玉手箱の結び紐

天見ひつじ

玉手箱の結び紐

 とある有名な古書街に軒を連ねる、風変わりなアンティークショップ兼古書店。

 この希臘堂という名のお店で、わたし、結城ユイはアルバイトをしている。


 一見さんお断りの雰囲気を醸し出す風格あるオーク材の扉を開け、足を踏み入れる。古書店と聞くとうず高く積まれた本の山を想像しがちだが、ここ希臘堂はそれとは少し趣を異にする。入ってすぐ目に付くのは、店主自らが直接買い付けてきたという戸棚に並んだアンティークの数々。その奥では、それ自体がアンティークだという重厚な書棚に収まった洋書の数々がわたしを迎えてくれる。背の高い戸棚や本棚のせいで見通しの悪い通路や、本を傷めないための抑えた照明は、バイトを始めた当初のわたしを重苦しい威圧感として襲ったものだ。しかし、今ではそれにも慣れてしまい、そんな雰囲気もむしろ心落ち着かせてくれるものとなっている。


 あいにくわたし自身は英語も読めなければアンティークの価値も分からない根っからの和風人間なのだが、平均並みの時給、そして掃除に加えて時々頼まれる店主のお手伝いさえこなしていれば、あとの時間は本を読みながら店番していても構わないという条件に惹かれてここで働いている。見苦しくさえなければ私服で構わないとのことなので肩もこらないし、お客はほとんど来ないか、来るとしても予め店主がいることを確かめての来訪となるため、こう言ってよければわたしの仕事はお気に入りのアンティークチェアに腰掛けて本を読むことが半ばを占める。


 いつのことだったか、あまりに暇なので、わたしがいなくても問題ないのでは、と店主に問いかけたことがある。

 そのときの答えはこうだった。


「可愛い子が店番してた方がお客さんも嬉しいでしょう。少なくとも、私は嬉しい」


 希臘堂店主、狩谷弓弦。

 彼女は、真面目な口調でそんなことを言ってのける人なのだった。

 それから、買い付けで店を空けることも多いしね、と言い訳めいて付け加えたことを覚えている。それならそうと最初からそう言えばいいし、それってセクハラですよとわたしが指摘すると、不満げに頬を膨らませていたのが妙に印象的だった。


「お、来たね。おはよう」

「おはようございます。弓弦さん、帰ってきてたんですね」


 うすらでかい割に低機能なアンティークのレジスタの陰から顔を出したのは、希臘堂の店主、狩谷弓弦その人だった。適当にくくった黒髪とアンダーリムの眼鏡は素っ気ない黒一色のファッションと相まって、凛々しいという表現がよく似合う。

 店のシャッターが開いていたので彼女がいることは分かっていたが、よく見れば眼鏡越しに見える細めた眼の下に隈ができている。ヨーロッパへの買い付けから帰ったばかりで寝不足なのかも知れなかった。


「ん? なんだそれは」


 しかし、疲れてはいても仕事柄か培われた観察眼は少しも機能を減じていないようで、弓弦さんは早速わたしが手に提げる荷物へ目を付ける。目をすがめてわたしと荷物を見比べる様子は酷く不機嫌なように見えて、気後れしたわたしはとっさにごまかしの言葉を口にしてしまう。


「や、お弁当ですけど」


 そんなわたしの答えを聞いて、弓弦さんは好奇の視線を荷物から引き剥がすようにして手元の書類に目を落とす。


「うん、喋りたくないなら、別にいいけど」

「いえ、そんなんじゃないんですけど……ふふっ」


 これから相談しようと思ってたのに、機先を制されて驚いたためにとっさにごまかしてしまった、などと説明するのはいかにも間抜けに思え、つい吹き出してしまう。

 いよいよ訝しげに目を細める弓弦さんに、ごめんなさいと謝る。お弁当も一緒に入れてきたので丸っきりの嘘ではなかったが、どう切り出そうかと悩んでいたわたしへ水を向けてくれた弓弦さんをごまかすような真似をしてしまったことについては、やっぱり謝るべきだと思ったからだ。


「とりあえず、荷物、置いてきます。中身については、その後で」

「うん」


 店の奥は、弓弦さんの居住空間と倉庫を兼ねたスペースとなっている。今ではこちらの掃除もわたしの仕事になっているので、代わりと言ってはなんだがお弁当などの荷物を置かせてもらっているのだった。ポットのお湯をケトルで沸かし直し、二人分のお茶を手早く淹れてから、手提げ袋に入った風呂敷包みを取り出して店へ戻る。


