第64話 悪党の辞書に載らない言葉
「さて、皆さま。狩りの前に乾杯といきましょう」
そう言って、シナイ隔離病院の院長ラムセスは盃を掲げた。黒々とした髪をオールバックにした偉丈夫で、先ほどの放送はこの男によるものだ。
院長室、と呼ぶよりも豪奢なパーティ会場のフロア、と呼んだ方がしっくりくる部屋に集まった面々は、顔を醜く歪めながらそれぞれの前にある盃を手に取る。彼らの正体は大企業の重役や政治家など、権力と金と時間を持て余している名士たちで、ラムセスの同好の士、共通の趣味を持つ者たちである。シナイ隔離病院の院長室は、三か月に一度、こうして彼らの拠点として使われる。
彼等の共通の趣味とはハンティングのことだ。最初は狐やウサギなどの小動物を、更にスリルと興奮を求めてクマや虎、ライオンなどの肉食の大型獣を狩るようになる。だが、それにも飽いてきた。もっと自分を楽しませる狩りは無いのか。そこへ、ラムサスは話を持ちかけた。殺してもいい命を使って、最高のハンティングを提供すると。
ラムセスは常々、定期的に処分する能力者たちを、もっと有効活用できないかと考えていた。彼らを隔離しておくにも、死体の処理をするにも金がかかる。どうしてゴミみたいな連中の為に金を使わなくてはいけないのか。どうせ死ぬなら、もっと病院の為、自分の為に死ねばいいのに。
そんな時、一人の能力者が脱獄した。シナイ隔離病棟始まって以来の失態に彼は焦ったが、すぐに問題は解決された。シナイ島は沖合三十キロに浮かぶ絶海の孤島であり、島の周囲は潮の流れが速く、水も冷たい。泳いで陸に戻ることなど不可能だった。ラムサスはその能力者を捕らえ、自分の手で処刑した。また、脱獄の事実をもみ消した。
そこで彼は思いつく。脱獄の事実をもみ消せるということは、この島で起こることは誰にも知られることがない。ならば、ここを自分の好きなように管理できるということではないのか。ここを、【狩場】にすればいいのではないのか。
ビジネスチャンスだ、ラムセスは確信した。富も名声も権力も持った者たちの最大の敵は退屈だ。そんな彼らに、最高のエンターテイメントを提供できる。会員制のクラブにして高額な会費を徴収すれば資金も得られる。秘密のクラブなんて金持ちが好きそうな言葉だ。それらはやがて金持ちの間でステータスになるだろう、そうすればもっと多くの会員が集まる。金が金を呼ぶ仕組みだ。警察や政界の人間を巻き込めればもっといい。こちらの行為は世間的にはさすがに認められないが、彼らの協力があれば司法の目がこちらに届くことは無い。この島と、クラブは自分たちが気にしなくても会員の手によって守られる。自分たちは場所さえ提供すればいい。獲物はただで手に入る。世界中の善良な人々が能力者を捕らえて送ってくれるのだ。元手はかからず、宣伝も会員たちが勝手にするため不要。これ以上ないビッグビジネスの到来だった。
ラムセスの思惑通り、クラブの会員は同じ知恵や感情を持つ、同じ人を殺す背徳感を覚えてしまった。時にこちらを欺き、時にこちらを罠にかけようと足掻く彼らを真っ向から力尽くでねじ伏せる、他者よりも自分が優れている、自分は強いと実感させてくれる最高のハンティングに、彼らは酔いしれた。いくら払ってでも良いから会員になりたいという者たちが後を絶たなくなった。
