第622話 第2章 3-2 月の湖

 「いまですか?」

 「そうよ」


 仕方もなく、急いで支度をする。元より荷物はほとんど無く、既に召使が旅装や装備を用意していた。ガラネルから密かに指示があったのだろう。すぐに用意が調う。 


 けっきょく、ガリアの猫は街と城を縦横無尽に探索したが、結論は「逃げられそうもない」だった。逃げても、この森の中を彷徨さまよって生き延びられる自信がなかった。彼のガリアは、そういうガリアではない。


 レストは正直に気落ちしていた。逃げるのなら、最初からラズィンバーグで消えるべきだった。着いてくるんじゃなかった。判断が甘かった。


 ガラネルはそれを知ってか知らずか、笑顔を絶やさずに、

 「ようやく行けるわよ、月の湖に」

 「そこで、何をするんです? リネットはそのために連れてきたのでしょう?」

 レストは自棄やけになって、ガラネルの秘儀を問いただす。


 「ま、そういうことね。リネットの体調が良かろうと悪かろうと、関係ないのよ」

 レストが一瞬、絶句する。ということは、リネットはつまり……。

 「恐ろしい人ですね、貴女は。今更ですけど」

 「ほんと、今更ね」


 ガラネルの愉快愉快という転がるような笑い声に、レストは凍りついた笑顔を返すのみだった。


 そのリネットの部屋へ向かうと、珍しくリネットは起きていた。既に、旅立ちの準備は終わっていて、静かに窓の近くのテーブルについて二人を待っていた。


 「あら、めずらしいこと」

 「やあ、いよいよだね」


 リネットが穏やかだが決意を秘めた表情を見せる。ガラネルが不敵な笑みのまま、無言で手招きすると、すうっとリネットが立って歩き出した。


 そのまま、三人は王城を後にした。



 ハーンウルム旧王都カーノンより、その「月の湖」までは専用の樹踏竜じゅとうりゅうで五日だった。道は整備されておらず、秘密のルートを通って山間を文字どおり踏破してゆく。標高の高い秘境の中の秘境で、古来より王族とその直属召使、そして一部の聖職者以外は立ち入りを厳重に禁止されていた。いまでも禁を破った者は死罪なので、ハーンウルムにとってどれだけ聖なる場所なのか伺い知れよう。


 樹踏竜は脚が太くて長く、大きな背中まで専用の梯子を使って上る。もしくはやぐらの前へ立たせて櫓より移る。長い首はさらに高いところから遠くを見渡すことができる。尾も太くて長く、重心をとる。鞍というより輿が設えてあり、竜の上で数人が寝ることすら可能だ。


 昼前、五頭の樹踏竜がカーノンを出発した。いっさいの世話係と、儀式を司る紫竜教団の司祭もいる。


 道中、世話係が食事からテントの設営から何もかもやるので、レストもリネットもすることがない。五日間はこれまでで最も楽な旅となった。


 じわじわと山脈を登って、眼下のカーノンも山間に隠れて見えなくなる。天気が良く、何日も晴天が緑に切り取られて美しい景色が続いた。


 と、やがて、樹海の中へぽっかりと巨大な三日月湖が現れる。

 「月の湖」だ。

 水は恐ろしいほどに澄んでおり、遠目にも湖底が空気のように透けて見えた。

 峠めいた丘陵から湖を見下ろし、竜はゆるゆると斜面を下って湖へ接近する。


 下りきったところで日が暮れたので最後の野営をし、翌朝の日の出前より出発して、日が昇りきったころに到着した。


 霧が出ており、大きく弧を描く湖面は波一つなく、薄気味悪いほどに白濁の景色を映していた。


 到着した場所には、神殿があった。


 白大理石で造られた美しい墳墓めいた神殿で、ハーンウルムの紫竜神話の時代からあるが、何度か建て替えられているという。いまのこの白亜の神殿は、ガラネルの二代前のダールの時代に建てられて、およそ三百八十年経っている。が、とてもそのようには見えず、新築のように朝日へ光っていた。


 神殿に入ると、神官やお付きの者は素早く神殿内のどこかへ行ってしまい、三人は忽然と孤独になった。また、常駐している者がいるらしく、三人を高位らしい一人の神官が出迎える。高齢で、その立派な正絹の法衣には紫竜の印が刺繍されていた。


 「ようこそ、ハーンウルムの深き月、『死の再生』ガラネル様」

 「ストラは? 元気なの?」

 「はい、それはもう」


 ガラネルが歩き出し、その神官が続く。仕方なくレストも続くが、リネットはまぶしそうな表情で、明り取りの窓より陽光のさしこむ白亜の高天井を見上げていた。


 「リネットさん?」

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