第二話
その夜の食事は、山中にふさわしく質素なものであった。
おせん曰く、村の衆に分けてもらったという雑穀と味噌、それに山菜を煮込んだ雑炊のようなもの。津軽の地において、「けの汁」(根菜と豆を煮込んだもの)と呼ばれる汁ものに近い。
実に素朴な味であったが、このような山中で食すには、いや円空のような流浪の身にとっては、実に贅沢な味わいであった。
やがて、腹が朽ちて、円空とおせんの話も一段落し、お互い手持ち無沙汰になる。
囲炉裏に炊かれた火が、いささか弱々しい光を放つ中、円空は行李とつながれた振り分け荷物の風呂敷をほどく。中からは、いささか小振りな鉈。そして、行李からはこれまた小振りな小刀。
「何だ、何だ、坊主。物騒なモン出すんだな。」
急におせんが身を乗り出して、円空の道具に目をはる。
「わしの仕事道具よ。まぁ、黙って見ておればよい。」
言うなり、円空は積み上げられた薪をひとつ手に取り、無造作に鉈を振り下ろす。
ざくざくと荒っぽく削ると、手数が増える毎にただの薪に過ぎなかったそれが、人らしき形を作っていく。
世に言う、円空の鉈彫りの妙技である。また、薪を材料にしていることからすれが、いま彫っているそれは、「木っ端仏」とも言われるものでもあろう。
「はぁー、大したもんだでな。」
おせんはそう言ってくれるが、円空にはこれが「技」であるなどという意識はない。
(わしにはこれしかないけんの。)
それだけである。
曲がりなりにも僧籍はあるものの、円空のような「造仏聖」は高位の僧たちとはおのずと立ち位置が違う。
農民を含めた庶民にとって、円空は実に親しみやすい「坊主」であるが、裏を返せばそれは地位の低さも意味しているのだ。
円空も、己のその地位を理解している。己を卑下することはないが、胸を張って生きているというのとも違う。。
自分のような人間も必要なのだという自負はあるが、自分にはこの程度のことしか出来ないのだとも思う。
そうした相反する意識が、常に彼の中にはある。
しかし、木を彫っている間だけは、それを忘れることが出来た。
一心に木を掘り続けていると、その木片に過ぎなかったものが徐々に形を成し、その顔形が顕になっていく。そうすると、その木の中に宿り始めた何かが円空に微笑みかけているかのように思えてくるのだ。
全てを許す慈愛の笑み。
その慈愛は、まさに「自愛」に過ぎないのかもしれないが、円空にはそうしたものが必要だったし、その笑みを円空と同じかそれ以上に必要とする人々が世には多いのだ。
円空の生み出す彫像に笑顔が多いのも、彼がそれを必要なものだと思っているからだった。
そうして形作られた微笑は、いちように「仏」或いはもっと具体的に「観音」などとも皆から言われるが、これは円空の「造仏聖」という立場ゆえにそう皆思い込んでいるだけともいえる。彼自身は、己の求めるものをただ求めて彫り続けているだけである。それゆえに、造ったものに対して人により解釈の違いが生じる割合が高い。今夜もそうであった。
「ああ、マリア様だなや。」
おせんが円空の手にあるものを指して言う。
色々と人が勝手な解釈で、円空の掘ったものを呼ぶことには彼自身なれてもいたが、よりにもよって耶蘇(キリスト教)の神に間違われたのは初めてだった。
正確には、聖母マリアは、耶蘇(イエス・キリスト自身を指す場合もある)の生みの親というべきなのだが、円空にはキリスト教の知識はない。マリアもキリストも、彼から見ればいわゆる「異教の神々」の一柱という程度の認識しかない。
「マリア様、ええ顔してるだね。」
「……一応、観音様のつもりだったんじゃがな。」
「何言っているぅ?おめ、オレが田舎もんだからって、馬鹿にしてるだか?これ、マリア様だ。観音さまでねっ(観音様ではない)。」
円空は知らないことではあるのだが、いわゆる隠れキリシタンの場合、秀吉以来のキリシタン弾圧の歴史の為、その信仰形態は本来のキリスト教とは異なるものと化してしまっている。また、家光治世以来の鎖国政策も、そうした傾向に拍車をかけていた。
