第116話 幸せの魔術
喉元に剣を突きつけられていながら、ルシフルの心は穏やかだった。目を瞑り、その時が来るのを待つ。
瞼によみがえるのは、あの時の記憶だ。思えば、あの出会いがなければ、また違った結末を迎えていたかもしれない。けれど、あの出会いを後悔したことは無い。
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「天使ってのは、ずいぶんと怪我が早く治るんだね」
たった一日でいつも通り動けるまで回復したルシフルを見て、マリーは言った。
「やっぱ、私らと体の構造自体が違うんかね」
「五月蠅い奴だな」
鎧を身につけながら、ルシフルは言った。状況は把握した。幾ら助けてもらったからと言って、獣人と慣れあうつもりはない。早急に戻り、軍と合流する必要がある。そして、自分を嵌めた連中に報いを受けさせる。
「助けてくれたこと、感謝する。では、さら・・・」
形だけの謝辞を述べて、立ち去ろうと振り返った。
マリーがうつぶせで倒れていた。苦しそうに肩で息をしている。
「・・・どうした?」
つい反射的に、ルシフルは声をかけ、彼女に近寄る。脂汗が酷い。しかも下半身がぐっしょりと濡れている。
「何だ、一体どうしたという」
「破水、したな。こりゃ」
喘ぎながら、彼女は答えた。
「破水、だよ。知らないのかい?」
はあはあと苦しげに言うが、ルシフルにはピンとこない。
天使は、世界に満ちる様々な力が集まって形成されて顕現する。極端な言い方をすれば様々な自然現象が重なり合って生まれる台風と似ている。そんな彼らが、生物の誕生を理解しているとは言い難い。
「こ、子どもだよ」
マリーのその言葉で、ようやく理解した。この母体から、新たな獣人が生産されようとしているのだ。
「生産? はは、あんたららしい言い様だね」
「生産は生産だろう」
実際、天使たちはカプセルの中で彼ら獣人を繁殖させ生産していた。獣人を増やす行為に生産以外の何と言えばいいのだ?
「違うよ。『生まれる』んだ」
「何が違う。生まれるも生産も、対して違いはないだろう」
何の違いがあるのかさっぱり分かっていないルシフルに、マリーは言った。
「違うよ。大違いさ。ただ腹から子どもが生まれるだけじゃない。同時に愛が生まれるんだ」
「あ・・・い・・・?」
聞きなれない言葉に、彼は戸惑う。その様子を見て、苦しいはずなのにマリーは笑った。
「何だ、そんなことも知らないのかい? つくづく天使様は、人生を損してらっしゃる」
何千年も戦争する訳だ、と言う彼女に小馬鹿にされたような気がして、ルシフルは鼻を鳴らして立ち上がった。
「そんな物は知らん。そして、これまで愛などという訳のわからんものを知らなくても私はここまで存在してきた。つまり不要なものだ。貴様はせいぜい、その愛とやらを生むが」
「グゥウウウウウッ!」
言葉を遮って、マリーがうめき声をあげた。
「何なんだ貴様。人の話を」
「それどころじゃないんだよ!」
マリーの鬼気迫る一喝にたじろぐ。悪魔の軍団にも怯まない天界の騎士が、獣人の娘の気迫に押されたのだ。
「て、天使様、すまないけど湯、湯を沸かして。桶一杯。さっき汲んでおいたから、そこにある」
「湯だと。何故私がそんなこと」
「早くして!」
戦いに行く気満々だったルシフルだが、再び怒鳴られて出ていくタイミングを逃し、言われるがまま湯を沸かす。
「くそ、どうして私がこんなことをせねばならんのだ。貴様、つがいはどうした。生物の繁殖には雄と雌がいるだろう。そいつにしてもらえ」
「数か月前に死んじまったよ。タチの悪い病気になってね」
「脆弱な生物だな。病などにかかって死ぬなど。我らの管理がなければやはり、貴様らは生きていけないのだ。生産するだけでこれほどの苦労と苦痛を伴うのだから。何とも非効率な話だ」
「非効率、効率の話じゃないんだな。コレが・・・。つつ、天使様、悪いけど私をベッドに寝かせてくれんかね」