「弓弦さん、いま時間いいですか?」

「ん」

「これなんですけど」

「なになに?」


 弓弦さんが手で書類を乱雑に払いのけて作ってくれたスペースに、風呂敷に包まれたそれをそっと置く。どこからともなく取り出した白い絹手袋を嬉々として手に付ける弓弦さんの姿は、食事を前にして食器を打ち鳴らす子供か、猫じゃらしを目の前に垂らされて飛びつく猫を思わせて、どことなく微笑ましい。


「開けていい?」

「ええ」


 好奇心に目を輝かせる弓弦さんのうやうやしい手つきで風呂敷の中から姿を現したのは、幅182×奥行182×高さ91(mm)と中途半端な寸法の、ちょうど両手に乗るサイズの箱だ。表面に螺鈿細工が施された漆塗りの箱は、経過した年月の長さを思わせる深く上品な光沢を放っている。

 しかし、この箱を見る者の目を引き付けるのはそうした細工よりむしろ、箱の側面から上面へかけて伸びる二本の紐だろう。左右それぞれに開けられた穴から伸びる紐は、箱の上面で複雑かつ装飾的な結び目を形作っている。


 わたしは弓弦さんのような審美眼を持たないが、ぱっと見ただけでは二本の紐からできているとは思えないほど複雑さ、そして結節点と曲線を精緻に組み合わせ、全体としては左右対称の幾何学的な形状を成しているそれにはある種の美しさがあった。


「へえ……これは凄い。どこで入手したの?」

「えっと、入手って言うか……こないだお休みをいただきましたよね」

「ん」

「おじいちゃんが亡くなったんですよ。これは形見で、うちの家宝なんだそうです」

「へえ。ユイちゃん、いいとこのお嬢様だったんだ」

「そんな大した家じゃないですよ。まあ、それはともかく」


 金銭的な価値は分からないけど血縁はわたししかいないから、そのまま田舎の家に置いておくわけにもいかなくて持ってきちゃいました、と説明を加える。弓弦さんは、特に感想を述べることもなくふんふんとうなずきながらそれを聞いてくれた。安易な慰めの言葉を口にしないのは彼女らしい。


「けど、もし価値のあるものだったらわたしの住んでる安アパートに置いとくのも不用心ですし。弓弦さんなら、骨董にも詳しいから大雑把にでも価値が分からないかな、と思って持ってきたんですけど……」

「ん、詳しいっちゃ詳しいけど、私の専門は古代ギリシャだって知ってるよね?」


 弓弦さんは立ち並ぶ本棚やアンティークを顎で指す。これらは全て、彼女自身がギリシャを中心として買い付けに行ってきたものだ。本人はあまり言いたがらないが、その方面での博士号を持っている、とお客さんが話すのを漏れ聞いたことがある。


「ええ、まあ。けど他に頼れる人もいないし、弓弦さんならそういう骨董関係の伝手もあるかなって」

「ん、まあね」


 気のない返事をすると、箱の検分に戻ってしまう弓弦さん。

 結び目を撫でたり、そっと持ち上げて裏側を確かめたりしている。

 こうなると、品物に関係のない話は耳に入らなくなってしまうのだ。

 そっとため息をついて、箱についてわたしが知る限りの来歴を述べることにする。


「この箱は結城家当主の証なんだって、よくおじいちゃんは言ってました。わたしがもうちょっと大きくなったら開け方も教えてくれるって。もう十九歳なのに、おかしいですよね。急に亡くなって、結局そのままになっちゃいましたけど……」


 肩をすくめて言うわたしに、弓弦さんが反応する。


「ん、じゃあユイちゃんは開け方を知らないの?」

「はい、残念ながら」

「ふうん……」


 箱は開かない。箱の側面を一周する形で継ぎ目は見えているが、鍵がかかっているのか持ち上げてもびくともしないのだ。そもそも、上面で結ばれている紐は継ぎ目よりも下に位置する穴から伸びているので、紐を解かなければ蓋は開きそうにない。

 結び直せない以上うかつに解くのはためらわれたし、鍵穴の類も見当たらないので、わたしの乏しい知識ではその時点でお手上げだった。この箱の開け方を知りたかったというのも、弓弦さんに相談した理由の一つだ。


