第10話 鵺の鳴く朝

 でけえな。

 ケンキエンが変じた鵺を目の前にして思ったのは、そんな当たり前のことだ。猿の顔の位置は術を使ってるタケマルたちよりも高い。頭から尻尾までなら二十メートルくらいはある。一戸建てだ。しかも空を飛び俊敏に走り回る。吠えれば雷が迸り、腕を振り回せば辺りを壊滅させる、強大な、待ち望んでいた敵だ。

 僕はこれから、この目の前の鵺と戦える。そう思うと、どうしようもない程、興奮が湧き上がってくる。蛇神の時も思ったが、やはり僕は人格破綻者だ。頭の奥の枷が外れて、こういう自分が出てくる。どうしようもなく、戦いを欲する自分だ。

『雄ォオオオオオ!』

 鵺が吠える。全身の毛が逆立ち、バチバチと青白い光が弾ける。

「ああ、子どもの時に流行ったゲームで、何かこういうキャラクター、いたなあ」

 もっとも、そのキャラクターは万人に愛される可愛らしいモンスターだったが。目の前のこいつは、ゲットするにはちと醜悪だ。姿も、性格も。

『消し炭となるがいい!』

 雷が、鵺の前方に集中する。数百万ボルト以上の電圧であることは想像に難くない。それが指向性を持って、こちらを狙い定めている。

 相手が雷を放つ一瞬前、僕は手に持っていた剣を前方に投げつける。剣は僕と鵺の真ん中あたりで大地に突き刺さり、刀身半ばで止まった。

『死ねェ!』

 雷が放たれる。目の前が白を通り越して薄いピンクに染まった。轟くのはもはや音ではない。衝撃波だ。

『な、に?』

 落雷の衝撃によって巻き上がった土煙が晴れ、僕らは再び向かい合った。間には、真っ赤な呪剣が突き刺さっている。

「別段驚くようなことじゃない。雷はだいたい、一番近い所に落ちるもんだ。で、そんだけ地面の奥に刺さってたら、剣を伝って地中に流れ放電する」

 あたりを見回す。今日戦争を始めた連中の根城だ。そこかしこに鉄製の剣やら槍やらがごろごろと転がっている。避雷針代わりに使えるだろう。この程度で止まるかどうかは正直微妙だったが、何とかなるものだ。百回やって一回の成功例だったかもしれない、もう一度やれと言われたら出来ないことかもしれない。

 けど、それでいい。こちらには通用しないと言う事を認識させられれば、あっちの手を一つでも防げればそれでいい。

 適当な推論だということをおくびにも出さずに、僕は続ける。

「そっちは今みたいにでかい雷を打つ前には事前準備が必要のようだ。なら、撃たれる前に処置しておけば、こっちまで電流は来ない」

 避雷針のことを思いだしたのが奇しくもあの川で雷に打たれそうになった時だ。そういえば、と上空に向かって剣をぶん投げたら、思惑通りそっちに直撃した。まあ、余波くらって気を失い、川下にどんぶらこと大分流されてしまったのは我ながらなかなか間抜けな話だ。

『だから何だ』

 歯を剥き出してケンキエンが唸る。

『防いだ程度で何を勝った気でいる! 我の力は、雷を呼ぶだけではないぞ!』

 ボコリ、ボコリとケンキエンの体が蠢く。這い出てきたのは、十分の一スケールのミニケンキエン達だ。そいつらは生まれたと同時に四肢に力を込めて、こちらに向かって牙を剥き毛を逆立てて威嚇してきた。全く感動できない出産に立ち会ってしまったな。

 一直線に一匹、左右から一匹ずつ飛び掛かってきた。同時に相手にするのはさすがに無理だ。また、後ろにはまだ二人子どもがいる。別段この子らが死のうが関係ないが、邪魔だ。彼らがいるせいで蹴躓くかもしれない。かといって逃がすには時間が無い。

 ならば僕の取る方法は一つ。三匹が同時に僕に接触する前に、前に出て敵を引き付け、一匹ずつ倒す。

 地面を蹴る。お互いに前に走っているのだから距離は一瞬で縮まった。突っ込んでくるとは思わなかっただろう目の前の一匹が、丸い目をこれでもかというくらいに開いていた。反応も遅い。いかに数を増やそうが、こちらの反応についてこられないのなら手の打ちようはある。

 野球のオーバースローのように、円を描くようにして拳を振り下ろす。完璧なタイミングで、前から来ていたミニの脳天へ拳骨をジャストミートさせた。頭が凹み、目玉が飛び出る。頭ごと拳を地面へと叩き込む。前のめりになったのを無理に止めず、そのまま前転して体を起こし、また前へと走り出す。ちらと後ろを見れば、左右から来ていた二匹は子どもたちを歯牙にもかけずに、僕の元いた場所で反転し、こちらを追ってきている。前からは、今度は三匹だ。

 接触前に、先ほど放り投げた剣を掴む。多少電気が残っているかと覚悟して掴んだが、特に何もない。返ってきたのは相変わらずの不気味な脈動だけ。

 剣を地面から引き抜いた流れで振りぬく。飛び掛かってきた一体が上半身と下半身とに分かたれる。仲間の死を構うことなくもう一匹が突っ込んできた。剣先を突き出すと、頭から串刺しになる。その背後から、最後の一体が飛び出してきた。思わず舌打ちする。仲間の死は鑑みないが、それを利用するだけの知恵はあるらしい。ふさがった剣を手放して素手で迎え撃とうと判断を下した矢先

