第246話 初恋

「遅い・・・」

 ぐるぐると空腹を訴える腹を押さえ、机に突っ伏したまま、テレビ画面の端に映る時計を恨みがましく睨んだ。時間はもう間もなく今日の寿命を全うし、明日の誕生を祝おうとしている。ただ、世界は祝うどころか大波乱が起きていたようだが。

 今もテレビではニュース特報が流され続けている。朝からずっとだ。どこかの大臣以下、議員数名が汚職で捕まったとか、大企業の社長と暴力団と警察の癒着が発覚してその議員連中とも繋がっていたとか、今日一日だけで表裏の著名人たちが数十名社会的信頼と未来を失う羽目になっていた。マスコミも大混乱だ。スクープが連発しすぎて飽和状態で、どこかの動物園でパンダが生まれたとか、どうでもいいようなホンワカしたニュースの方がレア度が高い。そのマスコミも、今回捕まった連中の圧力で真実を握りつぶし、嘘の報道を行っていたことが判明して世間から大いに叩かれている。トップが総辞職し、命令系統は大混乱。せめて自分たちの不祥事はマイルドに報道しようと画策するも、結局他の局で大々的に報道され、報復に他の局の恥部を暴露する暴露合戦の様相を呈している。

 政治、経済、情報に顔の聞く家系の同級生が皮肉げに笑っていた。「綺麗に掃除されて、いっそ良かった」と。僕もそう思う。一度痛い目を見ないと、人間は自分の愚かさに気づかないものだから。とはいえ、僕は出来るなら痛い目には遭いたくない。また、上から目線で言えるほど偉い人間ではない事も自覚はしている。

 しかし、遅い。ここまで遅いのに、連絡一つ寄越さないのはおかし・・・くもないか。姉は研究に没頭すると時間の概念を失う。一週間泊まり込むこともざらだ。寝食を忘れ、エネルギーが尽きるまでのめり込む。エネルギー問題に取り組んでいるくせに、自分のエネルギーに無頓着なのはどういうわけか。

「でも、今日は早めに帰ってくるって言ってたのに」

 研究のために化粧も風呂も忘れる人だが、約束は忘れたことがないのだ。そんな人が、連絡も寄越さずにいることが不思議でならない。

 もちろん、姉には姉の交友関係がある。付き合いも大事だろう。その辺は理解しているつもりだ。つもりではあるが、もし万が一、結婚相手などを連れてこられようものなら、僕は平静を保てるだろうか?

 いや、わかっている。わかっていはいるんだ。今は研究一筋の姉とて、いずれ愛する人と巡り合う。結婚し、子どもを授かる。古来より続く人間の営みをなぞる。だが、幼い頃に両親をなくし、寄り添って生きてきた僕は、友人たちに指摘されている通り、多少シスコンの気があるのもまた、理解している。両親の離婚で離れ離れになって、両親の葬儀の時に再び出会うなんていう二時間ドラマみたいな出会い方も、良い具合に調味料になっているかもしれない。

 僕が姉の結婚相手に望むこと、その二十項目めを考えていた時、チャイムが鳴った。研究の底なし沼から這い上がり、帰路につけた様だ。苦笑しながら、玄関まで迎えに行く。研究から現実に戻った姉は、おそらく腹を空かし、ドアの鍵を探すのも開けるのも億劫なのだろう。

「はいはい、今行くよ」

 立ち上がり玄関へ急ぐ。

「おかえり、遅かっ・・・た・・・」

 息が、止まった。

 ドアを開けた僕の目の前にいたのは、姉じゃなかった。ぞわりと総毛立つ感覚。未知に対する畏れの様な感情が沸き上がっていた。多分誰だって恐れ多いと感じ、平伏してしまうのではないだろうか。『彼女』を一目見れば、共感してもらえると思う。

 ドアを通って現れたのは女性だった。それも、これまで僕が見た中でもとびきりの。

 濡れ羽色の髪、スッと通った鼻筋、細めの眉は柔らかな曲線を描き、吊り目がちのくりくりっとした瞳は興味深そうにこちらを覗き込んでいる。

「こんばんは」

 その人が僕を見て微笑んだ。柔らかそうな、ぷっくらした唇が笑みの形を作った。それだけで、血圧が上がる。

「こ、こん、こんばんは」

 つっかえつっかえだったが、何とか挨拶を返せた。それで精一杯だ。

「あなたが弟の、須佐野、尊君、よね」

「は、はい!」

 返事が裏返ってしまった。かっこ悪い。別の意味で顔が赤くなる。変に思われていないだろうかと彼女の顔を伺うと、微笑ましいものをみるような慈愛に満ちた目で見ていて、余計に居た堪れなくなって来た。でも、これは仕方ないと思う。女神のごとき女性に名前を知られ、その口でその名を紡いで頂いたのだ。感動も緊張もする。

