第62話 砂漠に咲く花
イスラとヤスじいが百々瀬について話している時、当の本人は、サレムと脱出についての作戦を練っていた。
「ビャァックショイ!」
唾をまき散らしながら、百々瀬はくしゃみを炸裂させた。
「大丈夫ですか?」
サレムがトイレットペーパーを千切って渡す。トイレットペーパーはトイレだけではなく、鼻をかむこともできれば汚れを拭いたりすることもできる万能道具だ。
盛大な音を立てて鼻をかんだ百々瀬だが、勢いがありすぎたのか鼻水は紙を突き破って手に付着した。
「手、洗ってきていいか?」
ちょっと悲しい気持ちになりながら、サレムに断って洗面台で手を洗う。万能道具トイレットペーパーの利点であり弱点は水に溶けることだ。高級品になればそれも解消されるのだろうが、ここに置いてあるのは再生紙を使用していてエコロジーが売りの最安値の物だ。ダブルロールではない。
「で、何だっけ。どこまで話したっけか?」
手を振って水を切り、それでも残った水気を服で拭いながら百々瀬が戻ってきた。
「はい。ええと、看守の人員交代と、この施設の見取り図の説明ですよね」
おう、と百々瀬は頷く。
「看守の交代は六時間おきで間違いないのか?」
「多少の誤差はあるかと思われますが、それも数十秒、長くても一分かそこらでしょう。まず間違いありません。毎日〇時、六時、十二時、十八時に交代します。交代要員は十五分前に現れ、引継ぎ作業を行います」
「そうかい」
百々瀬はテーブルの前に広げられた地図を見る。地図と言っても、建築に使う様な、精巧なものではない。誰が見ても素人と分かるような手書きの地図だ。ここに来てから、サレムたちが実際に歩き、目にした場所が俯瞰図で描かれている。それを、百々瀬は食い入るように見つめていた。
「その、すみません。こんなのしか用意できなくって」
自分たちの地図が信用に足らないと思われている、サレムはそれを危惧して、少しでも信じてもらえるよう、記載されている部分に関しては何一つ問題ないことをアピールしようとした。
「ああ、別に、コレ大丈夫か? なんて思ってねえよ」
苦笑しながら百々瀬は言った。
「そんなもん心配する時期は、とうの昔に過ぎ去ってんだよ」
「すみません・・・」
「謝るのも無しだ。謝って済むならこの世の問題の全ては土下座一つで丸く収まるんだよ。言っても仕方ねえことを言っても仕方ねえだろうが。いいか、これから脱出成功するまで、弱気な言葉、否定的な言葉を使うな。俺のモチベーションが下がる。わかったら、返事は?」
「はっ、はいっ」
それでいい、と百々瀬は再び地図に意識を向ける。
「今あるものでどうにかするしかないんだから、こいつを疑うなんてことはしない。俺としては何もない状態から手探りで脱出するつもりだったんだから、情報としては充分価値がある。なんでもいいから確実な道があれば、使いようはあるんだよ。選択の幅を狭められるから、迷う時間が減る」
「では、いったい何を気にされてたんです?」
「ん、まあ、色々とな」
百々瀬が気にしているのは、この地図に出口まで書かれていることだ。つまり、彼らは出口付近まで移動したことがあるということになる。眠らされて、気付いたらここにいたということは、彼らはこの施設に入れられるところを見てないはず。ならいつ出口の存在を知ったのかが問題になってくる。
検査か何かで出口付近まで移動させられた時、偶然誰かが外に出た、あるいはそれを見た可能性? しかし、すぐに首を振ってその可能性はかなり低いと断ずる。百々瀬の持つ常識ではありえないことだ。出口を知られてしまえば、当然脱走のリスクが高まる。ましてやどんな能力を持っているかわからない連中を閉じ込めるのに知らせるメリットがない。
看守が知らせたんじゃないとすれば、子どもたちの中の能力、たとえば空間把握能力の凄い版を持ってるなどが考えられる。自分の半径何メートルまでにある空間を壁越しであろうとも把握できるとかだ。
