第21話 絶望が生まれた日

「あなたには感謝しているのですよ。アクリシオス」

 自分を締め上げる髪のから逃れようともがくアクリシオスに、豹変したメデューサは礼を述べた。

「あなたのおかげで、私も覚悟を決められました。だから、礼と言っては何ですが」

 ゆっくりと、腕を持ち上げる。真っ黒な、洞窟に満ちていたものなど比べ物にならないほど濃密な瘴気が彼女の腕から溢れ出す。それは大気中に拡散することなくその場に留まり、形を成した。彼女の腕を何十倍にもしたような、巨大な腕の形だ。

「あなたの国を、滅ぼすところを見せて差し上げましょう」

 無造作に、腕を振るう。追尾するように、形を取った腕も横薙ぎに振るわれた。


 ガリガリッザリザリザリザリッ!


 まるで、机の上のものを腕で乱雑に取り払ったかのようだった。そこにいたはずの大勢の兵や民たちが、波打ち際に打ち上げられた木っ端の如く脇に寄せられた。寄せられた者たちは、衝撃と圧力により、人の形を成さず、ただの肉塊へと変貌した。

「ひ、ひいぃ!」

「逃げろ、逃げろ!」

「魔龍だ。魔龍が復活した!」

 生き残った者たちは、我先にと逃げだした。それこそ、王を守る立場であるはずの兵たちも全て。

「ば、馬鹿な、そんな、馬鹿な! 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! 魔龍など、居るはずがない! あんなものはただのおとぎ話だ! 貴様が、貴様らが王家を縛るための・・・」

 自分の兵たちが一掃されたのをその目で見ていようとも、アクリシオスはいまだ頑なに信じようとはしなかった。信じられなかった。信じてしまえば、自分が誤りであったことを認めてしまうからだ。進退窮まったこの状態でなお、彼は自分の感情を優先した。

「そうだ、これは夢だ。夢に違いない。夢ならばどんなに信じられないことでも起こる。はは、そうに違いない。私の夢ならば、私の思うとおりになるはずだ、ははは」

 だから、現実の光景から目を背けた。

「やれやれ、これから国が壊れゆくさまを見せてやろうというのに、本人が真っ先に壊れてどうするのでしょう?」

 つまらなそうにメデューサは言い、アクリシオスだったものを髪で器用に投げ捨てた。

「メデューサ!」

 呼ばれ、振り向く。上空に間一髪のところで難を逃れたクシナダとアンドロメダが浮いていた。

「おや、姉さん。無事でしたか」

 どうでもよさそうにメデューサは言った。彼女が攻撃した範囲にアンドロメダもいた。今は完全な更地になっている。クシナダが助けなければ、アンドロメダも肉塊の一つと成り果てていただろう。

「自分の姉を、殺す気だったわね」

 アンドロメダを地面に降ろしながら、クシナダが言った。油断なく弓を構える。

「いいえ、そんなことはありませんよ」

 自分に向けられる鏃など気にもせず、しれっと答えるメデューサ。

「殺す気も何も、気にすらしていませんでした。たかが人間一人、生きていようが、死んでいようが、ね」

「・・・あんたは、誰?! メデューサをどうしたの!」

 虫も殺せぬほど優しかった彼女からは、想像できない言葉と行動だった。目の前のメデューサと、自分の妹が一致しない。けれど、返ってきた言葉は無慈悲だった。

「私がメデューサですよ。古の魔龍デュクトゥスと契約せし、魔女です」

「嘘。それこそ嘘! だって・・・」

「だって、なんです? 優れた魔女の条件は、真実を見極める目を持つこと。あなたが教えてくれたと思いますが。見えませんか? 私が纏うこの魔力と、溢れ出す瘴気が」

 アンドロメダにとって、これ以上ないくらい最悪の展開だった。クシナダの言った通り、乗っ取られているのであれば、それを引きはがす方法を模索すればいい。けれど、彼女自身の意志で、街を滅ぼそうとしているとするなら。それでも、一縷の望みに賭けるしかなかった。声をかけるしかなかった。

「・・・どうして。どうしてこんな、酷いことを」

「酷いこと、ですか? ならば姉さん。彼らが私たちにしてきた仕打ちは、酷いことには入らないのですか?」

 メデューサの顔から、笑みが消えた。

「何の罪もない両親を辱め、惨殺したアクリシオスは酷くないと? アクリシオスの機嫌を損ねるのを恐れ、これまでの恩を忘れたかのように私たちの助けを無視し、どころか追いやった王宮の人間に罪はないと?」

 彼女の内から、過去から、煮えたぎった怒りと憎悪が湧き上がる。

「それでも、守ろうとした。それだけの価値があるのか迷いながら、ですが」

 そんな時です。とメデューサは続ける。

「私の中に魔龍の意識の一部が入って来ました。アクリシオスが封印の一部を破壊したため、そこから漏れ出したのでしょう。最初は私の体を奪い取るつもりだったようですが、いかな魔龍とは言え、一部ではそこまでの力はありませんでした。魔龍は乗っ取ることを諦め、私に話を持ちかけてきたのです」

 ―この街の人間に守る価値があるかどうか、賭けをしないか―

「『いずれ、アクリシオスは封印を全て破壊するだろう。その時は、必ず私を殺しに来るだろう。おそらく公開処刑だ。その時、お前が守ってきた民に問うがいい。そのことに感謝する者が一人でもいるのなら、我の負け。一人もいないなら、我の勝ち』そう、魔龍は言いました」

