第209話 私を離して

「私が小学六年生の時だ」

 当時、異界とこの世界との間に取り交わされていた条約は、今のように微に入り細にいり取り決められておらず、グレーゾーンが多かった。取り締まりもまだまだゆるく、今よりも能力による犯罪が横行していた。何より、人間よりも優れている種族が、どうして人間にあわせなければならないのかと反発し、小さな暴動が日常的に発生していた。

「私の家もスセリの家ほどではないが、古くから異界と交流があり、表でも顔や名前が知られていたため、自然と二つの世界の橋渡しを担うことになった。君が知っている裁判官まがいの業務もその一部だ。主な業務は、堅苦しい言い方をすれば法整備、といったところか。互いの生活習慣、風習も混ぜ込んで、皆がより良く生活出来るように。だが、先程も言ったように、人間以上の能力を持つ者達にとって、その法は窮屈なものにならざるをえなかった。基準が弱者だからな」

 この場合の弱者は人間だった。

「私たちばかりに有利な法に反発する者たちはやがて、私たちが悪意から自分たちを封じ込めているのではないか、権利を剥奪しているのではないかと思い始め、遂には自由と権利を求めて活動を始めた」

「それって、いわゆるテロ活動・・・ですか?」

 彩那の疑問に、十六夜は頷く。

「最初は交渉の場でのきちんとした議案だった。時間が経つにつれデモによる抗議活動、それが駄目になれば最終的に過激な活動となったわけだ」

 そして、あの日が来る。目を瞑れば思い出す。

「活動の一環として、私は彼らに誘拐された」

 女子高生三名が息を飲む。刑事ドラマでなら頻繁に聞くその言葉を、現実で聞くことの異質さに。

「犯人たちは私を人質に取り、自分たちの権利を主張し、捕らえられた仲間を解放するよう要求した。私は、その要求は聞き入れられないと理解していた。ここで要求を飲んでしまえばこれまで積み重ねてきたものが元の木阿弥となってしまう。たとえ私の命がかかっていたとしても、当時の鷹ヶ峰家当主である祖父は私を切ると確信していた」

「いや、自分の孫を見捨てるって、そんなの」

「ありうるさ。そうしなければ、より多くの無辜の命が奪われると理解していれば、その選択肢は充分にありうる。そしてその場合、大勢の命を救うように選択する事を、私たちは義務付けられ、正しい判断が出来るように教育される」

 十六夜の予想通り、祖父鷹ヶ峰弦吉は彼らの要求を突っぱねた。ただ同時に、救助のためにも全力で動いていた。そこはやはり、祖父としての愛情もあったのだろう。

「要求が通らなかった彼らは、見せしめに私を殺そうとした。私は死を覚悟した。だが、彼らと私の間に立ち塞がった男がいた。私と一緒に誘拐された、坂元辰真だった」

 今でも思い出す。あの小さな背中を、恐怖で震える足を、血が出るほど力強く握り締めた手を。大丈夫だと私を勇気付ける、優しい声を。

「あの時はまだ仲が良くてね。いつも一緒にいたんだ。自慢みたいに聞こえたら申し訳ないが、私は当時から頭が良くて考え方も子どもっぽく無かった。異端だったから、同い年の子どもたちから敬遠されていた。一緒にいてくれたのは幼馴染の彼だけだったんだ」

 いや、そうじゃないな。十六夜は否定する。

「正直に言えば、私は彼が鬱陶しかった。同い年の子どもどころか、周りの大人も、全員愚か者ばかりだと見下していた。馬鹿と付き合うくらいなら一人の方がマシだと思っていた。辰真と付き合っていたのは、子どもを装うためだ。親を安心させるために。心配されることすら鬱陶しくて、屈辱だったから。私なりに、子どもらしさを演出していたわけだ。辰真の方も、親にでも言われたから私と一緒にいるのだろう、そう思っていた。私と仲が良いイコール、鷹ヶ峰とのパイプだからな。どうせ権力目当てに彼の親が送り込んできたんだ、こっちもせいぜい利用させてもらおう。その程度のつき合いだ」