そして今、彼らは自分の手元にある島の地図を熱心に見ている。地図には所々に印がつけられている。過去に行われた狩りから得られた、能力者たちが隠れやすい場所だ。ここにいるだろうか、どう追い詰めようか、何匹狩れるだろうか、会員たちは楽しげに今日の狩りの予定を話し合っている。この日だけは、島に仕掛けられた監視カメラは全て電源を落とされ、看守たちも最低限の人間を残して休暇を与えている。万が一にもこのことを外部に漏らさないようにするためと、狩りをより楽しむためだ。始めから獲物の位置が分かっては楽しみも半減してしまう。自力で獲物を見つけ出すのも、楽しみの一つだからだ。
ワイワイと遠足前の子どもの様に浮かれる彼らを見ながら、ラムサスは満足げに頷いた。
「よくやってくれたな。サレム」
後ろに控える青年に声をかけた。呼ばれた青年は、恭しく頭を垂れた。
「今回集まったのはガキどもと爺だけで、逃げると言う発想が出たかすらも怪しかった。お前が扇動したおかげで、ようやくゲームが始められる」
「お褒め頂きありがとうございます。院長に頂いた慈悲に少しでも恩返しが出来ればと思い、尽力させていただきました」
「殊勝な心がけだな」
鷹揚にラムセスは頷く。
「ですので、院長。厚かましいお願いではございますが、なにとぞ・・・」
「分かっている。お前の妹だけは生かして保護してやる。会員たちにも、妹に危害は加えぬよう誓約書まで書いてもらっているから、安心しろ」
「お心遣い、感謝します」
床に頭をこすり付けんばかりに下げるサレムを、ラムセスは汚物を見るような目で眺めた。彼の目の前にいるサレムは、どこから嗅ぎつけたのかこのクラブのことを知っていた。そして、みじめに命乞いをした。妹の命を助けてほしい、そのためなら何でもする、と。始めはラムサスも相手にしなかった。サレムは、自分を利用したときのメリットをいくつか挙げた。自分なら、今後も送られてくる能力者たちを上手くそそのかし、ラムセスの手を煩わせることなく能力者をまとめ、脱獄させるよう仕向けられる。また、サレムの妹であるエルの能力も、そのまま捨ててしまうには惜しかった。自分なら上手く妹を操り、ラムセスの役に立つような能力の使い方をさせられると言った。彼は、自分たちが助かりたいがために、他の能力者の命を売ったのだ。
流石は薄汚い能力者だ、とラムセスはサレムを蔑んだ。けれど、彼の提案がなかなか魅力的なのも事実だった。ラムセスはサレムの願いを聞き届け、彼を能力者の中にスパイとして潜り込ませた。
「感謝よりも、だ。サレム。貴様こそ、約束を忘れてはいまいな?」
「もちろんです。むしろ、今回のことで命を奪わないでいてくれた院長に妹は感謝し、自ら院長の為に能力を使うでしょう。ただ・・・・」
サレムが顔を曇らせるのを見て、ラムセスは眉根を寄せた。まさか、ここまで期待させておいて出来ないと言うつもりか。
「ただ、何だ?」
「いえ、院長の願いを聞いていないものですから。具体的な願いが分からないと、いかに妹とて叶えることはできません」
「ああ、何だ。そう言う事か」
ホッとしながら、ラムサスは自分の顎を撫でた。いざ願いと言われるとありすぎて悩む。一生遊んでも使い切れないほどの金か? ありとあらゆるものを平伏させるほどの権力か? 願いは尽きない。
「今すぐには決められんな。この狩りが終わるまでには答えを出しておく」
「よろしくお願い致します」
そう言って、サレムは下がった。
「ふん、自分のことしか考えない、浅ましき能力者が。一丁前に俺と交渉したつもりか」
出て行ったサレムを、ラムセスは吐き捨てた。ラムセスは彼を生かすつもりなど毛頭なかった。むしろ、ホッとしたところを殺そうと考えていた。
「願いさえ叶えさせたら、貴様ら兄妹も用済みだ。揃って追い立てて、仲良く殺してやる」
