第2話 宴
昨日と同じ深夜二時。結局未練など見つからず、近くのインターネットカフェで時間を潰していた。その後最後の晩餐として牛丼の特盛りを食い、五百ミリペットボトルのお茶を飲みながらあの街灯の下で待っていた。
「時間だ。迎えに来た」
昨日と同じように、神が現れた。
「やはり、未練はないか」
俺の顔から何を悟ったか、神が諦めたように息を吐いた。
「あんたが神なら知ってるはずだ。僕がどうしてこうなったか」
「もちろん知っている。だが、今の君の生き方を、人生の終え方を君のお姉さんが許容するはずがない、と私は思うが」
「余計な御世話だ。だいたいあんたが神なら、姉さんをどうして見殺しにした。姉さんは僕と違って、この世界に無くてはならない人だったはずだ」
それだけは確信を持って言える。それほどまでに僕の姉さんは凄い人だった。天才、という言葉を体現したような人だったからだ。
運命、とかそういう都合のいい言葉が返ってくるのかと予想していたのに反し、神は何も言い返してこなかった。そんな言葉で慰められたり諭されたりするのだけは勘弁だ。それが無い分、いけしゃあしゃあと葬式に出てきたくそったれどもよりもよほど好感が持てた。
「まあ、良いさ。別に今更あんたに異議申し立てをするつもりはない。さっさと行こう」
嘆こうが怒ろうが変わることのない過去のことで労力をすり減らすのは愚の骨頂だ。
「ああ。わかった。では、目を瞑ってくれ」
言われたとおりに目を瞑る。
「これから君をあちらに送る。私は他にも仕事があるので君については行けないが、あちらの準備はすでに整っているから、責任者の言うとおりに行動すればいい。それで、君は望みを叶えられるだろう」
行くぞ。神が告げた。一瞬ののち、匂いが変わった気がした。湿気を含んだ草木のむせかえるような匂いが鼻をつく。目を開けると、さっきの街灯の下ではなく、どこかの木製の家屋の中だった。広さは大体十畳くらいか。四方に松明が灯っている。
なぜか僕のほかに、七人の人間が存在した。彼らは困惑した様にキョトンとしているか、焦ったように辺りを見回していた。僕以外に、こんなに自殺志願者がいるのだろうか。
「なんだこりゃ。話と違うじゃねえか」
僕から見て一番右にいたガタイのいい、ガラの悪いヤクザみたいな男が声を荒げた。動揺を押し隠すための怒声だからか、少し声が震えていた。しかし、話と違う、とはどういうことだ。僕と彼とでは神から伝えられたことが違うのか。男のほかに、初老に差し掛かりそうな感じの、全身がブランド物と宝石で飾り付けられた気の強そうな婦人、部屋の隅で縮こまっている地味な服装の少女、反対に金髪やメイクや指輪がちかちかと目に痛い、派手な若いホスト風の男、眼鏡をかけた陰気な少年、つなぎを着ている、疲れ切った太ったおっさん、三十路くらいの品の良い、しかしどこか疲れたような未亡人っぽい女。僕を含めて計八名だ。
「どういうこと? ここはどこなの?」
キンキンした耳障りな声で婦人が僕たちに向けて叫んだ。上から物を言うのに慣れているような喋り方で、事実そういう身分のように見える。少年や少女は怯えたように辺りを見回していた。ただ一人、疲れたおっさんだけが無関心を貫いて、呆然と視線を床の一点で固定している。
僕と同じ条件で来たのなら、おっさんの反応だけは妥当だ。死ぬつもりなのなら、たかが場所が急に変わった程度で騒ぐことは無い。騒いでいる彼らの方がおかしい。
音も立てずに木製の戸が開いた。騒いでいた連中がぴたりと口を閉じ、全員の視線が注がれる。
「皆様、お待たせして申し訳ございません」
そういって床に平伏したのは着物を着た老人だった。その後ろにも古代の女官のような服装をした数名の若い女たちがいて、彼女らも同様に跪き、頭を下げた。
「皆様方が、選ばれた方ですな」
確認するように老人は言った。この言葉に食いついたのは陰気な少年だ。
「ほ、本当だったのね。あの人が言ったことは本当だった・・・」
未亡人が、じわじわと体に染み込ませるように言った。その横で、当然ですみたいな顔をした婦人がフンと鼻を鳴らし、平伏する老人に詰め寄った。命令できる、自分より下の人間がいることで精神の落ち着きを取り戻したみたいだ。