何だかどうでもよくなってきたルシフルは、彼女を抱きかかえてベッドに乗せた。
「じゃあ、あんたら天使は、最上の喜びを知らないんだね」
「何だそれは。戦に勝ったときか? 地位や褒美を得たときか?」
ふてくされたようなルシフルの物言いに、マリーは「違うよ」と言った。
「愛する者と、出会う事さ」
「また愛か。何なんだそれは。どんな栄誉だ。何をすれば貰える」
「そうだね、簡単と言えば簡単だし、難しいと言えば難しいものウウウウウッ!」
再びマリーが苦しみ出す。陣痛の間隔が大分狭まってきている。
「もう、何なんだ貴様は。喋るか苦しむかどっちかにしろ!」
「む、無茶を言うわ、グ、アアアアアァ!」
ぜえ、はあ、とマリーは酸欠の魚のように口をパクパクさせる。
「も、無理、限界」
「何がだ」
「生まれる。出てくる」
「・・・は? 愛が?」
「子ども! 取り出して!」
「何で私が・・・」
「そしたらきっと、あんたにも愛が分かるかもよ」
「別にわかりたくも」
「いくわよ、ぜえ、はあ、すぅぅぅ。せえ、の!」
「え、おい、ちょ、ちょっと待て、おい!」
そこからは、別の意味で戦場だった。何がどう、とは上手く言えないが、ルシフルにとっては、天使軍が最も追いつめられた時と同等か、それ以上の大変さだった。いつの間にか外で戦い終了の鐘が鳴っていたのにも気づかないほどだ。
だが、嵐は過ぎ去り、彼の手には二つの命が抱えられていた。
「なん、だ、これは・・・」
あったかい。
それが、生まれたての子どもを抱いたルシフルの感想だった。さっきまで破滅の歌を謳っているのかと思うくらい大声で泣き叫んでいたのに、今は疲れ果てたのか、大人しく眠っている。湯で血を洗い落とし、毛布にくるむ。
「天使様、子どもは?」
「あ、ああ。ここに」
手を伸ばしたマリーの傍らに、そっと置く。
「ああ、ようやく会えたね。待ち遠しかったよ」
彼女は二人を愛おしそうに見つめ、撫でる。
「おい、なんだ、こいつらは」
ルシフルが問う。その言葉に今までとは違う感情が込められていることを悟ったマリーは、逆に問い返す。
「ねえ天使様。この子たちを抱っこして、どう思った」
「どう思った、だと?」
「そ」
じぃっ、と、さっきまで子どもを抱いていた両手を見つめる。そんな彼が答えるのを、マリーもじっと待った。
「あったかい。そう思った」
率直に思ったことを言った。今なお両手にその温もりが残っているかのようだ。
「それが愛よ」
「愛・・・これが・・・?」
「あったかいの。触れている部分だけじゃなくて、この胸の内側から、ぽかぽかの陽気のような心地よい温もりがじんわりと溢れ出て、体中に行き渡るの」
「魔力とか、魔術の、様なものか?」
自分の中の類似したものから必死で考え答えるルシフルが可愛くて、マリーは苦笑する。
「魔術、そうね。多分そう。全身を駆け巡る幸せの魔術」
「子どもを見ただけで、そんな魔術が発動するのか?」
「ただの子どもじゃ、そこまでの魔術にはならないわ。自分の命に代えても惜しくないほど大切じゃないと。また、子どもに限らず、大人でも。天使様にわかりやすいように例あげると、つがいね。心の底から愛しいつがいに出逢うと、魔術は発動するわ」
ルシフルにはさっぱり理解できない。だが、彼女たちを見ていると、理解するものではないような気がしてきた。
眠ってしまったマリーを置いて、ルシフルは本陣へと舞い戻った。消滅したと思われていたので、彼の帰還は天使たちを驚かせ、そして勇気づけた。そして、ルシフルが罠にはめられたということを知ったラジエルは、火山が爆発したかのように怒り狂い「メタトロンを消滅させる」と息巻いていた。しかし、当の本人からは、その気概が失われていた。それ以上に、あの置いてきてしまった母子がどうなったかが彼の頭を占めていた。