「ごめんなさい。実は、お姉さんなんだけど」

 女性が自分の右肩を突き出すように動かす。そこでようやく、彼女が姉に肩を貸していた事に気づく。姉は彼女に担がれながら、静かな寝息を立てていた。それまで本当に気づかなかったんだ。シスコンの称号は返上しようと思う。

「今日食事を一緒に取ってたんだけれど、間違えて私のお酒を飲んじゃって、潰れちゃったの。悪いんだけど、すぐにお布団用意してもらえるかしら?」

「はい、喜んで!」

 すぐさま姉の部屋に急行する。彼女の命令に否やはない。一緒に夕飯を食べるはずだったのに食事をしていた、なんていう説明の矛盾など気にもならない。

 お邪魔します、と美しい音色が追いかけてきた。もう一度その空気の振動を浴びたいが為に加速。四十秒以内に支度を済ませ、彼女の元へととって返す。

「用意出来ました! あの、僕が姉を抱えます」

「大丈夫?」

「大丈夫です! いつまでも女性に力仕事をさせるわけにはいきませんから!」

 姉を彼女から受け取る。気を付けてね、という気遣いが胸に沁み、姉の全体重が乗って肩が軋む。え、嘘でしょ。涼しい顔してたのに。

「本当に、大丈夫?」

 手伝いましょうか、と心配してくれる彼女に「大丈夫大丈夫」と余裕を見せ、見えない奥歯は噛みしめながら、一歩一歩姉の部屋に移動して、何とかベッドに寝かせる事が出来た。

「その、姉を送って頂き、ありがとうございます」

 改めてお礼を述べる。

「いえいえ。もともとは私のお酒のせいだから」

 私はこれで、と彼女が踵を返す。まずい。このままだとこれでお別れになってしまう。彼女を一秒でも長く留めるために言葉を探すが、残念ながらプレイボーイで鳴らした事がない僕に、そんなお洒落な言葉が浮かんでくるわけなかった。

 せめて名前だけでも教えてもらわなければ。名前さえ分かれば、後で姉に確認してもらえる。あわよくば紹介してもらえる。名前さえ分かれば何とかなるなんて考え、一歩間違えたらストーカーだが、今の僕にそんな冷静な思考能力は存在しない。恋する人間は、無敵だ。

「あ、あの!」

 勇気を振り絞って彼女の背中に声をかける。彼女の艶やかな髪が翻る。

「お、お名前は・・・」

「名前? 私の?」

「いやっ、そのっ、後で姉からもお礼を伝えたいと思うし、その時誰が送ってくれたのかわからないと困るかな、って」

 たどたどしく尋ねる。もっとスムーズにいえないものかと歯噛みする。それでも彼女は大人の余裕か、優しく受け入れてくれた。

「私の名前は・・・」

 彼女の顔が近づく。耳元でそっと囁かれる。美しい名前を。音の響きと声色が快楽中枢を刺激して体が震える。名前までも完璧だった。彼女のためにあるような名前だ。

 ぼうっとしていると、彼女はじゃあねと再び玄関から外へと出ていった。ドアの閉まる音で我に返った。慌てて後を追い、ドアをあけ、道路に飛び出す。左右を見渡し姿を追い求めるも、彼女の姿はどこにもなかった。

「まあ、名前も分かったし」

 焦る事はない。まだチャンスはあるはずだ。きっとまた、会える。


 思いに反し、彼女とはそれ以降会う事が叶わなかった。翌朝に起きた、初めての二日酔いを味わっている姉に尋ねても彼女に心当たりはないらしく、無理を言って大学や研究所の名簿を当たってもらっても、それらしき人物は存在しなかった。

 夢か幻だったのか。だが、その言葉のはかなさとは裏腹に、彼女は強烈なインパクトを僕に与え、網膜に焼きついて一生消える事はなかった。別の女性と出会い、その人を愛し、結婚し、子どもが生まれても、色褪せる事なく胸の中にあり続けた。胸の中に仕舞っておく方が賢明だということも学んだ。当時付き合っていた彼女、今の奥さんに何かの拍子に話したところ、嫉妬なのか何なのかよくわからないが激怒され、腕をへし折られたものだから。我が子には、お母さんには逆らうな、と教えている。

 だから今は、ただただ、あの人が幸せでいてくれれば、それで良い。

 でもきっと、あの人はこれまでも、これからも幸せでいるだろう。

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