「あなたがここの責任者?」
「はい。この村の村長をさせていただいております、アシナと申します」
「ではアシナさん。さっさと案内してくださる?」
案内? 準備は整っていると言っていたが、それが何なのかまで聞いてはいなかった。聞く必要がなかったからだ。
だが、ここまで僕の想像から彼らの反応が離れると気になってくる。一体僕以外の人たちは何と言ってここに連れてこられたのだろうか。
「承知しております。すでに皆様を歓待する宴の準備も整っております。ささ、ご案内いたしますぞ」
アシナが女官たちを引き連れて外へ出た。その後をヤクザ、婦人、ホストとおっかなびっくりついていく。少年、未亡人、少女と出て行って、最後に僕と疲れ切ったおっさんだけが残った。
「行かないのか?」
自分から声をかけておいて軽く驚いた。僕がバイト以外で他人に自分から声をかけるなんて何年振りだろうか。姉さんが生きていたころだから、およそ五年振りになるのか。おっさんはゆっくりと僕の方を振り向く。
「君こそ、行かないのかい」
気弱な笑みを浮かべた。その疲れ果て、色々な物を諦めたような顔を見てピンときた。多分相手も。
「あんたも、死に場所を求めて?」
「ああ、やはり君もか」
どこかホッとしたような空気さえ漂わせておっさんは答える。おっさんは、全てを諦めたような、死んだ魚みたいな目をしていた。きっと、僕も同じような目をしている。
「おお、まだこんなところにいらっしゃったのですか」
アシナが部屋に戻ってきた。僕たちがついてきていないことに気づいて、慌てて戻ってきたらしい。肩で息をしながら、それでも愛想のいい笑みを浮かべた。
「他の皆様はすでにお楽しみいただいております。どうぞ、お二人もささやかながら宴に加わってくだされ。皆様のためにご用意したのですから」
僕とおっさんは顔を見合わせた。考えていることは分かる。死ぬはずなのになぜ歓迎されているのか腑に落ちないのだ。
「なあ、アシナ、さん。どうして僕たちを歓迎するんだ?」
あんたが僕たちの命を欲しているんじゃないのか?
「言いましたでしょう。あなた方は神に選ばれた、やんごとなき人々なのです。そのあなた方を、宴をもってお迎えするのは当然のこと。酒も、料理も山ほどご用意させていただいております。食事の後は綺麗な娘を揃えておりますゆえ、気にいった娘を何人でも選び、好きなだけご堪能ください。しかしながら、それらはすべて早いもの順。ここにいては他の方々にお目当ての物を奪われてしまいますぞ? さあさ、お早く」
その選ばれた、というのが引っかかっているのだが、その質問をする前にアシナが僕とおっさんの手を取りひっぱる。「ささ、お早くお早く」と部屋を追いだされた。なんとなく、だが、掴まれたアシナの手から執着みたいなものを感じた。絶対に逃がさない、というねっとりしたものだ。僕たちの手を引くアシナを、目を細めて観察する。見た目はただの好々爺にしか見えないが、気のせいだろうか。ただ僕の常識として、友達でも家族でもないのに何の思惑もなく他人を接待する理由がさっぱり思いつかない。まあ、気のせいであろうが無かろうが
「関係無いな、私には」
隣でおっさんが呟いた。僕と同じようなことを考えていたようだ。
宴会場では、すでに乱痴気騒ぎが始まっていた。騒いでいるのは部屋を先に出て行ったヤクザ、ホストだ。女性陣と少年は別室にでも案内されたのかここにはいない。まあ子どもの情操教育的にはその方がいいだろう。
連れてこられた部屋は僕らの世界で言う風俗店のような様相を醸していた。
ヤクザは両脇に美女を侍らせ、二人の肩に腕をまわして手で豊かな乳房を鷲掴みにしている。何というか、典型的な、古典的ともいえそうな侍らせ方で捻りが無いなあという感想が浮かんだ。二人はそれを嫌がることもなく、微笑みさえ浮かべて、右が食べ物を箸で、左が酒を注ぎ、雛鳥に餌をやる親鳥みたいにヤクザの口に運んでいる。
