第7話
ケース7『普通の年寄り』
人間は年を取る。
一年ごとに、年を取る。
それだけは、どんな人間であろうと逃れられない運命だ。
九十年、生きた。平均寿命を超えた。
足腰は衰え、歩くことが出来なくなって、何年経つのだろうか。
まだ数年だった気がするのに、覚えていない。思い出せない。
思い出せることは、昔の事ばっかりだ。
可愛い娘。生まれた頃は、色々と大変だった。
家内が忙しくて、代わりにおむつを替えていたら……ぶりぶりとうんちを手に出されてしまった。
この話題で娘をからかうと、普段は温厚な娘も怒ったものだ。
「お父さんったら、変な話ばっかりして……嫌い」
そんな娘にも子供が生まれ、その子供にも子供が生まれ、ひ孫が出来た。
道理で時間が経つ訳だ。
長いようで短く、短いようで長い時間。
家内は十年前に死んだ。病気で死んだ。安楽死法の制定がまだで、病院のベッドの上で、苦しんだ末に死んだ。
最後の時まで、手を握ってやる事しか出来なかった。助けいっ! どんなに願っても、儂は無力だった。
一気に老け込んだのは、その後からだ。自分の半身を失ってしまったかのような喪失感。
儂の胸に開いた大きな穴は、埋まる事はなかった。
時間が儂の穴を少しずつ小さくしてくれた。
最初は写真を見ただけでも涙が出た。今では笑って、家内の事を孫たちに語れるようになった。
ただ、衰えた体までは、元に戻らなかった。
自分一人ではトレイにもいけない。
最初の頃は、娘も儂を車椅子でトイレに連れて行ってくれたが、食事の用意などもあるし、一日中儂の相手などしていられない。
何より娘自身も高齢だった。トイレに連れていくだけでも重労働だ。
「お父さん、ごめんなさい」
娘に謝られながら、オムツをする事になる。
本音を言えばこの年でオムツなど、屈辱だった。
まるで赤ん坊にでもなったかのようだ。
娘や孫達の前では、よくしてくれる家族の前では、愚痴は言えない。
買い物などに出掛けて行き、家から誰もいなくなった時に、一人で泣いた。
溢れて来る涙を抑える事が、儂には到底出来なかった。
九十年。同級生の多くが既に、この世に居ない。
娘は言う。
「お父さんには長生きしてもらって、年金を貰わないと」
生きているだけで、金がもらえる。
動けない儂が家族に出来る唯一の事。
同時に生きているだけで、金が掛かる。手間が掛かる。
年寄りの儂でも、食べなければ生きていけない。飲まなくては、死んでしまう。
最近では、儂が生きている方が得なのか、損なのか。
そんな事ばかりを考えてしまう。
「なあ、お前。そろそろ迎えに来んのか?」
妻の写真に投げかける儂。
家族には言えぬ一番の秘密。
迎えが来る事を待っているなど、同居している家族に言える筈がない。
自分から死ぬなどというのは、なしだ。
あの世で妻に合わす顔がない。
安楽死させてもらえるという施設はあるらしいが、結局のところは自殺と変わらん。
どのみち自分では動けない。施設まで歩いていけない。
苦しまずに死ねるのなら、死にたい。
でも、家族に悲しまれるぐらいなら、死にたくない。
結論の出ない堂々巡り。
もしかすると儂は、死ぬ時まで悩み続けるのかもしれない。
満足に動かない足が恨めしい。
年は取りたくない。
元気なお爺ちゃんで居たかった。
ただ、家内と縁側で、二人でお茶を飲みながら過ごしたかった。
何処にでも転がっていそうな、平凡な悩み。
先立たれた相手を想うだけの、ジジイ。
儂はどこにでも居る、普通の年寄りだ。
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