第174話 勝ち取った明日
「がっ、っだっ!」
着地に失敗し、ウルスラは無様に地面に転がった。全身が痛い。痛くないところがない。特に右の太腿の傷は深く、風に触れただけで叫びたいほど痛む。
それでも、晴れやかな気持ちでいられたのは、彼女の視線の先で砂のような粒子となって消え行くスライムを拝めていたからだろうか。これでもう、街が破壊される心配も、誰かの命が脅かされる心配もないからだ。
だから、消え行くスライムの方から声がした時はギョッとした。まだ死なないのか、意識はあるのか、動けるのか、襲ってくるのか・・・様々な憶測が脳裏を過ぎり、その対処方法を考え、全てが杞憂に終わったとき、ようやく彼女から笑みがこぼれた。ため息交じりの苦笑ではあったが。
「ったく、最悪だ。本当に。今回は、こんなんばっかだ」
自分から進んで飲まれたくせに、文句ばっかりの男は、全身に付着したどろどろのスライムの一部を犬コロのように身を震わせて払いながらウルスラに近づいてきた。
「ちょっと、タケル。汚いのが飛ぶから止めてよ。あとそれ以上近寄らないで」
「うるさいな。好きでこんなことになってるわけじゃない。どうして本体はあんなサラサラ消えてくのに、このへばりついてんのは消えないんだよ。本体から離れたら別もん扱いなのか?」
「私に文句言われても困るわ」
タケルの悪態どおり、今しがたスライムの腹から放出された連中は全員がドロドロした粘液を付着させている。これは、もう全員風呂に放り込むしかなさそうだ。
とうとうウルスラは笑い出してしまった。呼吸するだけでも痛むのに、笑いたくて仕方ない。溢れてくるのだからしょうがない。さっきまで命がけの戦いをしていたのに、終わった途端風呂だなんて、殺伐とはまったく無縁の日常の一部がふっと頭の中に出てきてしまった。その落差と、日常に戻れたという実感と嬉しさが、戦いで高揚したままの感情と混ざり合って可笑しさの素を生み出した。
「無事だったようだな」
二人に声がかけられた。振り向くと、ドゥルジがクルサに支えられながら歩いていた。
「まったく、正気の沙汰とは思えなかったぞ。自ら飲まれに行くなどと」
呆れた調子のドゥルジがタケルの前に立ち、ふうと息を吹きかける。タケルの体についていた粘液がぶるぶると震え、飛び散っていく。驚きで悪態が止まったタケルは、一瞬できれいになった全身を眺める。
「ほれ、後ろを向け。裏側もだ」
ドゥルジの指示に、タケルは素直に従う。ドゥルジが息を吹きかけると、先ほどと同じように背面に引っ付いていた粘液が剥がれ落ちる。
「すごいな、どうやったんだ?」
「振動でお主とそれを分離させている」
「へえ! あれか、超音波で汚れを浮かせるようなもんか!」
ウルスラたちにはドゥルジの説明を聞いてもさっぱり原理は理解出来ないし、タケルの理解の仕方もさっぱり理解は出来ない。だが、原理は理解できなくとも、結果がどうなるのかさえ分かれば問題はない。炎がどうやって燃えているのか原理を知らなくても、食べ物を焼けて、暖を取れて、明かりとなる事さえ分かればいいのと同じ。
「これで良かろう。どうだ? 見た目は全部落ちたように見えるが」
「ああ。問題ない。ありがとう」
タケルの礼に、ドゥルジは目を丸くした。
「お主、他人の迷惑も考えずに好き放題やる輩の癖に、礼を言えるのだな」
「どんな偏見だよ。好き放題やる輩は否定しないが、礼くらい言うさ。当たり前だろ。助けてもらったら礼を言う。嫌いな奴はぶん殴る。常識だ」
「そんな常識、長い時を生きてきた我ですら知らんぞ」
そんな常識受け付けないなぞ言ったら嘘になるがな、とドゥルジは快活に笑い、むせた。慌ててクルサが背中をさする。
「大丈夫っ?! やっぱり無理しない方が」
「すまぬ。心配は無用だ。行こう」
ドゥルジが目を向ける先は、粘液まみれの飲まれていた連中がごろごろ転がっている場所だ。彼女はタケルの粘液を払ったように、他の連中も助けに行くつもりだった。
「申し出は嬉しいんだけど、本当に良いの?」
「うむ。我の体調なら心配せずとも良い。力を失った反動がきておるだけだ。じきに慣れる。この体で、我はこれから生きて行く事になるのだから、良い慣らし運転だ」
「・・・すまない。ありがとう」
「良いのだ。言ったであろう。これは我の贖罪でもあるのだ。我が来なければ、この街はこのようなことには」
