第5話 神話の再現

 運命の日、もしくは運命と決別する日が訪れる。

 立ち並ぶ家々の間に巨大な樽が並べられる。中には何度も蒸留させた強力な酒がなみなみと注がれている。匂いだけで酔いそうだ。

 真っ青だった空が、次第に陰っていく。生暖かく湿った風が流れ、それに乗って酒の匂いが消し飛ぶほどの生臭さが漂い、あたりに充満していく。森の木々が悲鳴を上げだした。圧倒的な質量に押しつぶされ、断末魔をあげる。それが幾重にも幾重にも重なり、さながら合唱のようになって不気味に響く。

「来たわね」

 村長代理であるクシナダが、そう呟いて所定の位置である広場の真ん中に立った。今の彼女は普段の軽装ではなく、依然生贄たちをもてなした時の女官の着物を羽織っていた。他の人間たちも、作戦通りに自分の持ち場についている。

 ずるりと、神は再び森の中から這い出てきた。

『おや、おやおやおや』

『どうしたことか、どうしたことか』

『何やら良い香りがするのぅ』

『これは酒よ。強く、薫り高い酒の香ぞ』

 八つ揃った蛇神の口が裂けた。血で染まったかのように真っ赤な口から、チロチロと長い舌が見える。

「お待ち申し上げておりました」

 クシナダが恭しくこうべを垂れた。

『娘よ、これはどういうことか』

『約束の贄はどこぞ』

「は。もちろんご用意させていただいております。ですがその前に」

 頭をあげ、両手を広げる。

「食前酒をご用意いたしました。あなた様に働いた数々の無礼、どうかお許しいただければと」

『ほほう、これは殊勝な心構え』

『よきかな、よきかな』

『我らは慈悲ぶかき神。此度のこと、水に流そう』

『水ではなく、酒ではあるが』

 カカと大笑する。耳障りな声が神経を逆撫でする。

『しかし感心せぬな。捧げものと言うからには、ここへ並べて初めて捧げるというのではないか?』

 首の一本が、疑問を呈した。この蛇はやっぱり頭がいい。

「はい。理由といたしましては、まずこの樽の大きさです。あなた様と違って矮小な我らは、酒がなみなみと注がれたこれを運ぶことができません。かといってそちらで樽を作ってしまえば、今度は酒を注ぎにいけません。空気に触れるたびに酒はまずくなってしまいますので。考えた結果、まことに失礼仕りますが、こちらで作らせていただくことに相成った訳でございます」

『そうかそうか、そういうことか』

『矮小な人の身の限界か』

『ならば致し方なし』

 疑問は氷解したのか、嬉々として蛇神は各々の首を樽に突っ込む。ごっ、ごっ、とのどを鳴らす音。八つ首すべてが樽に入っていることを確認して、クシナダが手を挙げた。合図だ。

 隠れていた村人たちは、その合図をもって、手元の綱を断ち切った。瞬間、これまで固定されていた家屋の中にあるパイルバンカーは、ため込んでいた力を一気に解き放った。

 家屋の壁が内側からはじけ飛ぶ。鋼鉄の切っ先が限りなく真円に近い軌道を描く。斑鳩と山里の想定通り、可能な限り力を逃がさず、効果を発揮した杭は、木と藁で作られた屋根を易々と貫き、速度を維持したまま蛇神の脳天に突き刺さる。直径二メートルの大木がその質量を見せつけ、切っ先に固められた鋼がその強靭さを知らしめる。杭は蛇神の脳天だけにとどまらず、樽を破壊し、大地に深々と突き刺さった。

 蛇神からは悲鳴すらなかった。ただぴくぴくと痙攣し、杭と肉の隙間からおびただしい血を流しているだけだ。その周囲は垂れ流れてきた血で真っ赤に染まり、川となって流れていた。地獄絵図にある屍山血河そのままだ。

「やった、のか?」

 村人の一人が、破壊された壁の隙間から顔をのぞかせた。その声が届いたのか、他の家からも人が動く気配がする。最初はおどおど、おっかなびっくりと。しかしその目に結果が映ると、村人たちは我も我もと外に飛びだす。

「お、あぁ」

 言葉にならない、ただの音が誰かの喉から漏れ出した。それは徐々に歓喜を帯びて、村人中に広がり、爆発した。

 男も女も、老人も子供も、今まで体内に蓄積され続けた何かどす黒いモノを吐き出すように大声を張り上げた。言葉にはならなかった。けどそれに含まれる意味は誰しもが理解し共感した。

 一緒になって喜びたいのを必死にこらえた人間が、その輪の中に一人いる。クシナダだ。もっとも喜びたいはずの彼女がそれをこらえているのは検分のためだ。本当に蛇は死んだのか、それともここから回復するのか。もし回復するならば、復活する前にとどめを刺さなければならない。事後処理の指示を出すために、彼女はまだ浮かれられずに蛇神の死体を調べ続けた。

 結果、彼女は気づいてしまう。

 最初は些細な違和感だった。最後の一首から出てくる出血量が、他の首に比べて若干少ないような気がしたのだ。時間も経過しているし、血が抜けきったとしてもおかしくない。蛇神から流れ出た血は大地にしみこむ量を完全に飽和して、村全域に広がるほどの血だまりを形成していたからだ。村を包み込むほどの巨体とはいえ、これほどの量が出ればさすがに止まる。かすかな違和感はすぐに消滅するはずだった。だが

 もぞり、と、胴の内側がわずかに起伏を繰り返した。彼女の視界はそれを見逃さなかった。痙攣とは明らかに違う、たとえば、布団から体を起こした時に見える足の動き、たとえば腕が通ろうとしている服の袖。

 彼女の目が見開かれるのと同時、蛇神の八つの首を支えていた太い胴の背中が裂けた。肉片と血をまき散らしながら、それは産声を上げる。

『あは、あははははっ』

 耳障りな声が木霊し、歓喜に沸いていた村人たちの熱をたやすく冷ましてかき消す。

『愉快、愉快なり。本当に貴様ら人は我を楽しませてくれる』

 鎌首をもたげて、蛇神が嗤う。

 飛び出してきたのは一回り小さくなった、首も一本だけ。それでもとぐろを巻けば広場が埋まり、アギトは人を丸呑みにして余りある蛇神だった。

『気づかれていないと思ったのか? この森は、この山は、この地は我が住処。小枝の一本が落ちる音でも届くのだ。貴様らが木を切り倒す音が聞こえぬはずあるまいよ』

 蛇神が村人たちの顔を舐めるようにじっとりと見る。愛しいものであるかのようにねっとりとした視線を送る。

『小賢しき知恵を絞り、我を倒せると思ったか? この血だまりを見て、希望を見たか? 愚かにして愛しいな、人は。本気で我を倒せるとでも思ったか? 我は神。たかが人が及ぶものではない。こうして貴様らの戯れに付き合ってやったのは、ひとえに楽しむため。見よ、互いの顔を。希望を砕かれ、絶望に満ちた顔を! それこそが我が望み。人の血肉が美味くなる最高の調理法』

