だから、僕はここにいる
第216話 バースデイ
電話のワンコールが、僕の人生を変えた。
「遅い・・・」
ぐるぐると空腹を訴える腹を押さえ、机に突っ伏したまま、壁掛けの時計を恨みがましく睨んだ。時間はもう間もなく今日の寿命を全うし、明日の誕生を祝おうとしている。ここまで遅いのに、連絡一つ寄越さないのはおかし・・・くもないか。姉は研究に没頭すると時間の概念を失う。一週間泊まり込むこともざらだ。寝食を忘れ、エネルギーが尽きるまでのめり込む。
「でも、今日は早めに帰ってくるって言ってたのに」
研究のために化粧も風呂も忘れる人だが、約束は忘れたことがないのだ。そんな人が、連絡も寄越さずにいることが不思議でならない。
もちろん、姉には姉の交友関係がある。付き合いも大事だろう。その辺は理解しているつもりだ。つもりではあるが、もし万が一、結婚相手などを連れてこられようものなら、僕は平静を保てるだろうか?
いや、わかっている。わかっていはいるんだ。今は研究一筋の姉とて、いずれ愛する人と巡り合う。結婚し、子どもを授かる。古来より続く人間の営みをなぞる。だが、幼い頃に両親をなくし、寄り添って生きてきた僕は、友人たちに指摘されている通り、多少シスコンの気があるのもまた、理解している。両親の離婚で離れ離れになっていて、そして両親の葬儀の時に再び出会うなんていう二時間ドラマみたいな出会い方も、良い具合に調味料になっているかもしれない。
僕が姉の結婚相手に望むこと、その二十項目めを考えていた時、携帯電話が鳴った。姉の番号だ。ようやく研究の底なし沼から這い上がれたようだ。苦笑しながら、僕は携帯を耳に当てる。
『須佐野、尊さんの電話ですか』
帰ってきたのは、姉の少しハスキーのかかった柔らかな声ではなく、硬質な、無機物を思わせるバリトンだった。落ち着いて聞いてください、電話の声の主が、向こうで大きく息を吸い込んだ。
『お姉さんの波照間天音さんが、亡くなられました』
指示された病院に走った。頭の中は、ありえない、で一杯だった。
『お姉さんは、飲酒運転による事故を起こしました』
ありえない。そもそも姉は酒が飲めない。昔車に引かれた事故のトラウマで車は嫌いだ。車はおろか、運転免許も持ってない。
その姉が、飲酒し、無免許にも関わらず誰のものかわからない車に乗り、事故を起こした?
ありえない。ありえるはずがない。三つも彼女の嫌いな物がある。その三つが合わさった原因で死んだなんて、ありえないんだ。
息を切らせながら、病院のロビーを突っ切る。走らないでなんて注意は言わせない。薄暗い病院内が、さらに僕の不安を煽ってくる。
霊安室は六畳間ほどの広さだった。中央に簡素なベッドが置いてあり、白い布が人の形をして盛り上がっている。人の形をした布の頭上には仏壇が置かれ、線香がたかれていた。細い煙がゆらゆらと揺れ、消えていく。ぼろぼろと先端から灰になり、崩れて落ちる。
異質な空間だった。何も生きているものが存在しない、この世のどことも似通わない空間。白と黒と灰色のモノトーン。一歩踏み入れたら戻れない常世の空気、そんな錯覚に陥りそうだ。
黒いコートを手に引っ掛けている、黒いスーツの男が目に付いた。僕の視線を受けて、小さく会釈を返してくる。
「須佐野尊さん、ですね」
電話越しに聞こえる声は、電話が話している本人に似た声を再生している。だから、本人の声ではない。そんな話を聞いた事があるが、僕はこのとき、姉の電話で連絡してきたのがこの人だとわかった。
「御遺体の確認をお願いいたします」
どこか投げやりな、つっけんどんな声だった。そんな男に一瞥くれて、僕は白い布に近づく。
頭の中で、僕はアメリカンテイストなコメディで、今の状況を実況していた。マウンテンのようにホワイトな布が盛り上がっているね! 肢体で盛り上がってるんだとしたら、なかなかのナイスバディの持ち主ってことだねハハハ! おいおい、いつまでこんなシリアスなエアーでいるんだい? そろそろネタ晴らしの時間じゃないの? ドッキリ大成功ってプラカードを掲げて、カメラのフラッシュをたいてくれよ。
