第173話 ちっぽけな人間の力

 ずずん、と重々しく体を波打たせて、スライムが着地した。

 その光景を、助けられたハオマをはじめとしたザムたち、上空で全体を見渡していたクシナダ、話の腰を折られた形のドゥルジ、ウルスラ、クルサが、これでもかというくらい目を見開いて見ていた。映画が投影されるように、タケルが飲まれていくシーンが彼女らの網膜スクリーンに投影される。全てのシーンが網膜から脳に電気信号となって送り届けられ、脳が映像を解析したっぷりと時間がかけて意味を咀嚼するはめになった。それほどまでに、彼女らの目の前で起こった出来事は理解しがたいものだったのだ。

「はぁ!?」

 だから、彼女らの口から出たのは心配でも悲しみでもなく、ただただ困惑。

「何やってんのあの馬鹿は!?」

 最たるはウルスラ。頭を抱え、顔を引きつらせて地団太を踏んでいる。襲われて喰われたのなら、怒りを力に変えてスライムに挑める。または、救出のために団結できる。

 だが、奴は自分から喰われに行った。しかも笑って、可能かどうか分からない一か八かの策を、相談も無く独断で。庇い様がない。

「ちなみに、ドゥルジ、殿」

 地団太を踏むウルスラの隣で、冷静さを取り戻したクルサが尋ねる。声をかけるのに少量の躊躇があったのは、彼女がドゥルジと最後に会ったのは、アジ・ダハーカにドゥルジが喰われる直前。ドゥルジの処遇をどうするかでもめにもめていたときだ。一度は見捨てたドゥルジからどう反応が返ってくるか分からず、内心どきどきしていた。

「おたくが言っていた策は、可能なの? その、タケルが奴の体内にある剣を見つける、というのは」

 似たような状況を見た事がある。

 タケルはああ言っていたが、本当だろうか。太古の化け物の力を人間が奪い、化け物に変わるなんてことすら想像すらした事ないのに、それを倒す方法を何度も見たなんて信じられなかった。

 まだドゥルジが言うなら分かる。力を奪われたとはいえ、元は巨大な龍だった。タケルは、いくら腕が立とうが、人間だ。単身乗り込んで勝てるものなのか。

「正直、分からぬ」

 クルサが危惧したようなわだかまりは、ドゥルジは持ってはいなかった。ドゥルジは良くも悪くも人より強大な龍であった時間が長かった。そのため、少々言い方は悪いが、たかが人が犯したミスを、それも既に過ぎたことを、いつまでも引き摺るような繊細な神経をしていない。体は人型に戻ってはいても、長い年月をかけて成長した図太い神経は樹齢何千年の大樹よりも太くしなやかであった。良心で形成された人格であるのも一因であるかもしれない。今の危機に際してぼろぼろの体を引き摺って、ウルスラやクルサに協力するために戦場に舞い戻ったのがいい証拠だ。

「だが、賭ける価値はあるのかも知れんな。奴も同じく悪魔の欠片を我らのような存在から奪った簒奪者だ。力量、条件はシュマとやらと同じ。それに、あの剣は奴と同質。同質同士引き合うかもしれん。後は我が続いて入り、タケルの補佐をすれば」

「ちょっと待って」

 静止とともに上空からクシナダが舞い降りる。

「同質のものが引き合うっていうなら、ドゥルジが飲まれたら、今度こそ本当に吸収されてアレの一部になっちゃうかもしれないんじゃない? そうなれば、今あなたが持つ力はそのまま飲まれるって事よ。相手をもっと強くして、こっちの戦力が減る事は得策じゃないわ」

 水滴が集まれば水溜りになり、川となり、海になるように。元はアジ・ダハーカというひとつの化け物であったドゥルジとシュマは、ある種の同質のものであるから混ざってしまうのではないか。クシナダの心配を、ドゥルジは否定できない。可能性は大いにあるからだ。代わりにドゥルジは尋ねる。