 ぐるりと鎌首をめぐらせる。品定めをするように、一人一人の顔をのぞいていく。目があった村人は恐怖で固まり、腰を抜かし、歯を鳴らし、打ち震える。

『我に逆らった罪、万死に値する。貴様らは全員死罪。我が腹を満たすことによりその罪が許される。では手始めに』

 その目がクシナダに向いた。瞬間、彼女は踵を返し、蛇神から逃げた。

『く、くくくくくかかかかかかかああははは!』

 蛇神の笑いが木霊する。

『そうかそうか! まだ我を楽しませてくれると申すか! よかろう! 付き合ってやろう! ただし、捕まればどうなるかわかっておろうな、娘よ。その手足を一本ずつ噛み千切り、その腹を裂き、ゆっくりはらわたを啜って食ってやる』

 蛇神は他の村人に目もくれず、その巨体をくねらせて後を追った。


 走る。駆け上がる。草木生い茂る道なき道をただ全力で走り続ける。後ろから聞こえるのは蛇神の笑い声と這いずる音。この視界の悪い中でも追ってくるということは、視力以外に匂いや音などで獲物の位置を特定しているのかもしれない。斑鳩も言っていた。蛇の中には熱源で位置を特定する目を持つ種類がいると。サーモグラフィのように、熱源をたやすく特定することが可能なのだと。この蛇神もその能力を持っているのだろうか。

『かは、かはははは、どうした娘! そんなにゆっくりでは、追いついてしまうぞ!』

 徐々に声が近づいてきている。追いつかれるのも時間の問題だ。だいたい足もすでに疲労困憊で、一度倒れてしまったら息を整えるまでしばらくは立ち上がれないだろう。

 それでもなお、走り続ける。そこまでたどり着けば。

『そうら、追いついた!』

 暴風を伴って、蛇神の胴が薙ぎ払われた。直前で気づき、受け身を取るためにわざと飛び上がったものの、衝撃はすさまじく、自分の体が簡単に吹き飛んだ。枝を引きちぎりながら宙を舞い、そして大きな岩に背中が激突した。声すら出ない痛みにしばらく悶絶し、のた打ち回る。口元から血が零れた。口を切ったのか、それとも内臓が損傷を受けたのかわからない。

『これでしまいかえ?』

 ゆっくりと、面前に蛇神が現れる。得意げな顔でこちらを見下ろしている。

『さあ、終わりだ、先ほどの約定通り、手足を一本一本喰らってやる。その腹を生かしながら裂いてやる。さあ娘よ、貴様はどんな味がするのかな』

「ガタガタうるさいやつだな」

 ゆっくりと体を起こす。ボロボロになった女官の服をはぎ取る。口元の血を拭う。苦しいが、それでも笑って立つ。

『っ、貴様ァ!』

 赤い目を大きく見開き、蛇神が憎々しげに唸る。それはそうだろう。僕は奴からしたら煮ても焼いても喰えやしない腐った餌なのだから。

 トリックは簡単だ。クシナダが蛇の視界から家の影に逃げ込んだところには、地中に水を張った風呂釜くらいの桶が設置されていた。クシナダはそこに飛び込みカモフラージュ用の蓋をする。入れ代わりに僕が走り出した。熱源で追ってくるのなら、これで騙せると踏んだのだ。事実、蛇神は僕をクシナダと思い込んでここまで追ってきた。女官の服は羽織ってはいたものの、靴やジーンズなど違いはいくつもあったのに。おそらく通常の光でものを見る視力と熱源でものを見る視力を切り替えて追うのだろう。

 生物学者が喜ぶような性能を持っていようがいまいが、僕たちには関係ない。大切なのは、作戦が成功しているかどうかであって、そして結果は上々だという事実があればいい。

「ずいぶんと貧相になったな。後であの抜け殻をもらっとくぞ」

 蛇の抜け殻は金運アップのお守りになるそうだ。あの抜け殻にあう財布はなかなかなさそうだが。

『貴様、立場が分かっているのか。我を怒らせて、どうなるかわかっているのか!』

「知らないね。知りたくもない」

『では教えてやる。まずは、その腕ェ!』

 蛇が矢のように突進してくる。僕は、近くに張られていたロープを手に取り、その根元を用意しておいた小刀で切断する。ロープによって引っ張られていたしなやかな木が、その瞬間元に戻ろうとしなる。合わせて、僕の体が上空へと引き上げられる。

 間一髪、僕の足元を蛇神の巨体が行き過ぎる。蛇の頭は岩を砕き、あたりに粉塵が立ち込める。

 掴んでいたロープをぱっと放し、自由落下する。小刀を逆手に持ち替え、蛇神の体につきたてる。落ちる力をそのまま切る力に変え、僕は蛇神の横腹を裂きながら着地、すぐにその場を離れる。

『小癪な』

 蛇神が頭を巡らせ、僕の姿を捉えた。

『我が体は不死。いかな傷を負おうとも、たちどころに治る。いかに小細工を弄せども』

「へえ、しかし」

 僕は思いっきり馬鹿にしながら

「その割には、そこ、血が止まってないんじゃないか?」

 蛇神は馬鹿みたいに素早く、己が体を見渡し、かすかな切り傷を見つけた。蛇神の巨体からすれば微々たる傷だが、その傷を目にした蛇神は初めて狼狽した。

「やっぱりか」

 反対に僕は確信した。手の中にある小刀の柄を強く握り返す。その刃には銀が練り込まれていた。


「可能性としては、あるかもしれない」

 床に並べられたものを見て、桐谷は言った。

 並べられているのは、僕のカフス、桐谷のピアス、斑鳩のメガネ、山里の腕時計だ。

 これらに共通するのは、すべて銀が使われているということだ。

「物語に出てくる吸血鬼、人狼など、不死身の怪物は銀を嫌います。なぜか、と言われると説明はできないんですけど。でも確かに銀イオンは消臭や殺菌などに使われるほど強力な殺菌効果を持ちます。もし仮に、仮にですよ。怪物たちの持つ再生能力が、バクテリアや菌の強い増殖能力から来ているのなら」

 桐谷が立てた仮説はこうだ。蛇神の体にはそういうバクテリアがいる、もしくは半分バクテリアで出来ている可能性がある。

 寄生しているのでは、と彼女は言い換えた。

「アブラムシの細胞の中にはブフネラというバクテリアが共生しています。ブフネラはアブラムシの中に住む代わりにアミノ酸をアブラムシに供給し続けるのです。細胞単位で共生する微生物がいるのですから、再生能力を飛躍的に上昇させる微生物が共生していてもおかしくありません。異世界って言う、この血なまぐさいファンタジーなら何でもアリです。多分」

