第31話 旅の道連れ
「おにいさま」
夢だ。
私は夢を見ている。明晰夢、というやつだ。しかもこれは、私の過去。幸せが当たり前にあふれ、当たり前のように享受できていた頃だ。
「おにいさま」
夢の中の私が繰り返す。世界で一番大好きで、世界で最も尊敬していた人を呼ぶ。
視点が低い。多分このころは、小学二、三年の頃だったと思う。私が私の意志とは無関係に走る。過去の私が、目的の人を見つけたからだ。背がひょろりと高くて、少し猫背で、分厚いメガネをしている男性がそこにいた。
「おにいさま!」
声に気付いた男性、兄である庵は、私の方を振り向き、穏やかに微笑んだ。人を安心させる成分を含んだ笑顔だ。私は既にその成分の虜になっていて、一日に一回は見ないと安心して眠れないほどだった。
「ハルちゃん」
兄が私の名を呼んだ。それだけで嬉しくて嬉しくてたまらない。走るスピードを上げる。もっと早く、もっと早くと心と体を急かす。
今の私は、この後のことを知っている。
この日、兄は一人の友人を連れていた。兄が友人を家まで連れてくるのは珍しいことだった。
兄の陰に隠れていた男の全貌が知れる。そいつは、人懐っこい笑顔を浮かべて「こんにちは」と挨拶した。その頃の私は人見知りだったため、すぐさま兄の後ろに隠れた。兄が苦笑する。
「悪いね。人見知りなんだ」
「気にしていないよ。むしろ女の子はそれくらい慎重な方がいい。知らない男には近づくな、警戒を易々と解くな、ってね?」
「はは、まるで娘を持つ父親のようなことを言うんだな」
「それはそっちじゃないのかい? もしその子に気安く近付く男がいたら?」
「全身全霊を賭して排除する」
おお怖! と大仰なリアクションをそいつが取り、そして二人して笑った。兄があんなに大きく口を開けて笑うところなんて初めて見た。それがとても悔しい。私といるときはいつも、静かに微笑むだけだったからだ。私の知らない兄をそいつが引き出していると知って、その時からすでにそいつのことは気に入らなかった。敵だ、と直感した。その直感は正しかった。
「ハルちゃん。こちらは最近知り合った・・・」
兄がようやく私の方を向いて、隣にいる男の肩にポンと手を乗せた。
「初めまして。須佐野尊です」
これが、後に私の兄を殺す男との出会いだ。
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唐突に、眠っていた彼女が体を起こした。両手を前に突き出して、額に当てていたタオルがびろぉんと引っ付いたままになっている。古いホラー映画に出てくる、額にお札を張られて封印される化け物を思い出した。
「気が付いた?」
傍で看病していたクシナダが、優しく声をかける。彼女は少しの間、上半身を起こしたまま呆然としていた。状況がつかめていないためだろうか。そして、自分に声をかけてきたクシナダの方を向いた。
「ここは・・・」
「ヘオロトの村よ。多分あなたも、この村で化け物退治を依頼されたのだと思うのだけれど」
「ヘオロト、ええ。確かに立ち寄ったけど。どうして」
彼女が自分の両手や体を見回す。痛みが走ったか、額を押さえながら彼女は言った。
「私、死んでない?」
「死んでないわよ? 生きてる」
クシナダが苦笑する。何で、どうしてと首を捻り、周りを見渡していた彼女が、僕の姿を捉えた。
「・・・・須佐野尊!」
立ち上がろうとして、また頭を抱えてうずくまる。
「無理しちゃだめよ。頭を打ってるんだから」
「触んな!」
背中をさすろうとしたクシナダの手を、空いていた方の手で振りほどく。
「おい」
敵愾心むき出しの目で睨んでくる彼女に声をかける。
「良いとこのお嬢さんの癖に、最低限のマナーをパパやママから教わらなかったのか?」
「てめえ、何をぬけぬけと! 人殺しにマナー云々を説かれたくねえ!」
