第34話 迷った時の道標
金での取引というのは、いつから生まれ始まったんだろうか?
一枚の貨幣に物と同価値があると、全ての人間が信じていなければ取引は始まらない。あちらに世界にいた時は当然のように、何の疑問も抱かずに使っていたが、こっちに来てから金のありがたみが身にしみて分かった。
この世界の文明はまだ発展途上だ。だから、田舎であればあるほど、物々交換が主流、というかそれしかない。金という概念がないのだ。少なくとも自分の持っているものと同価値のものとしかトレードできない。そのせいで、飯屋で飯を食うのに自分たちで獲物を取ってこなければならないという本末転倒なことを一度やらかしている。
だが金は利便性が高い。物の値打ちに合わせて増減ができる、持ち運びがしやすい、あらゆる物品が対象になるなど等、通貨が通用するところならどこでも使える。まさに万能のアイテムだ。
ただ幾ら万能だからと言って、人間一人を買えるというのには少々驚いた。
「さあ、そちらの旦那から、金貨二十枚が出たぞ。見る目がある。この女、今でこそ、このようなボロボロの身なりでいるが、元はシルドの神殿で龍を祭っていた巫女だ。当然その身は龍に捧げたため、純潔を守っているわけだ。さあ、この巫女の固く閉じた岩戸をこじ開けるのは、旦那で良いのかな?」
兵士が慣れたオークショニアのように商品を喧伝する。美しく若い女、それも処女と聞いて、一部の男性バイヤーたちが涎を垂らして熱狂した。みずみずしい褐色の肌を自分の物にしたい、自分色に染めたいという欲望をかなえるために、彼らは惜しまず金額を吊り上げる。
もちろん、教育課程で歴史を多少学んだ身の上だ。あちらの世界でも似たようなことは繰り広げられている。過去幾度となく繰り広げられた戦争には、常に勝者と敗者がいて、負けた方が理不尽な要求を吞むことになるということも知っている。
ただそれを目の前で繰り広げられて容認できるか否か、というとまた別問題になる。特に、人権が尊重される、平和な国で育った人間にとっては。
「下種共が」
案の定、ミハルが怒りをあらわにしていた。すでに手は剣の柄に伸びて、握りしめている。一押しのきっかけがあればすぐにでも飛び出して、兵士たちを斬り伏せに行きそうだ。
それはそれで面白そうだ。運が良ければ自慢のグレンデルとやらが出張ってきて、一戦交えることが出来るかもしれない。彼女を止められるような手練れはあそこにいないからだ。ちなみに、自分ではやらない。僕はそんな後腐れの残りそうな、面倒なことを率先してやりたくないからだ。
僕の心の手は、そうっと彼女の心の背を押そうと近寄っていた。話を聞かないとは言っても、僕の声は彼女の耳を通り脳を刺激する。聞かないと聞こえないは同義ではないのだ。
今の僕はきっと、往年の名優が演じるマフィアのボスのようなあくどい顔をしているだろう。
残念なことに、彼女の感情を撫でさすり、その背を押し出すために考えた幾つかの策を披露することはできなくなった。
異変に気づいたのはクシナダだ。僕は何かに気付いた彼女の様子を見て、何かがあったことに気付いた。
「クシナダ?」
「近づいてくる」
そう言って、彼女は鼻をひくつかせた。肩にかけていた弓を手に取る。
「敵?」
「わからない。けど、四方から血の匂いが近づいてくる」
こんなに近づかれるまで気づかないなんて、と彼女は少し悔しそうに眉根を寄せたが、この人ごみにこの喧噪、そして彼女の嗅覚を邪魔するような死骸の腐臭の中で、かすかに漂う血の匂いと弱々しい悲鳴に気付けるものなどそうはいない。いるとすれば、悲鳴と血をまき散らした本人くらいのものだろう。
「おい、どうした?」
僕らがあらぬ方向を見ていたのに気付いたミハルは、怒りの表情そのままにこっちを向いた。聞かれても困る。僕にも良くわからない。
「武器を持った連中が、近づいてくる。すでに何人か殺されていると思う」
「殺されているって、マジかよ」
クシナダの説明に、流石のミハルも驚く。
「しかしなんだってこんなところで殺人が起こんだよ。確かにぶっ殺してやりてえくらい頭のおかしな連中はいるけどよ」
ミハルが周りで熱狂する連中を見て吐き捨てる。
「あんた、進学校に通ってたんだろ?」