 スカンッ

 横合いから飛んできた矢がミニの眉間に突き刺さった。最後のミニはそのまま僕から逸れてもんどりうって地面を転がる。

『ビャアッ』

 後ろから追ってきた二匹が悲鳴を上げて倒れる。その二体にも同じように頭と首に矢が刺さっていた。

 矢が飛んできた方向、城壁の上に彼女はいた。蛇神の目を射ぬいた、あの時と同じように。

「遅かったじゃない」

 クシナダは咎めるように、それでいて楽しげにそう言った。

「あんまり遅いから、もう死んだかと思ったわ」

「普通は死んでもおかしくなかったんだけどね」

 剣を振り、死骸を払い落とす。死骸は、しばらくたった後、以前切り落としたケンキエンの腕のように黒い煙になって消えた。

「悪いんだけど、後ろにいる子ども二人、どっか連れて行ってくれない?」

「珍しい。人のことを気にするなんて」

 クシナダが茶化す。

「違うよ。戦うのに邪魔になるからだよ」

「はいはい、そういう事にしておいてあげるから」

 僕の言う事を信じていないまま、クシナダが二人を抱え上げてその場から離れていった。子どもとはいえ二人を簡単に抱えたまま走っていくのを見て、彼女もまた、身体が強化されていることを知る。

 彼女のことは一旦置いといて、ケンキエンに再び目を向ける。いまだにボコボコとミニを生み出し続けていて、すでに周りが埋め尽くされていた。パッと見、三、四百体くらいいるんじゃないだろうか。

『何体倒そうが同じこと。我ある限り、無数に生まれる手足よ』

「そうかい」

 それこそだから何、だ。斬れば傷つき、くたばるのだから、解決方法なんて死なない蛇を殺すより簡単じゃないか。

「ならば、大元である貴様を倒せば済むことよ!」

 僕と同じ考えの連中が、後方からケンキエン軍団に襲い掛かった。雄叫びと地響きを引き連れて、鬼と人の混合軍が切り込む。先頭に立っているのはでかくなったタケマルだ。棍棒の一振りで、二、三匹まとめて吹っ飛んでいく。

「撃て撃て! 味方には当てるなよ!」

 城壁の上から指示を出すのは自身も弓をつがえたライコウだ。ずらりと弓兵を並べて、空にいる敵や、敵の密度の濃い所に一斉に射掛けさせる。

「無茶はするな! 傷を負ったら後方へ、儂のもとまで下がるのじゃ!」

 トウエンの声も聞こえる。治癒の力を用いて、傷ついた兵たちを癒しているのだろう。彼女がいる限り、こっちの戦力の低下もある程度は抑えられる。

 両軍が入り乱れ、たちまち大混戦の総力戦だ。遅れるわけにはいかない。喧騒と血肉舞う決戦場へ飛び込んだ。目指すはケンキエンの首ただ一つ。

 僕の姿を認めた数匹が、前足を持ち上げ、後ろ脚だけで立ち上がった。猿の性質もあるから、二足歩行も可能ってことか。その証拠に前足の指は僕と同じように物を掴めるように長く節がある。指の先には、刃渡り十センチ程度の爪が伸びていた。それをじゃりじゃりと研ぐようにこすらせて、獲物である僕を見定める。

「シザーハンズだな。まるで」

 ただ奴らに愛は無い。爪は散髪の為でも園芸の為でもなく獲物を狩るためだけに振るわれる。

 構わず、僕は突っ込む。手前にいた一匹が唾を飛ばしながら吠えた。同調するように、周りにいたミニたちが一斉に僕の方を見て、牙を剥く。

 足りないな。足りないね。その程度の敵意では足りないのだ。高揚していくのを感じる。体の中の歯車が噛みあい始め、潤滑に回り出す。

 上段から振り降ろされた爪をスライディングするように潜り抜けながら躱す。股下を潜り抜け様に剣を振るう。目標など定める必要はない。見える所全てが敵だ。力任せに振りぬけば、数匹分の足が転がった。

「シャアッ」

 足を失ったことなど意にも介さず、連中はそのまま倒れ込んできた。押し潰す気だ。すかさず足の裏を地面につけ、目の前の何匹かを力任せに斬り飛ばしながらジャンプする。お返しに、今度は僕から奴らに圧し掛かる。前足を地面につけていた二匹の背に向けて、左右の足で踏みつぶす。踏込み、前のやつの腕を首と一緒に切り落とす。落ちた腕が消える前にキャッチ、振り向き様に後ろにいた一匹へと投げつけた。五本の爪が見事に突き刺さり、そいつは仰向けに倒れた。

 右側から突き出された腕を掴み、ジャイアントスイングの要領でぶん回す。後ろ脚の爪も前に劣らず鋭く伸びていたようで、仲間の爪に切り裂かれながら、囲んでいた連中は扇風機に吹かれる埃のように千々に千切れていく。

 頃合いを見て投げつける。ドミノのように崩れ、そこに道が出来た。開けた先にいるのは荒れ狂うケンキエンだ。腕を振るい、小規模な雷を周囲に放ち敵を蹂躙している。さながら嵐の権化と化した奴に、近寄ることすら容易ではない。

 両足に力を込め、跳躍する。ドミノ倒しとなって倒れている連中をさらに踏みつぶし、追いすがる奴には剣を振るった。それでも追いすがろうとした奴もいたが、後ろから飛んできた正確無比な矢に貫かれ、ことごとくが僕に到達する前に力尽きて消えた。