ホストは自分の膝にこれまた美少女をのせ、食事そっちのけで熱いキスを交していた。時についばみ、時に舌を絡めてお互いをむさぼっていた。ホストの上半身は女に脱がされたのかすでに裸で、女の方も半分はだけて中身がちらちら見えて、ホストはそこに手を出し入れしてまさぐっていた。今にもここで一回戦を開始しそうだ。
とりあえず、訳がわからない。
どうして異世界に放り込まれて数分でここまで馴染めるんだ。特にホストは他人の目も気にせず女を組み敷こうとしている。周りを全く気にしていない。首をかしげた僕は、この場に漂う空気に鼻をひくつかせた。微かに甘いような酸っぱいような、何とも言えない匂いが鼻についたのだ。頭をクラクラさせるような匂いだとも思った。もしかしたら麻薬みたいな成分が含まれる、香でも焚いているのかもしれない。それで二人がこうなったというなら納得できる。
「ささどうぞ。お座りください」
アシナが僕とおっさんを用意されていた座布団に座らせた。藁やイグサのようなもので編まれた座布団だが、座り心地は悪くなく、僕の体重をしっかり支え、尻の形に合わせて形が変化した。低反発の枕みたいだ。
「ほれ、早くこの方たちの分も用意しなさい」
パン、パンとアシナが手を叩くと二人の女官が大きな皿を持って僕たちの前に現れた。僕の前に現れた女官もまた、これまでテレビでしか見たことないような、いや、テレビでも見たことないような美少女だった。片まで伸びた滑らかな美しい髪が、三つ指をついて頭を下げた拍子にファサッと広がった。ゆっくりと女官が顔を上げる。濡れ羽色の髪の御簾がかきわけられ、のぞいた顔は、今日まであらゆることに無関心だった僕をはっとさせるほど整った顔だった。きりりとした細めの眉と少し吊り目がちな瞳が狼か狐のようで、凛とした雰囲気を醸し出している。すっと通った鼻筋の下にあるぷっくらした唇が清らかな乙女唯一の艶やかな部分だ。
「今宵、貴方様のお相手をさせていただく、クシナダと申します」
クシナダ? 彼女の名前は僕に二度目の驚きを与えた。そう言えば僕たちを案内した責任者はアシナだったか。これは偶然だろうか。神話に詳しい人間が聞いたらさぞや喜んだことだろう。そういえば姉さんも、神話の類が好きだった。その影響が僕にも多少あらわれている。
「どうかなさいましたか?」
クシナダが首を傾げて、物思いにふける僕の顔を覘きこんでいた。何でもないと手を振り、運ばれてきた皿に目をやる。山菜に肉、穀物が山のように乗せられていた。どこか田舎の郷土料理みたいだ。用意されていた箸を手に取り、まず肉をつまむ。塩と香草だけのシンプルな味付けだが非常に美味だ。これまで食べた焼き肉の中でも三本の指に入る。それが迎え腹になったのか、急に胃袋が活発化しだした。意外と腹が空いていたらしい。あれほど山盛りだった皿の上から料理がどんどん消えて行く。
食事の合間、合間でクシナダが僕にも酒を注いでくれた。差し出された酒の口当たりは良く、舌に残った料理の後味を洗い流すようなすっきりとした味わいだった。香りも芳醇。部屋に漂う甘ったるい匂いを掻き消すような清廉な香りだ。だが、喉を通れば分かる度数の強さ。喉を焼き、体内に流れ込んできて鳩尾のあたりを熱くする。口当たりがいいからとガバガバ飲めばすぐに潰れてしまいそうだ。ほどほどにしておこう。大体僕はまだ二十歳前だ。お酒は二十歳を過ぎてから。いまさらそんなものを気にするのもどうかとは思うが、意外と法律と言うのは体に染みついているのだと思った。呑んだのはお猪口で最初の二、三杯だけで、後は水にしてもらった。水を頼んだ時、クシナダの表情が少し強張ったのはどうしてだろう。
ドスン、と隣でおっさんが倒れた。そのまま大きないびきをかいている。顔が真っ赤になっていた。注がれるままに呑み、酔いが回ったのだろう。おっさんを担当していた女官が他の女官の手を借りて助け起こし、部屋から連れて出て行く。
腹を満たしたら長居は無用だ。ちらと乱痴気騒ぎを繰り広げている方を見た。いくら料理や酒が美味くても、近くでこう騒がれては楽しめないし、やっぱりこの部屋に満ちた匂いは気になる。最大の理由は、ものすごく眠たくなってきているということだ。僕の体内時間は夜中の三時か四時。アルコールまで含んで眠くならないわけがなかった。僕はクシナダに声をかけた。
