第215話 物理の都合など奇跡の知った事じゃない
日常は続く。日が昇れば働いて、学んで、飯を食って。日が暮れれば帰って、飯食って、遊んで、風呂に入って寝て、また明日を向かえる。
「・・・と、いうのが普通の、健全な人の日常だと思うんだよ十六夜さん?」
栄養ドリンクのストローを咥えたまま、行儀悪く坂元が言った。ぶつくさ言うが、キーボードに置いた手は動き続けている。
「朝日が昇って働いて夕日が沈んでも働いてもう一回昇ったときにまだ働いてるってのは、おかしいと思わない?」
乾いた笑い声を上げる彼の目の下は真っ黒だ。目は血走り、まぶたの痙攣はいよいよ酷くなっている。
「黙って働け。話す労力すら惜しめ」
切って捨てる十六夜も同じような状態だが、それでも仕事の手は止まらない。
坂元が十六夜の会社内に居座って、既に一ヶ月近く経った。当初は一週間もしないうちに出ていく予定だったが、タダで居座り続けるのもどうかと思った坂元が、何の気は無しに十六夜の仕事を手伝ったのがまずかった。
「使えるな」
その一言が全てだった。ついでにこれも、あれも、それもと坂元の前に仕事が積み上げられ、途中で投げ出すことも出来ずに今日に至る。
「人増やせよ。この量を二人でこなすなんて無理だって」
「今まで私一人で回してきたんだ。一人増えたのだから出来ないわけが無い」
「増やしたから余計に増えたんだろうが!」
「言ってる意味がわからん」
「僕が受け持って空いた筈の時間に他の仕事捻じ込むからこんな目に遭うんだろ! そもそもが、通常業務行いながら異世界関連の業務までこなすお前の仕事量がおかしかったんだよ!」
「だから、お前に異世界関連業務の八割を任せている。稼ぎもさらに良くなったはずだ。もっと感謝して良いんだぞ?」
「前と一緒で充分だったんだよぉおおおもぉおおおおお」
タイピングの音が荒くなる。
「貴社の社訓は残業するくらいなら帰って酒を飲めじゃ無かったでしたっけ? 酒どころか、ここ一週間で一番口にしたのはカフェインだぞ」
「役員・幹部には当てはまらん」
「役員とか幹部って革張りの椅子にふんぞり返るのが仕事じゃねえのかよ」
「全国のあらゆる企業、団体の役員と幹部に謝れ」
「ううう、何で僕がこんな目に」
「これまでずっとバケーションみたいな自堕落な生活を送ってたんだ。存分に働け」
「普通逆だろ。充分働いてきた人に対して休みが送られるんだろ。このままじゃ永遠の休みが訪れちゃうよ」
「安心しろ。お前のバイタルは逐一確認されている。異変があったらすぐに病院に運び込めるように手配している」
「安心できるわけないだろうがぁああああああ」
がちゃがちゃがちゃとキーボートの上で指がタンゴを舞う。
「・・・お前は勘違いをしている」
ぽつりと、何かを観念したかのように十六夜が言った。
「は?」
「今私たちが行っているのは、一週間後に行うはずだった業務内容だ。前倒しで片付けている」
しばし、沈黙。
「はぁっ?! 何で?!」
何で今しなくてもいい仕事を今しているのか理解できない。眠気が飛ぶほど坂元は驚いた。
「休みを取るためだ」
これ以上ないシンプルな答えが返ってきた。
「いや、それなら普通の会社員らしく、週休二日のペースでよくない?」
「よくない。長期の休みを取る予定だからだ」
十六夜はじっと坂元を見た。睨んだ、といった方が正しいかもしれない。
「お前のせいだぞ。辰真」
頬を膨らませて言う。
「僕が何をしたって言うんだよ」
「妊娠した」
坂元の口から盛大に栄養ドリンクが噴霧された。咳き込む坂元に、十六夜はさらに続けた。
「お前の子だ」
「どうやったら何もしてないのに妊娠するんだ! え、まさか受胎告知? 処女懐胎? 暦変わっちゃう? 西暦から東歴になっちゃう? 確かに知り合いに大天使みたいなのいるけど」
「そうなるとお前は神の父になるな」
冗談はさておき、と十六夜は本題に入る。
「この前、医者にあってきた」
「体の節々が痛いって言ってたもんな。・・・もしかして、スセリの彼氏か?」
そうだ、と頷く。
「どうやら、私の止まっていた時間は動き出したらしい。最近体が痛い原因は、成長痛だった」