 だが、私のその認識は大きな間違いだった。

「君たちも知っての通り、彼は相手を操る事の出来る能力者だ。それゆえに、相手の感情の機微に関して非常に鋭い。これは多分、相手を操りやすいかどうかを本能的に見分けるためだと思う。私が彼に対して考えていること、思っていることくらい、彼は既に見抜いていた。見抜いていながら、私と共にいてくれた」

 さて、と十六夜は一度言葉を切り、お茶を口に含んだ。

「犯人たちの前に、辰真は立った。そして、私を殺さないで済む案を彼らに提示し始めた。あれだけ多弁な彼を見たのは初めてだったから、死ぬ恐怖すら忘れて彼の後姿を見入ったよ。口八丁に身振りを付けて、自分を簡単に殺せる相手を前に話し続けた」

 初め、犯人たちは彼の話を半分ほどしか聞いてなかった。しかも要求を断られた直後だ。苛立っているところに子どもの甲高い声が癪に障ったらしく、犯人の一人が黙れと彼を殴り飛ばした。十六夜の方に吹っ飛んだ彼が、力の入らない腕で体を起こす。右ほほが真っ赤にはれ上がり、鼻血が垂れて口も切っていた。だが泣かなかった。目に大粒の涙を浮かべながらも泣き声を食いしばって飲み込み、再び犯人たちと対峙した。そして、再び交渉を始めた。再び殴ろうとした犯人の一人を、もう一人が止めた。犯人たちのリーダーだ。

「リーダー格のその男は、辰真の話を黙って聞いていた。そして、ある程度の案が出揃って話が途切れた時、辰真に言った」

 では、鷹ヶ峰の後取りの代わりに、お前を見せしめに殺すが、良いか?

「見せしめは必要だ。だから私と自分、どちらかを必ず殺す。その選択肢をくれてやるとそいつは言った。流石の辰真も黙り込み、怯えた目で私と犯人を何度も見比べた。ああ、駄目だと私は遂に諦めた。誰だって自分の命が惜しい。本当に命の危機に晒されたとき、人間は本性を見せる。辰真は良くやった方だ。怯えながらも相手から交渉の手札を引っ張り出した。充分な戦果だ。だから、私は彼に微笑んだ。もう良いと伝えた。そして、彼は私から視線を逸らし、リーダーに向き直り、言った」

 男は女を守るものだ。

「そして、私の目の前で私刑が始まった」

 最初に、小さな体が宙に浮いた。リーダーの前蹴りが彼のみぞおちを蹴ったのだ。着地した足からパタパタと体が折り紙の山折り谷折りのように折りたたまれて小さな体がさらに小さくなった。げえげえと胃の中の物を吐き出す彼の顔を、汚い物のように蹴った。首が千切れるかと思うような、えげつない蹴りだった。そこからは、ひたすら悪夢だった。上から、横から四方から彼らの足が飛んだ。時折掴み上げられ、叩き付けられ、顔も体も腕も足も場所を問わず、無事な場所など残さないという執念すら感じさせる、念入りで、執拗な、それでいて簡単には殺さないよう繊細に打撃が加えられた。

「動けなかった。情けない事に怖くて身じろぎすら出来ずにいた。目の前の彼を助けることが出来なかった」

 何もわかってなかった。わかったふりをしていただけだ。死の覚悟ができたなど嘘。目の前で繰り広げられている死を前に動くことも声を上げることもできない自分が、どの口で覚悟を口にするのか。

 自分のせいで人の命が奪われるというのが、これほどの恐怖を与えるのか、苦しみを与えるのか。大勢の人間を救うために一人を殺す? その教育を受けてきた? 自分ならその選択肢が取れるなど、どうして思い上がっていた?

