第207話 脅迫とお願いはよく似ている
ピィン、と空気が張り詰める。見た目は何も変わっていない。なのに、寒風吹き荒ぶ場所に移しかえられたかのよう。
彩那以上に困惑し、緊張しているのは、莉緒と瀬織だ。額から汗が噴出し、何より椅子を蹴倒して距離を取り、臨戦体勢をとっている。
「構えなくても大丈夫ですよ。あなた方を害するつもりは毛頭ありませんので」
唯一人ニコニコしているマスターが二人に席につくように促す。だがまだ警戒は解けない。
「完全に忘れてたわ」
苦々しい笑みを浮かべて瀬織が言う。
「何を、一体何を忘れてたの?」
瀬織たちとマスターを交互に見ながら彩那が尋ねる。
「ずっと冗談か何かだと思ってたのよ。だって、いつも穏やかで優しいから。怒る所や、ましてや戦うところなんて想像出来なかった。けど、こんな、心臓を鷲掴みにされるようなプレッシャーを叩き付けてこられたら、信じざるを得ないわ」
師である母から、先達である姉たちから、過去の文献から、座学でまず教えられるのは、安全・危険な相手、道具、場所について、だ。図解入りで、丁寧に解説される。
そして、この喫茶店は安全な場所であり、同時に有数の危険地帯でもある。両極端の評価を得ているのは、ひとえにこのマスターの存在があるためだ。最古参のポートメンバーにして、最高クラスの実力者。
「誰を差し置いても、『明星』だけは敵に回すな。ようやくこの意味が理解出来たわ。嫌でもね」
「『明星』って、あの?」
莉緒の記憶に該当者が引っかかる。何千年もの間、最前線で戦い続けた六枚羽の天使の話。幾つもの高難度任務を解決してきた伝説の存在。
瀬織の頷きが、莉緒の想像が真実であると告げる。その間も、二人は視線をマスターから片時も離さない。
「それは少々買いかぶりと言うものです。私は他の者たちよりも少々長生きで、多くの経験を有しているだけですよ。力なら、私以上の実力者はいます」
マスターが苦笑する。
「あなた以上なんて片手で数えるほど、それこそ魔王クラスしかいないじゃない」
片手でも多いくらいよ、と瀬織が愚痴る。
「あなたのご先祖もその一人ですよ」
忘れちゃ可哀相です、と苦笑する。
「さて、話を戻しますが、私はあなた方と事を構えるつもりは全くありません。座って、どうぞケーキをお召し上がりください」
しばらく様子を伺っていた二人だが、ぎこちなく構えを解き、ゆっくりと一歩一歩確認するように席に戻る。
「それで良い。食べながら、こちらの話を聞いてくれれば幸いです」
促され、ケーキをフォークで削り取って口に運ぶ。いつもなら涙を流すほど美味しいそれが、今日は砂を食んでいるかのように味気ない。味覚に集中する暇を与えてくれないのだ。
「もしかしたらお姉さまである三蔵スセリ様から聞いているかもしれませんが、今回の人事、我々としても納得しておりません。坂元様は我々の事情をよく理解していた人間の一人です。言葉は悪いですが、我々にとって非常に都合の良い人物なのですよ。その彼を外すなど理解出来ません。これが、例えば加齢による人間で言うところの定年であったり、病気や怪我の影響であったり、それこそ本人のミスによるものなど、ルールに沿ったものであるなら納得も出来ましょう。というか、私たちにはそういう理由で解任したと報告が上がっているのですが、どうもあなた方の話を聞く限り、そうではない」
マスターが三人の顔を見渡す。
「まさか、鷹ヶ峰様の個人的感情に拠るものとは。これは、納得しろと言う方がおかしい。そうでしょう?」
三人は自分たちの迂闊さを呪った。てっきり、解任理由は周知の事実だと思い込んでいた。
「こうなると、私どもとしては、鷹ヶ峰様の責任能力を疑わなければならなくなります。そして、もしそんな事になったらこれまで彼女が関わってきたあらゆる職務や決済を見直さなくてはならなくなります。これがどういう事かわかりますか?」
マスターが三人を順に見つめる。問われ、首を捻り、何かに気づいたように彩那が顎を上げた。
「もしかして、私の件にも関係してくる?」
その通り、とマスターが頷く。
「これまで交わしてきた条約、決定された法律、それに違反した者への罰則なども改めて調査せねばならないということです。もしかしたら、私情で判決を下していたのかもしれないのですから」
「十六夜さんに限って、それはないと思うんだけど」
彼女をよく知る者として、瀬織が反論する。
「わかってます。私もあなたと同意見です。しかし、罰則を与えられた者にとっては、その限りではない。自分が不当な判決を良い渡された可能性があると知ったら、どう思うでしょう?」
当然、納得できないに決まっている。そもそも彩那はまだ当時の事を根に持っている。反省と感情は別物だ。何かの拍子に再燃してもおかしくない。
「そこからは、言わなくても想像出来ますよね。判決に納得していなかった者たちが、彼女に復讐を企てるでしょう。加えて、彼らに課せられた制約が緩む可能性が高い」
マスターが彩那の首元を指差す。
「あなたが嵌めている首環は、判決が正しいという共通認識により作動する代物です。もし判決の正当性が揺らいだら、途端に拘束力が弱まる。拘束が弱まれば、彼女への復讐だけではない。暴動も起きます。鬱憤を晴らすかのように、人外の力を用いた暴動は世界に広く能力者や我々のような者の存在を知らしめ、キャパシティをオーバーした世界は混乱が渦巻くでしょう」
その方が手っ取り早いかもしれませんが、とマスターは肩をすくめた。
「とはいえ、私も無用の混乱は避けたい。そこで、私からあなた方に依頼します。あなた方には、個々人の事情に竦まず日和らず、鷹ヶ峰様を説得し、坂元様の解任を撤回して頂きたい」
「・・・私たちに、ですか?」
はい、とマスターは優雅に頷いた。
「今現在、鷹ヶ峰様方の事情を知るのは限られています。そしてこれは私の勝手な想像ですが、お二人に最も近しい三蔵スセリ様は、近すぎて説得が難しいのではないかと。では、残るはあなた方のみとなります」
「その条件でいうと、マスターも該当するんじゃ?」
彩那の疑問に、マスターは首を横に振った。
「その反応は、あなた方が我々のような存在を受け入れる度量があるという何よりの証明で、今後共存共栄を図る上でなくてはならない素質なので喜ばしい事です。が、勘違いをして頂きたくないのは、やはり私たちとあなた方には『違い』があります。思考回路、習慣、常識が違うのです」
言われて、彩那が思い出すのは自分も関わったある事件。人の法で裁けない悪党が、人外の法で裁かれた事件は、彩那の記憶と胸の奥にいつまでも残り続けている。
「私たちには、人を理解できない。理論的に話す事は出来ます。何が有益で何が無益かは理解できますので。そこから論理立てて説明する事は可能です。けれど、理論の外での話となると私たちには手出しができない。人を理解できるのは、結局同じ時を生きる人です」
「いや、同じ人間だからって理解しあえるわけじゃ・・・。理解しあえたらこの世から戦争は無くなると思うんだけど」
「泣き言は聞きませんよ」
莉緒の言い訳を、マスターは言葉で封じた。
「今の話は、私の所で止めておきます。けれど、いつどこで、誰に、どんな形で漏れるかはわかりません。漏れたら最後。先程話した最悪の結末まで一直線です。それまでに、あなた方は鷹ヶ峰様を説得してください。出来ますよね?」
マスターの脅迫に、三人は頷くしかなかった。
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