 相も変わらず良い腕だ。後ろをちらりと振り返れば、自らも縦横無尽に動き回りながら矢を放つ彼女の姿があった。僕の方だけではなく、あちらこちらに気を配り矢を放ち、劣勢に陥っている箇所をフォローして回っている。

 後ろは、彼女たちに任せよう。

 前を見据える。ケンキエンと目があった。咆哮が轟き、耳を劈く。

「行くぞ」

 目標に向かって疾駆する。その時ミニと戦っていた味方の兵とすれ違った。きちんと見たわけではないが、何かに怯えたような表情をしていた。怯えながらも戦うとは、余程その背にいろんなものを背負っていると見える。どこの世界でもお父さんは大変なのだな、と妙な関心をしてしまった。



 タケルは全く気づかない。兵が怯えていた理由に。

 同時刻、戦場後方で負傷した兵たちを癒していたトウエンが、突如白昼夢に襲われた。いつも見ていた悪夢、予知夢の類だとすぐに分かった。

 今度の夢は、途中では途切れなかった。彼女の胸を貫こうとした牙が、逃げ惑う人々の背を踏みにじり、切り裂こうとした爪が、横合いから伸びてきた真っ黒な何かに吞み込まれた。

 救いの手だ。この地が救われるという暗示だ。そう思い、彼女は夢だということも忘れて、嬉々として振り返り、絶句した。

 偶然か、必然か。怯えた兵とトウエンは、夢と現でありながら同じものを見た。

 煌々と赤く輝く双眸の、八つ首の蛇の影を持つ男の姿だった。



 開いた道を突っ走る。追いすがるミニを振り切り、前から迫るミニを踏切り台にして踏み切った。体が宙に舞う。斜め下には僕の〝敵″がいた。

「はっはぁ!」

 体を横に倒し、軸にして回転する。フィギュアスケートの回転ジャンプを横に向けたような感じだ。腕を伸ばし、一番外円を回っている剣先に遠心力でえた力を乗せる。それを、目標へ向かってスマッシュした。

『ぬうん!』

 ケンキエンが腕を振るう。ミニのとは比べ物にならないでかさの爪が振るわれ、剣とかち合った。擦れ、火花を散らしながら耳障りな音が辺りに散らばる。

『ガァッ!』

 一瞬の拮抗、しかし体重差、体格差はいかんともしがたく、僕はケンキエンが腕を振りぬくままに弾き返され、地面に叩きつけられた。何度かバウンドして、壁にぶつかってようやく止まった。立てかけてあった武具類が散らばる。それをかき集め

「おぉっ!」

『これでぇっ!』

 僕が投げつけるのと、ケンキエンが小さな雷球数発を飛ばしたのがほぼ同時。空中で衝突し、まばゆい閃光がいくつも弾ける。

「あああぁぁああああああああっ!」

 一切動きを止めることはせず、放電と落下する武具の間をすり抜けてケンキエンに迫る。眼球はさっきの閃光のせいで視界が真っ白に染まったまま回復していないから勘だ。だけど気配やら匂いでおおよその距離がつかめるということは、僕にもクシナダほどではないにしろ、蛇神の感覚があるらしい。

 柄を両手で握り、剣を肩で担ぐようにして接近。左足を大きく一歩踏み込み、大地を踏みつける。そこから体をねじる。まずは左足から、腰、肩と回転させ、両手へ力を伝える。力はまだ入れない。結局のところ威力は速さだ。力を入れるのは衝突直前。

 野球のバッティングと同じだ。力めばヘッドスピードは落ちる。腰の速さ以上に腕を振るのは難しいし、腰が入らなければ威力も激減するからだ。それよりも、腰から伝ってくる流れに任せ、インパクトの瞬間にバットが跳ね返されないように力を加える方が、ロスが少ない。人間瞬発的に最大出力が出せても、長時間最大出力を出し続けることは不可能だからだ。たとえそれが一秒に満たなくても、最初と最後では力の入り具合が全く変わる。

 ぶおぅ

 風が動く。目の前に何かが迫る。ケンキエンの腕だろう。さっきと同じように、軽くいなせると思っているのか。何のひねりもなく、力で押し切れると。

 面白い。勝負だ。

 感情に呼応するように、手の中の剣が脈打った。好戦的な奴だ。まだ蛇神の意志でも残っているのだろうか。

 なら見せてみろ。敵を討つことで証明して見せろ。現段階で打てる最速、最大の力を剣に伝えて、目の前に広がる白い闇を斬り払った。


『おおおおぎゃあああああああああああああああああっ!』


 耳を至近距離から劈く絶叫。ドスンと、何かが地面に落ちる。ようやく戻ってきた視力が捉えたのは、真っ黒な血煙を腕の切り口から吹き出すケンキエンと、斜めに切り取られた腕だ。

『ァアアアアアッ!』

 ケンキエンが無事な方の腕を力任せに振るった。真正面に巨大な手のひらが迫る。剣の腹で受けるも、体勢が悪い。踏ん張ることもできず、再び壁際まで弾き飛ばされてしまった。壁を破砕し、その破片が上から降り注ぐ。

『死ね、死ね、死ねェ!』

 追加で雷球が何発も飛んでくる。痛みのせいか狙いは荒いが、これだけ撃たれたら躱せない。腕と足を掠め、腹と肩に直撃した。中途半端に意識が飛ばないってのも最悪だな。体は動かないのに痛みと苦しみの一切合財を味わう羽目になる。

