第374話 第3章 5-3 ホルポスの和音

 だがそれは、本当にあり得ない。あり得ないはずだった。パオン=ミはさすがに気がついた。これは幻覚だ!


 「カンナ、カンナ!」


 叫び、ダールとバスクスの間へ割って入る。それがどれほど危険な行為なのかをわきまえたうえで。


 「見るでない、感じるでないぞ、あれは……」

 「うるっさい!」


 ホルポスがハープをかき鳴らす。けして乱暴な弾き方ではないが、激しい連続したアルペッジョだった。とたん、パオン=ミの脳天に圧がかかって、言語を絶する暗示が作用した。それ以前に、スーリーが支配される。あのガリアは竜を操り、人の脳と感覚を手玉に取る。


 「下がってなさい!」


 パオン=ミには、周囲がトローメラ山の雪景色を眼下に見る上空ではなく、故郷であるディスケル=スタルはカンチュルク藩王国クイン地方の風景が見えた。周囲を同じく騎竜で飛んでいるのは、兄や、父、そして郎党のものたちだ。


 「そんな……バカな……」


 幻覚であると心が分かっているが、脳が完全にその情景を、その空気の匂いを、その初夏の気温を、信じてしまっていた。


 「もう充分だ、今日はもう上がろう」

 兄の声がクイン方言のカンチュルク語で聞こえる。

 「先に帰っていろ」

 父の声。

 「わかりました」

 自分の返事。

 「いかん、いかん、いかん!」

 わかっているのに、身体はスーリーを駆って急降下を始めている。

 「カンナよ、そやつと戦ってはいかん!!」

 叫ぶも、それは心の叫びであって、声にはなっていない。


 白皇竜は巨大な白蛇めいた、全長一千キュルトもの長い胴体を雲間にくゆらせ、堂々とその白銀の鱗を冬の淡い陽光へ反射させていた。その光の粒が、そのまま空気中の水蒸気が氷結した結晶となって大量に降り注ぐ。にわかに気温が下がり、まるで北極圏のごとき冷気がはるか上空より吹きおりてきた。


 ホルポスの演奏は続く。ゆったりと上下に動く、民謡のような、揺籃歌ようらんかのような懐古感を聴く者へ抱かせる完全五度の旋律は、現実と見まごうばかりの幻像を相手へ見せる。その幻像は、距離すら選ばない。このトローメラの山麓より、はるか北方のトロンバーに集結したフルトの軍団すべてに幻像を見せるほどの、圧倒的な迫力と存在感をもっている。それがこの直近でカンナへ迫った。まともに相手をすれば、その凶悪的暗示で、自らが受けた傷を脳が現実と信じこみ、じっさいに肉体がその通りに損傷して、死ぬ。トロンバーのフルト達のように。


 しかしカンナ、全身より電光を発し、重低音がホルポスのガリアの音を打ち消すほどに響き渡る。ガリアの効果は、ガリアで対消滅する。白皇竜の姿が、ときおり崩れ、ぼやけ始める。


 ホルポスは信じられなかった。このガリアを圧倒するガリアがあろうとは。どんなガリア遣いでも、たいていは竜や人を殺す直接的な力を持っている。そういうガリア遣いにほど、この音楽のガリアは効果を発揮した。彼女たちは、ガリアというものは物理的な効果ほど「強い」と信じており、自分達を補佐するような「弱い」ガリアを心のどこかで見下している。そこへつけこむ。


 これは、云うなれば、対ガリア遣いのガリアだった。

 それが、カンナへ通じないというのだろうか!?


 牙を剥いて眼をつり上げ、むきになってホルポスがさらにガリアの力を開放する。バキッ、と空気が凍った。その美しい黒髪が、根本より白く変色してゆく。


 心のどこかでは背後を気にしつつ、凶悪的な暗示によりスーリーを故郷の草原へ下ろそうとゆっくり下降しているパオン=ミは、しかし、にわかに現実へ引き戻された。草原は一瞬で雪原に変わり、初夏の陽気は真冬の冷気に変わる。さらに、耳を侵食するカンナの圧倒的な共鳴音とホルポスの苦しげな旋律。


 さらに、下方より叫び声が聞こえて、何事かと思ったら、毛長飛竜へ乗ったバグルスが、泣きっ面で接近してきた。


 思わずガリア「火炎かえん華符かふ」を出して身構えたが、様子が違う。

 「お助け……お助けを……!」

 「何奴!!」


 パオン=ミの誰何すいかに、ボルトニヤンは敵意のないことを示すため両手を上げ、竜の背で深く額を竜の毛へ埋めた。


 スーリーと毛長竜が空中で羽ばたきながら止まった。

 「名乗るがよい!」

 そう云うパオン=ミは、まだ呪符を右手の指へ挟んだままだ。

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