多くは、元々あった土着的な信仰と融合。また、祖先崇拝や仏教的な世界観などもとも融合していた。
ことに、観音信仰などは、その「慈悲」にすがる土着信仰ともあいまって、地域によっては観音菩薩と聖母マリアが同一化してしまったところもある。
おせんもまたそうした地域の信仰を受け継いだ者なのかもしれない。
「まぁ、よい……ぬしが大事にしてくれるなら、観音様も人間違いのことくらい大目に見てくれるじゃろうよ。そんなにケチくさいお方でもあるまい。」
「なんじゃ、坊主、それ、オラにくれるのけ?」
「おお、一宿一飯の恩義というやつじゃ。わしにはこれくらいしか出来はせん。」
「恩にきるべ……坊様、おめ、いいやつじゃな。」
「坊主から坊様か。わしも出世したな。これも観音様のおかげかの。」
苦笑交じりに言う円空に対し、おせんは
「観音様じゃねぇ。マリア様だ。」
と反論。
「そうじゃったな。」
これには円空も大笑い。
「ほれ、大事にせい。」
彫り上げた観音像、おせん言うところのマリア像を無造作に渡す。
「なんだぁ~、もうちょっと大事に扱え、くそ坊主。」
「何じゃ、また坊主に格下げか。」
その分りやすいおせんの悪態に、円空、破顔一笑。
「坊主、オレ、これ大事にするど……いい顔だぁ……おが(母親)もこんな顔だったべかな?」
おせんの言葉は、円空の胸をちくりと刺す。
おせんの母親は、彼女を産んで間もなく産後のひだちが悪かったせいか亡くなったという。だから、おせんは母親の顔を知らない。
一方、円空は十九歳の折に母親を水害でなくしていた。
(わしは、まだ幸せな方なのかもしれんな……。)
そこで、ふと思う。
いや、以前から思っていたことでもあるのだが、円空の彫る仏が皆一様に微笑んでいるのは、彼が無意識にそこに母親の笑顔を求めていたからではないかと。そして、だからこそ、円空はおせんの笑顔に好感を抱いているのだろう。
彼女の笑みは、亡くなった母親を思い出させるのだ。
(全く、こんな小娘にのう……。)
円空は、苦笑しつつ自らの頭をはたく。長く旅を続けてきたその頭は、僧侶というにはいささか伸びすぎた頭髪に覆われている。以前に剃髪したのは、果たしていつの頃だったか。
「どうした、坊主、頭かゆいのけ?」
心配しているのか、それとも単に気になっただけなのか、おせんが尋ねる。
「いや、何でも……。もう、寝ようかの。」
「そうか。」
おせんは、うなずき
「寝るか。」
そうして、奥に畳まれた布団と言うにはあまりにも雑な布のひとかたまりを、円空に投げ与えた。
「寝るべ。」
果たして、横になってどれくらいの時が経ったか。
囲炉裏の火はとうに落ち、小屋の中は闇とともに山中の冷気に包まれていた。
長らく旅を続け、夜の寒さにも慣れた筈の円空にもいささか堪える寒さであった。
その寒い闇の中、円空は板の張られた小屋の床のすれる音と人の気配を感じ取っていた。
(おせんか?)
そう思っていると、ふわりと人肌のぬくもりが彼の顔を包み込む。
「な、なんじゃ。」
慌てて飛び起きると、暗がりの中、微かにおせんの肢体が見える。
「ぬし、何をしておるのじゃ。」
「何って……。寒いべ?」
悪びれることなくおせんが答える。
「寒いのは分っておるわ。ここは津軽じゃ。最果てよ。ましてや山中じゃ。ぬしが何をしておるのかと、わしは聞いておるのじゃ。」
「寒いから一緒に寝るべ。もう、薪もねえべしな。」
そうして、また円空を虜にするがごとくにこりと笑うのが、暗闇の中でも微かに見える。
「ぬう……。」
ここで円空は考える。
(こやつと一緒におると、色々考えるわしの方が阿呆のようだわい……。)
円空は、ふて腐れたようにおせんに背を向けると、ごろりと再び横になる。
「一緒に寝たいのなら寝たいで、好きにせい。」
その態度は、多少は強がりもこもっていたのかもしれないが……。
「わかったべ、好きにするべ。」
おせんには、悪びれた様子はない。
「坊主も、服脱げばもっと暖めあえるのにな……。」
(そのようなこと出来るかい!!)