「ようは、その微生物? とやらをなんとかして、あの蛇神を再生させないようにすればいいのね? それには、この銀を使えばいい、と」

 クシナダの問いに、桐谷は「もしかしたら、仮定に仮定を重ねた話の範疇ですけど」といった。

「でも、そう考えると、話がつながると思うんです。食べられた人は、全員服を着替えさせられているか、裸でした。あのお金持ちそうなおばさんも、つけていた貴金属は全部外されていた。タケルさんがダイコクさんから聞いた話だと、あの蛇神から生贄は着替えさせるように、と、先祖の皆さんに伝えたそうですし。反対に、私たちは着の身着のままで、食べられなかった。身に着けていた共通のものというと、麻、絹、ポリエチレンなどの服の材料やゴム、革などの靴の材料と、この銀も含めた金属類です」

 服に効果があるとはあまり考えられない。なら必然的に、効果があるのはこの金属類ということになる。

「クシナダ。こういう、鉄以外の鉱物ってこの辺りで取れる?」

 僕の問いに、クシナダは下唇を軽く噛みながら首をひねる。

「どうだろう。過去にご先祖様たちが蛇神と戦った時、持っていたすべての鉄とか、そういうものを溶かして武器にして戦ったはずなんだけど」

「銀がなかったから、負けてしまったのかもしれないですね」

「は。案外効果なかった、ってオチもあり得るだろ」

 希望的と悲観的な観測を言ったのは桐谷と斑鳩だ。

「どうしてそういうこと言うんですか。これから戦おうって時に」

「ふん。どんな可能性でも考えておくのは当然だろ?」

 桐谷の非難を斑鳩が生意気な理論で切り返す。それを「まあまあ」と山里が仲裁に入る。

「効果のほどはさておき、ここにある銀のみで対応しなければならないね」

 早速作業に取り掛かろうとする山里。腰を上げて、ふと、僕らに問いかける。

「その、たとえ効果のある武器が出来たとして、それは誰が使う?」

 当然の疑問だった。武器は誰かが使ってこそ武器たり得る。誰も使わない武器は、ただの飾りだ。この銀で傷をつけるということは、あの蛇神と面と向かって戦わなければならないということだ。しかもこの分量では練り込んだとしても一つか二つ。

「村のみんなにも聞こうとは思うんだけど、もし、誰もいなければ私が」

「ああ、それなんだけど・・・」

 申し訳なさそうに、大人の義務感からか立候補しようとした山里の言葉をさえぎる。

「僕に任せてくれない?」

 申し出た理由は、そこが一番死ぬ確率が高そうだからなのと、あの蛇神を前にして動ける人間を合理的に判断した結果だ。別段そこまで協力してやる義理はないのだけれど、まあ、クシナダの依頼の続きってことで片付けよう。

「・・・いいのね?」

 うかがうように、クシナダが尋ねてきた。

「死ぬかもしれないわよ?」

「前も言ったと思うけど、僕はこの世界に死ぬために来たんだ」

 そういうと、彼女は大きく息を吐いて「前にも言ったと思うけど」と、腰に手を当てて呆れたように。

「あなたに死なれると困るのよ。戦いに行くあなたが死ぬってことは、負けてるってことじゃない」

「あ」

 それもそうか。

「だから、生きて帰ってきなさい。そしたら、私がとどめを刺してあげるから」

「何とも魅力的な報酬だ」


「やっぱり、そうだったんだな」

『何がだ。この程度のひっかき傷をつけたことで、我に勝てると思い上がっているのではないだろうな』

 禍々しく唸る蛇神だが、その恫喝に怯えることはない。仮定は正しかった。なら勝率がゼロから一気に跳ね上がる。せっかくの勝負だ。勝ちにこだわるのは当然だ。

「思い上がってるのはそっちの方だろ。もうお前は不死でも何でもない、ただのでかい蛇だ。ただの蛇なら、こっちにも勝算はある」

 手を広げて、周囲をアピールする。一面に、この戦いのために作られた罠や仕掛けの数々が張り巡らされている。

「ここは、お前があそこでくたばらなかった場合の次の策だ。僕らの浅知恵を見破ったようにぬかしてたけど、逆だ。そっちが嵌められたんだ。僕らはお前が次にどういう風に行動するか大体読めていた」

 これに関しては桐谷のお手柄だ。彼女は蛇神のこれまでの言動から思考や行動パターンを解析してみせた。

「尊大で傲慢な相手の思考回路なら読めますよ。多分、この世界では誰よりも」

 傲慢な父親の相手を十数年続けていた彼女にしかできない自信に満ちた発言だった。元の世界に還ったら、精神科医や犯罪心理学者、刑事になればいいと思う。きっと、素晴らしい業績を残すはずだ。

 彼女だけじゃない。ただの木と鉄からパイルバンカーやこの場にある罠の数々を創り上げた山里の物作りに対する情熱とその技術は驚嘆に値するし、斑鳩の知識は素人の僕たちから見ても凄くて、将来が楽しみな逸材だ。

 なぜ、あちらの世界でも必要とされるような逸材たちがここにいるのか。僕の仮説は徐々に固まり出していた。神の思惑の一端を掴み始めている気がしていた。

『馬鹿め』

 僕の思考回路は、蛇神の唸り声によって運転切り替えを余儀なくされる。

『嵌めた、だと? 読めていた、だと? 笑わせてくれる。たかがかすり傷一つ負わせたくらいで勝った気でいるのか? 愚か、愚かなり』

 ぐぅっと鎌首を持ち上げ、高所から見下ろす。赤い瞳が僕を睨みつける。仮説も後の答えあわせも、こいつを退けなきゃいけない。

『人間風情が、神に勝てると思うな!』

 吐き出した息と怒気がびりびりと皮膚を打つ。腐っても神、迫力満点だ。

「御託はいいよ。前にも言ったろ? 喰うのか? 喰わないのか?」

 言い捨てて、手元の小刀をアクロバティックに宙へ放り投げた。ヒュンヒュンと風切音を立てて落ちてきたそれをキャッチし、切っ先を蛇神へむける。

「さっさと答えないと、僕がお前を喰っちまうぞ」

 返答はなかった。溢れ出る怒りが言葉を失わせたのかもしれない。大きく口を開けて、蛇神が迫ってきた。ちゃちな天羽々斬を握りしめて、僕は真横に飛ぶ。

  

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 ―同時刻―  

 タケルと入れ替わったクシナダは、彼と蛇神を追って山中を走っていた。さっきまで来ていた女官の服を脱ぎ棄て、普段の動きやすい服に着替えていた。その手には斑鳩が設計した弓が携えられ、肩には矢筒をたすき掛けにしている。