「何でしょう?」
「もう寝たいんだけど、静かな部屋はある?」
クシナダが息を呑んだ。僕は何か変なことを言っただろうか。純粋に、寝床があるかどうか聞いただけなのだが。驚いたのも一瞬、クシナダは何事もなかったかのように
「かしこまりました。お部屋にご案内いたします」
と対応してくれた。音もたてずにクシナダが立ち上がる。おっさんたちが出て行った戸から僕たちも部屋を出た。長い板張りの廊下を歩くたび、張られた板が軋む。先を行くクシナダの足が廊下の隅にある部屋の前で止まった。
「どうぞ」
クシナダが戸を開いて僕を招き入れた。部屋は八畳ほどの床張りで、敷かれている薄い布団と蝋燭の灯り以外は何もない。別に文句は無い。もう寝るだけなのだから、屋根と布団があれば充分だ。部屋の隅にリュックと脱いだ靴を置き、布団にもぐりこむ。後は眠りが来るのを待つだけの僕の耳に、微かな衣擦れの音が響いた。うっすらと目を開き、音の方を向く。
「何やってんの?」
着物を脱ぎかけのクシナダに声をかけた。腰に巻いていた帯は床に落ち、わずかに動いただけで着物の前が開く。ちらと見えた彼女の肢体もまた美しかった。処女雪のように穢れを知らない白く滑らかな肌、程よく肉の付いた太もも、対してほっそりとして抱けば折れてしまいそうなくびれた腰、余計な肉のついていない、かといって痩せすぎてもいない、丁度いい具合に引き締まった肢体。全てが黄金律で統一されているとしか思えないバランスで彼女の体は構築されていた。芸術作品もかくやだ。
「何、とは異なことをおっしゃられる。夜伽を申し付けたのは貴方様でしょう?」
申し付けたつもりは全くない。しかし思い返せばアシナは女を用意してあると言い、クシナダは今夜の相手だと僕に言った。食事だけではなく、セックスの相手もするということか。ふむ、と体を起こす。
「なぜここまでする?」
アシナにした質問を彼女にも向けてみた。
「なぜ、とは」
「見知らぬ人間を上等の料理と酒でもてなし、女をあてがうなんてどう考えたっておかしい。何か裏があると考えてしまうのは当然のことだろ」
あったらあったで構わないのだ。苦しまずに死なせてくれるのであれば。
「アシナ翁が説明いたしませんでしたか? 貴方様方は神に選ばれたのです。その尊き御身を精一杯もてなすのは当然でございましょう」
同じような答えだ。僕が聞きたいのはどういう理由で、何のために選ばれたのか、ということなのだが。質問を少し変えてみる。
「例えば、の話なんだが」
「はい」
「僕がここから出て行く。と言ったら、どうする」
これまでいた部屋で気になったことが一つ。どの部屋も、廊下にすら窓がないのだ。この世界の建築様式など知らないから、そういうものだと言われればそうなのかもしれない。が、意図的に隠されているのなら、その理由はなぜだろうか。
「それはこれから、でございますか」
「ああ」
「おやめになった方がよろしいかと」
「理由は?」
「この村は山間に存在します。夜の山は危険ですので」
「じゃあ、外の空気を吸わせてくれ。それだけでいいんだ。玄関はどこ? 窓でも良いけど」
「申し訳ございません。先ほどの理由と同じですが、夜は完全にこの屋敷内を封鎖してしまうのです。毒を持った虫や動物には夜行性のものが多いので、潜り込まれては困りますゆえ。外に通ずる戸は、先ほどまで通ってきた廊下の突き当たりでございますが、固くかんぬきをかけておりますので、開閉は困難かと。朝になれば、係の者が開けさせて頂きます」
滑らかに返答するクシナダ。あまりに滑らか。まるでこういう質問が過去に何度もあったかのようだ。
なぜ外に出したくない?疑問がどんどん膨らんでいく。
「質問を変えるよ。これまで何回くらい選ばれた人間とやらがやってきた?」
「それは」
初めてクシナダが詰まった。少し思案して
「これまで何度もあった、と聞いてはおりますが、詳しくは存じません。私は今回初めて宴に参加し、皆様方のお相手をさせていただく栄誉を頂きました故」
何度も、か。なら、そいつらはどこへ行った? 多分この質問が本質を貫くのではないか。
「もう、よしませぬか」