 這いつくばった僕の体が地響きを感知した。砂埃と瓦礫のせいで見えやしないが、地面からの振動でケンキエンが近づいてくるのが分かる。

「ぐっ、のぉ」

 痺れる腕に力を込め、瓦礫から這い出す。四つん這いで顔を上げた先に奴はいた。憎しみに満ちた目でこちらを見下ろし、残った腕を振り上げた。防御は間に合わない。さて、僕もここで試合終了か? そう達観した思いでいた時だ。

「キィエエエ!」

 雄鶏の様なけたたましい叫び声とともに、上から影が降ってきた。ライコウだ。大上段に構えた剣を一閃させる。狙い違わず、ケンキエンの額を斜めに切り裂く。

「らぁ!」

 ライコウの一撃に思わずのけぞったケンキエンの横っ面を、今度はタケマルの棍棒が捉えた。ジャストミートだ。ぼてん、ぼてんと地面を転がっていく。

「ざまあみやがれ!」

 タケマルが吠える。

『ごの、地を這う虫けらどもがぁ! 神たるこの我に、我にぃいいいい!』

「その虫に、貴様は追いつめられているのだ。見よ」

 三本足で起き上がったケンキエンに、ライコウが告げる。さっきまで地を埋め尽くしていたミニたちが、少しずつ淘汰され、数を減らし始めていた。

「貴様の負けだ。タケルに気を取られている間に、貴様の子分どもはあれだけ減った」

『愚かな。我ある限り、無限に生まれると言ったはずだ!』

 ボコリと新たに生み出された一体が、ライコウたちに迫る。しかし、タケマルの一振りで場外ホームランされてしまった。

「その生まれる奴が、徐々に弱くなってるってことも言ってたかぁ?」

 棍棒を肩で担ぎながら、タケマルは傷だらけの顔で満面の笑みを作った。

「後から湧いて出てはくるものの、手応えがどんどんなくなってきやがったぜ。厄介なのは数だけ。簡単にあしらってやったわ」

 なるほど。ようやく理解できた。

 ケンキエンの力の源は穢れだ。いや、穢れそのものがケンキエンを形作っているのだ。そして、ぬいぐるみみたいに皮袋に穢れを詰め込んだものがミニなのだ。中身の綿がなくなればぬいぐるみはただの布、ミニたちは力を失っていくということだ。

「確かに、それであればお主がいる限り、あ奴らは無限に生まれると言えるのう」

 トウエンが納得したように言う。身を削ってミニを作っているのだから当然だ。また、それは同時にケンキエン本体も弱体化しているということを示していた。以前腕を斬り落とした時すぐ別の腕が生えて来たのに、今は生えてこないのが良い証拠だ。

「タケルに気を取られ、貴様の分身どもに充分な力が行き渡らなかったのであろう。いや、タケルとの戦いに、そこまで余裕を回せなかったか。どちらにせよ、余力はあるまい」

 トウエンが手を掲げた。彼女の後ろで、クシナダたち弓兵が構える。

「死んでいった者たちの仇、今こそ!」

 彼女が手を振り降ろし、弓兵たちが一斉に矢を放つ。

『舐めるなァ!』

 ケンキエンが二対の羽根を盛大に羽ばたかせる。巻き起こる突風に、矢の軌道が逸らされ、地に落ちる。それでもなおケンキエンに向かって飛んだ矢は辺りこそしたが、威力が失われ、刺さること叶わなかった。ケンキエンがそのまま空へと舞いあがる。

「っ、逃がすな! 第二射用意!」

『小賢しい!』

 雄叫びに呼応し、中空に幾つもの雷球が生まれた。瞬き、破裂し、周囲に損害をもたらす。地面が穿たれ、土煙が立ち上って不鮮明になる。風がうねり、視界を晴らした先にケンキエンはいない。

「あそこ!」

 そう叫んだのはクシナダか。彼女の目が捉えている先に、明後日の空へ逃げるケンキエンの姿があった。

 逃げる気だ。誰がどう見てもあれは、尻尾を巻いて退散中だ。

 僕の中で、何ともしがたい苛立ちが湧きあがった。これだけ好き勝手やっておいて、あれだけ大口を叩いておいて、その身が危なくなったら逃げる? この僕を置いてか?

「認め、られる、か!」

 幸い、体から痺れは抜けた。まだ頭がくらくらするが、無視して立ち上がる。瓦礫を押しのけ、埋もれていた自分の剣を引き抜く。

「お、おい、タケル? 大丈夫か?」

 最初に僕に気付いたのはライコウだ。彼の問いかけを無視して、その手に持っているものに目を付ける。先ほどケンキエンを切り付けた、豪奢な飾り付きの立派な一振りだ。

「これ、貸してもらえる?」

 返答を聞く前に柄を握り、ひねることでライコウの手から奪う。

「ちょ、どうしたのだ! あれか? ケンキエンの追撃か? お主分かっておるのか? あの小さな雷を何発もその身で受けておるのだぞ! それだけではない。あれだけ派手にぶっ飛んで転がって瓦礫に埋まったのだぞ! 生きているのが不思議な状態なのだぞ!」

 うるさい。ここであれを見逃すことに比べれば些事にもならない。ライコウを押しのけ、あたりを見回す。茫然と影を見送る者が大半の中、少数が、あれを追おうとしている。しかし、相手は空を一直線、こっちは陸路で、またあの方向、河のある方じゃなかったか? あれを超えられたら、追いかけるのは難しい。ならば、どうする。地を這う僕たちが空飛ぶ奴に追いつく手段は。