 それは、ちょうど蛇神とどう戦うかを村人全員で話し合っていた時だ。

「この村で、一番弓が上手いのって誰なの?」

 タケルがポツリと、誰彼ともなしに尋ねた。宴会の時に出た肉料理は、牛の肉とは思えなかった。猪や鹿だろうと彼は予想していた。猟をするのなら、弓矢などがあるはずだ。

「弓がどうかしたの?」

 クシナダがタケルに問う。村人の大半は彼らに対して警戒心を抱いているのか、いまだに話しかけたりすることはない。自然、間に入るのはクシナダ、稀にダイコクという風になった。

「いや、銀を矢じりに混ぜて射れば、それなりに効果があるんじゃないかと思って。遠くから攻撃できるってのはやっぱ有利なんだよ」

「そりゃその方がいいんだろうけど、大丈夫なの? 銀って少ないんでしょ?」

「少ない、けど、練り込むだけなら矢を数点用意できるってのが山里さんたちの見解。銀製の武器が欲しいってわけじゃなく。銀の成分がほしいだけなら鉄とかに混ぜ込んだ方が固いし壊れにくいらしい」

 銀そのものは柔らかいしね、と彼は付け足す。

「もちろん当てるだけじゃダメ。確実に痛手を負わさないと。となると、一番効果がありそうなのは目だ。頭に近いし、視界も防げる。けど、いくらあいつの目が人の頭よりでかいからって、高速で這いずりまわる蛇の目を射るんだ。腕がよくなくちゃ話にならない。加えて、矢が刺さる距離まで近づいてもらわないといけない。ので。端的に言ってしまうと、矢が刺さるまで蛇神に近づき、喰われるその一瞬前まで目や急所を射続ける技術と度胸を持った人はいる?」

 しん、と場が静まり返り、居心地の悪い空気が流れ始める。村人には生まれてすぐに植え付けられた蛇神への恐怖心がある。一種のトラウマだ。それを振り払って立ち向かえるものなどいないのではないか、と桐谷は分析していた。事実、男衆の誰も、あのダイコクでさえ二の足を踏んでいる。やっぱ無理かな、などとタケルが考えていると真っ白な手が挙がった。どよめきが起こる。

「私がやる」

 皆の視線の先にいたのはクシナダだった。

「これでもみんなと一緒に狩りに出てるの。腕もそこそこ良いわよ」

 誇張でも何でもなく、クシナダの腕は村でも一、二を争う。タケルは意外そうに彼女を眺めて

「良いの? 高確率で死ぬと思うよ?」

「あなたに言われたくないわ」

 クシナダよりも死ぬ可能性が高いのは、直接戦う彼だ。

「あなたに任せきりは嫌なだけよ。私たちの運命なのよ? 私だって戦うわよ」

 心配の言葉の代わりに口をついて出たのは、対抗心と意地。それを聞いたタケルは「へえ」と目を見開いた。

 しばらく待ったが、他に誰も候補者が出てこないので彼女が射手に決まった。ダイコクが一応立候補したものの、猟の時の彼は主に罠を仕掛けたり、槍で突いたり、仕留めた獲物を運搬するなどの力仕事が主で、弓など使ったことがなかった。ただ自分の許嫁が危険な目に遭うのが黙ってられなかったようだ。その心意気は買う、とやんわりとクシナダに止められた。

「そうと決まったら、さっそく弓の調整をしなければならないね」

 タケルが言う。

「調整?」

 弓を使うのに何か準備がいるのだろうか? 訝しむ彼女を見て「僕も詳しく話知らないんだけど」と山里たちがいる工房へ行くように言われた。

 言われた通りに工房へ赴いたクシナダが、さっきと同じ質問をぶつける。その説明は、斑鳩の方がしてくれた。

「あんた用に弓をいじるんだよ。弦の強さとか弓の大きさ、重さ、あんたの腕の長さ、腕力などから、あんたが一番射やすい弓を作る。構えから射るまでの速さだって計算にいれっからな」

「そんなこと言ったって、弓はしょせん弓でしょ?」

 そういうと斑鳩は鼻で笑い飛ばした。

「そう思うなら、こいつを使ってみろ」

 斑鳩が取り出したのは、これまで彼女が使っていた弓とはところどころ違っていた。

 まず、これまでの弓が一本の枝から作られているのに対して、これは木片や鉄の棒などいくつかの欠片が集まって弓の形をとっている。

 真ん中にある取っ手には半円状のくぼみが四つあり、掴むと、そのくぼみに指がしっかりとはまり、これまでの物より掴みやすい。

 しなる部分は取っ手とは別の素材を組み合わせており、その先には円状の部品がついていた。弦は二本、弓の両端にあるその部品にひっかけるようにして張られていた。

 普段の弓とは全く違う、異質な弓を手渡されて戸惑うクシナダに斑鳩は言った。

「普段使うように、それで矢をつがえてみな。そう、そこの弦に矢をかけて」

 言われるがまま、半信半疑で矢をつがえる。弦を引いたとき、疑惑は驚きに変わった。

「軽いだろ?」

 クシナダの心を読んだかのように、斑鳩が得意げに言う。

「弓の端、先っちょについている滑車のおかげで、強い弦を簡単に引くことができる。そして強い弦を使っているからこそ、威力も飛距離も跳ね上がる」

 早速試射してみようと彼女は外に出た。あたりはすでに日が沈んではいたが、月と星灯り、そして夜を通して行われている広場の篝火のおかげで視界は確保できていた。彼女に続いて、斑鳩と山里が外に出てきた。

「一応、明日から始めようと思って的を作っておいたんだけど」

 山里が指差す方向に、鉄の棒が地面から突き刺さっていた。棒の先から紐のついた球がぶら下がっている。あれが的なのだろう。大きさも高さも、蛇があそこに横たえていたら、ちょうど目がある場所に合わせて設置しているようだ。

「ここからあそこまでが約九十メートルある。アーチェリー競技の最大距離と同じだ。理想を言うならこの距離で当てたい。まあ、最初はもっと前から、徐々に練習して距離を・・・」

 山里の話を聞き終える前に、クシナダは構えを取った。その構えがあまりに美しく様になっていて、なんだか侵すべきではない神聖なもののように思えて、山里は提案しようと開きかけた口を閉じた。斑鳩でさえ、今の彼女の姿を見て無駄口を叩かずに見守っていた。

 薄明かりの中、弓を引き絞り、照準を合わせる。風の向きや強さを体の感覚で見当を付ける。そこから放物線の軌道を頭の中に思い浮かべる。想像の中で矢が飛び、的を射る。想像と現実の誤差が徐々に縮まり、零になった。

 つがえていた矢を離す。

 弦が震える。滑車が回る。

 カァァァァアン

 木製バットが真芯でボールを捉えたような、景気の良い音が響いた。

「もう少し、弦を強くすることはできる? 遠くに飛ぶようにできる?」

 それが、クシナダが自分たちに問いかけているのだと把握するのに少し時間が必要だった。はっと我に返った山里と斑鳩は「あ、ああ。もちろん」「お、おう。貸せ」とあわてて返事をする。