「お主、自分の相棒が飲まれたのに我の方の心配をするのか? ずいぶんと薄情なのだな」

 人として、普通は近しい者の方を優先すると思い込んでいたドゥルジが意外そうにクシナダを見た。

「心配ぃ? はっ。無駄無駄。あの程度の無茶今に始まったこっちゃ無いわ」

 冷静を通り越して、もう何かおかしい所でもあった? と言わんばかりの冷淡なクシナダ。乾いた笑みを浮かべ、パタパタと顔の前で手を振る。

 タケルと何だかんだ長い付き合いの彼女は、もう諦めていた。馬鹿につける薬はない事を。いくら注意しようが心配しようが、あの男は平気で馬鹿をやる。しかも理由は面白そうだからとか、そんなくだらない理由が彼にとっては最大の理由で、振り回される方の気など考えもしない。

 いや、考えてはいるんじゃないか、とクシナダは最近邪推し始めた。それで、タケルは心配する自分たちの反応見て、それすらも楽しんでいるんじゃないかと疑っている。

 ガキなのだ。どうしようもなく。死ぬためにこの世界に来た男は、おそらく女神から使命を帯びた時点で、精神だけ子どもに生まれ変わったのだ。それなら全て納得いく。子どもだから無茶をして、心配している自分たちのことを悪戯小僧のように見て楽しんでいるのだ。

 ただ、子どもと決定的に違うところもある。そのことをクシナダは知っているから、呆れはするが心配は全然していない。

 結局のところあの馬鹿は、馬鹿げた馬鹿をやりぬく馬鹿なのだ。

「それよりも、今は人質にされてる連中を救うにはどうするかよ」

 ならば自分は、自分のやれる事をやれるだけやること。それが保護者の務めだ。

「確かに、それさえ出来ればあのぶよぶよももう少し大人しくなるかもね」

 タケルの事を最も知る人物が大丈夫と判断した。ならばこれ以上うだうだ言っても仕方ない。クルサは頭を切り替え、他に出来る事を模索する。

「うむ、ひいては中にいる奴を手助けできることにつながるであろう。それだけ探す範囲が狭まるのだからな」

「・・・わかった。信じるわ。あいつが何とかする方向で動くのね」

 ドゥルジ、ウルスラも意識を切り替えた。

「でもクシナダ。あいつが戻ってきたら一回説教して。何でもかんでも自分で決めてさっさと勝手に行くなって。置いてけぼりのこっちの身にもなりなさいって」

 まだ怒っているウルスラに、クシナダは苦笑で返した。

「そうね。そうしましょう。正座させて、全員で取り囲んで四方八方からがつんと叱りましょう」

 子どもを叱るのは、保護者の役目だ。

「ふむ。そのためには全員生き残らねばならんな」

 ドゥルジが彼女らの案に乗る。助けられた後ほったらかしで話しについていけてないザムたちも雰囲気で何かが始まるんだろうと言うことを察知し、ぎこちなく頷いておく。全員の意思が固まったところで、ウルスラがスライムを見上げた。

「いっちょやってやろうじゃない!」


 おかしい。

 圧倒的立場にいるはずのシュマは、疑問を浮かべた。

 想定では、そろそろ味わえるはずなのだ。人々から湧き出る『絶望』『諦念』などの負の感情が、栄養となって自分に流れ込んでくる、はずだった。なのに、一向にその気配がない。

 周囲を睥睨する。足元では、未だ無駄な足掻きが繰り広げられていた。無知な連中が、自分を倒そうと四苦八苦している。

 シュマは触手を伸ばし、そいつらを跳ね除ける。たった一薙ぎで、連中は弾き飛ばされていった。

 ほら、無駄な努力だ。いまや最強の存在となった自分に、矮小な人間が敵うはずがない。

 だが、愚かな人間は再び立ち上がり、あがく。

 最初は楽しかった。自分が少し体を動かすだけで、人間が右往左往し、ぼろぼろになって倒れ伏す。先ほど倒したのは、人の姿をしていたときに腕力では絶対勝てそうも無かったクシャだ。今では少し押しただけで吹っ飛んでいく。人間がどれほど束になってかかってきても、自分には敵わない。優越感がシュマを満たした。

 これほどまでの力の差を見せつけられても、人々から負の感情が流れ込んでこなかった。優越感は次第に哀れみへと変わり、これ以上の戦いは無意味とばかりに、さらに苛烈に人間を追い詰める。楽にしてやろう。その思いでひたすらに打ちのめす。ここまでやれば。