「おじいちゃんはよく言ってました。なんでも『この箱は当主以外の者が開けてはならない。正しい閉じ方を知らずに開ければ、鍵は至宝もろとも失われることとなる』んだそうですよ」

「ん? それは一言一句、その通りに言ったの? 間違いない?」


 なにげなく言った言葉だったが、弓弦さんは予想外の食いつきを見せた。


「正しい『閉じ方』を知らずに開ければ。おじいさんはそう言ったんだね?」

「え、ええ……」


 閉じ方、という部分を強調する弓弦さんにうなずいて返す。

 しかし、それに何の意味があるのだろうか。

 内心で首を傾げる私に対し、弓弦さんは納得したような顔でにやにやしている。


「うん、だいたい分かったかな」

「え、価値が、ですか?」


 そんな風に聞き返すわたしに弓弦さんは苦笑し、首を振って答える。


「ううん、箱の開け方。閉め方も、一晩かけてじっくり考えれば分かるはず」

「ほんとですか! 凄い!」

「あ、写真撮っていい?」

「もちろんです!」


 流石は弓弦さん、と思う。

 こんなにすぐ分かるとは、正直思っていなかった。

 彼女は取り出したデジカメで、角度を変えながら箱を撮影していく。

 芸術品として美しく撮るのではなく、資料として後から見直せるよう、決まりきった手順に則って機械的に撮影していく様子はプロの面目躍如というところか。私生活のいい加減さはともかく、仕事に取り組む弓弦さんは本当に格好いいのだ。


「で、どうやって開けるんですか?」

「ん? そうだね……」


 意気込みのあまり、机に身を乗り出してしまう。

 自分では分からなかったその方法を知りたいという好奇心、そして中に何が入っているのかという期待感に包まれながら尊敬の視線を送るわたしに対して、弓弦さんは悪戯っぽい笑顔を浮かべ。


「いや、やっぱり教えてあげない」


 そう答えるのだった。


「なっ……! 意地悪しないで下さいよ!」


 思わず、抗議の言葉が口を突いて出てしまう。

 しかし弓弦さんはそれを受け流し、酷く真剣な表情でわたしの顔を見つめる。そして言葉を選ぶように数瞬の間を置いてから、不意に表情を緩めて告げるのだった。


「ふふ、怒ってるユイちゃんって可愛いよね」

「……人を怒らせて楽しむとか、趣味悪いですよ」

「いやいや、ユイちゃんが可愛いのはこの世の真理のひとつだけれど、いくら私でも意味もなくそんな意地悪はしないよ」

「じゃあ、なんで教えてくれないんです?」


 頬を膨らませるわたしを見て、弓弦さんは少しだけ困った表情をして天井を見上げる。それから、言葉を探すような数瞬の間を置いてぽつりと口にする。


「うん。これはね、ユイちゃんが自分で解かなくちゃいけないからだよ」

「わたしが、ですか?」

「そう。結城家当主じゃない私がみだりに開けちゃダメなの。だからユイちゃんが自分で考えてごらん。考えてもわからなかったら、そのときは教えてあげるからさ」


 それだけ言うと、弓弦さんは箱を風呂敷で元通りに包んでしまう。

 わたしは、渋々ながらもそれを受け取るしかなかった。


「自分で、ね……」


 天を仰ぎたいのは、わたしの方だった。




 それ以上はわたしが何を言っても弓弦さんはまともに取り合ってくれなかった。質問は適当にはぐらかされてしまうので早々に諦めて、仕入れから帰ったときはいつもそうであるように、彼女の楽しげなお土産話を聞いたり、今回の収穫物について長々と解説を聞かされたり、私物の小説を読んだりして過ごす。

 そうこうしている内に閉店時間となる。アパートに帰ってシャワーを浴びて、ご飯を作って食べる。洗い物や洗濯も済ませたところでソファに落ち着いてテレビでも見ようかと思い、ふと目に付いたのが持ち帰ってきた箱の風呂敷包みだった。


 自分で考えてごらん。


 弓弦さんの言葉を思い出し、改めて机の上に乗せて取り出してみる。どこかがずれたりしないか触ってみたり、スイッチになっていないかと螺鈿飾りをあちこち押してみたりと、わたしの頭で思いつく限りのことをやってみるが反応はなし。そもそも、弓弦さんはそんな風に触ったりせずに仕組みを理解していたことを思い出すと、自分のやっていることは徒労なのではないかとも思えてくる。