 九十メートル先の的が揺れている。ど真ん中から突き抜けた矢じりが鈍く輝いていた。


 息を切らせながら、クシナダは山を駆け上がっていた。一秒でも早く、タケルたちが狙撃位置と決めた場所へと。早く辿り着けばそれだけ成功率が上がる。そして、あの男が生存する確率も上がるだろう。あの男はどうせ死にに来たんだから、と笑うだろうが、クシナダは彼を死なせるつもりはなかった。むしろ絶対に死なせないと決めていた。それは彼を救いたい、などという綺麗な感情ではない。あの死にたがりの男を死に損なわせて、ざまあみろと言って笑うためだった。

 今日まで、自分をはじめ村人たちはあの男に見下され、嘲笑われていた。たかが死ぬことが怖くて、他人を犠牲にしてきた矮小な者たちだと思われていた。もちろん表だって彼がそんなことを言ったためしはないし、ただの被害妄想かもしれない。けれど、彼は気づいていない。彼の言動が、自分たちの今まで培ってきたものや築いてきたものを全否定し、今この状況を作ったのだと。これだけ引っ掻き回しておいて、あっさり死んで、はい、終わり、と勝ち逃げさせるわけにはいかなかった。

 そう、これは神との戦いでありつつ、あの男との勝負でもあると、クシナダはそう考えていた。

 彼女がようやく辿り着いたそこは、深い森の木々の囲みから突き出した、切り立った岩壁の先だった。その先端に立ち、見下ろす。森が広がる大地がここから一望できた。

 いた。

 視界をふさぐ木を伐採したために、そこだけがぽっかりと穴が開いたようになっている空間がある。中心にいるのはタケルだ。そのタケルを食いちぎろうと蛇神のアギトが、押し潰そうと巨大な質量を伴った胴が、粉砕しようとしなる尾が襲いかかる。荒れ狂う嵐が全てを飲み込み、薙ぎ払おうとしている、そんな状況を彷彿とさせる光景だった。

 その中を彼は縦横無尽に飛び跳ね、場に仕掛けた罠や移動用の綱を駆使して際限なく襲いくる蛇神の猛追を避けていた。他の者ならば睨まれた時点で身動きが取れなくなるというのに、彼は避けるに加え、隙を見ては蛇神の胴を切り付け、手傷を負わせている。並大抵の身体能力と精神力ではない。一歩間違えば即、死につながるあの状況で、タケルは戦っていた。

 しかし、旗色が悪いのは明らかだ。彼の攻撃は蛇神を傷つけはするものの、致命傷には程遠い。あの程度の傷など再生するまでもなく、何の痛痒も感じないだろう。

 反対に彼の動きが鈍っている。反応が悪い。目の前の牙は避けられても、後ろから迫る尾への対処が遅れがちになっている。肩を大きく上下させ、呼吸も荒そうだ。体力の限界が近いのかもしれない。当たれば死に直結する攻撃を避けているのだ。精神など根菜のように簡単にすり減っているはずだ。

 矢筒から矢を取り出し、つがえる。

 銀を練り込んだ矢は三本あるが、この一本で決めるつもりだ。仕損じれば、貴重な武器を失い、しかもこちらの存在を明かしてしまうことになる。今はタケルに集中していて気づかれていないが、もしこちらの存在に気づけば、倒すのが困難な彼よりも、こちらを優先して殺しに来るだろう。

 呼吸を整える。弓を握りなおす。観察する。矢の到達時間と蛇神の動きを測る。

 さっきから何がうるさいのかと思えば、自身の心臓の音だった。

「うるさい、黙れ。一瞬で良いからっ」


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 巨大な丸太の杭が横合いから蛇の体を打つ。最後の大がかりな罠だ。衝撃が空気を揺るがせる。トラックが衝突したみたいだ。が

『小賢しい!』

 蛇神はブルリと体を震わせた。圧し掛かっていた何百キロあろうかという大木が、いとも簡単に払われる。時間稼ぎにもならない。プレデターならこれで一発なんだが。

『どうした! これで終いか!』

 いまだ意気軒昂らしい。こっちはとっくに体力の限界なのに、元気な奴だ。

 声を出す元気ももったいなくて、鎌首をもたげ、こちらを見下ろす巨体を見上げる。すぐに襲い掛かってくるかと思いきや、そうはならなかった。首をゆっくりと、鉛筆削りの取っ手のように回して言った。

『何がおかしい』

 何のことを言われているのか、最初は全く分からなかった。自分のことを言っているのだと理解して、頬に触れる。そこから、なぞるようにして口元を拭う。口は、三日月形を描いていた。ようやく、自分の顔が笑みの形をとっているのだと把握した。

「ふ、へへ、へへぇ?」

 笑っていると気づいて、おかしさがこみ上げてきた。こんなに苦しいのに、全身が痛んで軋んで辛いのに。僕は今、楽しいのか。充実しているのか。

 自分自身に問いかける。何が楽しいのか。

 戦うこと? 敵に立ち向かうこと? それらが生きがいになっていること? どれも当てはまり、そのどれも決定的じゃない。

 復讐だ。これは。

 僕をこっち側に送った方の神も言っていたじゃないか。世界を自分で変える気はなかったのかと。それは、自分たちにやさしくなかった世界に復讐しようとは思わないのかってことだったのだ。見抜かれていたのだ。僕がそういうトチ狂った人間だと。

 姉さんが死んでから一番充実していたのは、姉さんを殺した奴らに復讐することだった。敵を倒すという快感をそのとき知ってしまったのだ。一つ一つターゲットを仕留めては名簿に罰印をつけていた。まるで指折り誕生日を待ち焦がれる子供のようにわくわくした。

「ああ、楽しいよ。楽しいね。チクショウが。復讐が終わってすっかり忘れていたよ。僕は、こういうのが楽しくて楽しくて仕方ない大馬鹿野郎だってことをさ。復讐が、憎しみをもって敵を屠ることが好きで好きで仕方ない壊れた人種だってことさ」

 そりゃ、あの世界も僕を切り捨てる。あの世界で僕のような人種は百害あって一利なしだ。

「ずっとずっと、こうやって踊ってたいね。蛇神、あんたは最高だ。この程度で簡単に死なない。どころかどれだけ挑んでも跳ね返される。最高の敵だ。大好きだよ」

『狂人が。腐り者が。化け物が! 我は貴様の相手をするのはもう飽いた。死ね。死ね! 貴様の肉など一片たりとて喰らってやるものか。貴様はここで朽ちろ! 朽ち果てて蛆虫の餌になれ!』

 蛇から憎しみがあふれる。憎悪が叩きつけられる。心地良いと思ってしまう。これを飲み干して、喰らい尽くしてやる。

 もはや言葉を交わすことはない。蛇神が首を九十度ひねり、大きく口を開けて迫る。時間がスローになる。脳内に分泌されたアドレナリンの効果だろうか。迫りくる大顎も、鋭い牙もゆっくりだ。自分の体ものんびりと合わせて動く。知覚だけが別の時間軸で動作している。タイミングを合わせるのなんかバッティングセンターの九十キロボールに合わせるのよりも簡単だ。

