「……いや、本当にたいしたことないんですよ」

 誤魔化すみたいにパンをかじった。私はもう一度コーヒーを飲んで、それから黙ってキーボードを打鍵した。


      ◯


 きっかけは些細なことなんです。僕がうっかりまとめて出すよう頼まれてた提出物を出し忘れちゃって、そのせいで僕のだけじゃなく彼らの評価が下がっちゃったって、そういう話で。

 僕はちゃんと謝ったんですけど、彼らは成績に必死になるタイプの人たちだったんで、許してくれなくて。それからずっとです。

 だから、僕が悪いんですよ。単純な話。

「そんなの、謝ったなら許してあげればいいのにね。心が狭いっていうか」

 それは違いますよ、詩緒里さん。誰だって大切にしてるものは違うんです。僕にとって勉強がそれほど大切じゃないように、彼らにとってはそれだけ勉強が大事なことだったんです。僕はそれに傷をつけちゃった。許してもらえなくて当然なんです。

 本当、馬鹿ですよね。ははは。ああ、いえ、書き物を続けてくださって結構ですよ。僕の話なんてどうでもいいんですからね。

「……先生には相談したの?」

 しましたけど、自業自得だろって。その通りなんです。だから、そうですよね〜ははは、としか言えませんでした。今ここでこんな風に、愚痴みたいに話してるのも、本当は情けないことなんですよ。だって僕が悪いんだから。

「いくらきっかけがきみだからって……」

 いいんです。

 それにね、本当はみんな、僕のしたことなんて覚えてないんですよ。僕が提出物を出し忘れたことなんて、もう誰も気にしてません。それでも僕に、その、嫌がらせを続けるのは、みんなからなんです。

「……溜まってる?」

 そう。みんな僕と同じなんですよ。学校とか受験とか、親とか先生とか、いろんなものから掛けられる圧力、ストレス、面倒なこと全部、抱え込んでる。なんとかしてどこかにその重みを押し付けたいんです。発散したいんです。

 だから、僕が必要とされてる。

 僕は捌け口なんです。みんなのゴミ箱なんですよ。誰だって必要でしょう? 溜まってしまったゴミを、まとめて捨てるゴミ箱が。

 僕はそういう風にして、クラスに必要とされてるんです。だから、それなりに満足してるんですよ。だって、それまでの僕は、ひとつだって他人に必要とされてこなかったから。

 僕はけっこう、気に入ってるんです。

「そんな関係、間違ってるよ」

 詩緒里さん、今日はらしくないですね。いつもは不干渉なのに。僕たちそういう風に話してきたんだと思ってました。決めてなくても、そういう決まりに従って、つきあってきたんだと思っていました。でも、それはぼくの思い込みだったみたいですね。

「……待って」

 今日は帰ります。もしまた会えたら、その時はまた話聞いてください。詩緒里さんに話聞いてもらうの、好きなんです。

「ここに、居るから。何時でも」

 ありがとうございます。気が向いたら、また適当に来ますよ。


      ◯


 斎藤くんは出て行った。自動ドアが閉まる。私はコーヒーの残りを喉に流し込んだ。

「はあ……うわ、なんかちょっともたれてきた」

 空いたカップをゴミ箱に捨てて、私はノートパソコンを閉じる。もう既に日付が変わってしまった。スーパーみどりのイートインは、二十四時を境に立ち入り禁止になるのだ。これでもスーパーの中ではかなり遅い方で、深夜まで営業している駅ナカのスーパーだからぎりぎり、許されている時間だった。

 斎藤くんの話に、結局のところ私は、何の解決も、もたらすことができない。

 私はただの虚構の書き手であって、現実の世界に干渉する力を持っていない。だからこそ、斎藤くんは私を聞き手に選んだのだろうし、そうでなければ私なんて見向きもされていないだろう。こんな怪しい女に、話しかけるのは普通におかしいのだ。

 私は今日何度目かのため息をついて、バッグにしまっていたストールを巻く。厚手のワンピース一枚ではちょっと寒い時期になった。ヒールをかつかつ鳴らして、最後に店内を徘徊する。

 安売りになった加工食品をいくつもカゴに放り込んで、まとめて買って帰る。私は決まってこうしていた。

「……あ、お刺身安い」

 つい手を伸ばして、胃がもたれていることを思い出す。これじゃ今日の夕飯には重すぎる。もうこんな時間だし、軽いもので済ませよう。

 安いマグロは惜しいけど、仕方ない。棚に戻して、代わりに名前も知らないブロック状のエネルギー食品みたいな、カロリーメイトの偽物みたいなやつを二つ取って、レジに向かった。

 レジではいつものように、瀬川さんがネイルを弄っていた。

「お会計お願い」

「……うぃす」

 怠そうに返事すると、瀬川さんはカゴの中身を案外丁寧に取り出しては、バーコードを読んでいく。ケバい見た目に反して、こう見えてもバイトリーダーなのだ。人は見かけによらぬものというのは、どんな世の中でも共通する数少ない真理であると思う。

「調子はどう?」

 私はなんとなく、そう訊いてみる。

「……まあまあ」

 夜遅くまで大変だね、なんて言おうと思ったけど、本人だってそんなことは承知しているだろうから、やっぱり止めにした。

「会計。1219円になります」

「あ、はい」

 財布から2000円出して、お釣りをもらった。それで斎藤くんのことを思い出して、なんとなく嫌な気持ちになる。

「……あのさ、あんま気負わない方がいいよ」

「え?」

 突然声をかけられてびっくりする。他の誰でもあるはずがない。店内には今、私と瀬川さんしかいないのだ。

「顔色悪い。いつもはもっと肌とかツヤツヤしてんでしょ、あんた」

 にしても驚いた。瀬川さんがこんな気遣いをしてくれるなんて。いつもこうしてレジで会計のやり取りをするだけなのに。お得意様だからかな。

 私はちょっと恥ずかしくて、なんとなく茶化してしまう。

「いや……そんなツヤツヤしてるかな」

「羨ましいくらいツヤッツヤでしょ」

 なんて、真面目くさった顔で言われて、私はたじたじである。別に肌の手入れしてるわけじゃないが、女なら肌を褒められて嬉しいのが普通なんだろうけど、あんまり感慨が湧いてこないのは自分でも複雑な気持ちだ。

「……ま、別にいんだけど」

 瀬川さんの方も照れくさくなったみたいで、それ以上は何も言ってこなかった。私はなんとなく嬉しくなって、買っておいた豆乳プリンをひとつ、瀬川さんにあげた。半額でごめんね、と言ったら、彼女はちょっとはにかんだ。こんな風にかわいく笑う人なんだ、と思って、また少し意外だった。瀬川さんに手を振ってレジを離れる。

 私は戯れに買ったビールのプルタブを開けて綺麗に鳴る、プシュッ、てやつをちょっと楽しみながら、一口思い切って煽って、苦くて後悔した。

 スーパーみどりを出れば、外は当然だけど、もう真っ暗だった。

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