だが、まずは会員たちを満足させてからだ。ラムセスは頭を切り替え、顔を経営者に切り替えて、会員たちを労うために彼らの話の輪の中に混ざりに行く。
「駄目だ。何もありゃしねえ」
ぐるりと島を回ってきた百々瀬に分かったのは、船などの道具がなければ脱出が困難だという事実だった。仮にあるとするなら、シナイ隔離病院の中だろう。今から戻るのは無謀すぎる。
「打つ手なし、か」
ヤスじいが肩を落とした。
「打つ手なしと決まったわけじゃねえ。まだやれることがある」
「やれること、とは?」
「例えば、これから出てくる連中を一人ずつぶちのめす」
「ぶちのめす、とは、なかなか過激な発想だが、可能なのかえ?」
「不可能じゃない。ぐるっと回ってきたついでに下見をしておいた。もし追っ手が来た時を想定して、いくつか待ち伏せが出来る場所を見つけた。もちろん、相手もそのことを知っているだろうから、そこを逆手に取れば何人かは倒せる。で、倒した相手の武器を奪って、ゲリラ戦でも仕掛けて敵を施設から全員引きずり出す。島に施設を創るくらいだ、自分たち用に脱出用のヘリなり船なりあるはず。俺が引き付けてる間に、あんたがそいつを奪えばいい」
「老いぼれに無茶を言う」
「言ったろ、出来なきゃ死ぬだけだ。『あいつら』もこの程度のことは想定してんだろ。連携はとれねえが目的が一緒なら、俺たちがこれからどういう手に出るかぐらい察しが付くとおもうぜ。一人はともかく、もう一人は察しがよさそうだからな」
「まあ、そうじゃな。嘆いていても始まらんか。しかし、そうなると」
ヤスじいがちらりと子どもたちを見た。つられて、百々瀬も目をやった。彼らを守りつつ、敵を倒す。言うは易し行うは難し。現実は難しいことばかりだ。想定外のことだって起こる。だが、やるしかない。出来る出来ないではない。やるのだ。
ごほ、ごほ、げほ
ヤスじいはハッとして、すぐさまそっちに向かう。エルが蹲り、息苦しそうに両手を口に当てながら咳き込んでいた。
「エルちゃん!」
すぐさま体を支える。エルの顔は真っ青で、口元にあてた小さな手からは血が漏れていた。
「お、おい。爺」
さすがの百々瀬も驚きを隠せない。答える余裕のないヤスじいは、ポケットから薬を取り出し、エルに含ませる。荷物から水の入ったペットボトルを取り出して、ゆっくりと吞ませた。薬が効いてきたのか、エルの顔色は徐々に戻り始め、呼吸も落ち着いてきた。
「まさか、エルの奴・・・」
「言うな!」
ヤスじいが怒鳴った。穏やかな人柄からは考えられないほどの、悲痛な叫びだった。だがそれだけで、百々瀬は察してしまった。彼女はもう、長くないのだと。そう言えば自分が検査を受けた時、彼女も同じように検査をすると言っていた。もしやこのことだったのか。
「能力が消えたからか」
「・・・いや、それよりももっと救われん話さ」
ヤスじいがポケットから薬を取り出した。先ほどエルに吞ませたものと同じ物だ。
「こいつがなんだかわかるか」
「薬、じゃねえのか」
まさにそれを飲んでエルは回復したのだから。
「毒じゃよ。シナイ病院のラムセスは、エルの力を恐れてこれを飲ませたんじゃ。『寄生木の根』という最低の毒じゃよ。体内に入れば徐々に体を蝕み激痛を与える。解毒薬は無く、症状を緩和させるしかない。が、その緩和させることが出来るのもこの寄生木の根だけなんじゃ」
麻薬みたいなものか、と百々瀬は辺りをつけた。
「一息に死なせてくれず、また、いくら緩和しているとしても同じ毒を飲み続けているのだから体には毒素が蓄積し、症状は進行する。じわじわと、真綿で首を絞めるように。これで相手に死神の足音を聞かせて、生きる気力を奪う。生きる気力を失えば、人は全てがどうでも良くなる。そうなった人間を意のままに操るための毒なんじゃ」