 僕は後方へ飛ぶ。蛇の顎が並走する。閉じられる前に、先に到達していた牙に足をかける。階段を駆け上がるように、牙を踏み台にしてジャンプする。一拍遅れて顎が閉じられ、僕の足元を蛇神の巨体が行き過ぎようとする。

 その背に飛び乗る。慣性でぐらつき、思わず這いつくばる。

『汚らわしい!』

 蛇神の怒声。足場の胴がブルリと揺れる。振り払おうというのか。そうはさせない。波打つ胴に銀の刃を突き立てる。一度、二度と体は跳ねるが何とかこらえる。顔を上げた。目の前に再び蛇神の顔面が迫る。

 ああ、あれに似ている。映画で、地下鉄の屋根で戦うシーンだ。すれ違う電車がいとも簡単に犯人の首を飛ばしていったあれだ。

 刃を横に向け、蛇神の胴を捌くようにして上から身を滑らせる。はたして思惑通り、体重を乗せた刃は蛇の胴の半分まで切り裂き、途中で止まった。切れ味が中途半端で助かるというのも珍しい話だ。

 一息ついたのがまずかった。蛇神が体をわざと大木に叩きつけた。刺さっていた刃が抜ける。僕の体は宙を舞い、生い茂る枝葉の八重垣を突き破っていく。

 何度か地面をバウンドしてようやく止まった。体で痛くないところがない。それでも立ち上がろうと、四つん這いから、膝を立てる。顔を上げた。

 真正面に、目標を定めた蛇神の頭があった。赤い目がこちらを見据えている。喜悦に歪むように蛇神の頭に亀裂が入り、口がカパッと開く。唾液が糸を引き、チロチロと赤い舌が揺れる。

 あの口の中に飲まれることを覚悟した。それでも喉に突き刺さる小骨のようになってやろうと、吹き飛ばされても離さなかった刃を握りなおす。


 ドジュ


 何とも形容しがたい水っぽい音が響いた。唖然とする僕。そして何が起こったかさっぱり理解できていない蛇神。一秒にも満たない刹那の時間、僕らはまるで狐に化かされたように停止して

 目に見えない膜の様なモノが僕の鼓膜と体の前面を強打した。

 地面を揺るがすほどの蛇神の叫び声だった。遅れて、僕の顔体中にぼたぼたと血の雨が降り注ぐ。

 三半規管が揺るがされるほどの酷い耳鳴りを無理やり抑え込み、僕は見た。蛇の左目があった部分に、真っ赤な矢羽が突き立っている。血は、そこから噴水のように噴出していた。

『おのれ、おのれおのれオノレェッ!』

「はっはーっ! やるなぁ!」

 呪詛が振り撒かれる。それを打ち消すような歓声が、諸手を挙げたまさかの僕の口から飛び出した。

 あの岩場からここまでかなりの距離があったはずだ。蛇神のでかい目玉であっても、あそこからなら針の穴より小さいだろう。それを見事に命中させるなんて大したものだ。

 ぐるりと蛇神が頭を巡らせる。矢の飛んできた方向だ。

『そこかァッ!』

 目の前の僕に目もくれず、体をくねらせて岩場の方へ行こうとする。標的は手傷を負わせた憎き射手だろう。

 頭に血が上ると、単純な行動パターンを取り始める。これも桐谷の予測通りだ。蛇神の頭の中では、憎さの優先順位が僕からクシナダに移ったのだろう。合理的に、一番弱っている敵を一つずつ倒していくということが全く考えられない。

 しかし、このままだとクシナダは死ぬ。いかに手傷を負わせたとはいえ、それでも死には至らない。

 僕はクシナダを追う蛇神の胴に飛びついた。這いずるスピードがざらざらの鱗を紙やすりのようにしていて、僕の手や頬の肉を削る。右手の小刀を突き立て、滑る体にブレーキをかける。蛇神はすさまじいスピードで、わき目も振らずに進む。この先はあの射撃ポイントだ。迷いなくクシナダを追いつめている。命中した後はすぐに離れろとは言っておいたが、どこまで逃げることが出来たのやら。

 走る蛇の背を、赤ん坊のように四つん這いになって体制を整える。這って頭まで行こうとすれば、クシナダどころか村を滅ぼすだけの時間を与えてしまう。

 戦略的にそれはよろしくない。クシナダが何の妨害も受けずに蛇神の目玉を射ることが出来たのは自分に気を取られていたからだ。

 クシナダに気を取られているのであれば、今度はこちらの攻撃が上手くいく。

「はン。試練の道ってのはどこもかしこもこんなもんなのか」

 昔読んでいた漫画の主人公は、死後の世界で生き返るために長い長い龍の背を模した道を走り続けていた。今度は自分が、死ぬために蛇の背を走ろうとしている。

 意を決して、小刀を引き抜く。足先に力を込めて蹴る。鱗のおかげで滑ることがないのが幸いだ。グネグネと曲がる背中の、その曲がる方向や位置を予測し、また面前に迫る枝葉の障害を躱しながら走り抜ける。

 走行距離は五〇メートルもなく、小学生の子どもでも十秒とかからない距離だ。全然大したことじゃない。

 頭部が見えたとき、ついでに目も疑った。

 クシナダが、無謀にもこっちに向かって矢をつがえ構えていたのだ。

 彼女らは非常に目がいい。多分聴覚とか嗅覚とかも、僕らの様な人種よりはるかに良いだろう。逃げきれないことを悟って、その前に一矢報いようとしているらしい。やれやれ、諦めたらそこで人生終了だろうに。

『貴様か娘ッ』

 蛇神が叫ぶ。本物の血の涙を流しながら、もう片方の目玉が彼女を捉えていた。

 彼女までの距離はおよそ百メートル。蛇のこの速度なら十秒ほどだ。

 僕は走った。その背を、ざらざらの鱗を踏みしめながら頭に向かって走った。

 クシナダの姿が鮮明に見え始めた。

 震えている。そりゃそうだ。これまで絶対の存在、死の象徴だった化け物が、自分めがけて憤怒の形相で迫ってきているのだ。そりゃビビる。

 それでもなお、彼女は弓を取り落さず、歯を食いしばり、震えをこらえていた。あの夜のように。使命のために己の恐怖を飲み込んでいた。

「馬鹿だなあ、本当に」

 こんな時だというのに苦笑が漏れる。安心しろ。あんたのもとにまで、この蛇神はたどり着けないさ。

 蛇神が胴をグググッと持ち上げる。食いちぎる一歩前の動作だ。急こう配となった背を僕はスピードを殺さないように全力で駆け上がる。

 大きく開いた口、その開口面前に彼女がいた。

 クシナダが弓を射る。狙い違わず、矢は口の中へと吸い込まれる。

『こんなものでえええぇ!』

 止めることなどできない、とでも言いたいのだろう。

「じゃあ、これならどうかな?」

 追いついたぞ。とうとう僕は、蛇の頭に辿り着いた。

 狙うは、残った右目だ。

『ッ』

 ぎょろりと赤い目玉が限界まで見開かれる。頭を振ろうとするがもう遅い。小刀は、吸い込まれるようにその切っ先を目玉のど真ん中に滑り込ませた。それだけで止まらず、僕はそのまま右腕を肘あたりまで突きいれる。

