第245話 レヴィアタンの祝福

「我思う、故に、我在り」

 何もない場所で声が響く。何もないと言う事は、空気すらもないということ。

 無。

 何もない故に、空間という言葉が表現に値するかどうかも怪しい場所。そこに唐突に、声が生まれた。空気もないのに何が振動しているのか。そもそもこれは声なのか。それすらハッキリしない。

「どこかの哲学者が提唱した命題だそうだが、この場所では哲学ではなく、自己を確立させる為に使われる基本理念だ。つまり。自分は存在する、と意識した瞬間から、自分は存在する」

 声は楽しげに語る。姿も見えないのに、人差し指を立て、くるくると回しながら語る人物の影が浮かぶよう。

「意識とは、世界を作り上げる要素にして、全部だ。よく自分の手の届く範囲が自分の世界と言うが、あれは得てして的を得ている。なぜなら、世界を形成しているのはその人の意識だからだ。その人がそこに在ると意識するからこそ、そこに在る。世界はそんな人々の意識が重なり合って生まれているとも言える。・・・まあ、面倒な話は置いて、実践してみようか。あらゆる理論は実践して初めて形となるものだからね。君がここにいると意識すれば、君は存在する」

 目を開く。

「ようこそ。須佐野尊。隙間の世界へ」


 逆さまの女性が、目の前に浮いていた。どういう状況だこれは。何が起こった。そもそも僕は、死んだのではないのか。記憶を喚起すると、死なない理由が見当たらない状況だったはずだ。心臓は矢で貫かれ、体内のエネルギーは爆発した。星を破壊するほどのエネルギーに巻き込まれたのだ。塵すら残っていないはずだ。

「死なない理由はある。一つだけ」

 逆さまの女性がこちらに指を突きつけた。そもそも誰だこいつ。

 見た目は若い女性だ。少し癖のある髪を肩まで伸ばし、少し細い目の下には隈ができていた。それを隠すためではないだろうが、太い黒縁のメガネをかけている。顔色も少し悪い。それだけに、貼り付けたような薄ら笑いが、彼女にマッドサイエンティスト感を与えている。普通にしていれば綺麗のにもったいない、と言われる見本だ。

「その態度は傷つくな。君たちは、私に会うために頑張ってきたんだろう?」

 傷つくなと言いながらも笑みは消えず、むしろ楽しそうに彼女は笑った。会う為にとはどういうことだ。人に会う予定なんてなかった。というよりも、後の予定を立てられるような状況ではなかったし。

「随分と察しが悪くないか? それともワザとかな? 女を焦らすなんて悪い子だ」

 まずい。相手はこちらが自分の事を知っているという前提で話しかけている。これで本当に分からない事を告げると、かなり恥ずかしい思いを彼女はするだろう。僕としてはどうでも良いのだけれど、そんな相手と二人きりというのは気まずい。外れても問題ないが、可能な限り正解するよう努める。ヒントは彼女の言った『私に会うため』と、この状況で僕が会う可能性のある人物だ。頭にまず思い浮かんだのは、僕を移動させた、神を名乗る彼女。時間も空間も超越した彼女であるなら、どこで会ってもおかしくない。だが、彼女でないのも確かだ。彼女なら、今初めて会ったような言葉を用いない。

 では一体誰か。急ぎ答えを出さないと。目の前で次第に顔を赤く染めはじめ、ニヤニヤ笑いが引っ込んで汗を流して焦りだした彼女が羞恥で耐えられなくなってしまう前に。

「あ」

 閃きが降りてきた。僕の声に、彼女も目を輝かせた。そうか、神以外で僕に会えるとしたら、悪魔しかいない。忘れがちだが、そもそも僕と化け者共は、何で争っていたか。

「レヴィアタン」

 どうやら正解だったようだ。彼女の顔がぱぁっと輝く。

「正解。やっぱり焦らしてたんだな。まったく。もしかして知らない、気づいてないんじゃないかと思って焦ったよ」

 気づいてなかった事は飲み込んでおこう。

「さて、君は今、どうして自分がここにいるのか理解していない、ということかな?」

 その通りなので頷く。

「それは仕方のない事なのかも知れない。君は私の欠片を争奪するゲームの途中参加者だからね。これまで出会った他の欠片保持者たちが言っていなかったかな? 欠片を全て集めると、私の祝福が得られる、とか」