そして、またもや天使と悪魔との決着はつかず、彼らは互いの世界に戻ることになった。ルシフルはこの世界を去る前に、再びマリーに会いに行った。どうしても彼女らのことが頭から離れなかったからだ。再びあの襤褸屋前に舞い降りて、家の中に入る。
マリーは三日前と同じく、ベッドに寝転んでいた。だが、様子がおかしい。三日前は出産のせいで疲れてぐったりしていたが、まだ顔には生気があった。今の彼女は血の気がなく真っ白な顔をして眠っていた。
「ん、あれ・・・」
マリーの目がうっすらと開く。ルシフルの気配を感じ取ったようだ。
「おや、天使様。何でまた戻って来たんで」
口調は軽いが、その声はか細い。
「何があった」
「なに、私も夫と同じ病気にかかったようでして」
子供産んで、体力落ちてましたからね、とマリーは言った。
違う、とルシフルには分かった。彼女は病気ではない。毒に侵されているのだ。天使や悪魔が持つ魔力は、この世界に力として表出した際に微量の毒素を放つ。毒素は大量に吸収しない限り大きな影響は出ない。体内の肝臓などの機能によって浄化され、体外に排出されるからだ。だが、老人や子どもなど免疫機能が低下している者にとってはその限りではない。出産後の、体力が低下している母体もそれに当てはまる。爆風に乗って飛散した毒素が彼女の体を蝕んでいるのだ。
つまり、自分が、マリーを殺した。
「子ども、は、どうした」
出そうになった動揺を押し留め、ルシフルは尋ねた。彼女と一緒に寝ていたはずの子どもたちがいない。まさか、あの子たちは既に死んだのか。
「ああ、様子見に来た仲間に預けました。うつしたら可哀そうですからね」
うつらない。うつらないんだよ、マリー。毒素を直接吸収しなければ。接触感染することは無いんだ。
ルシフルはどうしても彼女に事実を伝えられなかった。彼女らを物と同じように考えられる天使ならば何の迷いも躊躇もなく伝えられるはずなのに。なぜ、たった一言「私たちの戦争のせい」が出てこない。
「・・・良いのか、それで。見ているだけで幸福になる魔術が使えたのだろう? その、今の貴様は、何というか、あの時とは違う」
笑っているが、笑ってない。あの時と同じような表情なのに、何かが違う。
「そりゃ良くは無いですよ。できるなら、ずっと一緒に居たかった。心からそう思う。けど、そのせいであの子らが病気になって死んじまったら、私はもっと辛い。身が引き裂かれんばかりに辛いのです」
「そこまでなのか」
「そうです。そこまでなんです」
「なぜ、そこまで出来るのだ。貴様らは脆弱な生き物だという自覚が無いのか。病気一つで簡単に死に、怪我をすれば簡単に死に、寿命が来ても死ぬ。なのに何故、他人の為に命を懸けられる。貴様は、子どもを生産しなければ体が弱ることもなく、生き延びれたんじゃないのか?」
理解が追いつかなくなり、遂にはルシフルは恐怖すら感じ始めた。彼女らの何が、そこまで駆り立てるのか。
「親は子の幸せを願う。それがどんなに自分にとって辛いことでも、子どもの幸せの為なら我慢できるんです。これも愛ですよ」
「また、愛か。貴様にはそれしかないのか! 訳が分からない。そこまでして守る必要があるのか? 得る必要があるのか? 今貴様を苦しめているのは、その愛の供給源を断たれたからじゃないのか? 愛などというものは、悲しみをより深くするだけではないのか?」
「そうですね。否定はできません。私も夫を、つがいを無くしたときはそりゃあ悲しかった。愛する者との別れは、本当に自分の体の一部を失ったようになる」
「だったら、何故」
「わかりません。だって、求めてしまったんですよ。気づいたらあの人を愛していたんです。もう、どうしようもないじゃないですか」
つつ、とマリーの瞳から涙がこぼれた。何故彼女が涙を流したのか、ルシフルにはやはり理解できない。ただ、人は悲しい時に涙は流れるものだという理屈だけは知っていた。
「何か、してほしいことはあるか」