とっくに理由に気付いてると思ってたので、ついつい彼女に口をきいてしまった。
「んだよ。馬鹿にしてんのか!」
その通りなのだが、わざわざ肯定してややこしくしたりはしない程度の分別を僕は持っている。話が進まないから説明する。
「簡単な理屈だ。戦勝国で開かれている奴隷市場に武器もって参戦する連中なんか限られてる。有力なのは、今のあんた以上にこの状況に対して怒りを覚えている連中だ」
今度の悲鳴は、僕にも聞こえた。最前列の一か所が割れ、熱狂がさざ波が引くように消える。空白を埋めるように現れたのは、今競売にかけられている連中同じ褐色の肌の戦士だ。
「何だ貴様らは!」
オークショニアをしていた兵士が、先ほどの巫女の鎖を引っ張って自分のもとに引き寄せ、自分の盾とした。
「攫われた者たちを、取り戻しに来た」
少し小柄な、男か女か判別のつきにくい中性的な容姿をした人物が群衆から一歩進みでる。それを見た奴隷たちが、一斉に目を見開いた。
「ティル様・・・なぜここに・・・」
巫女が苦しげに言った。彼女の言葉に劇的な反応を示したのは、彼女を捉えている兵士だ。
「ティル、だと? まさか貴様、『ティル・ベオグラース・シルド』、取り逃がしたシルド王族の最後の一人か!」
その名は瞬く間に伝染し、兵士たちが一斉に武器を構えた。
「名前を知っているのなら話は早い。そこに理不尽にも拘束されているのは我らの民。返していただく」
「笑わせるな! こいつらは我らロネスネスが負け犬から勝ち取った戦利品だ! 返せと言われて返すわけがない。我々の物だからだ!」
それを聞いたティルとやらは鼻で笑った。
「泥棒が人の家に押し入って強引に奪ったものを自分の物だと声高に叫ぶ。滑稽にもほどがあるな。ロネスネスの人間は、王も兵士も臣民も恥知らずばかりだ」
「貴様、負け犬の分際で!」
奴隷たちを囲んでいた兵士たちがティルに対して一歩進む。兵士たちの注意が逸れた、その一瞬。
「うぐっ」
バタバタと彼らは倒れていった。兵士たちの首や胸、背中には矢や細長い針が突き刺さっていた。吹き矢の様なものだろう。周りの仲間たちが倒れ、残った兵士たちが混乱をきたす。群衆たちが逃げ惑うのもそれを助長した。彼らが外へ向かって流れていくため、外にいる異変に気付いた外側にいた兵士たちは、その流れに邪魔されて中央に近付けない。
相手の連携が乱れている間に、群衆の中から武器を持った、ティルと同じ褐色肌の戦士たちが襲い掛かる。彼らはカギを奪い取り、奴隷たちの鎖を外していく。解き放たれた奴隷たちは、助けに来た戦士たちに導かれて逃げていく。
ティルの仲間たちは前もって兵士たちを狙える距離に移動していた。そして、一歩踏み出し、奴隷たちから離れたところを一斉に射掛けた。
「見事な手際だね」
「感心してる場合かよ。私たちはどうすんだよ」
混乱のさなか、僕たちだけが停滞した凪のようになっていた。腹の立つことがあったとしよう。けれど、自分以上に激昂している人が傍にいると、怒りの熱が一気に下がって冷静になる。今、ミハルはその状態だ。僕への怒りすら下がっているみたいだ。
「どうする、と迷ったら、面白い方に行くんだ」
この場合、面白そうなのは負け犬の方だろう。それに、さっきからがなり立てている兵士が気になることを言っている。「グレンデルはまだか」「あれはまだ調整中だ」と。ロボットみたいに、メンテナンスが必要なのだろう。なら今すぐここに現れることはない。それに、彼らについて行けばいずれ出張ってくるだろう。
なにより、彼等の逃げる方向が気になった。あの方向は、地図で赤印がついている方向だ。シルドと呼ばれる連中が、無計画にここに舞い戻り、敵兵の命を奪い、奴隷を救出していくだろうか。国を滅ぼされた彼らこそが、グレンデルの恐ろしさを知っている。それでも今日この計画を実行した。報復に対抗する手段を持っているからじゃないのか。それがこの赤印の正体だとしたら。
「タケル?」
横からクシナダが僕の肩を叩く。
「どうしたの、ぼうっとして。・・・何か悪巧み?」
じろりと半眼で僕を睨む。
「人聞きの悪い。僕がそんなこと考えるわけないじゃない?」
どうだか、と彼女は肩を竦めた。
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