「なんて丁度いい・・・!」

 思わず顔がにやけた。僕の目の先には、ケンキエンを追おうとしている一団がいて、その中にタケマルが、いつもの棍棒を担いでいた。さっきのスイングもミニを味方にぶつけないように配慮されたものだった。右へ左への広角打法、狙って打てるはずだ。世が世なら三冠王も夢ではないだろう、その技量に賭ける。というか、それしか追いつく方法が思いつかん。

「タぁケマルぅ!」

 僕の呼びかけに、タケマルが驚いて振り向いた。

「何だ?! どうし」

「行くぞ! 構えろ!」

「か、構え? は?」

 タケマルに向かって全力で走りだした。何が何だかわからないタケマルは目を白黒させていたので、まずケンキエンを指差し、次に彼が持つ棍棒を指差し、最後に僕自身を指差した。

 タケマルの目が、僕の正気を疑うものになった。

 構わず、僕はタケマルに向かって走る。その距離はもう三十メートルもない。スピードを緩める気のない僕を見て、タケマルは正気じゃないが本気だということを悟ったようだ。

「ああもう、来いやぁ!」

 そうやけくそ気味に言って、棍棒の比較的平たい部分をこちらに向けた。僕たちの意図を良くわかってない周りの連中は、いまだ首を傾げるばかり。そんな彼らの横を走り抜け、トンと地面を蹴る。ふわり、と棍棒の先端に着地。

「行くぞおオオオオオ」

 タケマルが一歩踏み込んだ。地面が陥没するほどの力強い踏み込み。術によってさらに強化された筋肉が、一瞬、力を貯えるようにぐぐっと隆起する。腕、足、背中の大きな筋肉がしなり、伝送線のように筋線維が力を送り込む。僕の足裏に強力なGがかかる。

「おおおおおらぁっ!」

 カタパルトから発射された戦闘機の気分を味わいながら、僕は空を飛んだ。多分、僕の住んでいた時代であろうとも、生身での飛行速度としては最高速度じゃないだろうか。山里みたいに目算で測れるわけじゃないが、数百メートルの距離をものの数秒で文字通り飛び越えたのだ。

『な』

 驚きの声さえ上げさせてやらない。勢いそのままのダイビング・アタックだ。

『ぎいっ!』

 ケンキエンの足の付け根に、タケマルから借りた剣が深々と突き刺さる。ケンキエンは衝突のエネルギーから逃げられず錐もみ回転し、高度と速度ががくんと落ちる。

「逃がすかよ」

 僕は言う。突き刺さった剣に掴まりながら。

「ここまで好き勝手やっといて、危なくなったら逃げの一手とは笑わせてくれらぁこのへっぽこ不思議動物が。そんな情けない神様を誰ぞ敬い奉ってくれると思うんだよ」

『き、貴様、離せ! 離れろ!』

 後ろ脚を跳ね馬のように跳ね上げながらもがく。そんな可愛らしい態度で離してやるものか。突き刺さった剣を鉄棒のようにして、自分の体を持ち上げる。

「下であいつらも待ってるぜ」

 奴の背に這い上がり、翼の付け根に剣を刺し込んだ。二度目の絶叫。頭がガンガンする。力任せに引き抜けば、半ばまでは千切れたが、まだ元気よく羽ばたいている。

『オ、ノ、レェ!』

 バチバチと毛が弾ける。逃げ場のないこの場では、回避不可の絶対攻撃だ、が。

「良いのかな? この状態で雷なんぞ身にまとって」

『何を、ッ!?』

 ビクン、とケンキエンが引きつる。一瞬にして纏っていた雷は消え、残ったのはひきつったままの顔のケンキエンだ。自分の足を信じられないように見つめている。

「不思議そうな顔すんなよ。水が高きから低きへ流れるように、電気も流れやすい所に流れる物だ。それがあれ。お前の足に突き刺さってるライコウの剣だよ」

 あっちに流れ込めばいい、翼をもぎ取るまでの時間阻害してくれればいい、その程度の考えだったが、予想以上の効果を発揮しているようだ。電流が流れても大丈夫なのは毛皮の上だけで、中はそうでもないらしい。

「後はお前の翼さえもげれば・・・」

 そう狙い澄まして振り上げた剣が、想定外の方向から来た力で弾かれる。見上げれば、その二対の翼の真ん中あたりから、二匹のミニが上半身だけ生み出されていた。人の剣を弾いたのはこいつららしい。鋭い爪をこすり合わせながら、こちらを睨んでいる。

「こりゃまずい」

 僕の独白が終わるか終らないか、それくらいに、ミニ二匹が躍り掛かってきた。



「何か落ちてくるぞ!」

 そう言ったのは馬で先頭を走るライコウだ。指差した先には、上空でくんずほずれつやり合っているタケルとケンキエンの分身二体、その少し離れたところに、地面に向けて落下してくる物体があった。物体は別段大きな音を立てるわけでもなく、ケンキエンを追う彼らの前に落下した。