 シュマの思惑はやはり外れる。人間たちは、倒れても倒れても立ち上がる。諦めも、絶望もない。本気で倒せると思っている。

 なぜ折れない。慈悲を与えているのに、誰も享受しようとしない。いつしか哀れみの心も消え、しつこい汚れに出会った主婦のような苛立ちが生まれた。潰しても潰しても這い上がってくる、カビよりもしぶとい連中に、シュマは意固地になってきていた。

 理由は分かっている。先ほど飲み込んだ悪魔の欠片、その片割れと、アジ・ダハーカの搾りかすが先頭きって抗っているためだ。やつらは曲がりなりにもアジ・ダハーカを撃破した実績がある。そんな連中が諦めることなく戦っていれば、半端な希望を抱くのも無理はない。絶望から目を逸らすためなら、人間は時に死すら厭わない。愚か、本当に愚かだ。

 こうなれば全員飲み込んでやろうか。これなら、うるさいのがいなくなってせいせいするだろうか。いや、だめだ。半端物とは言え悪魔の欠片を飲み込んだばかりだ。吸収しようとしているが、無意識の防衛本能が働いているらしく、一向に奴の分の力を吸収している様子がない。時間を賭けるしかない。力を得て体が鈍るなんて想定外もいいとこだ。

 考えすぎて、油断していたのだろうか。一瞬の隙をつかれ、体表から盾代わりに使っていた人質が、一人零れ落ちた。搾りかすは生意気にも、龍のときと同じく音を使った攻撃方法を用いている。それを体表に当ててたわませ、たわんだ箇所にウルスラが飛び込み、剣を突き入れ抉り取ったのだ。落ちていく人間を欠片の片割れが掻っ攫っていく。

 人間どもから歓声が上がった。シュマからすればたかが一人。趨勢に影響など出るはずがない。なのにやつらは、勝利したかのような喜びようを見せている。

 腹立たしい。その程度で浮かれる連中が、死にかけの分際で生き残っている搾りかすが。何より、その程度の者どもをすぐに殲滅出来ない自分自身が。

 なぜだ。なぜこの程度の事がすぐに出来ない。今の自分は最強。最高の悪魔の力を二つも手に入れた存在のはずだ。こんなちんけな街一瞬にして焦土に出来るはずなのに。

「はぁああああ!」

 威勢のいい雄叫びが接近する。調子に乗って、ウルスラが突っ込んできたのだ。忌々しい女だ。

 なぜ忌々しいか、シュマは考えない。生理的嫌悪感のようなものだろうと思い込んでいる。だが、違う。シュマの意識の底、無意識の中に理由は漂う。絶対に認めたくないことを無意識で理解して、意識上に浮かび上がったときにはその理解がねじくれて、嫌悪という形で現れている。

 人であったときは同じく剣を振るう者として常に比較されてきた。そして理解していた。自分はウルスラよりも劣ると。直接戦った事はないが、シュマも凄腕の剣士。彼女の戦いを見れば大体分かる。自分は彼女には及ばない。それを決定付ける事件があった。

 過去に一度だけ、シュマは彼女に助けられた。圧倒的な数のトカゲに囲まれ、さすがのシュマも死を覚悟した。だが、同じく取り囲まれた状況にあっても、彼女だけは諦めなかった。仲間を鼓舞し、戦い続け、ついには突破口を切り開いた。あの瞬間、シュマは彼女に勝てないことを理解した。そして、憎んだ。自分よりも優れた人間を、シュマは許容できなかった。しかし、表面上人格も優れた傑物を装っていたシュマは、その感情、考えが自分の中に芽生えるのも認められず、無意識に沈めた。

 だから、力を欲した。誰にも負けぬ力を。そんなときに、彼はこの地で起こる戦いの真実についての情報を得た。うまく立ち回れば、ウルスラなど足元にも及ばない力が手に入る。その日からシュマは、今日、この日のためだけに生きてきたといっても過言ではない。

 力を手に入れたシュマは、誰よりもウルスラに負けるわけには行かなかった。

『調子に乗るなよ。人間風情が!』

 怒りに同調した触手が猛攻を仕掛ける。一撃の強さに重きを置いた方法ではなく、触手を細くレイピアのよう分裂させ、広範囲にわたって雨のように降り注がせた。

 触手を躱しながら接近していたウルスラだったが、触手の一本が彼女の太ももを貫いた。苦痛による叫びが、こらえようと食いしばる彼女の口腔から漏れ出す。

『痛そうだな、ウルスラ。ええ?』

 ウルスラの刺さった触手をゆっくりと面前にもって来る。いつか見たかった光景を前にシュマは恍惚としていた。痛みをこらえる口元、涙が浮かび瞳、美しい肢体から流れる血。そこに、他の人間どもからの悲鳴が添えられる。たまらない。垂涎もののご馳走だ。