僕が言葉を紡ぐ前に、クシナダがしゃがみ込み寄り添ってきた。しゃがんだ拍子に着物が盛大にめくれ、肌があらわになる。密着されたクシナダの柔らかな肌のぬくもりが服越しに感じられ、酒や部屋に立ちこめていたものとはまた違う、甘い香りが鼻腔を通りぬける。
「ここに来て言葉は不要にございましょう。それとも、私ではご満足いただけませんか?」
僕の胸にしなだれかかり、潤む瞳で僕を上目遣いに見上げた。欲望が、彼女を押し倒すために体を意志とは無関係に操作した。彼女の両肩をいつの間にか掴んでいた。そのまま力任せに組み伏せ、布団の上に引きずり込もうとして、見えてしまった。つかんだその手で感じてしまった。
「震えてる」
気丈な表情とは裏腹に震える右手が見えた。それをみて、獣のような欲情が沈静化し、冷静さが戻ってくる。ハッとしてクシナダは右手を握りしめた。遊女のようにふるまうクシナダの内心の現れだろう。彼女は初めて宴に参加すると言っていた。
「申し訳ないが、止めとくよ」
立つ鳥は後を濁さないものだ。それは人の感情でも同じことが言える。わざわざ憎まれて死ぬことはない。
「アシナに相手をしろと義務付けられているなら、した、ということにしておけばいい」
「しかし」
それでもなお、クシナダは食い下がった。嫌なのに食い下がるとはどういうことだろう。
「それとも何? 必ずしなければならないの? その理由は?」
というか、もう眠い。さすがに限界が近い。
「安心しろ。別に逃げも隠れもしない」
そう言うと、どうしようかと思案していたクシナダの目が大きく見開かれた。
「あなた、まさか…知ってるの?」
驚きのあまり口調が変わっている。これが本来の彼女の喋り方なのだろう。無理して難しい敬語を使っていたわけだ。そう考えると、これまでのことは全て自分を大人に見せようと背伸びしている子どもの行動のように思えた。僕はそんな子どもを無理やり押し倒そうとしたのだなと苦笑い。あれほど無関心ぶっていた僕も欲望には勝てないってことか。
彼女を離し、僕は再び布団にもぐりこんだ。寝返りをうって彼女に背を向ける。そうしないと、また襲いかかってしまいそうだ。彼女はそれくらい魅力的だった。
「いや、知らない。何も。僕をここに送ってくれた神様は、僕の願いを叶える、としか教えてくれなかった。僕も特に質問しなかったし」
「あなたの、願いって?」
恐る恐る、クシナダは尋ねてきた。彼女の内でどんな感情、いかなる策謀が巡らされているかは分からない。ただ結局、僕は神に向かって言ったように、面倒臭がりながらこう答えるだけだ。
「僕の願いは、死ぬことだ」
そこまで言い切ったところで、閉じていたまぶたの奥の方から暗闇が迫ってきた。眠りに落ちるその一瞬、クシナダがどんな顔をしているのかが気になった。驚いているのか、呆れているのか、それとも…。ただ、睡魔はそれを確認する行為を許してくれそうになかった。
真っ暗やみの中に僕はいた。まだ自分は眠っているな、と頭が理解した。意識だけが起きたような状態、半覚醒状態だ。その頭に、体が動かされている、という信号が送られてきた。少しずつ体の神経を支配下に戻していく。どうやら今の態勢は、両肩と足を担がれて運ばれているらしい。両手首と両足首がひっついていて、縄のようなもので縛られているようだ。僕を担いでいる誰かが一歩進むたび僕の体は尻を頂点にしてぶらぶらと揺れた。ゆっくりと目を開く。目に映ったのは曇り空。分厚い黒い雲が空を覆っていた。今にも雨が降り出しそうだ。遠くで雷鳴が聞こえる。
目を動かすと、昨日はいなかった男が僕を二人がかりで担いでいた。どちらも日焼けした、筋骨隆々の男だ。アシナ以外でこの世界の男に会ったのは初めてだ。二人は黙々と僕を運び、何やら階段を上っているらしい。一番上には太い丸太が縦で置いてあり、二人は僕をそこへ連れて行った。横に担いでいた僕をよいしょと担ぎ直し、一人が僕の腕を、一人が腰だめを抱えて持ち上げる。腕を持っていた男は丸太の上部分から出ていたフックに僕の腕を括っているロープをひっかけた。腰だめを抱えていた男が手を離すと、僕は腕の部分で宙づりになった。ロープが手首にくい込んで痛い。