「確かに僕は人殺しで、そのせいであんたから恨みを買っているのだろう。で? それとあんたの隣にいるクシナダは関係あるのか? あんたを助けたのはそこにいる彼女だぞ? 獣だって、自分を助けてくれた相手には襲い掛からんぞ?」
言われて、手負いの獣みたいな彼女は、納得いかないという風に、それでもクシナダの方を向いた。
「助けてくれて、ありがとう・・・・」
言われて気づき、素直に、とは言い難いが礼を言える辺り、やはり根っこはお嬢様なんだろう。
「どういたしまして」
さあこれで満足だろう、と彼女は再び僕を睨んだ。獣の方がまだ話し合いの余地はあるかもしれないな。
「で? どうする?」
睨みあっていても進展はしなさそうだったので、こちらから尋ねてみた。
「何が?」
「まだ戦うかい? 僕は一向に構いやしないが」
「当たり前だろうが! 殺したくて殺したくて仕方のない奴に、ようやく出会えたんだからな!」
「あの世界を捨てるほどの価値が、僕にあるとは思えないがね」
「自惚れんな。てめえじゃねえ。てめえが殺した人の価値だ。私の世界の全てだった人を奪われたんだ。あの世界に未練などあるか」
思わず共感できてしまった。確かに僕も姉を殺された時、同じように感じたし、復讐を終えたら世界に未練などなくなった。ほぼほぼ惰性で生きていたようなものだ。
つまり彼女は、過去の僕で言うところの『復讐編』に今いることになる。もっとも気力が充実し、目的のためならあらゆる苦労を厭わない、そして何でもできる気がする状態だ。
「何笑ってやがる」
彼女が威嚇するように低いうなり声を上げた。言われて、自分の顔をぺたぺたと触る。気づかぬうちに、笑っていたらしい。
「気にするな。なんでもない。それより、あんたの願いは分かった。じゃあ早速やるか。あんたの武器はそこにある」
彼女のすぐそばに立てかけてある剣を指差す。
「舐めやがって」
彼女はふらつく足で立ち上がり、剣を取った。大丈夫か? と思わず心配になる足取りだ。子どもが初めて包丁を使うとき、親はこういう気分になるのだろうか。
「止めなさい」
ふわり、と彼女の体を後ろからクシナダが抱き留めた。
「な、てめえ、離せ!」
もがくが、クシナダの腕力はその程度の抵抗で外せるようなものではない。
「無茶はよしなさい。そんなフラフラで勝てるの?」
「勝てる勝てないじゃねえ! ぶっ殺すんだよ! 刺し違えてもな!」
「今のままじゃ徒労に終わるわ。返り討ちよ。また鼻水たらして泣きながら気を失う羽目になるわよ?」
ぐ、と彼女の勢いが削がれる。先ほどのことを思いだしたのだろうか。
「寝込みを襲うとか、後ろから奇襲をかけるとか、やりようはいくらでもあるのに」
クシナダは、彼女に僕を襲わせる気なんだろうか。
いい? と人差し指を立てて、ちょっと偉そうな感じでクシナダ先生は出来の悪い生徒を諭す。
「これは私が狩りをする時にすることなんだけど。獲物をずっと観察するの。相手の死角はどこか、どう行動するのか、攻撃するときは? 逃げるときは? 自分に有利なところは? 不利なところは? 全部わかってから、そこから準備を始めるの。罠を仕掛け、待ち伏せる。確実に仕留めるためにそこまでするの。そこまでしても、何度も仕留めている猪や鹿に逃げられたり、手痛い反撃を貰ってこちらが逃げざるを得ないことになる。まして初めて遭遇する獣に無策で、真正面から挑むなんて愚の骨頂」
クシナダの講釈を、彼女は俯きながら大人しく聞いていた。傍から見ていたら母親と子どもだ。指導しているのは獲物の狩り方か、僕の殺し方か。
「本当にこの男を倒したいなら、じっくりと良く見ておいた方が良い」
・・・ん? なんだか話が変な方向に向かっている気がする。
「一緒に旅をしましょう。そしたら四六時中彼を見張れるし、寝込みも背後も襲いたい放題よ」
自分の耳とクシナダの正気を疑ったのは僕だけではあるまい。彼女なんか目も口もアングリあけて、声も出ない様子だ。