結局、ドッキリ大成功の掛け声も何もなく、僕は布の前に辿り着いてしまった。これをとったら、エイリアンの幼虫的なものが飛びかかってくるんじゃないだろうなと、まだドッキリの心配をしながら、顔部分の布をめくる。
エイリアンはいなかった。
家に、どこをどう帰ったのか覚えていない。頭に残っているのはあの黒スーツの男の言葉だけだ。彼は僕に警察手帳を見せ、おざなりなお悔やみの言葉を述べてから、淡々と姉の身に起こったであろう経緯を話しだした。
「お姉さんの体内から、大量のアルコールが検出された」
「泥酔状態で、同僚が止めるのも聞かずに上司の車を勝手に運転した」
彼が語る全てを、僕は否定した。僕の知る姉と、あまりにかけ離れていた。別人としか思えない。だが、そんな僕を、彼こそ鼻で笑った。現実を見ない子どもと。
「目撃者、証人が多数いる」
その一言で僕の反論をねじ伏せた。その癖、彼の方が納得いっていないような雰囲気だったが。彼の言葉は、警察の意向でもあった。姉の死は遺族である僕の意見など無視して事故として処理された。どれだけ訴えても、捜査はされなかった。
気づけば僕は葬式で喪主となり、呆然と姉の遺骨を抱いていた。学校の友人たちも駆けつけてくれていたようだが、その時の僕は誰も彼もが同じ灰色の顔をしたエイリアンだった。
どうやって生きていたのかわからないが、事故から数ヶ月が過ぎ去ったある日、ポストにA5サイズの封筒が届いていた。送り主は無記名、郵便局の印もない。送り主が直接僕に届けたということだ。開くと、一冊のノートが入っていた。内容は、姉の事故の捜査だった。脳裏に、あの黒スーツが浮かぶ。いわゆる、捜査記録ノート、という奴だろう。
記録は、姉の死の当日から始まっていた。捜査が開始され、数時間後には事故死で片付いたとあるが、その隣に彼の考えや感情が備考のように付け加えられていた。
『あまりに不可解だ。まだ事件とも事故とも判別できないというのに』
『被害者の知人の証言からも、此度の被害者の行動があまりに不可解なのは明白』
『事件の可能性が濃厚。これだけの情報があれば、素人でも事件の可能性を疑う』
『だが、誰もが口を噤み、顔を伏せた』
筆圧が強くなっている。当時の彼の感情がそのまま叩き付けられたかのようだ。ノートの日付はさらに進む。彼は、捜査が打ち切りになってからも、独自に捜査をしていたようだ。
『警察上層部に圧力がかかっていたことが判明した』
『なぜだ? 何故そこまでする必要がある? 優秀とはいえ、たかが科学者ではないのか』
そして彼は、被害者である姉その人を追った。
『齢三十足らずにして、天才』
『被害者の研究テーマはエネルギー問題だった』
『馬鹿な。資源を輸入に頼っているこの国で、被害者の研究は救いとなるはずなのに』
『彼女の研究が、殺害の動機か?』
彼の推理と捜査が入り混じった独白が綴られる。
『経済産業省と電力会社の幹部が会合を開いている』
『ヤクザの関与?』
『違う。ヤクザじゃない』
『警察内部に、協力者がいる』
『上層部だ。それなら捜査の打ち切りも納得だ』
『そこまでして、彼女が邪魔だったのか。この国の未来よりも、今が大事だったのか』
『彼女が開いたのは、パンドラの箱だ。彼女は希望を掴む前に、災厄に見舞われた』
ノートが後半に近づく。内容は次第に、彼の不安と恐怖が綴られる。
『誰かに尾けられていた。間違いない。単独捜査がばれた?』
『ドアの前に仕掛けていたセロハンテープが切れていた。誰かが勝手に部屋に上がりこんでいる』
『おそらく盗聴されている。監視カメラも設置されている可能性がある。動けない』
『死神の足音が聞こえる。もうすぐ、俺は死ぬ。彼女と同じように、『事故』で死ぬのだろう』
