心優しき魔女の王
第12話 天国の海
この世界に来て、初めて海を見た。
潮の匂いがするな、とは思っていた。木の密集度が下がり始めて、森の終わりが見えた。突き抜けた先は高さ二、三メートルほどの小さな崖で、そこから先は海が広がっていた。
海を見たのは久しぶりだ。幼いころ、家族揃って行った海水浴以来じゃないだろうか。
いや、僕が殺した、ある政治家のパーティが開かれた豪華客船に乗り込んだ、あれが最後だ。真っ黒な海に、そいつの死体を遺棄したのを思い出した。
あの墨のような海と比べると、この世界の海は、手前が淡い緑色で、奥へ行くほど緑、青緑、濃紺と変化していく。その客船のバーテンダーが出してくれたビジューって名前のカクテルがこんな色だった気がする。透明度も高く、魚影が遠くからでも見えるほどだ。よく最後の楽園、などという特集で常夏の美しい海が紹介されていたが、ここでは見渡す限りが最後の楽園だ。人間がいないから楽園ばかりというのも皮肉な話だ。
「う、わぁ・・・」
そんな僕の隣で、クシナダは口をぽかんと開けて、ただただその光景に魅入っていた。圧倒されているようにも見える。
「海は、初めて?」
「う・・・み・・・?」
どうやら、目の前のでかい水たまりを何と呼称するのか知らなかったらしい。そうか、生まれてからずっと山奥の村の中で育ったのだから当然か。
「僕たちは海と呼ぶ。この世界じゃ何と呼ばれてるか知らないけど」
「海・・・」
呟いて、また海を眺める。余程衝撃的だったようだ。崖から飛び降り、フラフラと誘われるように海に近付いて行った。寄せては返す波におっかなびっくり近づく。
「何で、こんなに大きいの?」
子どもの頃いつだったか、僕も姉に同じような質問をした。その時の姉の答えが
「小さかったら、ただの水たまりじゃない。それじゃあ、つまらないでしょ?」
後の天才科学者とは思えない発言だった。だが、その頃の僕は妙に納得してしまった。たしかに、それじゃあ面白くない。泳ぎにも行けないし、魚も住めない。海が大きいのは、僕たちがつまらなくないようにするためだ。
僕はもう、あのころの僕ではない。残念ながら。実につまらない人間になってしまったから、あの時の姉のような面白い答えは言えない。
「村にいた時、川があっただろ?」
「ええ」
「トウエンのとこにいた時もあったよね」
「ええ。もう少し大きいのが」
「世界中には、ああやってたくさんの川が存在している。川は、上から下、上流から下流へ流れるよね?」
「そうね。うん。わかるわ」
「流れて流れて、行きつく先がここ。全ての川の終着点が海だ」
「・・・ここに?」
「ああ」
「あの大量の水が、全部ここに?」
「うん。だから、大きいんだ。途方もなく」
ほう、とかへえ、とかつぶやきを漏らして、クシナダは屈みこんで、海に手を浸してみた。
「冷たい」
「結局水だからね」
今度は手を引き抜いて、ついていた雫を舐めとる。クシナダの顔がくしゃりと中央によった。
「しょっぱい!」
ぺっと吐き出す。
「何で? 川の水はしょっぱくないのに!」
「おそらく塩分、塩が含まれているからだろ。地面に含まれてる塩が溶け込んでいるからだ」
詳しくは知らないけど、と付け足す。そんな僕の顔を、感心したように彼女が見上げる。
「何だよ」
「いや、本当にいろんなことを知ってるのね、と思って」
感心したように彼女は言った。そんなことはない、と否定する。けれど、彼女もそんなことない、と僕の否定を否定した。
「そうよね。異世界からの人間だものね」
「何をいまさら」
「それだけ、違和感なくこの世界の生活に馴染んでるってこと。ううん、あなたが、あなたをこの世界に馴染ませてる、そんな感じがする」
自分が馴染むのではなく、世界のほうに馴染ませる。面白い表現だ。
ふと、昔授業で習った適応と進化の話を思い出した。生物が生き残るうえで、自分を今いる環境に合わせるのか、自分が住みやすいように環境を整えるのか、という話だ。環境と体が適合しないと、体調を崩し、最悪死に至る。
自分の目的のためにこの世界の化け物どもに挑む。言葉としては聞こえはいいが、やってることは侵略だ。土着の生き物を自分のために食い荒らしているのだから、外来種が在来種を餌にしているようなものだ。確かに、強引に馴染ませている、と言える。そして、それがクシナダにとって当たり前になりつつある、という事なのだろう。
「あ、魚」
クシナダが指差した。そして同時、盛大に腹の音を響かせた。彼女は指差したまま固まってしまった。首のところが徐々に赤みを帯びていく。そう言えば食料が切れて、朝から何も食ってないや。食べられそうな実とか草とかなかったし。
「飯にする?」
僕の提案に、クシナダは黙って頷いた。
リュックに結び付けていた剣を取る。ぐるぐると手首を回しながら、切っ先を海に浸す。ぐっと、持つ手に力を込めた。刀身がうっすら青白く発光し、その表面でバチバチと音を立てて電流が迸る。電流は、まるで生き物のように蠢き、刀身へと流れ込む。流れ込めば流れ込むほど、刀身の輝きは増していく。
「離れて」
彼女に海から離れるように指示。自分もできるだけ近づかないように。
彼女が素直に下がっていったのを見計らって、スイッチを入れるようなイメージで、ぐっと刀身を押し込む。刀身にため込まれた電流が、海中に解き放たれた。何ボルトかは知らないが、十メートルほど先の海面に、腹を上にした魚が浮いてきたのだから相当量の電流が走っていると思う。
「悪いけど、頼むよ」
後ろに声をかける。はいはい、と返答。ぶわっと風が吹いて、後ろから何かが飛んで行った。
「いつみても、すごいな」
クシナダが、宙に浮かびながら、気絶した魚を魚籠に入れていく。
彼女の背には透明の翼が生成されていた。どういう原理かわからないが、空気を固めて翼の形に擬似的に作っている。
「私としては、あなたのその電撃のほうがすごいと思うけど」
つぶやきが聞こえていたらしく、こちらを見ずに彼女は言った。僕らが自分たちのこの力に気付いたのは、数日前だ。
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