自分がなぜ、こんな申し出をしてしまったのか、ルシフルはよくわからない。突然言葉が口をついて出たのだ。それは彼女に同情したためか、理解できない物を理解しようとしたためか、気まぐれに言っただけなのか、自分のことなのにこの時ばかりは自分のことがさっぱりわからない。ただ彼女のために何かしなければ、という思いが彼の中に沸いて出た。
遠い未来に、その感情に気付く。それが罪悪感だと。命の誕生と温かさに触れ、命が終わる瞬間に立ち会っている彼は、すでに天使とは違う価値観を持ってしまっていた。
言われたマリーは、珍しいものでも見るような目でルシフルを眺め、やがて「一つだけ」とその願いを口にした。
「あの子たちのことをお願い」
「あの子たち、というと、あの『生まれた』ものたちのことか」
「そう。天使様はこれから何千年も生き続けるのでしょう。ならどうか、あの子たちのことを、そして、あの子たちの子どもたちのこと、そのまた子どもたちのことを見守っていて欲しいの」
いつものルシフルであれば、そんな申し出はすげなく断った。彼はこれから天界に戻ることになり、千年はこの世界に来ることが出来ない。見守ることなど不可能だ。だが、彼は「善処する」と告げた。その言葉で満足したのか、マリーは「良かった」と目を瞑った。そして、二度とその目が開かれることはなかった。
マリーはもう、あったかくなくなってしまった。
そうか、これが生物の死か。ルシフルは天使の消滅以外の死を初めて知った。
「理解できない。全くもって、理解できないな」
ルシフルは一人、マリーの亡骸を前にして呟いていた。
「たかが獣人の戯言だ。気にする必要はない。・・・だが、なぜ私は、こんなにも胸が苦しいのだ? たかが獣人の娘一匹が死んだだけだ。なのに!」
ぶつけ所のない怒りが体を駆け巡る。何もかもを無茶苦茶にして破壊してしまいたい衝動に駆られる。けれど、とどまった。それをすれば、彼女が完全にいなくなると思ったからだ。
どれくらいの時間が経過しただろうか。がやがやと、外から話し声が聞こえてきた。その声に我に返ったルシフルは、急いで外に出て、空へ上がった。獣人たちが数人、彼女の家に入っていく。彼女の言っていた、子どもを預けた仲間たちだ。様子を見に来たのだろう。しばらくして、中からすすり泣きが聞こえてきた。その後、彼等は彼女の亡骸を火葬し、墓を建てて弔っていった。その中に、二人の子どもが女の獣人に抱きかかえられて眠っていた。
彼らを見守る。彼らを、彼らの子どもたちを、未来永劫。
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「殺さないのか」
マリーのことを充分に思い出せる時間が経過しても、ルシフルはまだ殺されていなかった。どうやら、目の前のタケルからは、みるみる内に戦意が失われていくように見受けられた。残ったのは不服そうに口を尖らせた、拗ねた顔だ。
「やっぱあんた、本気出してなかったな」
タケルが言った。
「おかしいと思ってたんだよ途中からずっと。アモンが言ってたんだ。自分と互角に戦えたのはルシフルくらいだったって。僕は負けて囚われたけど、あんたは天使だろ? 囚われるってことはまずない。ってことは最低でも負けなかったんだ。あの本気モードのアモンとやりあっても。なのに僕と戦って、こんなに簡単に負ける? そんなわけない。なら考えられるのは、本気出してないってことだ。戦うことに集中できてない。むしろ今の様子を見て確信したね。あんた死にたがってんだ。だから簡単に諦めた。駄目ダメ、許さねえよ。僕は性格悪いからね。死にたがってる奴の命は取らない。だって、悔しいじゃない。僕は望んでもそれが手に入らなかったっていうのに」
元死にたがりの男はそう言って剣を引いた。
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