しかしその推測も怪しい。もしそれならば他にも情報が載っているはずだからだ。
では先ほどの話に出てきた無線を傍受できる子どもの能力か。もしくはそれに似た能力、たとえばどんな些細な音も聞き分けられる能力とか。
「それも、考えづらいか」
超能力がどれほど便利かわからないが、そこまで万能ではないはずだ。それならばすでに彼らは脱出できている。
ならば、残っている可能性はそう多くない。だがそれは、聞いても素直に話してくれなさそうな内容になる。無暗に藪を突いて警戒されるよりは、知らないふりをしておいた方が良いと百々瀬は断じ、話を変える。
「お前は本当に良いのか?」
地図から顔を上げ、百々瀬はサレムの顔を見た。
「と、言いますと?」
「さっきの話だよ」
さっきの話とは、サレムが百々瀬に語った覚悟のことだ。その覚悟は、他のメンバー、先ほどのイスラやヤスじいは知っているのか、という意味もある。
「ええ、その方が作戦の成功率も高まるはずですから」
「そりゃ否定しねえけど、俺が聞きたいのはそう言う事じゃないんだがな」
わざとその辺をはぐらかしていることが分かったため、百々瀬はそれ以上の追及をしなかった。
「じゃあ、予定はこうだ。明朝六時の見回りの看守が入れ替わるタイミングを突く」
「深夜〇時ではなく?」
サレムの想像では、闇にまぎれる深夜の交代時間になると考えていた。
「それも考えた。が、今回は子どもがいるからな。あいつらが夜更かし大好きなら話は変わるが」
「みんな、規則正しく九時には寝ますね」
納得の理由にサレムは苦笑いを浮かべた。
「それに、早朝も選択としては無くは無い。夜明け前が一番昏いもんだ」
なるほど、と感心した様子でサレムは相槌を打った。
「途中のカギがかかった通路などはどうします?」
「それなんだが。もう一度確認するが、ここのカギ、お前らが見たのは全部ウォード錠、こういうテルテル坊主みたいな、頭が丸くてその下に扇みたいな形をした穴のある、シンプルな奴だな?」
あれと同じ奴だな? と百々瀬は自分の背後にある扉を指して、念を押した。
「ええ、はい。覚えている限りでは、全てそのような形だったと思います。外側には、こう、ツマミがあって、それを回すことでカギをかけることが出来るタイプのはずです」
百々瀬は腕を組み、唸る。
「その、何か懸念事項が? その、解除するのに手間がかかる、とか」
「逆だ。ウォード錠は他のカギ、一般的に普及しているビンタンブラーとかよりもセキュリティ性能が低い。ぶっちゃけ針金一本ありゃ簡単に開けられる。コツさえつかめばお前らでも開けられるはずだ」
「そ、そんな簡単なのですか」
強固に閉じられた扉が、実は簡単に開けられると知って愕然となる。
「そうだ。それが逆に怪しいっちゃ怪しいんだが」
がりがりと頭を搔く。
「なあ、本当に、今までここから脱出できた奴はいないのか?」
「記録上では、一人もいないはずです。仮にこの施設から脱出できたとしても、我々がそうだったようにここに来るまでの道を知りません。収容所ですから、どれだけ人里から離れているかもわかりません」
山奥だったり、砂漠のど真ん中だったりする可能性もある、ということか。
「それでもどうにかして逃げおおせたやつとかいるんじゃないか?」
「否定はできません。けれど確認もできません」
全員死んでいるのだから、確認のしようもないし、逃げ出せて生きていたとしても複数の意味で記録は残らないだろう。逃げた本人が名乗り出ることなど間違ってもあり得ないだろうし、施設側としても逃げたなどと世間に知られるわけにはいかないからだ。この施設に能力者が放り込まれることで、それ以外の人々は一時の安息を得る。ああ、能力者がまた一人収監された、だから危険が一つ減った、安心だ安心だ、そんな風に。もしこの施設が完全でないとわかれば、人々は勝手に恐れて勝手に暴動を起こすだろう。
それもそうか、と百々瀬は頭を切り替えた。
「分かった。じゃあ、ガキどもを連れて来い。あいつらにも説明をしておく必要があるからな」