そんなものを、こんなガキに飲ませたのか。
「それは、こいつの力で願いを叶える為か?」
「それ以上に、自分たちの命を守る為じゃ。寄生木の根の厄介なところは、毒の成分を簡単に変えることが出来るということじゃ。十人が作れば十通りの毒が作れてしまう。そして、同じ成分のものでしか症状が緩和できない」
「つまり、その毒を作ったラムセスとかいうクソ野郎は、自分たちを殺せば自分も死ぬ、というような状況を作ったってことか」
そうじゃ。とヤスじいは頷いた。
「おい、じゃあ、あんたが持ってる薬が切れたら」
その問いに、ヤスじいは答えられなかった。
「だいじょうぶよ」
代わりに応えたのはエル本人だ。
「あのね、ヤスじい。わたし知ってるよ。わたし、もうすぐしぬんでしょ?」
「エルちゃん・・・」
「おくすりをのむかいすうがおおくなってきたから、そうかなって」
ヤスじいは痛ましげに顔を歪めた。
「モーセさん」
エルが百々瀬の顔を見上げた。
「わたしはもうすぐしんでしまうけれど、ほかの子たちはにがしてあげてね」
こんな時、普通なら「死ぬなんて言うな」など慰めの言葉を使うだろうが、百々瀬はそれを口に出来なかった。気休めにしかならない言葉を、大人顔負けの覚悟を決めたエルに通じるとは思えなかったからだ。それよりも、彼女の願いを叶えた方がまだ彼女の生きる活力になるだろう。
「・・・最善は尽くしてやる」
そう返すにとどめた。それでもエルは満足したか微笑む。
「へへ、ありがと」
そのまますっと瞳を閉じた。
「おい!」
百々瀬は慌てて膝をつき、エルの肩を掴む。隣でヤスじいが慣れた手つきで脈拍や呼吸を確認する。
「安心せい。眠っただけじゃ。寄生木の根の副作用で、飲んだ後は体力をかなり奪われる。大人でも体が動かせないほどだるくなるんじゃ」
そんなものを、今まで飲み続けていたのか、そんなものをこれからも飲み続けなければならないのか。ふつふつと、百々瀬の中に積もる。
「有言実行してやる。自分の言葉に責任を持って、このガキどもを逃がしてやるさ」
「悪党のルール、かの?」
「いいや、俺のルールだ」
「僕たちのことは、別にいいよ」
覚悟を決めた百々瀬とヤスじいの間に、いつのまにか一人の子どもが近づいてきていた。サレムやイスラを除けば、子どもたちの中で一番の年長者だ。とは言っても十歳なのだが。
「何だよ別にいいって」
顔をしかめながら百々瀬は尋ねた。彼は自分の仕事の邪魔をされるのが嫌いだ。それは物理的な妨害だけに留まらず、自分のテンションを下げるようなことも含まれる。だからサレムに否定的な言葉を使うなと言い含めていた。
「僕たちのことはほっといてくれていいよ」
そんなことは露知らず、子どもはあっけらかんとして、微笑みながら言った。見れば、その子の後ろに控える他の子どもたちも、同じような顔をしていた。
「・・・何でだ?」
百々瀬の眉間のしわが深くなる。
「モーセさんたちだけなら、逃げ出られるんでしょ?」
気づいているのかいないのか、子どもは続けた。
「僕たちを連れていると、モーセさんやヤスじいは逃げられないんでしょ? だったら、僕たちをほうっておいて逃げた方がいいよ」
「お前、それ本気で言ってるのか?」
ともすれば震えそうな声を押さえて、百々瀬は聞いた。子どもは、なぜ百々瀬がそんなことを訊くのかが不思議なようで、首を傾げながら答えた。
「だって、大人は邪魔になったら子どもを捨てるものでしょ?」