「どうしろってのよ、もう」


 ラグの上に腰を下ろして、ソファに頭を預けて天井を見上げる。

 そもそも、おじいちゃんもおじいちゃんだ。そんなに大切なものなら、たった一人の血縁にして可愛い孫であるこのわたしに対して変にもったいぶったりせず、素直に教えておけばこんな面倒なことにはならなかったのだと思うと、少々腹が立ってこないでもなかった。


「このう」


 ぐいぐい、と紐を引っ張ってみる。

 深い意味はない。何となくだ。

 だから、するりとほどける感触が返ってきたことに、少し慌ててしまう。


「あ、え?」


 ほどけかけてしまえば、あっけないくらい。いくつもの結び目で複雑に張り巡らされていた紐は、それがきっかけだったかのように軽く引っ張るだけで全部ほどけてしまった。形作られていた綺麗な形状は綺麗さっぱり消え、後にはくねくねと折り目のついた二本の紐だけが残される。


「やば、どうしよう」


 どのように結ばれていたのか、さっきまで目の前にあったというのに分からなくなっていた。もう自分では元のように結び直すことはできない。せめて写真に撮って残してあれば、と考えて弓弦さんのことを思い出す。彼女なら結び直せるだろうか。


 そう考えて、箱に手をかけて持ち上げようとした、その瞬間。

 今まで何をしても開かなかった蓋が、軽い抵抗を残して開いていた。


「…………!?」


 予想外のことが続き過ぎて、言葉が出ない。

 何よりわたしを絶句させたのは、蓋が開いたこと以上に。

 箱の中には何も入っておらず、空っぽであるという、その事実だった。

 てっきり、当主を証するものか何かが入っていると思っていたが、何度見直しても、蓋を裏返してみても、箱は空だった。

 そして、じわじわと湧きあがる悪い予感。昼間自分で口にした言葉が胸をよぎる。


『この箱は当主以外の者が開けてはならない。正しい閉じ方を知らずに開ければ、鍵は至宝もろとも失われることとなる』


 さあっと血の気が引く。

 もしかしたら、自分はとんでもないことをしてしまったのではないか。

 閉じ方を知らないわたしはまだ当主ではない。それにも関わらず箱を開けてしまったから、至宝――おそらくは当主の証である何か――は鍵と共に失われて、元に戻らなくなってしまったのではないか。

 ひとたび思いついてみれば、それは至極もっともらしい理屈に思えてくる。


「え、嘘だよね……」


 一人つぶやきながら、箱を検分する。中は外と同じく漆塗りの仕上げで、ふちの厚みは1cmほどだろう。どこか開く部分はないかと箱本体や蓋をひっくり返して確かめたり、二重底になっていないかどうか、振って音がしないかなどを確かめる。結果は、全て無駄だった。箱の中には、何もない。何もなかった。

 しばし呆然とする。ふと気付けば、わたしは携帯を手にしていた。


「そうだ、電話……!」


 弓弦さんの番号を探し、コール。しばらくしてから電話に出た弓弦さんは、寝ていたのか酷く不機嫌そうな声だった。


「……なに」

「え、えっと、あの……」


 ひくっ、としゃくりあげる。

 弓弦さんの声を聞いて、なぜか涙がこみあげてきてしまう。


「ちょっ、泣いてるの? どうどう、落ち着いて……」

「ひぐっ、ごめ、ごめんなさい……」

「いや、いいけどね……ほら、待っててあげるから、はい深呼吸」


 弓弦さんに言われた通り、深く息を吸い、そして吐く。

 数回繰り返して、だんだん落ち着いてくると、今度は恥ずかしさがこみ上げる。


「ごめんなさい弓弦さん。いきなり電話して、こんな……」

「ん。何があったか、説明して」


 ぶっきらぼうな言葉に促され、紐をほどいたこと、箱が開いたこと、中に何もなかったことを告げる。最初こそ真面目に聞いていた弓弦さんだが、途中から相槌に笑いが混じりだし、きちんと理解せず開けたからこうなったのではないかというわたしの推測を聞くと、終いには声に出して笑い出してしまう。