 自分以外の全てが愚かなどと。愚かなのは自分だった。恐怖で何も出来ない自分と、恐怖に立ち向かった辰真と、どちらが愚かなのかは一目瞭然だ。そんな愚かな私を、命がけで守ろうとしてくれている。

「やがて、私刑は終わりを迎えようとしていた。リーダーの姿が、徐々に変貌したのだ。彼らが獣人系の能力者である事に、このときようやく気づいた。彼らは自分たちの犯行現場に、爪や牙で傷跡を残して存在を主張していた。今回何に傷を付けるのかは決まりきっている。辰真だ。そして、それを送りつける気なのだ。リーダーの爪が倒れたまま動かない辰真に振り下ろされる、その直前、ガラスの割れる音が響いた」

 弦吉の救助がぎりぎりで間に合ったのだ。そこかしこで煙幕が上がり視界を奪った。突入部隊が徐々に犯人たちを制圧していった。

「敗北を悟ったリーダーは、せめて傷跡を残そうとした。見せしめを、辰真の殺害を続行しようとした。鋭い爪が彼に向かって振り下ろされる。その前に。今度は私が彼とリーダーとの間に割って入った。ガラスの割れる音が私を縛っていた恐怖を断ち切った。助けが来たとわかった途端安心したのかもしれないな。現金なものだ。それに、犯人たちもパニックになっていた。今なら出来る。助けられる。死なせるわけにはいかない。後は、さっきまでなりを潜めていたちっぽけなプライドが再び顔を出したのか。とにかく体が動いた。辰真に恩を返そう、そして、今までの事を謝ろう」

 そうしてまた思い上がった。結果は、背中の傷が物語っている。

「右肩から左腰部までの裂傷だ。だが見た目ほど深刻な傷じゃなかった。背骨にも影響は無かったし、主要な臓器も無事だった。ただ出血量が多かったのと、傷が残るだけだ。その程度の代償で、命の恩人を助けられた。私としては充分な戦果だった」

 ただそれ以来、辰真は私を避けるようになった。

「最初は寂しかったが、仕方ないとも思っていた。私のせいで危険な目に遭ったのだから、距離を取るのは自然なことだ。だが、彼は異界に関わり続けた。能力が発現したことを加味しても、あまりに積極的だった。とうとう指導員の免許まで取った。その頃には、私も異界の業務に携わるようになっていて、彼の記録を見て驚いた。彼がこれまで関わった件の多くは、法案に反対する能力者たちとの折衝だったからだ。私は考えを改めた。彼が私から距離を取ったのは別の原因があるのではないか。そこで、スセリに彼から話を聞きだすように頼んだ」

「人選ミスじゃ・・・あいたっ!」

 瀬織の頭が小突かれる。思わず口に出たところを姉に聞き咎められたようだ。

「私にもその程度出来るわよ。馬鹿にすんな。・・・まあ、なかなか口を割らなかったけどね。なんで、酔わせて、吐かせた」

 やっぱり人選ミスじゃないか、と今度は心の中でだけ呟く。

「それでも色々と言葉を濁しながら言ったのは『会わせる顔が無い』っていうようなニュアンスの事だけ。私はそれをそのまま十六夜に伝えた」

「ああ。それで充分だった。私は理解した。彼にとって、私があの事件で傷を負った事は敗北だったのだ、と。守ると宣言した私を守れなかった、今もなおその後悔があの男の中に渦巻いている。事件の後悔が、彼を我が身を省みないような危険な任務に向かわせている」

 だからクビにした。

「無理やりにでも、異界から、私から離さなければならないと思った。私の存在が、あの男を過去に縛り続けるから。私に関わり続ける限り、あの男は過去の失敗を悔やみ続ける。そしていつか、自分を死に追いやる」

 幸せになって欲しいんだ。

「彼には、幸せになって欲しいんだ。命の危険を感じることなく、ただ、これまでの苦労に見合った、いや、それ以上の幸福を掴んで欲しい。これまで迷惑をかけた分、普通の人なら普通に得るはずだった青春すら捧げさせた分、思い切り人生を謳歌して欲しいのだ」

 それが、彼に対する私の願い。心からの願いだ。

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