 蛇神が本日二度目の絶叫を上げた。音の直撃を受けて、耳どころか頭にまで揺れと痛みが訪れる。完全に聴力がイカれた。ちらりとクシナダが視界に入る。耳を押さえ、苦しそうに蹲っていた。片目をこわごわと開き、その目が僕を見つけた。何かを叫んでいるが、さっぱりわからん。無音じゃない。誘蛾灯が発する音をもっと小さくしたような嫌な音がただ耳の奥で鳴っている。

 苦痛からか、蛇神が大きく左右に頭を振った。二度、三度と振られるたびに踏ん張っていたが、体にかかる強烈な横Gに負けて吹き飛ぶ。バキベキボキと小枝をへし折り地面に叩きつけられ、二度、三度とバウンドする。強く背中を打って呼吸ができない。全身の節々がさび付いた歯車よりも酷く音を立てて軋む。視界が霞む。舌の上には鉄くさい味が広がる。もういっそ、死ねよ僕。どうしてここまでボロボロにされて生きているのかさっぱりわからない。ダイハードにもほどがある。

 バラバラにされたように思うように動かない四肢に何とか命令を下して、無様にも何度もそれに失敗しながらも、時間をかけて体を起こす。初めて立とうとする赤ん坊よりも不恰好だ。頼りの小刀も、いつの間にかなくなっていた。多分、さっき吹き飛ばされたときに手放してしまったんだろう。とうとう武器もなくなった。

 少しずつ耳があの嫌な音以外を拾い始め、靄がかかったようだった視界も鮮明になってきた。

『許さぬ、許さぬぞ』

 届いてくるのが呪詛の声なら、まだあの音の方が耳触りが良かったな。だが、面白いことが分かった。

 蛇神が、違うことなく僕の方を睨みつけているのだ。潰されたはずの両目でだ。

 すでに苦痛のうめき声は鳴りを潜めていた。というよりも、それを上回るほどの憤怒と憎しみが脳内でアドレナリン的な物質を分泌させて忘れさせているのだろう。

 しかし見えていないはずの目でどうして僕を捉えられているのだろうか。偶然か? 痛む体を引きずって、少し移動してみる。蛇神の頭は、僕を捉えたまま確実にトレースしてくる。

『逃げようとしても無駄ぞ。我はこの地の神、支配者。貴様ら家畜だけでなく、木々に草花、風、大地すら我が僕。伝えてくるのだよ。貴様がそこにいると』

 ああそうかい、と言った心境だ。ようは、この蛇神さまは五感に優れまくっているのだ。木や草が僕に触れれば音となって、風は僕の匂いを運び、地面は歩いた時の振動が伝わるのだ。全身が非常に強力なレーダーなんだ。つくづく今回の作戦は綱渡りだったなと思い知る。目に頼らず、この感覚すべてを使われていたら途中でばれていたかもしれない。そうならないように心理的に相手を優勢に立たせて、有頂天状態にしておいたわけだが。それでも慎重にされていればばれていた。

「逃げる?」

 どうせばれているなら、声を大にして自己主張をしてやろうじゃないか。

「どこに逃げるってんだ。こんな異世界に飛ばされて、全身は内も外も傷だらけでボロボロだ。逃げることなんかできやしないよ。

 どうせ帰る家も故郷もない。未練もない。どうせ死ぬはずだったんだ、命すら、惜しくあるもんか。ただ、意外とさみしがり屋ってことが最近分かってね。

 黄泉路にご同行願おうかな。クソッタレの神様」

 声とはもはや言えない、ただの獣の叫びが響く。負けじと、僕は笑い声をあげる。

 再び襲いかかろうと蛇神が首を高く掲げて、途中でそれを僕から背けた。何事かと訝しむが、すぐに理由は分かった。頭のところに矢が刺さっている。

「こっちよ!」

 風鈴のように凛と鳴る声だ。声の先に、弓を構えたままのクシナダが立っていた。

『そうかよ、娘ェ、そうか、そこまで先に死にたいかっ!』

 標的が変わった。こりゃまずい。僕は言葉にならない悪態を吐いて、力が全くこもらない足を前に出す。動け、動けと脳から心臓に無理やり血液循環の命令を下す。嫌そうに、それでも生きる義務感からか心臓は足に血液を送る。血液は酸素を運び、たまった乳酸を足から流そうと働く。

 僕にとどめを刺す役割のあんたが、僕より先に死のうとするってどういう了見だ。

 反転した蛇神の背を追う。その先にクシナダはいた。岩の足場を野生のシカみたいに飛び跳ねながら登っていく。さすがにそこまで登れば、蛇神の追走からいくばくかの時間は稼げるはずだ。その間に、僕がとどめを刺せれば上々。時間を少しでも稼げればそれでいい。あの蛇神がくたばるのは時間の問題だ。

 残り一段、と言ったところで、蛇神が崖の下側にその身を打ち付けた。辺り一帯に地震の如き振動が走り、彼女の足場を揺らす。短い悲鳴を上げ、彼女はバランスを崩した。

『あァアアああああッ』

 体勢を素早く整えた蛇神が、空中で背面とびの途中みたいになっているクシナダめがけて体を跳ね上げた。

「くぬぉっ」

 苦し紛れ、悪あがきとばかりに、クシナダは岩場の先端を力任せに蹴った。方向も定まらない無謀なそれが、結果的に功を奏した。たとえ匂いと音で居場所が分かっても、視力を失った蛇神にとって、移動する目標を追尾するのはなかなか難しいらしい。蛇神の牙は彼女から逸れて空を切った。風圧で流された彼女の体が、丁度僕の進行方向めがけて落下してくる。有名なアニメ映画のワンシーンのようだ。違うのは、彼女は自由落下してくるってだけ。彼女には羽も、空飛ぶ石もない。

「こちとらヒーローでもないのになんなんだクソ!」

 悪態を吐いて、それでも僕は足を止めずに走る。落下地点に先回りする。彼女が降ってきた。

 空を切った蛇神のアギトが軌道を変え、こちらを向いて、クシナダを追って降下してきた。僕は降ってきた彼女を真正面ではなく横向きにキャッチし、ハンマー投げのように体を回転させて落下の力の向きを横へ変化させた。そのまま投擲。運がよけりゃ草木がクッションになるだろう。後のことなんぞ知るか。