「これは、あ奴の剣じゃな」

 トウエンが物体の前で手綱を引き、馬の足を止める。大地深く突き刺さっているのは、さっきまでタケルが持っていた朱色の剣だ。

「え、じゃああいつ、今武器無しなの?!」

 トウエンの後ろに便乗していたクシナダが、剣と空の連中とを交互に見る。

「一応、己の剣は持って行ってるはずだが」

 ライコウが目を凝らす。彼の眼には、素手で複製たちと殴り合うタケルの姿が映った。どうやら自分の剣もいつのまにやら失っていたらしい。

「流石に素手じゃ不利だ。押されている」

「何とかして、この武器をタケルに返してやらんといかんの」

「しかし、どうやって」

「とにかく、持って行くしかあるまいよ。投げて届かせるなら、後ろから来るタケマルにまた頼みたいところではあるが・・・」

 そうすることが出来ない。いかに脚力を強化しているとはいえ、ずっと戦い詰めの満身創痍で疲労困憊。いつも通りの速さで走ることが出来ない。ケンキエンどころか、馬で後に出たはずの自分たちに追いこされているのがその証拠だ。すでにケンキエンからはずいぶんと距離を開けられている。追いついたころには、すでにケンキエンに逃げられている可能性が高い。そうでなくても、空中であれだけ暴れて、蛇行しながら飛んでいるのだ。上手く投げ渡せるかは怪しい。

 それならば、少しずつ高度を下げているケンキエンをクシナダが射落とし、もしくは妨害することでこちらの手の届く高さまで高度を下げさせ、そこで彼に帰した方が良い。

「よし、では、私が運びます」

 馬から飛び降りたクシナダが、剣に駆け寄る。他の二人には馬の手綱に集中してもらいたかったし、何よりあれは蛇神の牙から削り作られた呪いの剣だ。最初は真っ白だったのに、タケルが持った瞬間朱色に染まったといういわくつきの剣だ。二人に触れさせるわけにはいかなかった。そうして、柄を握った瞬間、タケルの時と同じようにドクン、と脈動した。

「なっ」

 驚き、熱い物に触れたかのように手を引っ込める。そんな彼女の前で、剣は見る見るうちにその姿を変貌させていった。幅広の長い剣がメキメキと音を立てて織り込まれ、あるいは畳まれて、小さく小さくなっていったのだ。やがて音も動きもなくなったそれが、彼女の前で浮いている。

「・・・矢、に、なってしまった」

 どうしてあの巨大な剣が、こんな姿に変わってしまったのか。理由はさっぱりわからない。恐る恐る手を伸ばし、その矢を掴む。ドクン、と再び蠢く。

 確証も何もない、只の勘。しかし、確信がクシナダの中に生まれた。

 振り返り、弓を構える。弓弦に矢筈を合わせ、ゆっくりと引き絞る。体から矢へ力が伝わるのを感じる。その証拠のように、矢はますます朱色を濃くし、脈打つ。そばでトウエンやライコウが何か言っているが、それが聞こえないほど集中していた。

 ふと、視界に入っていた腕を、細長い何かが這いずった。半分透けた黒い蛇だ。それが一匹、二匹と次々に現れては腕を伝い、矢へと染み込んでいく。

 不思議と恐れは湧かなかった。ただ確信が深まっただけだ。

 にい、と笑みを浮かべ、真っ赤に染まった瞳を再び空へと向ける。

「落ちろ」

 弓弦を離す。

 矢は大気を切り裂いて飛翔した。その軌跡は一瞬真空となり、すぐにそこを満たそうと風がごうごう吹き荒れた。失速どころか加速しながら、彗星のごとく空を貫く。

 矢の向かう先では、タケルが危機に陥っていた。右手の平と左肩をケンキエンの分身たちに貫かれ、宙づりにされていた。引き裂かれる痛みと懸命に闘いながら、そんな彼を食いちぎろうと牙を剥けるケンキエンの上あごと下あごに足裏を当て、閉じようとするのを踏ん張っている。押し合いへし合い、ギリギリの拮抗を保っていたところへ


 ヒュパァン


 風切音は後からやってきた。下から飛んできた矢はケンキエンの腹から斜めに突き刺さり、中身を食い千切りながら直進して、眉間から飛び出した。そのままケンキエンの面前にいたタケルに向かって飛び、命中。タケルの頭部が後ろに弾ける。

「がが」

 弾かれていた首の位置が戻る。タケルはケンキエンと同じ運命を辿らなかった。飛んできた矢を、運よく歯で受け止めたのだ。白刃取りを歯でやったような形だ。

 ぐらり、と彼の足元が揺れた。矢を撃たれたケンキエンがついに力尽きたのか、あごに入っていた力が抜けたのだ。この隙に、タケルは足を外し、反転。強引に左肩の爪を引っこ抜き、口に咥えていた矢を吐く。その矢筈に足をひっかけ、蹴りあげた。右手の自由を奪っていた分身の胸を矢が貫く。そうして、自由にした右手で突き抜けた矢をひっつかみ、今度はもう一匹の額に突き刺す。彼にとって、普通にくたばる敵は敵ではない。彼の自由を奪っていた二匹は絶命し、煙となって消えた。

 残ったのは、目の光を失ったケンキエンとタケルのみ。浮力を失い、二匹の化け物はとうとう落下を始める。



 重力に引かれる。真っ青な空の中、大地に向かって形振り構えず一直線に。大分高度は落ちていたとはいえ、それでも三、四十メートル近い高さからの自由落下だ。このまま行けば死ぬんじゃないか?