「馬鹿言うな!」
当然彼女は烈火のごとく怒った。
「あのな、こいつは私にとって仇。大切な家族を奪った人殺しなんだよ! そんな奴と一緒に旅なんて出来るわけないだろ!」
同じ場所で同じ空気を吸ってるってだけでも虫唾が走って吐き気がするのに! と毒づく。
「そんな考え方だと、一生賭けても彼を討つことは出来ないわ」
にや、とクシナダはドヤ顔を披露した。ここ近年ついぞ見たことのない会心の笑みだ。
「獲物を仕留めるには、獲物を知らなければ始まらないの。せめて急所を押さえなければね。今あなたは、剣を掴んで彼に斬りかかろうとしたけど、本当にそれで倒せるの?」
「それ、は・・・」
彼女の目線が、僕の胸元、穴の開いたシャツを凝視する。彼女に刺された箇所だ。もちろん、すでに傷は塞がっている。ね? とクシナダは彼女の肩をポンと叩いた。彼女は何度も僕とクシナダを見比べる。
「いや、無理だろ! 常識的に考えても! 百歩譲って私が「わかった」つっても、そいつが許可するはず」
「別にいいよ?」
「ないだろうが私はそいつの命を、って良いのかよ!」
「良いよ? ついてきたければついて来ればいいし。一緒の空気を吸いたくなければ別れるか、僕を殺しに来るといい」
「何なんだよてめえは! 舐めてんだろ。完全に舐めてんだろ! 私に殺せねえと思って舐めてんだろ!」
まるっきり逆のことを思っているんだがな。
その辺の事情を説明しようと思ったが、止めた。そんなことを言って、死ぬことが目的だなんてばれたら、最後に心変わりをされる可能性がある。だから、何も言わずに肩を竦めて見せた。
喋り方からちょっと不良っぽい感じを受けたので、効果的かなと思って挑発っぽい仕草をしてみたら、効果は絶大だった。クシナダが今言ったことすら頭かすっぱり消え、顔を真っ赤にしてにじり寄ってきた。どうどう、とクシナダが諌める。荒い息を何度も吸って吐いて吸って吐いて深呼吸して、クシナダに向き直った。
「わかったよ。一緒に行ってやる。けどな、なれ合いをするつもりはねえぞ! 隙あらばそいつの寝首かくつもりだからな! 後悔すんなよ!」
後悔、か。僕に後悔するだけの材料があればいいけどね。
「それでいいわ。元気があってよろしい。私も彼以外に話し相手が欲しかったの。では、新しい旅の同伴者さん。せめて名前を教えてくれると助かるのだけど」
怒鳴りつけてもにこにこしているクシナダに毒気を抜かれたか、彼女には何の恨みもないのに怒鳴ったのが良心を咎めたか、なんとなく気まずそうにして、口を開いた。
「・・・大賀美晴。美晴で良い」
大賀だと? その苗字が記憶の検索に引っかかった。彼女らに動揺を悟られぬように、僕は心の中でもう一度その名前を呟く。
「ミハルね? 私はクシナダ」
「クシ・・・ナダ・・・? クシナダ?! あんたクシナダって言うの?! 冗談でしょ!?」
「何で自分の名前で嘘吐かなきゃならないのよ」
幸い気づかれなかったらしく、今度はクシナダが彼女、大賀美晴に自己紹介をしていた。クシナダの名前を聞いた美晴は、僕が初めて彼女の名前を聞いた時みたいに驚いていた。
そうだろうな。あの男も神話の類が好きだったからだ。彼の身内だというなら、その影響を受けているはずだ。
僕が彼に近付けたのも、自分の名前によるところが大きい。あの時だけはこの名前が非常に役に立った。
―須佐野尊・・・漢字にすると、この国最古の英雄の名前だね―
懐かしい声と共に映像が蘇る。彼と、彼の後ろに引っ付いていた小さな女の子の記憶だ。
「ハルちゃん、か」
良かったな庵。お前の大好きな妹は元気だぞ。
ただ、悪い虫に自分から近寄ろうとする跳ねっ返りに成長したみたいだけどな。
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