当然の常識を話すかのように。昨日、ヤスじいも言っていたことだ。親からも生きていることを疎まれた子どもたちは、今目の前に迫っている危機を危機として認識していない。なぜなら、自分の命は大事ではないからだ。大人の勝手な事情でここに連れてこられたことも、全て自分のせい、いや、そういうものなのだと思っている。死ぬことが普通だと。
人間はいつか死ぬ。必ず死ぬ。百々瀬がサレムに言ったことだ。だが、それにはもう一つの意味がある。しかし、この子供たちが考えている『死』には、それがない。
さっきから我慢していたが、もう限界だった。臨界点を超えた百々瀬は、何も言わず、目を細め、拳を振り上げ、振り降ろした。情け容赦など微塵もなく、その子どもの脳天に。
ゴッ
子どもは悲鳴すら上げられず蹲った。それを見ていた子どもたちは驚きに目を丸くさせ、蹲る子どもと百々瀬を交互に見比べた。
百々瀬と、子どもたちの目が合う。彼らに向かって、百々瀬はつかつかと歩み寄る。子どもたちは蛇に睨まれた蛙のように固まり、その場から一歩も動けないでいた。
ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ
ピアノの鍵盤をドから順に奏でるように、百々瀬は子どもたちの頭に拳骨を落としていった。音階は全く変わらず、子どもたちのうめき声も低音ばかりだが。
「ざけんなクソガキ共が!」
蹲った子どもたちに、頭上から百々瀬が怒鳴りつける。
「なぁにが別に良い、だ。何が良いってんだ答えて見ろ!」
「そ、それは、僕たちのことなんて」
涙目になりながらも、最初に殴られた子どもが、懸命に答えようとして
ゴチッ
再度拳骨が落ちて強制的に黙らされた。
「何が『僕たちのことなんて』だ! 俺たちは『なんて』扱いされるクソガキ共を助けてるってのか! あぁ!?」
百々瀬はそう叫び、エルを抱きかかえ、彼らの前に見せつけるようにして掲げる。
「そんな奴らを助けるために、こいつは命張ってるってのかよ!」
「だって、だって、しょうがないじゃないか。僕たちは、この世にいてはいけないんでしょう? 何の価値もないから、生きてるだけで罪なんだから」
「笑わせんなクソガキ。いいか、この俺がお前らに教えてやる。人間はな、誰も彼もが生まれた瞬間に罪を背負うんだよ。お前らだけじゃねえ。お前らをここに送った連中も、世間で知らん顔して生きてる連中も、俺もお前もこいつらも全員だ。それでも俺たちはここにいるんだよ。そうやって人間は生きてるんだよ。罪を帳消しにして余りあるくらいの結果を残すためにだ! 価値がねえ? 当たり前だ。はじめっから価値のある奴なんぞいるわけねえだろが! 価値ってのはな、自分でこさえるしかねえんだよ! 自分が生きて歩いた分が、自分の価値なんだよ。お前ら自分の意志と足で歩いてもねえくせに自分の価値を語るんじゃねえ!」
百々瀬は子どもたちを睨みつけた。
「でも、無理なんだろ?」
他の子どもたちも立ち上がり、百々瀬を囲む。
「逃げられないんでしょ?」
「どこにも帰るばしょなんてないんでしょ?」
「どうがんばってもむいみで、死ぬしかないなら、もう、諦めるしかないじゃない」
彼らは一様に笑っていた。今まで、そうやって少しでも相手からの悪意を減らそうとしてきたのだ。笑顔は彼らにとって自分の身を守る武器であり、その鋳型で作られたような鉄の仮面は彼らの心を内側に抑え込む壁だったのだ。だが今、百々瀬の拳骨による痛みが、彼らの心の壁に一時的にヒビを入れたのだろうか。胸の奥から湧き出る何かが、子どもたちの目から噴き出していた。押さえつけられてきた子どもたちの初めての感情の吐露だった。