 顔を横に向ける。僕と同じように頭から自由落下するケンキエンだ。ミニ共みたいに煙になって消えることが無いのは、本体だからか、それとも。

 地面が迫ってきた。さて、このまま真っ赤な完熟トマトみたいに潰れてしまうのも一興だな、そんなことを考えていたら、僕の名を呼ぶ声がした。クシナダだ。彼女の姿を認めた瞬間、怒りが込み上げてきた。いや、まあ怒りというほどの物じゃないけど。ちょっとイラッとしたのは事実だ。あの女、射るのは良いが、その矢が僕まで貫こうとしたのだ。死ぬ前に一言文句を言ってやる。

 体を上手く気流に乗せてケンキエンに近づく。これから何をするかというと、昔読んだ漫画のワンシーンの再現だ。

 エレベーターが事故で突然停止し、三十階の高さから落下した。中にいた人間は、エスカレーターの底が地面と衝突する瞬間にジャンプし、難を逃れるという、無茶苦茶なコメディだ。大体エレベーターの個室の中でどうやって外を確認して地面にぶつかる瞬間を見極めたんだとか色々突っ込みどころがあるが、なんとなく、落下速度と同じ速度で上に飛び上がれば大丈夫な気がする。昔高校の授業でやったベクトルだか物理だかで、力の向き云々を聞いた気がする。気がするばっかで何ら確証はないが、死んで元々だ。試すだけ試してみようか。

 ケンキエンの体を掴む。うん。まだ質量はある。これなら足場にしても問題なかろう。足を下にし、体勢を整える。

 地面が迫る。両足を勢いよく伸ばし、ケンキエンの体を蹴る。一瞬、その場で静止した様な気がした。

 案の定、気がしただけだ。僕は地面に落下した。ただ、幾分勢いは削がれていたかと思う。盛大に転がりあちこち擦りむいたけれど、骨が折れたとか、内臓がどっか損傷したとか見受けられないからだ。あくまで僕の適当な感想だけど。

「タケル!」

 仰向けに倒れる僕を影が覆った。

「クシナダ、か」

「そうよ、私! わかる?! 大丈夫なの?!」

 体が抱きかかえられ、至近距離で安否を確かめられた。

「わかるから、大丈夫だから、頼むから耳元で怒鳴るな」

 耳がキンキンする。

「それより、こいつはあんたが?」

 手に持っていた矢を彼女に見せる。ええ、とクシナダは頷いた。

「とんでもねえ矢を放ってくれたもんだな。ケンキエンの腹から頭まで貫通して人の歯を欠けさせたぞ」

「・・・そんなに?」

 射た本人が訝しげに首を傾げた。どうやら想定以上の威力だったらしい。少し詳しく射た時の状況を聞いてみると、黒い蛇が矢に染み込んだとか、この矢がもともと僕の持っていた剣だとか、その剣がドクンドクンと脈打って変化したとか。要領を得ないが、つまりは、彼女が蛇神から創られたこれを持つと、彼女にとって使いやすい武器、矢になった。で、それを使用すると、彼女の中の蛇神の力を上手く乗せ放つことが出来る、と。

 山犬にでもライドオンしてりゃ完璧だな、と思いをはせていたら、手の中の矢がドクン、と脈打つ。顔を向けると、人の手の中で矢はからくり仕掛けのようにその身を広げたり伸ばしたりして、ものの数秒で元通りの剣に戻った。

「・・・便利だな」

 思考を放棄した。これはもう、こういうものだと納得した。剣を放り出し、その場で大の字に寝っ転がる。ああもう痛い。やれやれだ。

 そんな僕の横を、トウエンとライコウが通り過ぎていった。後から追いついたタケマル達も、それに続く。彼女らは、ある一点を囲うように円になっている。ああ、そう言えば後始末が残っているな。剣を杖代わりにして突きながら、クシナダに背中を支えられてトウエンたちを追った。

 少し行った先に、小さなクレーターが出来ていた。中心部に、ピクリとも動かないケンキエンがいる。

「死んだのか?」

 ライコウが言った。トウエンが首を振り「まだ、穢れは残っておる」と慎重さを崩さない。

「じゃあ、僕が確かめてこようか。ついでにとどめも」

 人垣を掻き分けて、横合いから首を出す。

「馬鹿を申すな。そんな状態のお主にこれ以上危険な真似をさせられるか」

「それを言うなら、全員ボロボロなんだけどね」

 けが人しかいないのだし。それに、僕の傷は今も徐々に治りつつある。現にもうクシナダの助けなしでも立っていることが出来る。

「・・・おい、見ろ!」

 確か、クラマとか呼ばれていた隊長格だ。僕たちも言い合いをやめて、彼が指差す方を注視する。

「縮ん、でる?」

 クシナダが全員の心を代弁した。僕たちが見ている前で、ケンキエンの体が見る見るうちに小さくなって、遂には王妃の姿にまで戻った。うつぶせの状態から両手をつき、上半身だけを少し起こして

「助けて・・・」

 か細い声で懇願した。今更、と思うが、これまでのことを知らなければ、いや、知っていたとしても叶えてしまいそうな魔力があった。現に、この姿と声で、西涼の兵の半数くらいは揺らいでいる。あの本性と王妃の姿とがイコールで結びつかないってのもあるのだろう。

 自分たちがしたことは間違いだったのではないかと不安げに、戸惑いながら、隣同士で囁き合っている。

 一方、安達ケ原の鬼たちの方は、手は出さないのはトウエンの指示のもと慎重になっているからだ。倒せ、と命令ひとつで全力で倒しに行けるだろう。

 けれど、今後のことを考えるとそれは良くない。これから手を取り合って行こうとしている二つの国にとって、安達ケ原側がケンキエンに止めを刺すことは不安要素になりかねない。