「それは、良いことだと思うけど、どうして妊娠に繋がる?」
「急くな。順番に話すから。医者は、通常の、とは言っても症例が少なすぎるのだが、時間停止、再開とは違い、時間の経過が早すぎるとのことだ。どうも、失った時間を取り戻すように急成長していると」
「つまり、どういうこと?」
「今の私の年齢相応の姿に急いでなろうとしている。十五年を早送りで送っている、というところか」
二十七歳の十六夜。頭の回っていない坂元には、想像が出来なかった。ただ、綺麗だろう、という確信はできた。
「それについては、別に良いんだ。これで毎回酒を飲む度に年齢確認をされなくて済むからな。問題は、止まっていた間にした事についてだ」
「あ」
頭の回らない坂元でも、それで全てが理解できた。そもそも、十六夜とそういう行為をしたのは後にも先にもあれっきり。
「気づいたか? そう、あの時のだ。私も、あれ以外で行為に及んだ記憶はない」
「嘘だろ。十五年も前だぞ・・・いや、まさか」
「そう、そのまさかだ。私の中に残っていた子種まで時間が止まっていたんだ」
「おかしくない? それなら矛盾生まれない? 時間が高速で動いてるなら十月十日も早まるはずだから腹が膨れたりするもんじゃない?」
「お前の言う通り色々と理屈に合わない。食事は普通にとれていたし、排泄とかは普通に出来ていた。本来、時間停止が私の身に降りかかっていたのなら、コールドスリープのように完全に停止していたはずだしな。どんな奇跡が起こったか、お前の子種は一緒に止まっていたと思ったら、時間が動き出すと私の成長を無視して自分の時間を歩みだし、私の体が母体として成立するタイミングを見計らって着床した」
「根性ありすぎだろマイ息子・・・」
坂元が自分の下腹部に目をやった。
「で、新たな生命は私とは別個体だからか、私とは違う時間を歩みだした、というわけだ。自立心が強くて大変結構」
「生まれてすぐに歩きながら唯我独尊とか言い出しそうだな。・・・でも、マジか」
「どんなに信じがたくても、あらゆる可能性を排除して残ったものが答えだ」
そういうわけで、と十六夜は話を締めにかかる。
「私は近いうちに産休に入ることが確定した。これが長期休暇の理由だ。だが、問題はそれだけではない。表向きには現在『誰の子』かわからない」
それもそのはず、彼女はこの一年間、夫も彼氏も愛人も居なかった。出来るわけがない。普通では。
「なので、表向きに理由を作らなければならない。要点だけを述べると早急に『結婚』し、『夫』と一緒に『ハネムーン』に行って『子作り』をする。これなら子どもが出来ても仕方ない。むしろ当然の帰結で、喜ばしいことになる」
昨今は出来ちゃった婚、授かり婚など、子どもが出来てから結婚する事は多い。普通の家庭なら喜ばしいことだし、男が逃げることなく責任を取ったという様に見ることも出来る。
しかし十六夜は大財閥の後取り娘だ。結婚前に子どもが出来るのは、少し外聞が悪い。
「順序が逆になって悪いし、こんなロマンティックとはかけ離れた場所で言うのも何だが、機会と言うのはいつ来るかわからないから、ここで言わせてもらう。辰真。私の夫になれ」
なってくださいではなく、なれ。
完全なる命令形だった。彼女らしいといえば彼女らしいが、坂元は気づく。あれは、彼女なりの照れ隠し、もとい勇気隠しだと。精一杯見栄を張っているのがわかる。証拠に彼女の手は少し震えていた。顔が赤らんでいるのは、朝日のせいだけではないだろう。
「馬鹿、それは僕のセリフだろう?」
覚悟など、もとより決まっていた。彼女と共に居たいと宣言した、あの夜に。ただ、やはり彼はひねくれ者なので、どうしても余計な一言を付け足す。
「少女の時、レディの時、マダムの時を一気に楽しめるなんて、最高だね」
「光源氏のつもりか? 文学とは程遠い顔してるくせに」
似合わないよ。彼女が言う。そりゃそうだ。彼は返す。
「僕には、君だけだ。今までも、これからも」
だから老婆の時も一緒にいてやるよ、と言う彼の頭に、彼女は笑いながら栄養ドリンクの空き缶を投げつけた。
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