「お目覚めか、色男」
右側に立っていた男が話しかけてきた。口を忌々しそうにひん曲げて、僕を親の仇を見るかのような憎しみのこもった目で見ていた。
「昨夜は随分お楽しみだったようだな、え?」
僕が何か答えるよりも早く、男の振りあげた拳が僕のわき腹に突き刺さった。痛みと衝撃で呼吸が止まる。想像以上の痛みだ。胃から昨日の食事がこみ上げてくる。
「何で貴様みたいな男とクシナダが!」
怒りにまかせるかのように男は何度も拳を振り上げた。人間サンドバック状態だ。腹を、顔を何度も殴られる。殴られるたび体が風に吹かれる芋虫みたいに揺れた。やれやれ、神様は嘘をついたのか? 痛みもなく死ねると言ってたのに、これじゃ約束が違う。この程度じゃ死ねない。痛いだけだ。
「何やってるの!」
凛とした声が下から聞こえた。拳の雨が止む。現れたのはクシナダだった。昨日の艶やかな女官衣装とは違い、保温性と耐久性と機能性を重視した東欧かアジアの民族衣装みたいな恰好だった。
「こんなところで油を売ってる暇があるの? もうすぐ来るわよ」
「しかしクシナダ! こいつは、こいつは貴女を!」
「何もしてないわ」
クシナダが僕の顔に手を当てた。ひんやりした手が気持ちいい。
「この人は私に何もしてない。その前に眠ってしまったから。だからダイコク、その人から離れなさい。それともあなたは、無抵抗の人間を痛めつけることが好きな矮小な男なの? それでもこの村一番の益荒男?」
クシナダに言われ、ダイコクはしぶしぶ僕から離れる。もう一人の男に「行くぞ」と顎でしめし階段を下りて行く。後にはクシナダと僕が残った。
「ごめんなさい。私の監督不行き届きだったわ」
そう言いながら、手に持った布で僕の血を拭っていく。切れた口元が沁みた。
「別にあんたのせいってわけじゃないだろ。でもあれだけ怒ってたってことは、あいつはあんたの恋人か何か?」
痛みに顔をしかめながら言った。言葉から察するに、僕がクシナダと寝たと思いこんでのことだろう。そうなれば考えられるのは恋人か夫だ。
「許嫁よ。親同士が決めたものだけど」
「なるほど。自分が娶るはずの女を奪われたと思った故の怒りか。愛されてるね」
「どうかしら。私がこの村の長の娘だからじゃない? ダイコクは独占欲が強いから、全て自分の思い通り、自分のものにならないと気が済まないのでしょう」
「そりゃ、結婚後は苦労しそうだな」
それだけじゃないんじゃないかな、と僕は思う。ダイコクの怒りは本物だった。本気でクシナダを思っているからこそではないだろうか。
「な、何だよこれは!」
右の方から声が聞こえた。昨日のホストの声だ。
「ど、どういうことだ!」「どうなってるの、何のつもり!」
次々と悲鳴が上がる。少年の泣き声も響いている。首をめぐらせれば、昨日の僕を含めた八人全員が木で組まれた台の上に丸太に繋がれて無理やり立たされていた。今の僕と同じような状態だ。全員が両腕両足を縛られて身動きが取れないでいた。首吊りの処刑台みたいだ。首ではなく腕を吊り上げられているところをみると、処刑ではなく生贄みたいだと考え直す。
「もう、聞いてもいいよな」
僕の血をふき終えたクシナダに尋ねた。クシナダは無機質な物体を見るような目で僕を見た。
「何?」
「僕たちより先に来た、選ばれた人間はどこへ行った?」
クシナダは大きく息を吸い込んで自身を落ち着かせるようにしてから答えた。
「死んだわ」
「全員?」
「ええ。誰一人、例外なく」
「理由を聞いていいか? 昨日はこの辺りの質問をはぐらかされたからな」
「昨日も言った通り、あなたたちは神様に選ばれたのよ。人身御供として」
彼女の言葉が途切れた瞬間、生温かい風が吹き始めた。天気がいよいよ悪くなり、日中のくせに日没のような暗さになってきた。
「人身御供」
クシナダの言葉を反芻する。
「ええ。私が生まれるずいぶん前、私たちのご先祖様がこの場所に村を築いた。でも、この場所は山の神の縄張りだったの」
ここに住みたくば年に一度、八人の生贄を捧げよ。
クシナダの先祖に向かって神はそういったらしい。
