第391話 蝸牛の舌 5-2 ダブリーの力

 実はそのラッパートが、村で二番目に大きな温泉宿「竜の息吹」亭の跡取り息子なのである。


 とうぜん、「パウゲンの夜明け」亭と「竜の息吹」亭はライバル関係にある。竜の息吹では、自分のところの跡取りがライバル宿の最上等室に入り浸って帰ってこないのは面白くないし、パウゲンの夜明けにしてみれば、ライバル宿の跡取りが金も払わず贅沢三昧で囲われているのは腹に据えかねている。


 「ラッパートをどうするんだい?」


 窓際より立ち上がって、隣の部屋のラカッサのところまで歩いたベルケーラだったが、足元がおぼつかない。


 「ちょいと、酒を控えておくれよ。ガリアで、あのストゥーリアの衛視あがりの居所を細かく予知するんだ。襲われる可能性もあるよ」


 「竜じゃないんだから、そんなに細かくは無理だよ……」


 音を立てて、ベルケーラは席に着いた。高級卓に水差しとカップがあったので、荒々しくこぼしながら水を注ぐと、一気に飲んだ。


 「ばか、あたしじゃない、お前さんが襲われたら、そんなお盆のガリアじゃ、どうしようもないだろ。どうやったかは知らないけど、ニアムを倒したようなんだから……」


 「お盆とは失礼だねえ。これは、竜の出現を予知する、聖なる鏡さ」

 「なんでもいいよ」


 二人も、その日は遅くまで細かく談合し、夜半に奥の部屋で寝ていたラッパートを呼びつけた。



 翌日の昼頃に、ラッパートがフラリと竜の息吹亭へ帰ってきたので、女将である四十あがりの母親が驚いて息子を迎え、奥へ引っ張っていった。帳簿をつけていた父親のところへ、襟首をつかんで、その前の椅子へ座らせる。


 「何の用だ」


 似たような細面で口ひげを蓄えた父親のトラッパが、顔も上げず、ぶっきらぼうに云った。若いころは同じように浮名を流したトラッパであったが、四十を中ほどに迎え、高級旅館のきりもみで疲れつくしている。高級旅館とはいえ、バソ村ではそもそもの規模もたかが知れているし、とても、大旦那という趣ではない。


 「おやじ……この宿を村一番にしてみないかい?」

 「なに云ってる」


 「ラカッサさんが、パウゲンの経営権と温泉の権利を奪っちまう。おれにくれるとよ。そうしたら、おれがおやじにくれてやるよ」


 「寝言は寝て云え」

 「ラカッサさんたちが、ついにダブリーをやっちまうとしても?」

 「なんだと……!?」

 トラッパが顔を上げた。母親のルンナが、震えながら両手で口を押えた。

 「あいつらに何を吹きこまれたんだ……!? おまえ……」


 トラッパが室内であるにもかかわらず声を潜め、恐ろしい顔で息子の耳元へ口を近づける。


 「ダブリーを甘く見るな! あいつは、とんでもないやつだ。この村の支配者は誰だと思ってる!? 裏も、表もだ! ガリア遣いより恐ろしいのだぞ……。命が惜しかったら、今すぐあのガリア遣いどもと手を切るんだ!」


 これまで散々同じようなことを聴かされたラッパートだったが、こんな口調と切実さ、必死さは初めてだったので面食らった。


 「あ、ああ……」


 「戻ってきたのは幸いだ。悪いが、ラッパート、またパウゲン亭に戻るというのなら、いますぐおれはお前を殺す!」


 その迫力に、ラッパートは何も云えなくなった。

 ルンナが泣き出した。しかし、夫を止めなかった。

 「この宿と、奉公人と、お前の姉や弟、妹たちのためだ……」

 そう云いながら、トラッパはぼろぼろと大粒の涙をこぼし、男泣きに泣いた。

 ラッパートは、ブルブルと震えだした。事の重大さを、肌で感じたようだ。


 こうして、ラカッサたちの竜の息吹亭を抱きこむという目論見は、初手から崩れてしまった。


 ダブリーを……ダブリーの影響力を、甘く観ていたのである。


 裏切りによるラカッサの報復を恐れ、ラッパートは実家に軟禁されているということになった。


 トラッパより報告を受けたダブリーが、満足げにトラッパを褒めそやした。

 「よしよし、悪いようにはしない。まかせておけ……」

 そのまま、高級なストゥーリア白ワインを開けた。ゴブレットへ注ぎ、一気にのむ。


 「いい機会だ。あのガリア遣いどもを、ついに追い落としてやるぞ。これまでの代金は、しかたもない、あいつらの命で払ってもらうとしよう」


 笑顔のまま、事もなげにダブリーがそう云ったので、トラッパは青ざめて小刻みに震えた。


 「ドレイソを呼べ」

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