 悪魔の囁きとは、正にこのようなことを言うのでしょうね、とメデューサは苦笑する。

「私は賭けに乗りました。知りたかった。両親が、あなたが、守りたかったものの価値を。私たちの行いを、誰かが見てくれている。誰かが認めてくれている。私たちのやっていることはけして無駄ではない。意味のあることだ。そのはずだと、信じていました」

 その夜から行動を開始した。洞窟に侵入し、魔龍の封印を解いた。魂魄剥離の魔術を魔龍に用いて、肉体から魂を抜きだし、新たな器として、自分の体に入れた。

「アクリシオスのあの時の問いに、一人でも、私たち家族のために動いてくれる民がいるなら、声を上げてくれる民がいるなら、私はここで、魔龍の魂を道連れに死ぬつもりでした。なるほど、守る価値があったか、と。父も母も無駄死にではなかった。姉さんが舐めてきた苦渋も報われる。その思いを胸に、完全に魔龍を封じることが出来た。賭けとはいえ、魔女と魔龍の契約。たとえ魔龍であっても履行せざるを得ませんから、妨害はできません。けれど」

 何かをこらえるように、メデューサは固く目を瞑る。瞼の裏に思い返されるのは、先ほどの民たちの反応だ。アクリシオスとメデューサ。どちらが正しいかという問いに、誰もがアクリシオスの報復を恐れ、動かなかった。

「誰も、私を助けようとはしませんでした。誰一人、指先ひとつ動かさなかった」

 ああ、そうか。私は、なんて無駄なことをしていたのだろう。

 彼女の絶望は、いかばかりだったろうか。

 幾らしっかりしていても、魔術に長けていても、まだ十にも満たない少女だ。彼女の心は純粋なあまり、簡単に歪んだ。

「誰も私を助けないのなら、私もあなた方を助けるいわれはありません。誰も幸せになれない街なら、存在する必要がありません。今日、ここで、全て。滅びてしまえ」

 さらに瘴気が増し、メデューサを包む。


 パァンッ


 瘴気が弾け、円柱状の穴が開いた。メデューサの目つきが険しくなる。穴の先に、二の矢を構えるクシナダがいた。

「・・・次は、当てるわ」

 八匹の黒い蛇が腕を伝い、矢に込められていく。

「次と言わず、今当てればよかったのです。あなた達は、私を倒すために来たのでしょう? それとも、この姿では当てにくいですか?」

 今度はクシナダが彼女を睨みつけた。

「メデューサちゃん。本気なのね。本気で、ここを滅ぼすのね?」

「そう言っています。跡形もなく消し去ります。そして、かつて魔龍が住んでいた時のような、人が住めない場所にします。人がいなければ、二度とこのような悲しみが生れることもないでしょうから」

「あなた自身が、魔龍になる気?」

「良いですね、それ。では今日から私が、魔龍メデューサです」

 クシナダは弓を引き絞る手に力を込めた。鋭敏な彼女の感覚が警鐘を鳴らす。メデューサを倒すなら、今しかないと。

 だが、逡巡した。ちらと横目にアンドロメダの様子を窺う。突きつけられた現実に打ちのめされ、放心状態だ。その姉の目の前で、その妹を殺せるのかと。これ以上アンドロメダを傷つけることになってもいいのか、と。

「撃てないの?」

 どこかいらだたしげに、メデューサは言った。

「戦う気がないのなら、もう、ここから立ち去ってください。あなたが去る分には追いません。どうせならついでに、そこにいる哀れな魔女のなれの果ても連れて行ってください」

「・・・その言い草、あなたは、心まで魔龍になるつもりか!」

「先ほどから、そう言っているでしょう。こんなくだらない問答に時間をかけるから」

 最後までメデューサが言い切るのを待たず、クシナダは上空へ逃げた。その一瞬後、彼女の居た場所を瘴気が薙ぐ。

「魔龍が復活する暇を与えるんですよ」

 ごうごうと、瘴気が渦巻きながらメデューサの体内へなだれ込む。周囲を漂っていた膨大な瘴気を、全て自分の小さな体へ取り込み切った後、彼女はそっと両手を自分の下腹部へあて、指で方陣を描く。

「賭けの代償を支払いましょう。わが身を贄とし、今ここに再誕せよ。・・・おいで。魔龍デュクテュス」

 服の下から、描かれた方陣の線に沿って何かが蠢く。我慢できなくなったように、再び彼女からおびただしいほどの瘴気、いや、すでに粘度を持ったヘドロが溢れ出し、彼女を包んだ。それだけにとどまらず。ヘドロは法則性を持って溢れ、流れ、徐々に固まっていく。

 頭が出来た。鰐のように大きく長い口を持ち、鋸のような鋭い歯が不規則に並ぶ。縦長の瞳孔を持つ巨大な瞳がボコリと現れ、左右と額中央でぎょろぎょろと巡らす。その頭を支える長大な胴には足が四本生えた。四本指には鋭くとがった爪を有し、力の満ちた四肢は圧倒的な質量をしっかと受け止め、大地に足跡を刻む。

「これが、魔龍・・・」

 あまりの巨体に、上空にいるはずのクシナダの視界からも魔龍の全貌は知れない。

 大きく口を開き、吠える。生まれたての赤子のように、歓喜の産声を上げる。遠く、遠く、その雄叫びは先に逃げていた民たちを震え上がらせ、街まで届いた。

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