 確かに言っていたような気もする。

「おめでとう。君は、私の欠片を全て集めた。よって、祝福を与えられる権利を得たのだ」

 祝福、ねえ。何だか、胡散臭い。懐疑的な目を向けていたら、レヴィアタンが焦ったように言葉を取り繕い始めた。

「信じてないな? いいか、見た目はこんなチャーミングなレディだが、私は凄いんだぞ。証拠に、ホラ!」

 彼女が指を鳴らすと、カメラのフラッシュのような閃光がはじけた。あまりのまばゆさに目を逸らす。視力が戻ってくると、目の前に横たわるクシナダが浮いていた。

「どうだ。死んだ筈の君たちを元に戻す事も、わけない」

 手を伸ばし、彼女を抱き寄せる。胸に傷は無く、ゆっくりと呼吸に合わせて上下している。生きている。彼女は生きている。

「まあ、正確には君も彼女も死んではいなかったわけで、死ぬ直前だったという状態だったというか・・・ねえ、聞いてる?」

 おっと、彼女が生きていた事に驚きすぎて、レヴィアタンの話を蔑ろにしてしまった。少し拗ね顔のレヴィアタンに顔を向ける。咳払いし、レヴィアタンは話を続けた。

「私の凄さが、分かって頂けたと思う。そんな私が与える祝福とは何か。それはね。チャンスだよ」

「チャンス?」

 そう。レヴィアタンは頷いた。

「誰しもが考えた事はないだろうか。あの時に戻れたら、やり直せたらと。私の祝福は、それを可能にする」

 チャンス、やり直し。それの意味するところとは、まさか。

「一度だけ、その者にやり直しを行うチャンスを与える事。君が最も後悔している事を、無かった事に出来る」

 世界が回る。景色が巡る。

 クシナダを抱えたまま、僕はどこかのビルの屋上にいた。ゆっくりと視線を巡らせると、捨てたはずの世界が広がっていた。遠くに見える電光掲示板に、時間と日付が浮かんでいた。

「嘘だろ」

 全てが終わった日だ。姉が死に、ただの僕が死んだ日だ。

「今日の夜七時五十三分。それが君の姉、波照間天音の死亡時刻だ。そして今は午前六時。これから頑張れば、君の姉を殺そうとする全ての人間を処理出来るんじゃないのか? ・・・ああ、それとも、もしかして殺した相手の事を覚えてない? 良ければリストにして教えてあげようか?」

 必要ない。覚えている。頭に刻み込まれているよ。彼らの顔と名前は。

「良い顔だ」

 いつの間にか逆さまから通常の状態になっていたレヴィアタンが笑った。

「君には取り戻す権利がある。幸福な時間に戻り、享受する力がある。ただ一つ、その幸福を成就させるには義務が生まれる」

 レヴィアタンは人差し指を僕に向ける。

「当然の話ではあるが、この時のこの世界には、若かりし頃の君がいる。人を殺すどころか、傷つける事も出来ない普通の君だ。君が幸福を受け取るには、君自身を殺し、君に成り代わらなければならない」

 僕が、僕を、殺す。

「当然の話だと思わないか。だって、君を取り巻く全ての人々にとって、君は一人だ。二人はいない。一人分の幸せに二人は多すぎる。だろ?」

 レヴィアタンが僕の顔を覗き込む。彼女の瞳の中に、表情を無くした僕がいる。

「良く考えてみろ。この世界の君は、今の君の苦しみも悲しみも虚無感も何も知らず、理解すら出来ず、ただ幸せを貪っている。許せるか? 許せないだろう? そんな君から、君が幸せを奪っても、なんら良心が咎めることはない。いや、むしろ当然の権利だ。これまでずっと戦い続けた君へのご褒美だ」

 さあ、と悪魔は朝日に向かって手を掲げた。

「全てを取り戻せ」

 彼女の手に視線が誘導され、昇り始めた太陽を目にする。あの日の朝もこんなだったかな。何も変わらない、一日だと思っていたけど。

 そして今の僕には、何も変わらない一日にする力がある。

「そうだな」

 僕は笑った。

「僕から、最高の幸せを奪ってやるとするか」

 僕の決断を聞き、悪魔もまた笑った。

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