 まあ、そんなことどうでも良い。


 一歩踏み出した。全員の視線が僕に集まる。

「タケル!」

 トウエンが呼ぶが無視だ。近づく僕の様子を、ケンキエンは震えながら見ている。

「許しておくれ、我が、我が悪かった・・・」

 ずんずん進む。後十メートルほど。

「我はここを去る。二度とこの地には寄らぬ。約束する。だから」

 どんどん進む。後五メートルほど。

「慈悲を。・・・我に慈悲を・・・」

「がっかりだよ」

 一メートル手前で止まる。

「本当にがっかりだ。神だと名乗るから、力を貯えたと言うから。どれほどのものかと思ってた。・・・うん、確かに力は強かった。死者を甦らせたり、分身をいくつも生み出したり、厄介だった。けど。今のその有様は何だよ」

 失望が胸に去来する。僕は、蛇神みたいに最後まで神として戦い続けるものだと思ってた。どこまでも傲慢で、人を見下して、どれほど不利になったとしても、神の座から降りず、ひん曲がってはいたが誇りの様なモノは持ち続けていた。間違っても人にへりくだるような真似はしなかった。命を賭けて戦うに値する相手だった。

 それがどうだ。目の前のケンキエンにはそれが無い。

 はあ、とため息を吐いて、僕はクルリと背を向けた。

「もういいや」

「おお、助けてくれるのかえ? そんな心優しきお主に、感謝と・・・」

 背後で蠢く気配。

「馬鹿、後ろだ!」

 叫んだのはライコウか。影が差す。

『死を』

 熨斗つけて倍返しだこのクソ野郎が。本気でそんな手が通用するとでも思っていたのか?

 何も考えず、大きく横に飛んだ。空中で身をよじると、自分がさっきまでいた場所に、腕だけ元に戻したケンキエンが爪を振り降ろした状態で固まっていた。

『貴様さえ食い殺せば!』

 どうやら僕の持つ蛇神の呪いをご所望らしい。そりゃあ、そんじょそこらの穢れよりも穢れているだろうけどな。

 再度爪を振り上げて襲い掛かろうとしたところに


 スパァン


 完璧なタイミングで、横槍ならぬ横からの矢がケンキエンのこめかみを射抜いた。毎度毎度素晴らしい腕前だ。

 着地し、踏ん張ってから、つま先を軸にしてくるっとかかとを回し、ケンキエンと対峙。ステップを踏み、剣を腰だめに構えて、体ごと突進する。全体重をかけて突き刺した。貫通する手応え。傷口からは、真っ黒な穢れの煙が血の代わりに立ち上る。

『ガァアアアッ』

 絶叫を上げながら、ケンキエンがのけぞる。苦しみながら、僕の首にでかい手をかけてきた。剣を持つ手に力を込め、抉るようにして押し上げる。がふ、とケンキエンが黒い血を吐き出し、手足をばたつかせながら足掻く。顔や腕を引っかかれながら、それでも僕は剣を押し込む。

『き・・・さま、さえ・・・、貴様さえ喰えればぁああああ!』

「うるせえっつってんだろ。てめえこそ僕の餌になりやがれ」

 剣の朱色が濃くなった。刀身が、目に見えて脈打ったかと思うと、ケンキエンの傷口から立ち上っていた煙を吸い込み始めたのだ。ちょっと驚いて、手を離して距離を取った。その間もシュルシュルと吸引力の落ちないハイパワーな掃除機みたいに煙を吸い込み、相対的にケンキエンの体が見る見るうちに縮んでいく。ケンキエンの体内にある穢れを吸い尽くそうとしているようだ。己が体を顧みて、ケンキエンが恐怖におののく。おそらく初めて死の恐怖を味わっていることだろう。体はますます縮み、人の姿を保てず、黒い煙が子犬ほどの大きさで残るのみだ。それも、徐々に吸い取られ、足、腕と消えていく。

『嫌だ・・・我は、我は死にたくない。助けて。死にたくない。死にたく』

 ガラン、と刺さっていた剣が地に落ちた。呆気ねえ。これがつまらぬものを斬ったときの剣豪の心境だろうか。剣を拾い、今度こそみんなのもとに戻ろうと振り返る。

 こちらを轢き殺さんばかりの勢いで走ってくるタケマル達の姿があった。

 昔、ボディビルダー百人に有名人が追いかけられるというドッキリテレビを見たことがある。あれも夢に出そうなくらいの迫力だったが、多分これはその比じゃない。命すら惜しくなかったこの僕が思わず後退りしたほどだ。逃げようかと後ろを向くと、左右後方、全方位からこちらに向かって屈強な兵士と鬼たちが駆け寄ってくる。彼らは僕を取り囲むと、おもむろに人の体を持ち上げて、上に放り投げやがった。強靭な膂力の持ち主たちによる胴上げは、元の世界ならギネス記録に乗るであろう高さだ。

「「うおおおおおお!」」

 言葉にならない雄叫びを上げる。空中から見下ろせば、昨日まで名前も知らない、敵だった者たちが抱き合い、喜びを爆発させていた。

 散々空高く放り投げられた後、ようやく地面に戻ってきてへたり込む。ちょっと気持ち悪い。

 そんな状態の僕の名を、誰かが呼んだ。

「見事であった」

 トウエンがいた。そこかしこに打ち身擦り傷を作り、血や泥にまみれながらも、彼女もまた笑っていた。

「お主のおかげで、この地に平穏が戻った。礼を言う」

「言われる筋合いはないよ。僕は、ただ自分のしたいようにしただけだ。それに、あんたらだって戦ってただろ。お褒めの言葉は、これまで必死こいて戦ってきた自分の部下たちにかけてやればいい」

 そうだな、と、彼女は目の前で騒ぐ彼らを見やる。彼女が優しく見つめる先に、もう悪夢の影は無いだろう。


 それから数日後、ライコウの処刑が執行されようとしていた。

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