第392話 蝸牛の舌 6-1 ベルケーラ

 役場の職員が、近くに宿舎を与えられたドレイソの元へ行った。


 正式に役場に……つまりダブリー直属に雇われ、村の衛視隊長となったドレイソが、帯剣したまま部屋へ現れた。


 「トラッパ、説明してやってくれ」

 「は、はい」

 一通り説明され、ドレイソも不敵な笑みを浮かべた。

 「思ったより早く、しかも向こうから仕掛けてきてくれましたね」


 「焦ってるんだろうさ。なにせ、一人消えたからな。おまえのおかげだぞ、ドレイソ。訓練のほうは、どうだ?」


 「まだ、さすがに……」

 「いそげ。酒飲みからやってしまえ」 

 ストゥーリア式に右手を肘で曲げて掌を相手へ見せる敬礼をし、ドレイソは出て行った。

 不安げに、トラッパがドレイソの出て行ったドアとダブリーを見比べる。


 「心配いらん。リデルとも話をつけてある」

 リデルとは、パウゲンの夜明け亭の亭主だった。

 「そ、そうなんですか……」

 「息子が戻ってきてよかったな。偶然にしても」

 ダブリーが笑顔でトラッパの肩を叩いた。

 目が笑っていない。



 6


 ラカッサがダブリーに呼ばれたのは、その二日後のことだった。その日はパウゲン連山より厚い雲が張り出してきて、いまにも一雨きそうだった。ラカッサは充分に用心して、ベルケーラへ、自分が帰ってくるまで部屋から一歩も出るなと念を押すと、雨具を用意し、役場へ向かった。


 しかし、ベルケーラはパウゲンの夜明け亭を出た。


 出て、村の隅にある隠れ家の一つへ向かった。ここは、ラカッサとベルケーラが懇意にしている取り巻きの若者が、一人で住んでいる小屋だ。若者はかつて牧場をやっていた家の息子で、父親の借財で牧場を手放し、いまは人手に渡った同じ牧場で下働きをしているという境遇だった。ラカッサの好みに合ったために、ここ半年は、夢のような生活をしていた。しかし、その境遇に恐ろしくなって、ラカッサたちの許しを得て、牧場へ戻ったのである。


 その律義さも、ラカッサの気に入っていたところであった。

 若者の名を、クレールという。歳は十八歳だった。


 ふだん、誰も訪れない小さな納屋へ来客があったので、早朝の一仕事を終えてちょうど帰宅していたクレールは不審げに納屋の扉を開けた。


 そして驚いた。

 「ベルケーラさん!」

 「よお、元気にしていたかい?」

 「どうして、また……?」

 クレールは、ラカッサに呼ばれたのだと思った。

 「すみません、今日はちょっと無理です」

 「ちがうんだ。入っても?」

 「え、ええ……どうぞ」


 暗く埃っぽい、家畜小屋よりはましだろうという程度の建物へ、ベルケーラは気兼ねなく入った。


 テーブルには、薄いエンドウ豆のスープと黒パンがあった。

 ベルケーラはストゥーリアの貧相な食事を思い出し、泣けてきた。

 「ひさしぶりに、いいもん食いなよ。ほら」


 宿より持ってきた、上等の白パンと、村人でも一部の者しか口にできない、サラティスへ卸す最高級生ハムをテーブルへ出す。ハムは半塊だ。高級ではないがサラティスワインも一瓶、持ってきていた。


 「いいんですか?」

 「いいに決まってるだろ。さ、食いな。若いのがそんな食事じゃ……」

 「僕は、いいんですよ。村に置いてもらえるだけでも」

 「ま、おまえらしいね」


 クレールは、ベルケーラが素面しらふなのに少なからず違和感を覚えた。自分の記憶では、ほとんど酔っている姿しか見たことがない。


 「今日は、どうしたんですか?」

 「いやっ……なあに、お前の顔が見たくなってさ」

 そんなわけがない、とクレールは思った。

 「ラカッサさんと、何かあったんですか?」

 「そうじゃない。そうじゃないよ」

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