「いいや、違う。謝らなければならないのはあたしたちの方だよ。あたしは、おたくがご先祖様たちに与えてくれた恩恵を忘れて、保身に走ってしまった。その結末が、おたくがアジ・ダハーカに一度は敗北宣言した理由だろう。あれさえなきゃ」
「ああ、もう!」
我が、あたしが、と、互いに謝りあう二人の間にウルスラが声を割り込ませる。
「あのね二人とも。目の前に怪我人がいるのが見えないの!? 平気そうに話してるけど、これ滅茶苦茶痛いの!」
呆気にとられた二人の視線が自分を見ている。ふんす、と鼻から荒々しく息を噴き出し、ウルスラは怒鳴った。
「助けるならさっさ助けて! 疲れてるなら休め! 過去の事でああだこうだ言ってる場合じゃないでしょう! 私たちは、これから同じ街で暮らすんだよ! 話し合う時間は後でたんまり作れるんだ!」
「それも、あんたらが同じ街にこれからも住むであろう連中を助けなきゃ無くなっちまうがね」
意地悪く笑いながら、ウルスラに便乗するタケル。
「ごめん、ウルスラ。すぐに運ばせるから」
「馬鹿! 本気にするな! 私は痛いけど平気! 向こうが先でしょう!」
どうしろってんだ、とタケルが苦笑するのを、ウルスラはにらみつけて黙らせる。クルサが慌てながら部下の守備隊たちに指示を出した。指揮官が止まっていたせいで右往左往していた守備隊は、ようやく我が意を得たりと救助作業に動き出す。
「そうだな。後で、ゆっくり話そうか。まずは救助だ」
クルサに支えられて、ドゥルジが救出された連中の元へ向かう。クルサの指示が響き、粘液まみれの連中が助け起こされ、今度はまとめてドゥルジの吐息が吹きかけられていく。粘液を取り払われた者たちはゴホゴホとせき込みだした。口元を塞がれて呼吸がしにくかったようだ。ある程度きれいになった者から担架で運ばれていく。
「戦いが終わったら救助、救助が終わったら復興作業。休まる暇はまだまだなさそうだね」
人事のように、タケルが救助作業を見ながら言う。
「でも、復興作業は嫌いじゃないわ」
もちろん、復興する必要が無いのが一番なんだけど、とウルスラは付け足した。
「復興ってことは、みんながもう一回立ち上がって頑張ってる証拠でしょう? どんなに街がぼろぼろになっても、みんなが生きて、明日を見据えて立ち上がったら、出来ないことなんてないと私は思う」
今までだって、何度も滅亡の危機に陥った。それでも、街は残り、人は生きている。何よりの証だ。
「そうかい」
どうでもよさそうに、気だるげにタケルは相槌を打った。だがウルスラは、片方の口の端だけを器用に吊り上げた彼の横顔に、いつもの斜に構えた皮肉だけではない、もう少し複雑な感情が見えた気がした。
「ねえ、タケル」
「ん?」
「あなたは、これからどうする気?」
最初に会った時、やる事やったら出て行くと言っていたが、アジ・ダハーカを倒すことがその『やる事』だったのだろう。終えた今、後は出て行くだけなのか。
「そうだね」
少し思案した後、タケルはやはり、想定どおりの答えを口にした。
「荷物をまとめて、旅に出るよ。ここでやることは終わったからね」
「・・・そう」
後に続けて、引き止める言葉が出てこようとしたが、直前で止めた。自分があれこれ言った所で、この男は考えを改めないだろう。
「寂しくなるわ」
「ふらりと現れた数いる狩猟者の一人が、またふらりと消えるだけだよ。そんなに感慨にふけるほど滞在してない。あんたらの記録に載せるまでもない、どうでもいい話だろ」
「いや、あなた達が来てからの数日は、絶対に記録すべき事案ばかりよ。多分、この街始まって以来の最大の危機だったし」
「だが、もう二度と起こらないはずだよ? 元凶は取り除いたんだからな」
「いえ、残すわ。クルサも絶対賛成するはず。この街の教訓にしてもいいわ」
「ろくでもない教訓が残りそうな気がするね。・・・と」
タケルが空を見上げた。徐々に色づき始める空には、彼の相棒であるクシナダがいた。神妙な顔つきでタケルの方に近づいてくる。
「タケル。いたわ」
「そっか」
クシナダの話を聞いたタケルは、牙をむくような獰猛な笑みを浮かべた。
「ウルスラ。悪いが、そいつを返してもらうよ」
「え、ええ。良いけど」
朱色の剣を本来の持ち主に返す。一体どうしたの、そう尋ねる前に、タケルはクシナダにぶら下がって飛んでいってしまった。
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