「もちろんご先祖様たちは反対し、神を倒そうとしたわ。でも結果は散々たるものだった。神は剣で斬られても槍でついてもすぐに怪我が治ってしまい、殺すどころか傷をつけることすら叶わなかった。反対にご先祖様たちは神によって簡単に喰いちぎられた。人間の数が半分にまで減ったところでご先祖様は完全降伏したわ。それから毎年毎年、村から八人が喰い殺されていった。人が誕生するよりも死ぬ方が多いので、私たちは全滅の危機に陥った。そんな時よ。生贄の儀式の前日、村長の屋敷に八人の人間が突如現れたの」
当時の村長は八人を拘束し、神に捧げた。
「その後、毎年生贄の儀式の前日に八人の人間が現れるようになったの。ご先祖様たちは自分たちを哀れに思った何かによる供え物だと信じた。なら、神に喰われる前くらい宴を開き、八人を歓迎しようと考えた。自分たちの罪を薄れさせる意味合いもあったのでしょうね。好き放題したのだから義務を果たせ、ということかしら。拘束する際ひどく暴れまわった、というのも関係しているかもしれない。酒で酔わせ、異性と交わらせ疲れさせる。これならそう簡単には起きない。その間にこちらは儀式の準備を進めておけばいい」
昨日のどんちゃん騒ぎにはこういう側面があったのだ。
「許せ、とは言わないわ。恨めばいい。憎めばいい。甘んじてそれを受け入れる。でも、お願いだから、あなたたちはここで死んでちょうだい」
そういうクシナダの顔に表情はなかった。可哀そうだな、と思った。何度も同じことを繰り返し、多くの生贄の呪詛や断末魔の声を聞き、精神を守るために心を凍らせてしまったのだろう。
「分かった」
僕はふうと胸をなでおろした。
「どうしてそんな安らかな顔をしているの?」
今度はクシナダが尋ねてきた。
「あなた、自分の状況がわかってるの? これから死ぬのよ?」
「分かってる。昨日も言ったはずだ。僕は死ぬために来たんだと。その願いが叶おうとしているだけだ。それに昨日から頭に引っかかっていた疑問も氷解した。思い残すことは何もない」
生温かい風に生理的嫌悪感を呼び起こすような生臭さが混じり始めた。何かが来る。クシナダもそれに気付いたのか、首を僕が見ている方向へ巡らせた。
村中央の広場に捧げられている僕らの前には、光も差し込まないような鬱蒼とした森が広がっていた。その奥から風は吹いていた。風に乗って、今度は音が聞こえてきた。枝葉の揺れる音、何か巨大なものが落ち葉や枝、木の根をすり潰しながら這いずっているような音が森に木霊している。「クシナダ! 早く戻れ!」「もうすぐ来るぞ!」と誰かが叫んだ。声からして、あのダイコクたちだろう。
「一つだけ、頼まれてくれるか」
前方を見据えながら、僕はクシナダに声をかけた。
「僕が死んだら、僕の荷物を墓に埋めて弔ってくれ」
「分かった。必ず」
「頼んだ。さ、もう行けよ。留まるとまずいんだろ」
クシナダは僕に一度頭を下げ、そのまま振りかえることなく階段を下りて離れて行った。
他の七人がパニックになって泣き叫ぶのを遠くで聞きながら、僕は森と村の境を凝視していた。風の匂いはいよいよ鼻が曲がるレベルに到達し、這いずる音は不快感となって耳の奥にこべりつく。
ずるりと森の中から何かが這い出た。それが蛇だと理解するのにしばらくの時間が必要だった。あれだけ騒いでいた生贄が声を上げることも忘れて見入っているのだからどれほどの衝撃か分かろうというものだ。パニック映画に出演していたアナコンダが生まれたての子蛇に見える。
頭のでかさが、すでに僕が住んでいた六畳一間の空間くらいある。人間二人分を縦に並べたって簡単に丸のみに出来る口のサイズだ。頭が森から十メートルくらい出てきてるのに尻尾はまだ見えない。しかも、この蛇は僕たちが知る蛇とは決定的に違う部分がある。
首が八つあるのだ。一本目が出てきてすぐに、二本目、三本目と同じ大きさの首が森から這い出てくる様子は圧巻の一言だ。最初は八匹の大蛇が出てきたのかと思ったが、八本の首をまとめたひと際太い胴体が木々をなぎ倒しながら現れた時にようやく八つ首なのだと判明した。
「アシナ、クシナダときて、オロチもいるのか」
苦笑を浮かべ、切れた口に障って顔をしかめる。僕の国で長く伝えられる、僕にとっては最もなじみ深い神話だ。
