第194話 被害者であり、加害者でもある女の独白

 電話のコール音が高級マンションの一室で木霊する。

 大野智子はビールのアルミ缶を片手にソファに腰掛け、それをけだるそうに眺めていた。仕事から帰ってきたばかりで疲れており、電話を取る気にならなかったのだ。人の神経を逆なでするような甲高い音が何度も何度も電話に出ろと訴える。煩わしそうに鳴り止まない電話を横目で見ながらビールをあおる。どうせもうすぐ留守番電話に切り替わるだろう。それまでの辛抱だ。こんな夜にかかってくる用件など、ろくな電話ではあるまい。どうしようもなく大野は疲れていた。あの日から、心の休まる日などない。田村俊之を殺してしまったあの日から人生は狂い始めた。

 田村が悪いのだ、と大野は思っていた。そう思い込まないとやってられなかった。



「大野さん」

 最初にそう呼び止められた時、私は彼の事を覚えていなかった。

「覚えていませんか。高校で一年間同じクラスだった、田村です」

 田村からそう説明されても、あまりピンとこなかった。くるわけない。普通、そういうものだろう? 高校の時、一年間だけ同じクラスになった友人でも無い相手を、どうして覚えていられる?

 社会人的な挨拶と名刺を交換して、その場は別れた。家に帰ったら渡された名刺を捨てるまで会った事すら忘れていた。私にとって彼はその程度だった。以後二度と会う事もない存在。

 その田村が、会社同士の不正な取引を嗅ぎつけた。そして、取引には私も末端ながら関わっていることを突き止めてしまった。

 なぜ彼が突き止められたのかはわからない。重要なのは、彼はその後も着実に証拠をかき集め、私にまとわりつくようになった、という点だ。再三、田村は私に手を引くように言った。いずればれる、今なら間に合う、罪が重くなる前に手を引けと。

 だが、私も雇われている手前出来なかった。この不景気、今の会社が潰れることになれば行き先などない。それも不正に関与していた人間など誰が取るだろう。それに引き換え、取引が行われ続ける限り、自分に入ってくる利益は破格の一言だ。ボーナス以上の額が毎月支払われる。

 何より、関われば関わるほど、会社の恐ろしさが理解できた。表向きは普通の企業だが、裏側であくどい手を使っている事を知ってしまったのだ。知ってしまったらもう抜け出せない。裏切れない。自分も仲間だと思われるだろうし、裏切ったら殺される。自分の立場を悪くするだけだ。どっちにつくか、考えるまでも無かった。私は彼の要求を突っぱねた。無駄な事をするな。命が惜しければ関わるな。これ以上関わって欲しくなかった。騒がれることで、田村だけではなく自分にも火の粉が降りかかるのではないかと恐れた。

 恐れいていた事が現実になった。会社に、私がヘマをして、田村に会社の不正について何らかの証拠を掴まれたと疑われた。すぐさま会社に呼び出され、泣きながら必死で釈明した私に、上司からの命令が下された。


 田村を殺せ。


 そんなこと出来ない、無理だと何度も断った。だが、田村に近づけるのはお前だけだ、すでにアリバイ工作も成されている、警察にも話は通してあると説得され、何より、出来ないのなら、田村と一緒に死んでもらうと脅された。会社としてはそのほうが都合がいいのだと。私一人に不正の罪を着せることも考慮されていた。既に、私に選択の余地など無かった。

 決行の日は同窓会だった。私は田村をホテルの一室に呼びだした。そんな場所を指定したことを田村は怪しんだが、自分も会社からマークされており、誰にも邪魔されないから都合がいいと言い訳した。そこで決定的な情報を渡すと言えば、田村も承諾した。先に部屋で待ち伏せし隠れていると、田村が部屋に入ってきた。音も立てずに背後から近づき、抱きつくような形でナイフを突き刺した。あ、とか、う、とか二、三語言葉を吐き出して、ゆっくりと前のめりに倒れた。私は痙攣する彼の背に再びナイフを突き立てた。動かなくなってからも何度も何度も刺した。ピクリとも動かなくなった田村の体を何度もナイフが抉っていった。そのたびに田村の体はビクンビクンと痙攣し、体の中の血液をぶちまけた。

 ふいに、電話が大音量で流れた。会社の呼び出し音にも使っている着信音をアラームに設定していたのだ。気づけば定期連絡の時間になっていた。これは会社からの指示だ。向こうもすんなり私の事を信じているわけがなく、電話確認を義務付けさせた。これが途切れた場合、地の果て、草の根書き分けても見つけ出して殺すと脅してきた。会社の、上司の命令には服従するというのが体に染み付いている私は、半分機械的な動作で会社に連絡した。すると、ものの数分でホテルの従業員に成りすました男が二人現れた。男の一人が田村の服を着てそのまま出て行く。残った男は私に次の指示を与えた。

「このまま同窓会に戻って、普通に過ごせ」

 指示と言うほどのものでもない。けれど人を一人殺した自分にとって、いつも通りの普通でいることが何よりの苦行でもあった。

 同窓会は、何とか乗りきれた。あれが俗に言う、アリバイ工作だったのだろう。同窓会中は一刻も早く家に帰って手を洗いたかった。殺害後に何度も何度も石鹸で擦った。なのに、あの錆びのような匂いは取れた気がしない。近くに寄ってきた同級生たちに勘付かれるんじゃと冷や冷やしっ放しだった。二次会を上手く断り、家に帰って、削り取るかのごとく手を洗い、胸の中にわだかまる吐き気と頭の中にどんと居座る後悔に酒を浴びせ続けた。

 あれから男たちがどういう行動を取り、床に転がっていた田村がどういう処理をされたのか知らないし、知りたくもなかった。


 今現在、田村の件はニュースになってない。男たち、そして彼らに指示を出した会社が上手く処理したのだろう。今更ながら、権力とは恐ろしく、それでいて頼もしい存在だと思う。殺人事件の犯人すら、その庇護の下では大手を振って生きていけるのだから。暗い笑いがのどから洩れる。現実は、正義が勝つとは限らないのだ。

 コール音が止んだ。電話が留守番電話に切り替わる。

 発信音の後に、メッセージをお入れください。

 留守番電話の音声ガイダンスの後に、甲高い電子音が一秒ほど流れた。大体の電話の相手は、留守電に切り替わる時点で電話を切り、携帯電話にかけ直す。だが今度の相手はそれをしなかった。

『電話には、出た方が良いぞ。大野智子』

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