第一部 フロイタール編

第一章 転落

第一話 佐竹

「それ、やめといた方がいいぞ。まだ今日の最安値じゃない」


 俺がはじめてあいつに掛けた言葉はこれだった。

 近所のスーパーの惣菜コーナー。

 学校が終わってすぐの時間帯。外はまだ明るかった。


「えっ、マジ? そうなの!?」


 売り場を真剣に見つめていた高校生が、びっくりまなこでこっちを振り向く。

 白い半袖カッターシャツにグレーのスラックス姿。それは俺とまったく同じものだ。

 しかし。

 パック詰めされた小芋の煮物から目を上げたあいつは、人の顔を見たとたん、あからさまに「げっ」という表情かおになった。


(……こいつ)


 思わずむかつく。一応クラスメートである相手に向かってどういう態度だ。

 が、あいつはぱっとばつの悪そうな顔になった。その顔にありありと「しまった」と書いてある。それでひとまず許すことにした。


「六時まで待てば、また値引きシールの貼り替えがある。とはいえ材料を買って作ったほうが、ずっと安上がりなんだがな」

「えーと……そうなんだ」

 困った顔で作り笑いをされても、少しも嬉しくない。

「あ、ありがとう。えっと……佐竹君?」


 君づけと最後の「?」はやめろ。

 そう思ったから、半分だけそう伝えた。


「気色悪い。男から君づけされてもちっとも嬉しくない」

 冷たく言うと、あいつは分かりやすく慌てだした。

「あっ、ごめん! 佐竹く……ああっ、ごめん!!」


 バカか。こいつはバカなのか?

 俺の目線がますます冷たくなったのだろう。あいつは惣菜パックを売り場に戻すと、かごを片手にそそくさと後ろを向いた。


「あ、ありがと……。じゃ、俺──」

「待て」

「えっ?」


 なぜそこで、あいつを引き止めてしまったのか。

 それは今でもわからない。

 「もう放っておいて欲しい」という内面そのままの顔で振り向かれ、やっぱり少しむかついたが、それでも俺はいてしまった。


「なんでこんな時間にこんなとこに? 部活は」


 こいつは確か、バスケ部のはず。

 そうは言っても身長はせいぜい俺と同じか、むしろやや低いぐらいだ。屋内スポーツであるせいか、野球部やサッカー部の連中ほどは日焼けもしていない。別に染めているわけでもないらしいが、髪は茶系で少し長めだ。

 一見して、多少見た目がいい程度の、どこにでもいる普通の高校生。

 内藤祐哉ないとうゆうやはそんな風情の少年だった。


 うちの高校のバスケ部は、なんとかいう昔の漫画が大好きな熱血教師が顧問をやっている。そのため、平日はおろか週末までも、あの汗臭い体育館で外が真っ暗になるまで練習をしているはずだ。

 そこの部員であるこいつは、間違ってもこんな明るい時間帯にスーパーで買い物なんてできる身分ではない。完全なる「帰宅部部員」の俺とは違って。


「あー……」

 今度はちょっと困った笑顔を浮かべてうつむき、あいつは頭を掻いた。

「やめたから。部活」


 それが、あいつと俺との付き合いの始まりだった。





 内藤は確かに俺のクラスメートだった。

 だがそうなった高二の新学期からこっち、つまり丸三ヶ月というもの、一度も話したことのない相手でもあった。

 とはいえ基本的にクラスメートであろうがなかろうが、あまり他人と話をしない俺のことだ。それは別段、特別なことでもなんでもなかった。

 単に彼が、それまで十把一絡じっぱひとからげで「他人」というカテゴリーに入っていた大多数の人間の一人だったというに過ぎない。


「あ、あのさ~。佐竹く……っ、佐竹?」

「なんだ」


 人を呼ぶだけのことでいちいちどもるな。たかだか「君」を抜くだけのことに、一体どれだけの時間がかかるんだ、こいつは。

 スーパーを出て駅前の商店街を抜け、いま俺たちは少し離れた住宅街を目指している。二車線道路を挟んだ歩道をゆく人々の数は多くない。住宅街が近づくにつれ、犬を散歩させる住民と何度かすれ違ったぐらいだ。