『死ぬのは怖い。だが、それ以上に悔しい。なぜこんな理不尽がまかり通るのか。不正が、悪がのさばるのか』
『正義こそ、既に死んでいたのか』
僕へのメッセージを最後に、ノートは白紙となっていた。
『本当は、この残酷な真実を君に知らせるべきではないのかもしれない』
『だが、知っていて欲しいのも本音だ。でなければ、俺が何に命をかけたのか、誰も知らないまま俺はこの世を去ることになる』
『だからここに俺が調べた真実、君のお姉さんの真実を』
『君のお姉さんは、この世界に殺された。あまりに先進的過ぎて、誰もお姉さんに追いつけなかったからだ。異端は殺される。魔女狩りのように。現代の異端審問官は、神ではなく紙の金の狂信者だ。お姉さんの研究は、彼らの金を石ころに変えかねなかった。だから殺された。ある種の、国家反逆罪だ。以下に、俺が調べた限りの、この件に関与していると思しき者たちの名を記す』
ずらりと名前が役職名と共に並ぶ。へえ、官僚って政治家のことじゃないんだ。国家公務員のことなんだと感心してしまった。他、警察、大企業、そうそうたるメンバーの名前が羅列されている。
翌日、警察官の水死体が上がったとニュースが報じた。仕事のストレスが原因の、自殺とのことだ。
彼が自殺でない事は、僕だけが知っている。
「尊。君は、何を考えている」
友人に協力を仰ぎに行くと、そんな言葉をかけられた。
「何、って?」
彼女の顔を見返す。
「私に、このリストの人間を調べさせて、どうする気だと聞いているんだ」
彼女は政財界に顔の聞く人物だった。彼女の協力無しに、僕の計画は進まない。それでも進めるつもりではあるけど。彼女の助けがあった方が、何かと便利だ。
「お姉さんの死が、関係しているのか」
勘のいい彼女は、すぐさま僕の目的を良い当てた。バレバレだったのかもしれない。
「悪い事はいわない。ここで止まってくれ。確かに、君のお姉さんの死は不可解な点が多かった。けれど」
「けれど、何?」
可能な限り、押さえて問うたはずだ。けれど、向かいの彼女は息を飲んだ。それでも言葉を続けてくれるのは、彼女の優しさだった。
「いずれ、ここに書かれている連中には、相応の報いを受けてもらう。けれど今は、私に力がなく、彼らを糾弾する証拠が不十分だ」
「だから手を出せない?」
「そうだ。腐っていようと、ここは法治国家だ。法によって悪は裁かれなければならない。今の私は行動を制限されているが、私が鷹ヶ峰を継げば、彼らを追い詰めるだけの力と味方が出来る。それまで」
「勘違いしないでくれ」
彼女の言葉を止める。
「僕は、君の力を疑わない。きっと、君ならそれくらい出来るのだろう」
「では」
「ああ、違うんだ。勘違いしないでくれ、というのは、僕はただ彼らが罰されればいい、というわけじゃないだ。それでは満足できないんだ。『僕が』『彼らを』罰したいから」
きっと、僕は酷い顔をしていたに違いない。
「僕は、僕の姉を殺した連中を許しはしない。そして、これから僕が成そうとすることを邪魔する者も、だ」
「尊、君は」
「お願いだ、十六夜。一生に一度の頼みだ。僕に、君を殺させないでくれ」
それでも僕の身を案じてくれる彼女は、僕には出来た友人だった。どうか、辰真と末永く幸せになってくれ。僕の分もくれてやる。
最後には折れてくれた友人から、情報は得た。彼女は不可能だという事を強調し、僕を諦めさせたいがためにセキュリティーについてことさら話した。たかが高校生にどうにかできるものではない、と。
彼女は知らなかった。僕の中で、幾つもの言葉が死んだことを。
諦めと、倫理観だ。
ゆっくりと、彼らの名前を指でなぞる。一人ずつ。憎しみを込めて。
復讐の炎に照らされて、灰色だった景色が色づき始める。
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