「ちょっ……真面目に話してるのに酷いですよ」

「え? あはは、いやごめんごめん」


 謝りながらも笑うのを止めようとしない弓弦さん。いい加減怒鳴ってやろうかと真剣に考え始めたところに、眼鏡を外して目尻に浮かんだ涙を拭うような気配と、茶化すような声が返ってくる。


「ユイちゃんは可愛いなぁほんと。発想が女の子だよね」

「……切りますよ」

「切ってもいいけど、明日もう一度お店に箱を持っておいで」


 こちらが怒っている気配を察したのだろう。少し真面目な声でそう言う弓弦さん。わたしとしては、他に取れる手段もないので分かりましたと返すしかない。そして、最後に弓弦さんは不思議な言葉を付け加えるのだった。


「ユイちゃんが開けたのはね、世界最古の鍵なんだよ」

「え、世界最古、ですか……?」

「そう。じゃねー」


 聞き返すわたしに簡単な別れを告げて、電話はそのまま切られてしまった。

 目の前にある箱へ目をやる。そこにあるのは、古いとは言っても数百年しか経過していないだろう螺鈿細工の漆塗りと、何の変哲もない組み紐だけだった。数百年前といったら、日本で言えば安土桃山時代か江戸時代。あまり歴史に詳しくはないが、鍵くらいはそれ以前からありそうなものだ。世界最古の鍵とは聞き違えか、でなければ弓弦さんの思い違いだったのだろうかと首を傾げる。

 わたしでは考えても分かりそうにない。今日はもう寝ることにした。





 翌朝。日曜日だというのに早めに目が覚めてしまったわたしは、準備をして希臘堂へ向かうことにした。箱のことが気になって、他のことをしようにも手につかなかったのだ。箱と紐を風呂敷で包み入れたトートを提げて、扉をくぐる。仕入れてきたアンティークを売り場に並べていた弓弦さんが、こちらを向いてにやりと笑った。


「来たね。見せてごらん」


 うなずいて、昨日と同じように机の上で風呂敷を広げる。違うのは、今は紐がほどかれて束ねられ、蓋が開く状態になっていること。弓弦さんは箱を開けたり紐に触れたり、楽しそうに検分を始める。こうなったら長いので、お茶を淹れてきますと言い置いて奥へ荷物を置きに向かう。


 そうして、湯呑みと急須をお盆に乗せてお店に戻ったわたしが目にしたのは。

 元通りに、紐が結び直された箱の姿だった。


「…………なっ!」


 弓弦さんの顔を見つめる。

 犯人は、唇を噛んで笑いをこらえる彼女に間違いない。


「どういうことですか?」

「見ての通り。鍵をかけ直してあげたんだよ」


 くっくっと笑う弓弦さん。

 こちらの動揺を見て楽しんでいることに、無性に腹が立つ。

 試しに箱に手をかけて持ち上げてみると、蓋はわずかに持ち上がるが、紐に引っかかってそれ以上は開かない。


「んー。急いで結んだからちょっとだけ緩んじゃったかな」

「弓弦さん、これって、ただ紐を結び直しただけじゃないんですか? いや、それだけでもすごいですけど」

「いや、違うよ」


 すっと弓弦さんの表情が消え。


「まだ分からないかな?」


 酷く真剣な問いがわたしを打つ。

 そこまで言われて、ようやくわたしは。


「え? そういうこと、なんですか?」


 ある推測が頭に浮かんだものの、それでもまだ半信半疑で、問い返してしまう。

 弓弦さんは、わたしが答えに辿り着いたことを察してか優しい笑みを浮かべた。


「そう。ネタばらしをしてしまうとね、紐で結ぶこと、正確にはその『複雑な結び方そのもの』がこの箱の鍵だったんだよ」

「じゃあ、最初から鍵なんて……?」

「物理的な、私たちが知っている意味での鍵は、そう、かかっていなかった。もうちょっと時間をかけて丁寧にやれば、元通り、全く動かない状態にできるはずだよ」


 紐で結ぶこと、その結び方こそが、鍵。

 わたしは、鍵と言えば金属製のものだと思い込んで疑いもしなかった。しかしそう考えれば色々と納得がいく。一度ほどいてしまえば容易には戻せない結び目。結び方を知らない人間では偶然に頼らなければ解き方は分からないし、何より解いたところで元通りに結び直すことはできない。無理に開ければ露見するという意味で、それは確かに鍵として機能するだろう。