 空はまだ明るく、夕刻というにはやや早い時間だった。


「え、え~っと……」


 結局、内藤は俺の勧めでなまの小芋と野菜などを少しばかり買って店を出た。だが、どうやら俺が同行することになにか不満があるらしい。

 「不満」と言うよりは「不安」と言ったほうが正しいのか。失礼な。

 自分から話しかけてきておきながら、内藤は俺と目が合うと、明らかに慌てて目をそらした。


「あの……。家、こっちなのかな~、と思って」 

「いや。図書館に返す本があるんでな」


 この道を行ったすぐ先に、この街の中央図書館がある。最近の俺は大抵、放課後にそこにいることが多かった。

 内藤は分かったような分からないような声で「ふ~ん?」と首をかしげたが、突然「あっ、そういえば」と何かに思い当たった顔になった。


「一年のとき、よく図書室にいたよな?」

「よく知ってるな」

「うん。俺、図書委員やってたから」

 内藤は少し笑った。やっと会話の糸口を見つけたのが嬉しいのだろう。わかりやすい奴だ。

「つってもまあ、しょっちゅう友達とふざけちゃあ、司書の先生に怒られてただけだったけどさ」

「そうだったな」

「え?」内藤の目が驚いた色になってこちらを見る。「って、覚えてるの?」


 それはそうだろう。こっちは静かに本を読んでいるというのに、あれだけ騒がれたのでは。離れていたとはいえ、あれで気にするなと言うほうが無理な話だ。

 そんな心の声が聞こえてしまったのだろう。内藤はまた困った顔になった。


「ごめん。そうだよな、あんだけにらまれたもんな~、俺」


(なんだ。覚えてるんじゃないか)


 ちょっと意外に思って、少し黙った。

 まさかあの時、こいつが俺の方を注意して見ているとは思わなかった。


「そっちこそ覚えてたのか」

「ま、そりゃあ? あれだけ殺しそーな目で睨まれちゃ……って、あっ! ごめん!!」


 慌てて口を押さえている。

 だから、本当にバカなのか。

 とはいえ俺も、これまで教室やそのほかの場所で折に触れて観察してきて、こいつのこういうキャラクターは把握している。


「で? お前の家はこっちなのか」

 なにげなしに訊いてみると、「ああ、いや」と苦笑された。

「こっちは『学童』でさ──」


(『学童』?)


 一拍おいて、それがいわゆる「学童保育」のことだと気がついた。


「弟か妹でも迎えに行くのか」

「ん、弟。家もまあ近いんだけどさ……って! だから佐竹、どこまでついてくんの?」


 ようやく話題が戻ったか。あれこれ言っているうちに、もう図書館に着いてしまったんだが。

 俺は質問には答えないままスクールバッグから数冊の本を取り出すと、入り口脇の返却ボックスにそれらを落としこんだ。

 背を向けたままで訊ねる。


「小芋の煮方、わかるのか」

「へ?」


 見れば内藤は目を白黒させていた。

 突然話題が変わるとついてこられないらしい。

 まったくもってわかりやすい。


「まあ、ネットで何でも調べられるだろうが。見て覚えたほうが早いだろう」

「は? いやまあそれはそーかも知れないけど……って、だから??」


 話がまったく見えないらしい。頭の弱い男子高校生は放っておいて、俺は自分のスマホを出した。近くの学童保育の場所を調べる。検索結果はすぐに出た。


「こっちでいいな」

「って……おいって、佐竹!?」


 やっと頭が現実に引き戻されたらしい兄は無視して、俺は弟の方を探しに行く。


「待ってよ、佐竹。佐竹ってば……!」


 ようやく躊躇ちゅうちょなく人を呼び捨てにできたことにも気付かないで、慌てて俺を追いかけてくる。

 俺は歩度をいっさい緩めず、目的地をめざして大股に歩いていった。


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