『どうだ。人間ども。お前ら自慢の暴風殿も、俺にかかればこんなものだ。アジ・ダハーカを倒した男も、既に俺の腹の中。お前らに勝機は万に一つも無い。諦めて、喰われるがいい!』

 戦意を削ぎ、絶望を蔓延させる。そのために声を張る。シュマは気づかない。策を弄するなど、焦っていますと言っているようなものだ。

『逃げても構わんぞ! 無様に尻尾巻いて逃げる分には、追わぬ! さあ、どうする!』

 人の性質をシュマは知っていた。一人逃げれば、二人、三人と逃げる。そこには混乱が生まれる。残されたものからは絶望が生まれる。悲嘆が生まれる。逃げたものからは後悔が生まれる。これが、最後の味付けとばかりにシュマは声を張り、人間の前にウルスラを吊るし上げた。


 だが。


 逃げる者などいなかった。

 悲嘆にくれる者などいなかった。

 絶望に沈む者などいなかった。

 後悔する者などいなかった。

 諦める者など、皆無だった。

 剣を掲げ、囚われたウルスラを救わんとさらに勢いを増す。


 馬鹿な!

 シュマは内心に焦りが生まれた。これほどの力の差を見せつけられて、なぜ!

 理解出来なかった。

 人間の限界を勝手に決めつけ、人間を勝手に諦め、人間であることを捨てたシュマには理解することなど出来なかった。

「馬鹿じゃねえの?」

 不意に、声が聞こえた。外からではない。これは、内側?!

「お前、化け物に片足突っ込んどいて、こんな簡単なこともわかんねえのか。それじゃあ、失格。化け物失格だよ。古今東西、あらゆる世界あらゆる時代で、決まりきったルールがある。絶対のルール。お約束って奴さ」

 ぼこ ぼこぼこ

 腹部が隆起する。シュマの意図ではない。捩れ、膨れ、内側から、喰い破らんと何かが蠢く。

「無知なお前に、化け物の先輩である僕が教えてあげるよ。理不尽を振りまく化け物はな、いつだって倒されるんだ。お前が矮小と蔑んだ、愚かで醜くて、でも諦めが悪い、ちっぽけな人間にな」

 腹部が裂けた。縦に、横に、縦横無尽に切り裂かれた。ドバドバと中から取り込んだ人間が流れ出てくる。腹部が裂けたせいで体の張りがなくなり、シュマは否応なしに前かがみになる。頭部が地につかんばかりに垂れ下がった。

「お前の誤算は、人間の耐性だ。経験って言い換えてもいい。大きな問題を一回でも乗り越えると、後から起こることは『前よりもマシだ』『前も出来たし、次も大丈夫』って自信になる。それでも、前の問題より大きな問題が立ちふさがったら怪しいかもしれないが、今回はそれも無かった。つまり、お前は結局、アジ・ダハーカの劣化品でしかなかったんだよ。人間にとっては、乗り越えられる程度の壁でしかなかった。本当に愚かで矮小なのは、どっちかな?」

『馬鹿な、そんなことあるはずない。あるはずないのだ! 俺は、悪魔の欠片を二つも手に入れた最強の・・・』

「往生際の悪い・・・。じゃあ、言い訳しようもないくらい、コテンパンにされちゃいな」

 ドパンッ

 人と体液のような物が流れ出る腹部から、勢いよく何かが飛び出した。朱色の剣だ。一直線に、吊り下げられたウルスラに向かって飛ぶ。

 ウルスラの目が輝く。吊り上げられても手放さなかった片手剣で触手を切り取り、自由を取り戻す。飛んできた剣をもう片方の手で掴み取る。くるくると空中で回転しながら自由落下する。彼女が落ちていく先にあるのは、シュマの頭部。人質はいない。全て腹から流れ出てしまった。残るのは、悪魔の欠片。

「さよなら。シュマ」

 渾身の力をこめたウルスラの一撃が、シュマの頭部を突き破った。

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