わかりました、とサレムが席を離れる。入れ替わりに、今度はヤスじいとイスラが戻ってきた。エルはヤスじいの背中で眠っている。
「方針は決まったかの?」
「一応な。ガキどもが来たら、まとめて話す」
「それは何より」
「大丈夫なの?」
ヤスじいの隣でイスラが疑念に満ちた顔で尋ねた。
「あんたの考えがどんなのか知らないけど、子ども達全員を無事逃がせるんでしょうね?」
「悪いが。大丈夫、なんて安請け合いはしない主義だ」
「ちょっと!」
「勘違いをしているようだからもう一度言っておく。前提として、俺は泥棒、悪党なんだよ。安心と安全を売っているわけじゃない。その安心と安全をぶち壊しにする商売をしてたんだ。この時点で、そもそも依頼をする人間を間違っている」
そう言う保証が欲しけりゃヒーローにでも頼め、と百々瀬は皮肉げに言った。
「残念ながら、そんな都合のいい者はおらんのう」
バチバチと放電させて怒りをあらわにしたイスラを抑えるようにして、ヤスじいが先んじて笑い声をあげる。
「そもそもが、儂らはこの世界では悪なのじゃから、正義のヒーローが救うべき対象ではないしの」
「はっ、救う対象をえり好みするような奴はヒーローじゃねえよ」
「おや、ヒーローに詳しいのう。元の世界におったか?」
「いいや。お目にかかったことはねえ」
そうか、とヤスじいは目を細めた。百々瀬の世界もまた、この世界と同じように理不尽が横行しているのだ。
「こちらがお前さんに無茶を言っているのはよく理解しておる。ただまあ、この子の不安も少し汲んでやってくれんか。イスラは、ここの子どもたちを守る為に今まで必死で頑張って来たんじゃ。母代わり、姉代わりとして子ども達に面倒を見てきた。その子たちが明日にも殺される、そう訊いて不安にならないはずがないじゃろう」
「だから大丈夫だ、安心しろって気休めを言えってのか? それで仕事の成功率が上がるならいくらでも言ってやる。けどな、実際はそんなことは起こらねえし、俺に誰も彼も救えるほどの力があるわけじゃねえ。俺の腕は二本しかねえんだ」
「なによ、結局自信がないから頼るなってことじゃない。情けない。任せておけ、くらいズバッと言えないの?」
「その自信のねえ男しか頼る術がねえんだろうが。藁をもつかむ状況の癖にぐだぐだ文句抜かすなクソガキ」
「な、く、クソガキですって! あのね、私、今年で十六、もう立派な大人!」
「俺から見りゃお前ら全員クソガキだ」
「おや、儂もか? そんなに若く、見えるかの?」
「うるせえクソ爺」
言葉を区切りながらいちいちポーズを決めるヤスじいに、うんざりしながら百々瀬は吐き捨てた。
「じゃあ、みんな。今日は早く寝ようね」
サレムが言うと、子ども達ははーい、と手を上げて元気よく返事した。そこには悲壮感も緊張感も感じられない。明日の脱出を遠足か何かと勘違いしてるんじゃないだろうかと百々瀬は不安になった。そりゃ、分かりやすく言えば明日は朝早くから出かけるので早く寝ろ、ということになるが。事は自分の命にかかわることだと言うのに、その重大さを理解しているのだろうか。
「残念じゃが、理解しておらんよ」
隣に立ったヤスじいが言った。
「ガキに理解を求めるなってことか?」
「そうではない。この子らが、自分の命が大切だということを理解してない、ということじゃよ」
「どういうこった?」
「この子らは、能力があるからと実の親にすら憎まれ、捨てられた子たちじゃ。お前らなど不要、生まれてこなければよかったと面と向かって言われたのじゃ。子どもたちは『自分の命は大切な物ではない』と思い込んでおる」
子ども達は明日自分が死ぬことに対して、そうなんだ、くらいの感想しか持ち合わせていない。
「そんな子らに愛情を与え続けたのがイスラじゃ」
「ふん、砂漠に花を植えるような話だな」
「儂もそう思う。けれど、イスラの献身によって枯れることなく元気に成長しておる」