 一回転して見上げたら蛇のアギトが面前に迫っていた。避けられないのは明白。もとより避けるつもりはない。

 見つめるのはただ一点。蛇の口の中に刺さったままの矢だ。こちらに対して垂直に向かってきている。山里みたいに目分量で測ることはできないが、あの矢の刺さり具合から、脳天に向かっているのではと推測できる。蛇を殺すには頭を潰すもの。さすがに脳が再生不可能になれば、こいつだってくたばるだろう。

『死ねぇえええええええ!』

「お前もな」

 防御は一切無視して、僕は拳を突き出す。矢を押し出し、反対に指が砕ける感触。腕の肘までが、蛇神の口内に突き刺さっていく生々しい感触。それを最後に、僕の意識は完全に闇に飲まれた。


 ●-------------------


 クシナダは目を覚ました。

「生きてる?」

 さっきまで、自分はあの恐ろしい蛇神と戦っていたはずだ。矢を射て、見事目を奪い、彼がもう片方の目を奪った。それでもかの蛇神は死なず、満身創痍の彼を襲おうとしていた。その意識を自分に向けさせ、逃げていた途中ではなかったか。

「そうだ、彼は? 神はどうなった?」

 意識がはっきりとしてくるにつれ、記憶も徐々に戻り始める。落ちてきたところを助けられたこと、そのまま投げられたこと、そしてその一瞬後に、彼を蛇神のアギトがのみこんだこと。クシナダが見ていたのはそこまでだ。さすがに落下の衝撃をすべて消せるわけがなく、すっ飛んだ先にあった大木に激突し、意識を刈り取られていた。

 体を起こす。痛みはあるが、我慢できないほどではない。辺りを見渡す。少し坂を転がっていたようだ。体を起こして、坂を上がる。

 蛇神がそこにいた。ただし、以前のようなおぞましさも迫力も恐怖も感じない。蛇神は長い舌を口からはみ出させ、そのままピクリとも動かないまま横たわっていたからだ。

「死ん・・・だの?」

 ゆっくりと近づく。近づけば近づくほど、視界から蛇の巨大がはみ出していく。こんなものと戦っていたのだと、改めてぞっとする。

 だが、それも終わったのだ。自分たちはその恐ろしいものに打ち勝った。もう怯えながら生活することはないのだ。

 目当ての一つは見つかった。もう一つはどこか。頭を、目を巡らせる。蛇神の死体がここにあるなら、彼もここにいたはずだ。そう考え、あたりを捜索する。

 初めは見間違いかと思った。だが、あれは、あの蛇の口の端から飛び出しているのは、見慣れない異世界の靴だ。

 弓を投げ捨て、たすき掛けしていた矢筒をもどかしく思いながら外し、駆け寄る。蛇神の口元によるのに少しの勇気を必要としたが、それ以上に彼の安否を確認する方が勝った。どちらのかわからない血に染まった足を掴む。何度も手を滑らせながら、足首に何とか指をひっかけて引きずり出す。

 ずるり、ずるりと引き抜いた彼の体は、ボロボロだった。

 皮膚が見えているところには幾多もの切り傷、打ち身が見られ、服の下などそれ以上の状態だろう。一番ひどいのは右腕だ。本来の関節よりも折れ曲がる個所が二つも多い。しかも曲がらないはずの方向に曲がっている。指など二本は深い裂傷を負い、骨が見えて千切れかけていた。

「ねえ、しっかり! しっかりして!」

 あおむけに寝かせて、呼びかける。軽く頬を張る。しかし彼は目を覚まさない。ピクリとも反応しないのだ。

「まさか」

 クシナダは血で汚れるのも構わず彼の胸に耳を当て、そして口元に手を当てる。

 呼吸も鼓動もなかった。彼女の知識に照らし合わせると、彼はすでに死んでいた。

「ふざけ、ないでよ」

 あれだけ不敵に、皮肉げに嘲笑っていたのに、こんなあっさりくたばるなんて信じられない。信じたくない。こちらはまだ何一つ、鼻を明かしていないのに、感謝の言葉一つ返してもいないのに。

「ふざけないでよ! あれだけ好き勝手やってあっさり死ぬなんて許さないから! 言ったはず、言ったはずよ! あなたを殺すのは私だって! 何死んでんのよぉっ」

 すこしだけ声が濁ったのを、彼女が気づいたかどうか。

 止まった鼓動を無理やり動かすように、彼の胸を叩く。呼吸を促すように、口から息を吹き込む。何度も何度も繰り返す。彼女が、彼の住んでいた世界にあるような、救命のための応急処置を知らない。だが、これまでの経験と人体の仕組みを知識ではなく、本能のような部分でこうすればいいだろうと理解していた。

 幾度繰り返しただろうか、こんなことをしても無駄じゃないのかと弱気が頭をよぎったとき、彼の体がくの字に曲がった。あわてて体を離すと、彼は酷くえずき、口から血の塊を吐き出した。そのまま何度も何度も咳をして、止まった。また心臓が止まったのかと再び胸に耳を当て、ホッとする。弱々しくはあるが、それでも生きようと動いている音がする。本人の意志とは無関係に、だ。

「ふん、ざまあみろ、よ」

 クシナダの顔にようやく笑みが浮かぶ。

『お・・・・れ・・・』

 笑顔が引きつった。振り返る。

 蛇神は、いまだ生きていた。手元にあった弓は捨ててしまった。どうせ矢は使い切っていたので使うことなどできはしないが、それでも何か手元にあるのとないのとでは安心感が違った。横たわる彼の背中に手を回し、抱き起そうとする。だが、自分より体の大きい彼を抱きかかえてここから離れるほどクシナダには筋力も体力もなかった。抱えて逃げることも、置き去りにして逃げることもできない彼女は、彼を庇うようにして、恐ろしい蛇神の前に陣取った。目の前に、自分と彼二人分の体積よりも巨大な蛇神の頭がある。

 冷や汗を滴らせる彼女の心配と不安と恐怖に反して、蛇神はピクリとも動かなかった。ただその場で呪詛を唱え続けるだけだ。

『貴様らだけは絶対に許さぬ。我が恨み、我が憎しみ、その身に宿して、未来永劫苦しみ続けるがいい。貴様らはもう逃げられぬ。我が血を浴びた貴様らに待っているのは、死すら優しき地獄』

 憎しみを唱える蛇神の体の一部が、砂のように崩れた。それに端を発して、次々と体が崩壊していく。身も皮も骨も例外なく、ボロボロと崩れ、森に吹きぬける風に吹かれて消えていく。

 目の前から、蛇神の死体が消えてなくなった。まるでこれまで存在していたのが嘘のように、何も残さずにきれいさっぱり消え去ってしまった。

「なんだってのよ。脅かしてくれて」

 別に何も起こらないじゃないか。そう安堵の息を吐いた彼女が、どう運ぼうかと気を失っている彼に目をやったとき。彼女は蛇神の呪いを理解した。

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