「けど、なんていうか、のどかっていうか、頼りない鍵ですね……」


 結び方を知らない人間が開ければそれが分かるというのは、裏を返せば結び方さえ知っていれば開けたことが露見しないということでもある。そう、例えば弓弦さんが見ただけで再現してみせたように。だからなのか、現代のほぼコピー不能な鍵に慣れたわたしには、どうにも不安な鍵に思えてしまう。

 しかし弓弦さんは、そんなわたしの意見に首を傾げる。


「そう? 私は好きだけどな、平和で」

「平和……ですか?」

「そう。この鍵ってさ、相手が箱を破壊して開けることは想定してないんだよね」


 弓弦さんは拳を握って箱に振り下ろすジェスチャをしてみせた。


「破壊って、そりゃ漆箱ですからハンマーで叩けば壊れるでしょうけど……あ」


 呆れ半分に口にし、その途中で気付く。

 弓弦さんは、そんなわたしを見てにやりと笑う。


「そう。金属製の鍵がかかってても、中に入ってるものを取り出すだけなら関係ない。鍵を開けるなんて手間をかけずとも、箱を壊しちゃえばいいんだからね。その意味では、金属の鍵も紐の鍵も一緒。元に戻そうと思わないのなら、そもそも紐をほどく必要すらない。開けたいだけなら、こうやって」


 今度は、ハサミで紐を切るジェスチャ。


「紐を切ってしまえばいい」

「……身も蓋もないですね」

「うん、だからね、これは大事なものを護るためというよりは、身内に対して『貴方を疑うわけではないけど、私にとっては大事なものだから中は見ちゃダメですよ』って一線を引く鍵のかけ方なの。言うなれば、精神的な意味での鍵だね」


 そういうのってなんかいいと思わない、と顔を背けて付け加える弓弦さんは、ほのかに顔を赤くして照れているようにも見えた。反射的に、可愛いと思ってしまう。わたしは、それを見なかったことにして一つため息をつく。


「精神的な意味での鍵、ですか」


 なるほど、と思う。

 そして、それを聞いたことで中が空っぽだった理由についても推測がついた。


「そっか。玉手箱なんですね」

「ん? ああ、そういう言い方もできるかもね」


 有名な、浦島太郎の昔ばなし。亀を助けた浦島太郎は竜宮城に招かれ、お土産として玉手箱を持たされる。乙姫に「決して開けてはいけない」と言われていた玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、竜宮城で過ごした年月分の歳を一気に取ってしまう。

 この紐の鍵がかかった箱は、玉手箱とその在りようが似ている。玉手箱を開かないことが、乙姫と浦島太郎の信頼の証であったように。この箱は、いわば当主とその周りの人間の信頼関係を試す試金石なのだ。


 決して開けてはいけないと言われた箱。何か大事なもの、金目のものが入っているのではと普通なら思う。だから、仮に盗みを働くような人間が家族や使用人の中にいたとしても、まず狙われるのはその箱になる。しかし箱の中は空っぽだから何かを盗まれる心配はないし、最悪そのまま箱ごと持っていかれたとしても諦めがつく。

 そして開けたが最後、それは必ず露見するところとなり、当主とその人間との関係性は完全に損なわれ、もう元には戻らなくなる。止めていた時間と築いてきた信頼という違いはあれど、約束を破り、禁を犯すことで人として大切なものを失うという点では共通している。


 箱が閉じられていることは、当主と周囲の人間との強い結びつきを示し。

 箱が開かれることは、その関係が結末を迎えたことを示す。

 これは、そういう箱なのだ。

 そして、この箱が盗まれたり壊されたりせずにここにあるということは。

 結城家の代々の当主と使用人は信頼関係を結べていた、ということなのだろう。

 そのことを、わたしは少しだけ誇らしく思う。


「弓弦さん」

「ん?」


 けど、もうわたしには使用人なんていない。

 残念ながら、由緒ある家としての結城家はわたしで終わりだ。

 なら、その意味も変えていいのではないか。


「わたしにこの紐の結び方、教えてくれませんか? 結城家の当主、結城結として。わたしはこの箱を結べるようになっておくべき、って気がするんです」

「……もちろん」


 上下関係をくるりとひっくり返して。

 教え教えられる師弟の絆、その証とするのなら。

 それも悪くないのではないだろうか。

 箱をそっと撫で、わたしはそう思った。

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