水底の秘宝

 森の深く。夜通し歩き続けやっとたどり着ける奥に、湖はあると言われている。村人は滅多に近づかない。意識して避ける。その方向に目をやることも忌避する。だが、タンガたち若者の間では、その底にとてつもない宝が眠っていると噂されていた。というのも、この地には古くからの伝説があった。神がこの世界を作りしとき、最後に休み、眠った地だと言われているのだ。

 神の眠るこの土地には、それらにまつわる宝が多く奉られている。だが、そのどれも古く錆びた物であって、タンガたちの心はまったく躍らなかった。

 そしてやがて、神聖な森として、禁足地とされている森の奥にある湖の話になったのだ。

 酒の席で、誰が行くと、大人になりきる前の青年たちが互いに互いをこづきあう。だが、昔から散々親に言われ続けた禁足地の呪縛はかたちのないもので彼らの足を、手を、胴体をぐっと縛って離さない。

 親に見つかる前に帰って来られないと、誰もが結局尻込みするのだ。

 タンガは椀に注いだ酒を飲みながら、そんな仲間たちを楽しそうに眺めていた。

 天気の話、親、女、そして伝説へ。話題はいつも決まっていた。神の宝だ。それさえあればこんな小さな村から出て街へ行き、好きなように生きられる。雨や風を気にせず、朝から晩まで働きづめのこの生活から抜け出したい。それは、若者が誰しも一度は思うことだった。

 一人話の中心から少し離れたところで黙々と酒を飲むタンガに、仲間が気付き、そうだと言い出した。

「タンガなら、行けるんじゃないか? あの森に家が一番近いし、一緒に住んでるのもだいぶもうろくしてきたじじさま一人だ」

「そうだ。タンガだ。タンガなら一日二日姿を見せずとも誰も気付きやしない。大人たちが何か言い出したら俺たちが旨く話をつけておいてやる」

 そうだそうだと、酒の勢いもあって彼らの合唱は鳴り止まない。結局、タンガはわかったとうなずいてしまった。


 途中で引き返し、何もなかったと言えばいい。何度もそう思った。

 人の手の入っていない森だというのに、どこか整然と、すべてが決められたかのように木々が生え、葉が茂りすぎることなく、隙間から月明かりが差し込み薄暗い足もとを照らす。村から灯りが見えてはいけないし、だいたいの方向はこの土地に住む者として嫌でもわかると、手ぶらでやってきた。疲れたら引き返せばいい。そう思っていたが、なかなか疲労感に襲われない。

 そうしているうちに、水の匂いがした。

 空気も若干湿っている。そうなると、期待が勝り、さらに足を早く動かして進むようになる。月はまだ、沈む様子を見せない。まだ、真上に昇り、ちらちらと葉の隙間からその姿を見せていた。

 前方が、明るく光り輝いている。

 木々の間から覆い隠せぬ光が、タンガの目に飛び込んできた。

 大きな、初めてみるほどに大きな水の塊が、地を覆いつくしている。

 たまにやってくる行商人の言う海という水の塊の話は聞いていたが、これは、それ以上だった。村の脇を通る川など比ではない。あのような流れはないが、それでも澱むことなく空気は澄んでいた。

 周囲には草花が生い茂り、その場所だけに降り注ぐ月明かりに照らされている。対岸へはぐるりと湖を回らねばならぬ。だが、それにはまた半刻か、悪くすれば一刻かかってしまうだろう。

 タンガは初めてみるこの光景にすっかり心奪われ、ふらふらと吸い寄せられるように近づき、手を近づける。

 指先を濡らしたそれは冷たく、しみた。ちゃぷんと、水面が揺れる。静かなこの空間に、その音は思いの外広く響いた。

「誰!」

 鋭く、警戒を孕んだ声に、タンガは顔を上げる。左手に大きな岩があった。

 その陰から現れたのが、ミカガだった。


 黒く豊かな髪は色濃く、瞳も同じように艶めいている。対照的に肌は日の光を浴びたことがないのかと思うぐらい白く、唇は紅をさしたかのように赤い。

 足がつかぬほどの深い湖を、何も纏わず自由に泳ぎ回る姿は魚のようだ。

 タンガは、すっかり彼女に魅了されてしまった。直前までこの湖の姿に放心していたのが嘘のように、彼女の動きに魅入ってしまう。だから、彼女が何者で、なぜこのような夜中にこんな森深くの、本来入ってはいけない場所にいるのかなどといった些末な事柄はまったく気にならなかった。ただ、彼女がいればいい。彼女の唇から涼やかな音色が聞こえてくれば。冷たい水の中を分け入る白く細い腕の動きを眺めていられれば。

 彼女ほど長く入っていられないタンガは、いつも岩の上で彼女を見つめている。そんな彼にミカガは優しく微笑みかけるのだ。

 春が過ぎ、夏も越え、秋に入った。

 仕事が終われば、毎晩のようにこの湖へ向かい、明け方慌てて帰路につく。道にも慣れ、彼女と過ごせる時間もかなり伸びた。湖のように冷たい肌に指を這わせ、二人で水へ沈む。疑問は、常に喉もとまで上がってきたが、無理矢理すべてを飲み込んだ。問えば、腕の中からするりと逃げてしまうような気がしていた。

 ただ、迫り来る冬の季節に、焦りも感じていた。この地帯はかなりの雪が降る。そうなれば彼女はもちろんタンガも毎晩ここへ通うことなどできない。冬は厳しく、家の中で春を待ち続けるしかないのだ。

 ミカガもタンガの言外の問いかけに気づいているようだった。しかし、彼がわかれ時に何か言いたそうにすると、さあ、時間だ帰りなさいとその背を押す。一歩踏み出してしまえば、振り返ることなく家にたどり着き、一番鶏が鳴くまでの短い仮眠を取るのだ。

 その夜も、そうやって送り出された。しかし、少し進んでから腰に差していた刀を忘れていたことに気づく。慌てて来た道を戻る。

 あと少しで湖が見えるという場所で、大地が揺れた。細かい水しぶきが一面を覆い、視界を遮る。何が起きているのか理解できぬまま、湖の岩の陰にすがりつくようにしぶきから逃れた。真夏の雷雨のようなそれが止むと、月明かりが消えた。

 いや――月明かりを遮る大きな、空一面に広がる龍の姿があった。

 タンガが嗚呼と声を漏らすと、龍は哀しそうに啼いた。

 姿は違っていても、タンガにはそれがミカガだとすぐにわかった。ミカガが変化した姿だと、すぐにわかった。濃く碧い鱗が全身を覆い、黒鳶色をした二本の角が頭上に伸びる。瞳は、真っ赤な血の色をしていた。

「嗚呼、まさか」

 もう一度、龍は、ミカガは啼いた。

 湖にから伸びたその身体をザブザブといわせ、彼のいる岩の近くへタンガの両手に余る大きな顔を近づける。

 タンガは手を伸ばし、その肌に触った。冷たく、しびれた。

 ミカガは、じっとタンガを見ると一度まぶたを閉じた。その血の瞳から涙がこぼれ、彼の手に収まった。

 そして、ミカガは、龍は、天に昇っていった。

 その後何度も何度も足を運んだが、二度と、タンガの前に姿を現すことはなかった。

 

 

 森の奥の、禁足地の湖には神の宝が眠っている。

 世界を作り、疲れ倒れた神の瞳からこぼれた涙が光を放ち、深く水底に眠っている。

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秘宝短編集 鈴埜 @suzunon

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