ヤスじいが優しい目で子ども達と、彼ら一人一人に布団を賭けているイスラとサレムを見つめる。
「のう。人はこの子らを悪と呼ぶ。忌み嫌う。では人の言う悪とは何じゃろうか? 自称悪党殿」
「自称じゃねえ。自他ともに認める悪党だ」
こりゃ失敬、と笑うヤスじい。
「悪ってのは、平気な顔で人を傷つけられる存在だよ」
ぽつりと百々瀬が呟いた。それがいまさっきの自分の質問の答えだと気づいたヤスじいは、百々瀬の顔を見上げた。
「俺の、数少ない知り合いの話だ。そいつは普通の人間だった。ダチとつるんだり、学校で勉強したり、笑ったり泣いたりしながら普通の生活を送っていた。あるとき、ダチの家族が死んだ。詳しくは分からずじまいだが、殺人だった。けど、法律では殺した相手を捌けなかった。悪じゃなかったからだ。法律的に。そして、ちとシスコンなのが欠点なだけの、いたって普通のそいつは変わった。全く笑わなくなり、そのうち学校にも来なくなった。家に行っても不在で完全に行方をくらませた。何年か後、そいつの家族を殺した連中の一人が、死体となって発見された。それから次々と殺人の首謀者たちは数を減らし続け、やがて全員くたばった」
「それは、まさか」
「街で、偶然あいつを見つけた。で、いなかった間の話を聞いた。今あんたが想像した通りのことを、平然とした顔で行った、と平然とした顔でぬかしやがった。だから、もう俺たちと顔を合わせる資格は無いからと、そいつは俺や、ダチの前から姿を消した」
それ以降、奴とは会ってない。百々瀬は話を締めくくった。
「そいつが言っていたことなんだが、結論として悪党と普通の人間は別の生き物なんだそうだ。遺伝子学とかその辺のことは良くわからねえけど、悪党は脳とか、魂だか心だかわからねえが、どこかが変異する。一線を超えると、ああ、変異したな、ってのが分かる。その一線は一度超えると二度と戻れない不可逆性がある。悪党は人間には戻れない。逆は簡単に超えられるけどな。だから、普通の人間でいられるというのは、実は凄えことなんじゃないかと俺は思う」
そして、百々瀬は寝息を立て始めた子どもたちを見やる。
「あいつらは悪ガキどもではあるが、まだ悪にはなってねえよ」
面倒臭そうに話す百々瀬を見て、ヤスじいは思わず笑みを浮かべた。悪に関する考えは、そのまま反対の性質についても理解できる。
「んだよ爺。気味悪い」
「ふほ、いやなに。悪党殿から見れば、この子らは悪ではないのだな、と思ってな」
「はん、悪と名乗るのもおこがましいぜ」
そうかそうか、とヤスじいは顔を綻ばせる。百々瀬は、言葉だけの気休めなど何の役にも立たないと言うが、そんなことは無い。ヤスじいはこの中で当たり前だが最年長。この世界の【常識】に一番長く浸っている。彼自身、能力が発現するまではこの世界で言うところの一般人であり、能力者を何の理由もなくただ恐れた。その考えはやはり頭のどこかに染みついており、どこかで能力者は悪、という考えは正しいと思っている。
異世界の人間の常識は違った。そのことがヤスじいの頭についた常識のシミを消し去った。これまでどこか口だけであった、能力者とは言えど善人と悪人がいる、という考えを、ようやく心の底から信じることが出来た。ヤスじいにとっては大収穫だ。これからは胸を張って、この子たちは悪ではない、と断じることが出来るのだから。命を賭けて守る価値がある、と信じ切れるのだから。
「百々瀬殿。改めて頼む。イスラが育てたこの子らを、砂漠にようやく芽生えた花のつぼみたちを、咲かせてやってはくれんか」
「だから、爺。あのな」
「頼む。この通りじゃ」
深々と頭を下げた。チッ、と百々瀬は舌打ちして、ヤスじいから顔を背けた。
「・・・咲かせるのは、結局本人の努力次第だ。俺の知ったこっちゃない」
俺も寝る。と移動して、部屋の片隅で丸くなった。脱出の手助けはしてやる、という分かり難い回答だった。
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