食べたことのない肉〜改訂版〜

三文士

珍しい肉

私には、食における師匠のような人がいる。元々は母の友人だったのだが最近では私の方がよっぽど世話になっている。


師匠は料理の腕前もさることながら食に対するその知識が計り知れない。師匠は決して偉ぶらず、広大な海の如きその知識を惜しげなく分け与えて下さる。私は彼を大いに尊敬してやまない。


そんな師匠から一報があった。面白い肉が手に入ったから食べに来なさい、と。食い意地と好奇心の塊である私はさっそく師匠のお宅へ伺った。


呼び鈴を鳴らすとえびす様のごとくにこやかな師匠が、みずから出迎えてくださった。


「やあ、いらっしゃい」


挨拶を手短にすませ私は師匠の好物である甘味を手渡した。


「おや豆かんかい。いや、実に嬉しいね。食後にいただこう」


そう言って中に招き入れてくれた。


卓には既にいつものお仲間連中がついていて、師匠の料理を今や遅しと待ち構えている。その顔ぶれはさまざまで中には会社の社長や有名な料理人などもいる。


私は中でも新参の方なので恐縮しつつ末席に着いた。


「じゃあ早速食べていこうか」


師匠の家の宴会はすごい。とにかく料理を食いまくるだけなのだがこれが壮絶である。さまざまな食材が多種多様な方法で調理されて出てくる。もちろんどれも最高の食材であり、そして最高の腕前が揃っている。なんせ客人たちはゲストであり皆がシェフでもあるので、その時の食材と皆の気分で誰が調理するかが決まる。


面白いのは時間の経過と共に料理が変化することだ。実際、いま私の目の前出されているスープはどうみてもタイ料理のトムヤンクンなのだが、数時間前までは味噌汁だったというから驚きである。しかも何人かの客人はこれが味噌汁だった時にも居たので実際に変化を目の当たりにしているというのだ。


「あれはあれで良い味だった」


などと言うから実に酔狂な話である。数時間前まで味噌汁だったトムヤンクン。これがまた驚くくらいに美味い。その辺の流行に便乗したタイ料理屋では絶対飲むことのできない美味さだ。本場のタイでもこれほどの味が出せるかどうかだ。だが師匠は、決して美味いトムヤンクンを作ろうとしてこれができたわけではないのだ。


「ただ単純に美味い汁物を追求していったら今日はたまたまトムヤンクンになっただけだ」


師匠は偉ぶらず、笑ってただそう言われた。


「さて全員揃ったところでいよいよメインディッシュだ」


そう言って師匠は厳かに台所へ向かう。


「ところで師匠。面白い肉、とは一体何です?」


酒を飲まない私は手持ち無沙汰でつい待ちきれず、そう尋ねた。


「まあ焦ることはない。すぐ出来るさ。食べて当ててごらん」


師匠はそう言って平皿に盛った何かを卓の上に静かに置いた。


「これは‥」


思わず部屋中に沈黙が流れた。赤身の生肉が二種類。量としては決して多くないがその場にいる全員が食べるには充分であった。


「刺身、ですか?」


「見ての通りだ。二種類別々の生き物だ。コイツらは両方山に住んでるから、ホースラディッシュをつけて醤油で食うと美味いぞ」


そう言って山盛りになったホースラディッシュを差し出してくれた。私はおもむろにそれらに手を伸ばし、躊躇なく口に入れた。いかに食材の正体が解らずとも師匠が用意してくだすった物。美味くないわけがない。それほどに私は師匠という人の味覚に信頼をおいていた。


まず手前にあった比較的大きい肉から。肉自体はとても柔らかい。いや、むしろ柔らかすぎて摘まんだ箸にそのまま纏わり付いてくる程だ。脂が多いのだろう。味自体は市販されてる食肉と変わらない程度だったがどこか野性的な獣の香りが鼻についた。決して不味くない。上質の馬肉の様だった。


「どうかな?」


「ええ、美味いです。上等な馬肉みたいで」


「馬肉か。ははは。それは良い」


師匠は笑ったがどうやらまだ正解は教えてくれないようだ。どうやらもう一つも食わないとダメらしい。


今度は比較的小さい方の肉に手を伸ばした。


「んん?」


口に入れて咀嚼した途端、頭が混乱した。今度は例えようが無い。まるで初めての味だった。まず感触だが、コリコリとしてて非常に心地よい口当たり。先ほどの獣らしい臭み等は全くなく、ただ純粋に芳醇な肉の甘みだけが口に広がる。その甘さが口に広がり即座にに溶けて消えてゆく。その感覚にまるで脳みそまで溶けてしまいそうなくらいの快感を感じた。