ずるりずるりとオロチは僕たちの前に現れ、長い舌をチロチロと舌なめずりしながら、目の前にいる生贄を楽しそうに見ていた。首を代わる代わる円を描くような動きをして順に巡らせているのをみて、有名な歌手グループのダンスを思い出した。
『おお、おお、これはまた活きの良さそうな』
『ほんにほんに。さて、どれから頂こうや』
首ごとに勝手なことを話している。脳や意志も八つ別々にあるようだ。
『では、我から頂こう。お先に失礼するよ』
一本が鎌首をもたげ、家を呑みこもうかというくらい口を大きく開いた。
「ひ、ひいいぃっ!」
未亡人の悲鳴が響いた。悲鳴は、バクンと顎を閉じられた瞬間掻き消えた。
『ああ美味い。怯える人の肉の、何と美味なことか』
血のように赤いギョロリとした眼が愉悦に歪んだ。それを隣で見ていた婦人が狂乱した。
「ひ、ひゃぁあああっ! いやぁぁあぁあ!」
金切り声をあげて、必死で逃げようともがいている。腕の皮がめくれ、鮮血が飛び散るのが見えた。火事場の馬鹿力と言うのか、通常では考えられないほどの力を発揮しているようだ。恐怖が脳のリミッターを外してしまっているらしい。
それを楽しそうに眺める二本目の首が、舌を伸ばし、婦人の顔を撫でた。
『ほら、頑張れ。もう少しで縄から腕が抜けるぞ? 我の口が届く前にそこから逃れられれば許してやろう』
血が滑りを良くしたのか、縛られた縄がほどけそうになっている。それを見た他の生贄たちも同じように必死で腕や足をゆすりもがく。
婦人の腕が縄から抜けた。尻餅をつく無様な着地だが、婦人の顔にひきつった笑みが浮かんでいた。
「や、約束よ。私は抜け出したわ。い、いの、命を助けてくれるんでしょ」
『おお、もちろん。許そう。我が胃袋にはいることを』
ひきつった顔がバクン、と巨大な口腔内に納められた。
『うむうむ、我は矮小な人の約束も守る慈悲深き神なり』
満足そうに婦人を喰ったオロチは頷いた。
「た、助けてくれ!」
その隣のヤクザが後ろに向かって叫んだ。後ろには家屋があり、その陰から村人たちがこちらの様子を震えながら窺っていた。嵐が過ぎるのを待つように固まって、ヤクザを見上げていた。
「頼む! お願いだ! 助けてくれ! 何でもする! 何でもするから早く!」
彼は叫び続けた。だが村人はその声を無視した。クシナダと同じく、何の感情もこもらない人形のような目でヤクザを見ている。
『可哀そうに。見捨てられたようだの』
「や、止めて、許してくれ。俺が、俺が悪かった」
『何を許せと言うのか? 何が悪かったというのか? これまで貴様が喰らってきたものたちのことかえ? 気にするな。生き物は喰わねばならぬ。生きるために、他者の生を奪わねばならぬ。それは咎では無い。だが覚えておくと良い。強者だからこそ何かを喰うことが許される、ということは、弱者となれば他の何かに喰われる、ということでもあるのだ。このように』
また顎が閉じられ、命が喰われた。
『弱きものが喰われるは世の定め。だからこそ弱きものは数多く繁殖する。だが繁殖し過ぎれば歪みが生じる。ゆえに繁殖し過ぎたものを我のような強者が間引く。これこそが自然の摂理なのだ』
そう言って三本目のオロチは高らかに笑った。
『では次は』
四本目のオロチの目が根暗へ向いた。
「トヨタマ! 助けてくれ! 昨日あんなに愛し合ったじゃないか! そんな俺を見殺しにするのか! 違うだろう? 違うよな? な?」
ホストが懇願する相手は、家屋の閉じられた戸の向こう、昨日彼の相手をした女官だった。だが女官は動く気配すらない。ただ無感情に彼を格子の向こう側から見上げるだけだ。その眼には昨日のような情熱や愛しさが微塵も込められていない。ホストは一夜限りの嘘だったと悟り、今度は狂ったように笑いだした。唯一の希望が立たれた人間に残されているのは絶望しかない。絶望に身を落としたものは狂うしかなかった。その狂った笑い声もすぐに止んだ。
『さてお次は』
とうとう、僕の前にオロチの顔が来た。
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