心中悪態をつきながらも、じわりじわりと寄ってくるおせんの肌の温もりは円空の中の忘れかけていた熱いものを思い出させる。
「まぁいいべ。こうしていれば、オレもちっとはあったけえ。」
そうして、おせんの暖かい息が円空の耳から首筋にかけて吹き抜ける。
「ええい、勝手にせい!」
ここまで来ると、もはや強がりである。
「勝手にするべ。」
おせんは、というと全く悪びれることなく、さらに身を寄せる。
円空が、その身のうちにあるオスの種火を抑え込んでいる中、おせんはふと呟く。
「坊主は、オレを抱かねえべな。やっぱ、村の衆とは違うべや。」
その声が、円空の意識を再び呼び戻す。
「何じゃと。」
「村の男衆は、オレをよく抱くべ。その代わりに味噌だの米だのくれるだよ。たまにえらくへたくそなのが来るが、まぁ大概わらし(童)みたいなやつべな。」
暗闇の中、円空はまじまじとおせんの顔を見る。
その表情には悪びれた様子など、微塵もない。
「ぬし……男衆に身を売って、米だの何だのもらっていたか。」
「いつもじゃねえべ。何もしなくても、くれるモンもいたな。」
(何ともはや……まこと、人の情けとはまことややこしいことよ……。)
しかし、こうした村の男衆とおせんとの関係性こそが、彼女が隠れ切支丹でありながら、この地において生を長らえている秘密なのだろう。おせんの言うわらし(童)とは、恐らくは初めての女としても、村では重宝しているということを指してもいるのだろう。おせんが、果たしていつからそのような暮らしを営んでいるのかは分らないが、多分父親が亡くなってからのことことではないか。
「ぬし、いつからこのようなことをしておる?いや、父親はいつからおらんのか?」
「おどは、そうだな……六年ばかり前かな。」
となると、いまの見た目すれば、十代半ばにはこうした暮らしを始めていたことになる。
ここに至るまでの暮らしは、おせんにとっていかなるものだったのか?円空がそのようなことに思いを馳せていると、まるでその円空の思考を読み取ったかのように、おせんは話を始める。これまでのこと……。
「おどが死んでから村の男衆が、やたらここに来るようになったじゃ。ちょっといやな時もあったけど、でもみんな色々言っても優しいべ。ちょっと、荒っぽい奴もいるけどな。」
「荒っぽいとは……何か、乱暴されたのか?」
「うんにゃ、下手くそだっぺ。」
これには、円空の方が顔を赤くする。
「わらし(童)みたいなやつならまだええだが、たまにええ歳こいたようなのでも、下手なのがおるべ。」
「知らんわ!」
しかし、この娘、人の悪意には無頓着なのか?円空は自問する。皆が皆、親切でいい人などということもあるまい。いや、最終的に優しいとは言っても、行為に及んでいる以上、そこには間違いなく「下心」はあったはずだ。
「でも、オレ、一度だけ、この山から出て行こうと思ったんだ。」
「ほう……。」
「この山越えたなら、海が見えるんだって、おどが言っていた。だから、オレもこの山越えようと思ったんだ。思ったんだども……。」
「思ったが、どうした?」
「山の上さ、行ったら、周りはどこも真っ白だで……海なんか見えね。怖くなって、また降りただよ。オレ、やっぱり、ここにいるしかねえのかなって。」
真っ白とは、霧に包まれていたのか、それとも冬の出来事だったからなのか。
「雪じゃねぇ……あったかい時だったからな。」
とすると、霧か?実際には、この山をこれから越えようとする円空にとっては、想像するしかない光景だった。
「だども、坊主、坊主はいろんなところ行っただか?」
「おお、生まれたところは美濃じゃがな。」
「美濃……どこだ?」
「ここからずっと南、そうじゃな。この山のようなところを、いくつもいくつも越えたところにある。」
「山をいくつも越えるのか?」
おせんは、心底感心しているようだった。
「坊主、おめ、すげえなぁ……。」
「凄くはありゃせん。ひとところに落ち着くことが出来んだけじゃ。それに、願掛けしていることもあるでな。」
「願掛け?何だ、そりゃ……。」
「十二万……十二万体の仏を彫ることよ。」
「十二万、十二万って、いっぱいってことか?」
「まぁ、そういうことじゃ。」
そうおせんに語りながらも、それを成し遂げることが出来るかという点に関しては、円空自身が疑わしく思っている。いや、近頃は特に不安の方が先にあるというべきか。
「大丈夫だあよ。」
すると、おせんがまたもや円空の心中を見透かしたように、優しく言葉を紡ぎ出す。
「大丈夫だあよ……坊主は凄いやつだから、きっと出来るだあよ。」
「そうかの?」
「そうだあよ。オレみたいなやつにまで、マリア様彫ってくれるだから……。オレみたいなやつにも、いっぱい彫ってたらすぐ出来るだよ。」
「それでも、すぐに出来はせんわい。」
「大丈夫だあよ。」
おせんと円空の距離が、さらに縮まる。いや、おせんが円空を引き寄せたと言うべきか。
「大丈夫だあよ……。」
いつしか、円空の頭はおせんの腕の中に。
「坊主なら、大丈夫だあよ……。」
円空もまた抗うことはやめ、されるがままに。ただ、繰り返されるおせんの言葉とその腕が生み出す安らぎに身を委ね始めていた。
そうして、その柔らかで懐かしい感触と匂いに包まれて、円空は眠りの中に落ちていった。
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