これは


「美味い」


誰からともなく、そう言った声が次々と漏れ始めた。


「ははは。皆さんお気に召したな。まあどちらかと言えばメインはこっちだからな」


「師匠、もう十分楽しまれたはずです。いい加減お戯れは止して下さいな」


そうだな、と言って手に持った酒を一気に飲み干して涼しい顔でこうおっしゃった。


「大きい方は熊だ。まあ諸君の中にも食った事のある者はいるだろう」


やはりそうか、と口々に皆言い始めた。私は全く見当がついてなかったばかりか、上等な馬だとか言ってしまい実に恥ずかしい思いをした。師匠が笑っていたわけがわかった。


「それでもう一つは?」


皆その答えが知りたい。


一同息を呑む。


「猿だ」


おお、と驚嘆する声が漏れた。


様々な経験をした人間が集まっていたが猿を食した経験があるのはわずか二人だけだった。


「私はかつて中国で、あの有名な猿の脳みそ料理というのを食いましたが苦くてそれほど美味くはなかったですね」


「私も、地方で少し食べさせてもらいましたがこれほど美味かった記憶はありません」


二人はそう証言した。


「ははは。そうだろう。こいつはな、腕の良い猟師によって仕留められたのさ」


師匠は得意げに話す。


「まあ、とは言っても日本では猿は基本、食用での狩猟はできん。あくまでも狙って獲れたのではない。建前上はな」


猿は一応、天然記念物に登録されている。


「猟師にな、もしも猿を仕留めたら必ず連絡してくれと前から言っておいたんだ。そうは言ってもコイツはちゃんと狩猟許可の降りたヤツだ。害獣として駆除されたものだぞ。密猟じゃないからな」


私にはどうも話が繋がらない。


「それと美味いのとどう繋がるんです?」


師匠はニヤリと笑って言った。


「害獣として駆除はした。しかし猟師の方は初めからコイツが高く売れると解っててのことさ。食用でないと言いつつ、食べるのを前提に仕留めたのさ」


ただ駆除するのと美味しく食べる為に仕留めるのとでは殺し方に違いがあるそうだ。詳しいことは解りかねるが、おそらく血抜きの問題だろう。


「コイツには安くない金を支払ってる。普段口に出来ないと思えばまた一段と味わい深くなるだろう」


そう言って師匠はわざと下品に笑ってみせた。その後色々に料理された猿を堪能したが最初ほどの驚きはなく、最後の方はいつもの豚肉が恋しく感じた。それでもカレーや燻製になった猿は、客人達の胃袋にことごとく収まっていった。


食べ終わってから師匠と二人になった。いつも恒例の最高に美味いコーヒーを淹れていただいた。


「どうだったね。少しは勉強になったかな」


師匠は優しくお尋ねになる。


「はい。ですが一つ解せないことが」


「何だい?」


「最初に口にした時と、後から口にした時。前後で明らかに美味さが違う気がしました」


「ほう」


「同じ肉のはずなのに何故でしょう。鮮度が落ちたのでしょうか?」


師匠は考えるときの癖で右手の親指と人差し指で頬を撫でる。


「それもあるかもしれないが。多分理由は他にあるだろう」


「それはなんでしょう。是非知りたいのです。あの脳みそが溶ける程の美味さは一体?」


私は恥ずかしさなど顧みず、師匠ににじり寄った。


「ははは。脳が溶けるとはね。それは正にお前さんの脳みそが混乱したせいさ」


「混乱?どうしてです?」


「うん。お前さんのこれまでの人生で霊長類は口にしたことがない筈だ」


「記憶が確かなら」


「例えようの無い未知の食材に対して脳みそがパニックになったわけだ」


なるほど。


「猿は人に近いからな。遺伝子に組み込まれた祖先の記憶でも呼び起こされたのだろう」


突拍子もない話だが師匠が言うと、何故だか説得力がある。


「その混乱を無理やり処理する為に、脳は自力でアミノ酸に似た成分を作り出して「何だか知らぬがとにかく美味い」でやり過ごした」


「なるほど」


「というのはどうだろうか」


そう言ってまた師匠は屈託のない子供の様な笑顔で笑っていらっしゃった。


「しかしこれで私はいよいよ食った事のない物がなくなったな」


師匠は突然寂しそうにそう呟いた。


「本当に全てを口にされたのですか?」


「食えない物以外は殆ど口にしたさ。食えない物もある程度食った。最後の一つを除いてな」


「最後の一つ?」


「ああ。だがそれは故あって食うわけにはいかない」


珍しく、険しい顔をする師匠。


「どうして、ですか?」


ゴクリと音を立てて自分の唾液が喉を通過していくのが解った。私はいま、緊張している。


「人は独特の感覚を有しているからな。生き物は動植物や昆虫でもあまねく手広さで口にする」


「ええ」


「だがどんな生き物でも禁忌はある。それは人間にも共通している概念だ」


「それは」


その答えは解っていたがあえて師匠の言葉でそれを聞きたかった。


「不味いだろ、共食いは」


その言葉で、その日はお開きとなった。


ホラー映画ではないのでこの先にスリリングな展開は存在しない。師匠とも相変わらずの付き合いだし旅行などにもご一緒させていただいている。師匠はもうすぐ還暦の声が聞こえるお歳だが十は若く見える。


だがあれ以来、少し変わった事がある。師匠の私を見る視線が少し変わった気がする。以前はまるで実の子を見るような暖かな眼差しであった。しかし今は違う。時折私が何かにかまけている時にふと、鋭い目線が突き刺さるのを感じている。私は、その目線に籠もった感情の正体を知っている。あれは、師匠が旅先などの市場でめぼしい食材に邂逅した時の目だ。師匠がその目をした時、彼は意地でもそれを手にいれる。そして腕によりをかけ、最高の料理を作るのだ。


こんな事を言ったら精神を疑われるかもしれない。しかし私は臆せずに公言する。


師匠になら、食べられても構わない。師匠なら私をどんな美味しい料理にしてくれるだろう。今から楽しみで仕方ない。


それまでは精々、美味しく生きていこうと思う。


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