そんな彼らを、百々瀬は鼻で笑い飛ばした。
「決めたぜ。これまでは頼まれたからお前らを助けようとしてた。けど、これからは違う。俺自らの意志でお前らを完璧に脱出させる」
百々瀬は宣言した。己の言葉に責任と絶対の自信を持つ男からの言葉に、子どもたちは聞き入った。
「お前らに聞くぜ。俺は何者だ?」
「え?」
子どもたちがきょとんとした顔で彼の顔を見返す。
「元の世界では泣く子も黙る大悪党、かの?」
にや、とヤスじいが答えると「その通り」と返答が来た。
「お前らに一つ、悪党のルールを教えてやる。あらゆる悪党に共通するルールだ。それは、正義の味方以上に諦めないんだ。諦めたらそこで殺されるからだ。悪党は悪を成すために生きなければならない。正義は誰かがその意志を引き継ぐからまだましだ。悪党の悪は、そいつ一人きりだ。死んだらそいつの悪は終わる。だから悪党は諦めない。俺は諦めてやらない。そして、諦めの悪い俺は、いつだって自分の願いを力尽くで叶えてきた。今回だって必ず叶える。お前らをここから助け出せばどうなると思う? まず、あのクソ生意気な放送しやがった連中とこの病院の信頼は一気に失墜して世間から袋叩きに遭う」
「ざまあみろ、じゃな」
百々瀬の言葉に、ヤスじいは合いの手を入れる。
「そして、能力者は捕まえても簡単に逃げることが出来る、それどころか、これまでされるがままだった能力者たちが反旗を翻したと世間の皆々様は思うだろう。お前らを迫害することで保たれていた仮初の平和は終わりを告げ、この世界の安全神話は崩壊して治安が不安定になって暴動が起きる」
「悪党の本領発揮じゃな」
「ああ。ようやく分かったぜ。俺がここで成すべき悪を。この世界を混沌の坩堝へ放り込むことだったんだ。お前ら能力者を生かすことで、だ。以上の理由によって、俺はお前らを全員助けるし、これから先出会う能力者たちを助けてこの世界を大混乱に陥れる。俺こそが悪、世の平穏を乱し常識を嘲笑い脅かす大悪党だ。だから言えよ。お前らが助けてほしいと言うなら、生きたいと言うなら、心から願うなら。お前らが無理だ無茶だ不可能だと嘆くその常識、この俺が見事ぶっ潰してやる。だから、言えよ」
子どもたちは各々顔を見合わせ、それからヤスじいを見た。良いのか。その言葉を、自分たちは本当に言っても良いのか。ヤスじいは優しく微笑み、頷いた。当たり前だ、と。当然の権利だと。声高に叫べと。
「まだ、生きたい」
「生きて、色んな所に行きたい」
「もっとみんなといたい」
「たくさんおいしいものがたべたい」
「みんなとあそびたい」
「「「だから」」」
―助けてください―
真摯な願いは、この世界にとっての悪に届く。悪は口の端を吊り上げ、牙を剥いた。
「悪党の本気、見せてやるよ」
その時だ。地鳴りのような音が響き、突風が吹き荒れた。木々が折れんばかりに揺れ、砂埃が視界を覆い隠す。
「なん、じゃ、こりゃ・・・」
最初に気付いたのはヤスじいだ。砂埃が収まり、顔を上げたところでそれに気づいた。やがて、子どもたちもその『異変』に気付く。彼らの方を向いていた百々瀬だけがまだ気づいていない。彼らは、自分の後ろの光景を、信じられない物を見るような、呆然とした顔で見ているのだ。
「何だってん・・・・」
そして、振り返った百々瀬もまた、固まった。
海が、割れていた。
まるで悪党の本気に恐れをなしたかのように、何万トンでもきかない莫大な量の海水が百々瀬の前に道を開けていた。
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